| 第19節 志向的な生がもつ顕在性と潜在性 のつづき、
【地平とは、あらかじめ描かれた潜在性のことである。それぞれの地平のうちにあるものを問い、それを解明し、意識の生のそのつどの潜在性を露呈することができる、と言ってもよい。しかし、まさにそれとともに、顕在的な我思うのうちでいつも単に暗示ほどで含蓄的に思念されているだけの、対象的意味を露呈することになる。この対象的意味、つまり、思われたものとしての思われたものは、出来上がって与えられたものとして現前することは決してない。それは、そのときの地平と、さらに絶えず新たに呼び起こされる地平との、このような解明によって初めて明らかとなる。粗描そのものは確かにいつも不完全であるが、その無規定性のなかで、やはり或る規定性の構造をもっている。例えばサイコロは、見えない側面についてはなおさまざまに未決定のままでも、それはすでにサイコロとしてあり、さらに詳しくは、色がついていて、ざらついていて、等々と、あらかじめ「把握されて」いる。その際、これらの規定のそれぞれは、常になお細かい点については未決定のままだとしても。この未決定のままになっていることは、現実に詳細に規定される(それはおそらく生じることはないであろうが)以前に、そのつどの意識そのもののうちに含まれている契機であり、まさにそれが地平をなしているのだ。現実に進行する知覚――それは、単に予想的に「表象する〔思い浮かべる〕こと」による解明に対立するのだが――によって、〔志向を〕充足しながら詳しく規定していくことや、場合によっては別の仕方で規定していくこと、が生じる。しかし、それでもやはり、開け〔開放性〕という新たな地平をいつも伴っているのだ。 こうして、何かについての意識と特徴づけられた、すべての意識には、次のような本質的固有性が属している。すなわち、単に同一の対象(それは、綜合の統一において、同一の対象的意味として、これらの意識の仕方に志向的に内在している(29)のだが)についての意識として、絶えず新たな意識の仕方へと移行することができるということだけでなく、それをまさにあの地平志向性という仕方でのみすることができるという本質的固有性である。対象というのは、言わば同一性の極であり、あらかじめ思念され、やがて実現されるべき意味をいつも伴って意識され、それぞれの意識の契機のうちで、その対象に意味によって属するノエシス的な志向性のための指標となる。そして、このような志向性が問われ、解明されることができる。これらはすべて、これからの研究によって具体的に明らかとなるだろう。】
訳注(29) 〔ここではeinwohnenが使われているが、「内在」の意では、Immanenz,immanentが使われることが多い。1905年の講義『現象学の理念』で初めて現象学的還元について講じた時すでに指摘された重要な論点の一つが、還元によって、「実質的(レエル)な内在」ばかりか、「志向的な内在」(これは、「実質的(レエル)」には「超越」と言わざるをえないが)も現象学の扱うものとなるということであった。〕
第19節を全部書き写して見た。
わたしのはまた来週、っていうことになるかな。
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