| パニチェさん、投稿ありがとうございます。 後半の部分を引用させていただきました。
>訳注にもあるようにニーチェにとって俳優を象徴する者とは決別した際のヴァーグナーの本性である。 >「ワーグナーの音楽は、頽廃的なヨーロッパの暗雲を霧消させうる偉大な芸術であり、友人を理想化するニーチェにとって尊敬に値する人物でもあった。ワーグナーとの交流はバーゼル大学に赴任した1869年の夏季休暇後から急速に深まり、1872年に夫妻がトリプシェンからバイロイトに転居するまでの間、余程の支障がないかぎり毎週末は夫妻とともに過ごした。そんなワーグナーとの友情も、1876年バイロイトの劇場完工記念として上演された歌劇で、大衆に賞賛され、媚を売り迎合するワーグナーの姿に失望し絶縁することになる。(NIETZSCHE WONDERLAND ニーチェ伝 哲学成熟期より転記)」
>俳優とは思想や哲学、音楽や芸術など文化的なものよりも、それを伝達する手法に重きをおき大衆に賞賛されることを第一義に考える軽蔑すべき人間たちのことである。
>大衆は保守的であり新しいものや創造的なものついては敬遠する傾向がある。現代風に言えば「現状維持バイアス」の塊であり、そんな大衆に受け入れられるためには、元の創造的なものを変質さることも厭わないという言わば贋金造りにもなりえる人物を指す。
>大衆迎合的な立ち居振る舞いや修辞的な表現を用いて新しい思想や創造的な哲学そのものではなく、自分自身を賞賛させることを欲する卑しい嘘つきである。
>ニーチェは哲学者は誠実であるきと考えており、例え理解者が少数であったり、ほとんど理解されなくとも、俳優の対極に位置すべきであるとする。
>ツァラトゥストラの副題(このサイトの玄関にも表示していますが)である「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書」の意味するところは、ニーチェやツァラトゥストラと同じような耳を持ついるかもしれない、いないかもしれない読者へ向けた書ということだと解釈する。
>俳優は自分自身を賞賛されることを無意識的に第一義にしてしまう、位階(精神の高貴さ)の問題であるのに対して、道化師は自身への賞賛よりも、その役割を第一義する人間のことである。ニーチェやツァラトゥストラは前者には批判的であるが後者は肯定的な評価を下している。
>・・・・・こんな感じです。^^
ワーグナーとの交流と決別を通して、ニーチェは様々なことを感じたようですね。 ワーグナーが事実として書かれているようであったのか、それとも、ニーチェの目にはそのように映ったということなのか、そのへんは第三者には判断が難しいのかもしれません。
ワーグナーという特定の人物を離れて考えてみても、ニーチェが語りそしてパニチェさんが書かれているような表現者というのはたしかにいると思います。 自分を称賛してほしい欲で表現する人、ですね。 道化師というのは称賛を求めるのでなく、表現するというその役割を第一義にしている表現者であり、それをニーチェは軽蔑しない、ということなのですね。 今日読んだ中に、道化師は出て来ていて、よくはわからなかった部分なので、教えていただいてありがとうございます。
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