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■15997 / inTopicNo.73)  フランス革命の光と闇
  
□投稿者/ みのり -(2021/09/03(Fri) 11:12:06)
    今朝、たまたまネットで知ってしまった情報です。

    フランス革命でギロチンの露と消えた王と王妃の間にいた男の子が、靴職人をしている一般人の後継人の元に預けられていた際、とんでもなくひどい虐待を受けていたというもの。
    幽閉されていた際にもとても不潔な環境にいさせられ、結核になり10歳で亡くなったそうです。

    本当にあったことなのか、どこまでがほんとなのかは明確ではないのでしょうけれど、本当にあった出来事なのだとしたら可哀そうすぎます。

    自分たちを痛めつけた相手に属する者であるなら、何をしてもいいと残酷さをあらわにすることが人間にはある、というのは考えさせられます。

引用返信/返信 削除キー/
■15996 / inTopicNo.74)  Z 第一部 説話[11]
□投稿者/ みのり -(2021/09/03(Fri) 11:01:41)
    2021/09/03(Fri) 11:16:10 編集(投稿者)

    [11] 新しい偶像

    ここでの新しい偶像とは、近代的国家のことです。(再度確認として)

    ・・・・・
    17 きみたちが国家を崇拝するなら、それはきみたちにすべてを与えようとする、この新しい偶像は。こうして国家は、きみたちの徳の輝きと、きみたちの誇らかな目の光とを買収するのだ。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p90より

    ツァラトゥストラが国家を「新しい偶像」として語るのがなぜなのか、私的にはここで鮮明になった気がします。

    崇拝するならその人たちにすべてを与えようとする。
    信じれば救われるよ、と同じだと言っているのですね。


    ・・・・・
    24 これらのすばしこいサルどもがよじ登るさまを見よ! 彼らは、互いに相手を乗り越えてよじ登り、こうして互いに泥と深みの中へ引きずりこみ合う。
    ・・・・・

    すべての者たちが緩慢な自殺が「生」と呼ばれるところが国家だとし、そうして生きている人々を余計者と呼んでいます。(20より)
    そして、24にあるように、その余計者と言われる人々(一般人全般のことなんでしょうか。それとも権力に媚びようとする人?。)は、自分の利益だけを追い求めているとツァラトゥストラは語っているのだと思います。

    過激な文章が連続するわけですが・・・。
    ツァラトゥストラが言いたいのは、自分の利益追求ばかりのために盲目的に国家に従うのは愚かだ、ということなのだと思います。

    ニーチェの生きていた時代は、近代国家が形成されはじめた時期だと思うので、一般人民の権利の保障などもまだ不自由だったと思いますし、一部には自分が得をするために権力に媚びるような姿勢を見せる人もいたりして、そうした人々をニーチェは嫌悪したのかもしれません。

    ん? なんだっけ? 名前が出てきません。。親交があったけど、後にニーチェが自ら離れた音楽家のこともニーチェ的には頭にあったのかな。(あくまで想像です。)

    ワーグナーですね。 思い出したので追記します。
引用返信/返信 削除キー/
■15986 / inTopicNo.75)  マジモンさんへ
□投稿者/ みのり -(2021/09/02(Thu) 15:05:51)
    こちらにひとりごと風で書きますね。

    私もお話できてよかったです。 ありがとうございました。

    話かみあわなかったかな〜。 こちらとしてはそうは感じなかったよ。

    ではまた。^^
引用返信/返信 削除キー/
■15957 / inTopicNo.76)  Re[24]: Z 第一部 説話[9&10]
□投稿者/ みのり -(2021/09/01(Wed) 07:39:14)
    No15933に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/08/31(Tue) 13:51:39 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>すんなりらくらくと自己超克してしまうより、抵抗勢力との闘いのようなものがあってこその自己超克は濃く豊かに内容のあるものになる、というようなことなのかな、と書いていただいたのを読み思いました。
    >
    > その通りです。

