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Re[30]: ノエシスとノエマ
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/29(Thu) 19:56:11)
| (FD)の訳注に、 《「ノエマ」という語は。ギリシア語の「ノエイン」という動詞の過去分詞形で、同じ動詞の名詞化である「ノエシス」と対概念をなす。「ノエイン」は、ラテン語の「コギト(原形はコギターレ)」に対応する語で、「コギトと同様に「思う、思惟する」と訳すことができる。それゆえ、「ノエシス」を「思うこと、思惟すること」とし、「ノエマ」を「思われたこと、思惟されたこと」とすることもできる。フッサールは、後述される現象学的還元において捉えられようになる志向的な体験を、自然主義的な歪曲を排除して、与えられるままに捉えたものを、「ノエシス」と「ノエマ」という相関的な述語で呼んでいる。ここでは、「事実として与えられている諸学」が持っている「理念」を与えられるがままに捉えたのが「ノエマ的な現象」と呼ばれている。》 ってある。
わたしのばあい、〈思・考されたもの〉と〈思・考すること〉とを区別して見ることにしてる。
わたしがよんでる「カント」っていう本のなかに、 《そしてだいじなことは、カントが、学生に向かって、たえずくりかえしたつぎのコトバである「諸君は、わたしから哲学を学ぶのではなくて、哲学することを学ぶでしょう。思想を、たんに口まねするために学ぶのでなくて、考えることを学ぶでしょう。」》 ってある。
ここに書かれてる、《考えることを学ぶ》っていうのが、な〜んかひっかてたのね〜。ん?どういうこと?、ん〜ん、「考えられたもの」じゃなくて「考えること」よね?
カントから学ぶ、ん〜ん、カントが”教えること”を学ぶん〜ん、キリストってい人が”教える”ことを学ぶ?ん〜ん、違う? ○○〇っていうある人の”教え”って言うのがあって、それを知る?ん〜ん、 ひとまず「知る」と「学ぶ」と「信じる」っていうのは区別しておいた方がいいのかな?
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