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■14298 / inTopicNo.85)  Re[8]: 人が生きるっていうこと
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/20(Sun) 19:56:16)
    ■14284、フーコーが出てきたので、ちょっと、

    『性の歴史』のなかにこんなことが書いてある。

    【17世紀の初頭には、まだある種の率直さが通用していた、と人は説く。現実の行動において秘密めかそうとすることはほとんどなかった。言葉で言うことを極端に避けるとか、その事柄自体も殊更に上辺を繕って行われるとかいうことはなかった。人々は許されざることとある種の寛容な親しさの関係を保っていた。猥褻なもの、淫らなものの基準(コード)は、19世紀のそれに比べればずっと緩やかだった。直接的な仕草、恥ずかしいとも思わぬ言説、はっきり目に見える犯罪行為。あけすけに体も見せ、簡単に結合させる。ませた子供たちが走りまわっても、大人たちは大笑いするだけで、誰も照れたり恥ずかしがったりしない。つまり誰の身体も、いわば孔雀が羽を拡げるように大手を振って歩いていた。】

    フーコーがこう言っていることを、昔はよかった〜、とか、昔はダメねこれだから犯罪がふえるのよ、とか、いろいろな意見があるのかもしれないけど。彼の言ってることはそういうことじゃないとわたし思う。

    >所得格差、経済格差の拡がりつつある資本主義社会はいずれ行き詰るとは思うがそれにしてもそれにかわる将来の社会像がいまだ見えてこない<
    って書いてるけど、restさんのいう「社会像」っていうの、「資本主義」とか「社会主義」とか、ん〜んあるいは「共産主義」とかそういうのが前提となっていません?

    わたし、フーコーって、やっぱ哲学者だと思ってる。

    あ、ついでに、真理は矛盾しないよ。矛盾しちゃダメなのを真理って呼んでるんであって、矛盾があったときには真理では対処できない、っていうことだけの話し。
引用返信/返信 削除キー/
■14284 / inTopicNo.86)  ポストモダンについて
□投稿者/ rest -(2021/06/20(Sun) 10:56:30)
    2021/06/20(Sun) 19:55:20 編集(投稿者)

     ポストモダン(リオタールの提唱)の流れとして
     脱構築のデリダ
     フーコー(「人間の終焉」 人間の本質を批判)
     ドゥルーズ(同一性の原理を捨て、純粋な差異を解放する)
    人間の共同性を否定して差異のみにこだわるという限界がある。差異は大切なのだが、何かが欠けている。

    フーコーについていえばその著書『言葉と物』(ミッシェル・フーコー著 新潮社)によればアダム・スミスの労働価値説は重商主義の貨幣という「表象」のエピステーメから「人間」のエピステーメの転換点に立っている。その終焉は「人間」すなわち「労働力商品」の終焉を意味するようだ。フーコーは抑圧的な権力装置としての社会主義を批判しているので、資本主義の終焉は社会主義の到来を意味するものではない。昔ユーゴスラビアのチトーが行った「自主管理」企業のことかもしれない。所得格差、経済格差の拡がりつつある資本主義社会はいずれ行き詰るとは思うがそれにしてもそれにかわる将来の社会像がいまだ見えてこない。

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■14249 / inTopicNo.87)  真理は矛盾するか 「合成の誤謬」
□投稿者/ rest -(2021/06/19(Sat) 10:23:39)
    2021/06/19(Sat) 11:15:18 編集(投稿者)
    2021/06/19(Sat) 10:26:32 編集(投稿者)