    合ってたようでよかったです。

    >ライバルや強敵がいるからこそ自分自身も向上でき、より強くなれる。そんな敵を持つべきだというのが「戦争と戦士たちとについて」でも述べられており、誇りとすべき敵とは自己超克をより充実させる重力の精であると我流解釈しました。

    私はまだまだツァラトゥストラ(ニーチェ全般ももちろん)理解が浅いので断定できるものではないですが、もしかしたらニーチェも「重力の精」についてそのような含みを考えていたのかもしれないですね。

    > でもよく考えてみると、どうも自分の解釈というのは進化論の淘汰圧(適度な淘汰圧でもって生物は進化が促進される。淘汰圧が低い心地よい環境では進化は生じず、淘汰圧が高すぎると絶滅に至る)とも結びつけて解釈していることに気付かされました。^^

    「解釈は読者に委ねる」とニーチェは書いていたそうですし、発展的な解釈も自由なのだと思います。

    淘汰圧という言葉、言葉としては初めて知りました。
    適度に刺激の受けられる環境で進化が促進される、ということについては、その通りだなと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■15933 / inTopicNo.77)  Re[23]: Z 第一部 説話[9&10]
□投稿者/ パニチェ -(2021/08/31(Tue) 13:36:31)
    2021/08/31(Tue) 13:51:39 編集(投稿者)

    No15932に返信(みのりさんの記事)
    > パニチェさん、レスありがとうございます。

    こちらこそ、レスありがとうございます。

    >>いえ、ここは言葉不足で、おそらくみのりさんの理解が正しいと思います。
    >>重力の精とは抵抗勢力というか抵抗する力のことです。
    >>だから自己超克を促進させるというか、その逆の力のことであるんですが、結果的にはこの抵抗勢力によって自己超克(抵抗する対象、あるいは超えるべき対象がなければ自己超克はありえない)がなされるわけで、一足飛びな表現になってしまいました。

    > すんなりらくらくと自己超克してしまうより、抵抗勢力との闘いのようなものがあってこその自己超克は濃く豊かに内容のあるものになる、というようなことなのかな、と書いていただいたのを読み思いました。

    その通りです。ライバルや強敵がいるからこそ自分自身も向上でき、より強くなれる。そんな敵を持つべきだというのが「戦争と戦士たちとについて」でも述べられており、誇りとすべき敵とは自己超克をより充実させる重力の精であると我流解釈しました。

    でもよく考えてみると、どうも自分の解釈というのは進化論の淘汰圧(適度な淘汰圧でもって生物は進化が促進される。淘汰圧が低い心地よい環境では進化は生じず、淘汰圧が高すぎると絶滅に至る)とも結びつけて解釈していることに気付かされました。^^


引用返信/返信 削除キー/
■15932 / inTopicNo.78)  Re[22]: Z 第一部 説話[9&10]
□投稿者/ みのり -(2021/08/31(Tue) 13:14:15)
    No15929に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    > いえ、ここは言葉不足で、おそらくみのりさんの理解が正しいと思います。
    > 重力の精とは抵抗勢力というか抵抗する力のことです。
    > だから自己超克を促進させるというか、その逆の力のことであるんですが、結果的にはこの抵抗勢力によって自己超克(抵抗する対象、あるいは超えるべき対象がなければ自己超克はありえない)がなされるわけで、一足飛びな表現になってしまいました。

    すんなりらくらくと自己超克してしまうより、抵抗勢力との闘いのようなものがあってこその自己超克は濃く豊かに内容のあるものになる、というようなことなのかな、と書いていただいたのを読み思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■15929 / inTopicNo.79)  Re[21]: Z 第一部 説話[9&10]
□投稿者/ パニチェ -(2021/08/31(Tue) 11:53:53)
    おはようございます、みのりさん。レスありがとうございます。

    No15927に返信(みのりさんの記事)
    > 自分の感性ですっ飛ばしてみました(^▽^;)

    はい、全然「あり」だと思います。

    > 生に対して頭から否定的側面を見るばかりでいると(生は苦にすぎないという発想)、自ら切り開いていくことができにくい。
    > パニチェさんが書いてくださったことを自分なりに言い換えてみると、このようになります。

