| ■No15919に返信(パニチェさんの記事) > 2021/08/31(Tue) 09:14:18 編集(投稿者) > > ツァラトゥストラ9〜10の好きなところを引用してみます。 > (飛ばしも全然ありだと思います。この投稿に他意はりません^^)
パニチェさん、こんにちは。 投稿ありがとうございます。
自分の感性ですっ飛ばしてみました(^▽^;)
> 『「生は苦にすぎない」──このように他の者たちは言うが、それは嘘ではない。(ツァラトゥストラ 死を説教する者たちについて13)』 > > 上記は仏教の四法印ひとつ「一切皆苦」と相通じるところがある。 > > たまたま、おくたがわさんがNo1588で引用されている『自分の感情に重きを置くほど、より好ましい感情への渇愛が強くなり、苦しみが増す。(「サピエンス全史」より引用)』と共通するところがあり、パニチェ流に換言すれば喜怒哀楽などの感情に依存した幸不幸は、その対象あるいは原因が無常(常なるものはない)である限りにおいて、変化、消滅すれば喜が哀に、苦が楽にたちまち変わり、喜と哀、苦と楽は同じものの表裏であって一如であるということ。 > つまり喜怒哀楽は「一切皆苦」でしかないということ。
> ニーチェ(ツァラトゥストラ)も「生は苦にすぎない」という発想からの転換ができない者たちが死を説教する者たちとなっており、「なんじ自殺すべし!」とか、生から「なんじひそかに立ち去るべし!」を説くことになる。死の代わりに「永遠の生」が説かれようともニーチェ(ツァラトゥストラ)にとっては「生は苦にすぎない」は何ら変わらない。
生に対して頭から否定的側面を見るばかりでいると(生は苦にすぎないという発想)、自ら切り開いていくことができにくい。 パニチェさんが書いてくださったことを自分なりに言い換えてみると、このようになります。
> つまり喜怒哀楽は「一切皆苦」でしかないということ。
上に書かれているパニチェさんの「一切皆苦」についての解釈は、楽観性が感じられて(みのり的には)いいなと思うし、そのように納得したい(そういう解釈ではないという人もおそらくいると思うけど)ものです。
以前、ヤフーで某プロテスタントだという男性が、「一切皆苦というのは事実と違うだろう。生きていれば楽しく感じることもあるはずだ。」という感じで「神はいるか」というトピでしきりに仏教批判をされていたのですが、パニチェさんが上でされている解釈に対してなら彼はなんと答えただろう、とふと思いました。^^
ちなみにめっちゃ正直でおもしろいおじさんで、けっこうお気に入りでした。
> 『きみたちは、憎むべき敵たちを持つことが必要であって、軽蔑すべき敵たちを持ってはならない。きみたちは自分の敵を誇りとしなくてはならない。その場合には、きみたちの敵の成功は、きみたちの成功でもあるのだ。(ツァラトゥストラ 戦争と戦士たちとについて18 )』 > > 上記はアスリートあるいは格闘競技者が抱く対戦相手への尊敬に近い。 > 自己超克を促進するような重力の精である敵を持てという教訓。
重力の精というの、私は勘違いというか理解してなかったようです。 先日出てきたんですが・・・。 そのうちまた出てくるみたいなので、その時でいいかな、とか気楽に思ってたのです。(なんつう適当さ (^▽^;)
重力の精とは、自己超克を促進させるような存在なのですね。 注釈を読み私は、逆の作用をするものを想像していました。
>>23,24に「重力の精」というのが出てきます。 >>重力の精とは、自分(それぞれの人)の背中に飛び乗って、その人が自己超克に向かうのを妨げようとする、自分の中に現れる精(妖精などの意味と思います。)のことのようです。 >>(訳注p350 を参考にしました。) >
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