    同意です。

    > 上に書かれているパニチェさんの「一切皆苦」についての解釈は、楽観性が感じられて(みのり的には)いいなと思うし、そのように納得したい(そういう解釈ではないという人もおそらくいると思うけど)ものです。
    > 以前、ヤフーで某プロテスタントだという男性が、「一切皆苦というのは事実と違うだろう。生きていれば楽しく感じることもあるはずだ。」という感じで「神はいるか」というトピでしきりに仏教批判をされていたのですが、パニチェさんが上でされている解釈に対してなら彼はなんと答えただろう、とふと思いました。^^
    > ちなみにめっちゃ正直でおもしろいおじさんで、けっこうお気に入りでした。

    反論を聞きたいですね。^^

    > 重力の精というの、私は勘違いというか理解してなかったようです。
    > 先日出てきたんですが・・・。
    > そのうちまた出てくるみたいなので、その時でいいかな、とか気楽に思ってたのです。(なんつう適当さ (^▽^;)

    > 重力の精とは、自己超克を促進させるような存在なのですね。
    > 注釈を読み私は、逆の作用をするものを想像していました。

    > >>23,24に「重力の精」というのが出てきます。
    > >>重力の精とは、自分(それぞれの人)の背中に飛び乗って、その人が自己超克に向かうのを妨げようとする、自分の中に現れる精(妖精などの意味と思います。)のことのようです。
    > >>(訳注p350 を参考にしました。)

    いえ、ここは言葉不足で、おそらくみのりさんの理解が正しいと思います。
    重力の精とは抵抗勢力というか抵抗する力のことです。
    だから自己超克を促進させるというか、その逆の力のことであるんですが、結果的にはこの抵抗勢力によって自己超克(抵抗する対象、あるいは超えるべき対象がなければ自己超克はありえない)がなされるわけで、一足飛びな表現になってしまいました。

引用返信/返信 削除キー/
■15927 / inTopicNo.80)  Re[20]: Z 第一部 説話[9&10]
□投稿者/ みのり -(2021/08/31(Tue) 11:39:43)
    No15919に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/08/31(Tue) 09:14:18 編集(投稿者)
    >
    > ツァラトゥストラ9〜10の好きなところを引用してみます。
    > (飛ばしも全然ありだと思います。この投稿に他意はりません^^)

    パニチェさん、こんにちは。
    投稿ありがとうございます。

    自分の感性ですっ飛ばしてみました(^▽^;)


    > 『「生は苦にすぎない」──このように他の者たちは言うが、それは嘘ではない。(ツァラトゥストラ 死を説教する者たちについて13)』
    >
    > 上記は仏教の四法印ひとつ「一切皆苦」と相通じるところがある。
    >
    > たまたま、おくたがわさんがNo1588で引用されている『自分の感情に重きを置くほど、より好ましい感情への渇愛が強くなり、苦しみが増す。(「サピエンス全史」より引用)』と共通するところがあり、パニチェ流に換言すれば喜怒哀楽などの感情に依存した幸不幸は、その対象あるいは原因が無常(常なるものはない)である限りにおいて、変化、消滅すれば喜が哀に、苦が楽にたちまち変わり、喜と哀、苦と楽は同じものの表裏であって一如であるということ。
    > つまり喜怒哀楽は「一切皆苦」でしかないということ。

    > ニーチェ(ツァラトゥストラ)も「生は苦にすぎない」という発想からの転換ができない者たちが死を説教する者たちとなっており、「なんじ自殺すべし!」とか、生から「なんじひそかに立ち去るべし!」を説くことになる。死の代わりに「永遠の生」が説かれようともニーチェ(ツァラトゥストラ)にとっては「生は苦にすぎない」は何ら変わらない。

    生に対して頭から否定的側面を見るばかりでいると(生は苦にすぎないという発想)、自ら切り開いていくことができにくい。
    パニチェさんが書いてくださったことを自分なりに言い換えてみると、このようになります。

    > つまり喜怒哀楽は「一切皆苦」でしかないということ。

    上に書かれているパニチェさんの「一切皆苦」についての解釈は、楽観性が感じられて(みのり的には)いいなと思うし、そのように納得したい(そういう解釈ではないという人もおそらくいると思うけど)ものです。

    以前、ヤフーで某プロテスタントだという男性が、「一切皆苦というのは事実と違うだろう。生きていれば楽しく感じることもあるはずだ。」という感じで「神はいるか」というトピでしきりに仏教批判をされていたのですが、パニチェさんが上でされている解釈に対してなら彼はなんと答えただろう、とふと思いました。^^

    ちなみにめっちゃ正直でおもしろいおじさんで、けっこうお気に入りでした。


    > 『きみたちは、憎むべき敵たちを持つことが必要であって、軽蔑すべき敵たちを持ってはならない。きみたちは自分の敵を誇りとしなくてはならない。その場合には、きみたちの敵の成功は、きみたちの成功でもあるのだ。(ツァラトゥストラ 戦争と戦士たちとについて18 )』
    >
    > 上記はアスリートあるいは格闘競技者が抱く対戦相手への尊敬に近い。
    > 自己超克を促進するような重力の精である敵を持てという教訓。


    重力の精というの、私は勘違いというか理解してなかったようです。
    先日出てきたんですが・・・。
    そのうちまた出てくるみたいなので、その時でいいかな、とか気楽に思ってたのです。(なんつう適当さ (^▽^;)

    重力の精とは、自己超克を促進させるような存在なのですね。
    注釈を読み私は、逆の作用をするものを想像していました。

    >>23,24に「重力の精」というのが出てきます。
    >>重力の精とは、自分(それぞれの人)の背中に飛び乗って、その人が自己超克に向かうのを妨げようとする、自分の中に現れる精(妖精などの意味と思います。)のことのようです。
    >>(訳注p350 を参考にしました。)
    >
引用返信/返信 削除キー/
■15919 / inTopicNo.81)  Z 第一部 説話[9&10]
□投稿者/ パニチェ -(2021/08/31(Tue) 09:01:38)
    2021/08/31(Tue) 09:14:18 編集(投稿者)

    ツァラトゥストラ9〜10の好きなところを引用してみます。
    (飛ばしも全然ありだと思います。この投稿に他意はりません^^)

    『「生は苦にすぎない」──このように他の者たちは言うが、それは嘘ではない。(ツァラトゥストラ 死を説教する者たちについて13)』

    上記は仏教の四法印ひとつ「一切皆苦」と相通じるところがある。

    たまたま、おくたがわさんがNo1588で引用されている『自分の感情に重きを置くほど、より好ましい感情への渇愛が強くなり、苦しみが増す。(「サピエンス全史」より引用)』と共通するところがあり、パニチェ流に換言すれば喜怒哀楽などの感情に依存した幸不幸は、その対象あるいは原因が無常(常なるものはない)である限りにおいて、変化、消滅すれば喜が哀に、苦が楽にたちまち変わり、喜と哀、苦と楽は同じものの表裏であって一如であるということ。
    つまり喜怒哀楽は「一切皆苦」でしかないということ。

    ニーチェ(ツァラトゥストラ)も「生は苦にすぎない」という発想からの転換ができない者たちが死を説教する者たちとなっており、「なんじ自殺すべし!」とか、生から「なんじひそかに立ち去るべし!」を説くことになる。死の代わりに「永遠の生」が説かれようともニーチェ(ツァラトゥストラ)にとっては「生は苦にすぎない」は何ら変わらない。


    『きみたちは、憎むべき敵たちを持つことが必要であって、軽蔑すべき敵たちを持ってはならない。きみたちは自分の敵を誇りとしなくてはならない。その場合には、きみたちの敵の成功は、きみたちの成功でもあるのだ。(ツァラトゥストラ 戦争と戦士たちとについて18 )』

    上記はアスリートあるいは格闘競技者が抱く対戦相手への尊敬に近い。
    自己超克を促進するような重力の精である敵を持てという教訓。

引用返信/返信 削除キー/
■15918 / inTopicNo.82)   Z 第一部 説話[11]
□投稿者/ みのり -(2021/08/31(Tue) 07:57:25)
    説話9、10は、前に出ている内容と重複するものが多いと感じるので飛ばします。

    [11] 新しい偶像について

    ここでツァラトゥストラが語る「新しい偶像」とは、近代的国家のことだとされます。

    ・・・・・
    3 国家とは、すべての冷ややかな怪物たちのなかで、最も冷ややかな怪物のことだ。
    じじつまた、それは冷ややかに嘘をつく。そして、次のような嘘が、その口からひそかにもれる。「われ、国家は、民族なり。」
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p88より引用

    国家が冷ややかに嘘をつく、という一文は、国家のある一面を言い当てていると思いますし、いつの時代、どこの国家にも通じる一面なのではないかと思います。
    ただ、だからといって、国家に属さずに生きていくということは多くの人にとって不可能なことであり、国家に守られている一面も少なからずあると思います。

    ツァラトゥストラ(=ニーチェ)にとって、民族とは真実の総体性であり、対して国家は仮象的な相対性なのだそうです。
    民族が自然的な統合体であるのに対して、国家は人為的な統合体である、ということ。
    人間の真の自己存在は真実の総体性のある所にのみ存立しうるものであるとニーチェは考えたであろう、ということが訳注にはあります。
    (同書 訳注 p367を参考にしました。)

    民族としてのアイデンティティを、例えば国家によって抹殺されるというのは耐え難いことだと思います。
    民族の同化政策が歴史上、世界ではたくさん行われてきました。
    歴史の大きなうねりに対して民間人のできうることはけして大きなものではないけれど、自分なりの意見を心に持ち、ただただ流されるのではなくいたいものだと思います。


    この章は興味深いので、次回も続けます。


引用返信/返信 削除キー/
■15873 / inTopicNo.83)  無題
□投稿者/ みのり -(2021/08/29(Sun) 06:32:24)
    誰かに真似されている、ストーカーされている、と思いたいのは、
    自分がそうされるだけの偉大さ、価値があると思い込むために他者を必要とする心理からなのではないだろうか。
    ありのままの自分で生きていてそれで満たされているなら、自分を真似する人、ストーカーする人を妄想しないと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■15842 / inTopicNo.84)  日記風
□投稿者/ みのり -(2021/08/27(Fri) 12:30:23)
    2021/08/27(Fri) 14:48:56 編集(投稿者)
    2021/08/27(Fri) 12:33:24 編集(投稿者)

    昨日、駆除してもらったコガタスズメバチ。
    洗濯ものを取り込むときにコガタスズメバチの生き残りが家の中に入ってしまったみたいで、今朝、カーテンを開けようとしたら、窓とレースカーテンの間でブンブンしていた。
    ちなみにその部屋は寝室。(+_+)
    よく静かにしてたな〜。

    なんでうちの中になんか入ってきたのか。。。
    恐怖を感じながらも外に出そうとしたけど出ていってくれず、カーテンレールから頭を出した時に、遠くからスプレーをかけるしかなかった。
    さっき、家の中から外を眺めてたら、生き残ったと思われる別のハチが飛んでた。
    しばらくは洗濯物は家干しだな。


    今朝、ネットで見た記事から。
    コロナワクチン接種の副反応で、肉を切れる人がいないので並べられる肉に限りがあります、という張り紙をした某東北の県のスーパーのその張り紙が、長閑な感じ、これぐらいゆとりがある社会っていいよね、というように話題になってる、という記事だった。

    何かほんとにちょっとした不利益が出た際、お客だということで行き過ぎたクレームを入れるような風潮は、互いに生きにくさを生産し続けるのではないか、と思うところがあったので、同じような考えの人もいるんだな、と感じた。

引用返信/返信 削除キー/

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