     真理は矛盾しているという指摘があったが、本当か。
    光の二重性つまり光の粒子としての性質と光の波の性質が矛盾しているようにみえる。「シュレディンガーの猫」の思考実験のように電子の位置で猫の生死が決まっているはずなのに、電子の位置は確率論的に存在し、猫は半分死に半分生きている状態という量子力学的立場と矛盾することになる。観測するまではわからないという立場と観測しなくてもすでに決まっているという立場の違いだ。半分死に半分生きているという確率論的存在は二重スリット実験で重ね合わせで存在していることが証明された。その多重性が後年「多世界解釈」へと拡がっていった。もっとも仮説の段階だが。
     真理が矛盾しているということもこのように存在するが、反面矛盾していない真理もたくさん存在する。たとえばオームの法則(電圧=電流×抵抗)やフレミングの左手の法則は矛盾が存在しない。医学上の真理は多くのひとの救済に役立っているのも矛盾がないからだ。
     このように矛盾するひとつの真理をもって真理一般があるいは全体が矛盾しているとはいえないことがわかる。一般論としては言えないということだ。
     これもまた「合成の誤謬」といえるようだ。
引用返信/返信 削除キー/
■14084 / inTopicNo.88)  Re[5]: 力への意志
□投稿者/ rest -(2021/06/13(Sun) 22:35:28)
    No14055に返信(パニチェさんの記事)
    > おはようございます、レストさん。
    >
    > ■No14047に返信(restさんの記事)
    >
    > 参考までに以下ニーチェの「力(権力)への意志」関連のアフォリズムを引用しておきます。
    > パニチェの解釈ではニーチェの「力への意志」(私はこの表現の方が好きです)は、restさんが指摘されるように「一般的な抑圧的な権力とは一線を画している」、生が本来有するところのベクトル(自己拡大や同化作用等々の方向性)みたいなものだと思います。ニーチェはこの「力への意志」を世界の原理(作用や反作用、力の鬩ぎ合いや、ある種の函数思想のようなもの)のようなものにまで拡大することを試みたところで、出版を断念したのだと思います。
    > 理由はニーチェが嫌った普遍的な原理や真理を新たにでっち上げることになり、根本的にニーチェ哲学が矛盾を孕むことになるからです。私は英断だったと思いまます。
    >
    > ******************************************
    >
    > 『一切の存在者を思考可能なものにしようとする意志、このようにわたしはきみたちの意志を呼ぶのだ!一切の存在者を、きみたちはまず、思考可能なものにようと欲する。というのは、一切の存在者がもともと思考可能なものであるかどうか、きみたちは当然の不信をもって、疑問に思うからだ。しかし、きみたちは一切の存在者をなめらかにならしめ、精神の鏡ないしは、映像として、精神に従属させようとする。きみら最高の賢者たちよ、それが権力の意志の一種として、きみたちの全意志なのだ。・・・あの意志そのもの、権力への意志──尽きることのない、生産的な、生命意志なのだ。・・・けだし、存在しないものは、意欲することができないし、さりとて、現に存在しているものは、どうしてさらに現存在へと意欲するはずがあろう!ただ生あるところにのみ、意志もまたある。しかし、それは生への意志ではなくて、──わたしはおまえにこう教える──権力への意志なのだ!(ツァラトゥストラ 自己超克について)』
    >
    > 『「現代性」を栄養と消化にたとえて。──感受性の言いようのない敏感(──道徳主義的装いをこらせば、同情の増大──)、ばらばらの印象の以前にもましてはなはだしい充満、──食物、文学、新聞、様式、趣味、風景すらの世界市民主義。これらのものが流れこむテンポは快速調である。印象はたがいに消しあう。ひとは、何ものかを内に取りいれ、深刻に受けることを、何ものかを「消化する」ことを、本能的に警戒する。──消化力の弱化がこれから結果する。この累積した印象に対する一種の順応が入りこむ。人間は行動することを忘れ、外部からの刺戟にやっと反応するだけである。人間はおのれの力を、一部は同化で、一部は擁護で、一部は反抗で、使いはたす。自発性の深刻な弱化、すなわち──歴史家、批評家、分析家、解釈家、観察家、蒐集家、読書家、──すべては反作用の才能──すべてが科学であるとは!おのれの本性を〈鏡〉にするための人為的調性。関心はもちはするが、しかしいわばたんなる表皮的な関心。原則的な冷たさ、平衡、薄い表皮のすぐしたに保たれている不変の低い体温、その表皮のうえに、熱、動き、「あらし」、「波動」がある。動きやすい外面と、或る深いだるさや疲労との対立。(力への意志 第71番)』
    >
    > 『いわゆる認識衝動は、専有・征服衝動へと還元されるべきである。この衝動にしたがって、感官、記憶、本能などが発達したのである。(力への意志 第422番)』
    >
    > 『比較作用としてのすべての思考、判断、知覚のはたらきは「同等のものとみなすはたらき」を、もっとさかのぼれば「同等のものにでっちあげるはたらき」を、前提としてもっている。同等のものにでっちあげるとは、わがものとした素材をアミーバーが同化するのと同一のはたらきである。(力への意志 第501番)』
    >
    > 『同等性への意志は権力への意志である──或るものがこれこれであるとの信仰(判断の本質)は、能(あた)うかぎり多くのものが同等であるべきであるという意志の結果である。(力への意志 第511番)』
    >
    > 『「あらゆる生物は、権力をもとめて、権力の増大をもとめて努力する。」──快とは、達成された権力感情の一症候、差異性の意識性にすぎない──(──あらゆる生物は快をもとめて努力するのではない、そうではなくて、もとめんと努力されているものが達成されるとき、快が生ずるのである。快は随伴するものであって、快が動機であるのではない──)。すべての駆りたてる力は権力の意志であり、これ以外には、いかなる物理的、力学的、心理的力もないということ。(力への意志 第688番)』
    >
    > 『人間が意志するもの、生ける有機体の最小の部分のすべてが意志するもの、それは力への増加である。・・・原形質は何か自分に抵抗するものを求めて、その偽足をのばす、──飢えからではなく、力への意志から。それに続いて、抵抗するものに打ち克ち、我がものとし、同化を試みる。──栄養と呼ばれるものは、より強くなることを意志するところあの根源的意志の後続─現象、応用にすぎない。(力への意志 第702番)』
    >
    > ******************************************
    >
    >>排除を権力的にみると支配ー被支配の関係にみえる。支配する側は傲慢になり支配される側は卑屈あるいは卑下する。人間関係を上下関係でしかみないものは神経が休まることはない。絶えざる競争心ではいつか消耗する。諸行無常だ。
    >>そこで支配ー被支配の上下関係ではなく、支配ー被支配の関係ではない対等な関係がもっとも望まれるのではないか。民主主義社会のルールだと思うのだが。
    >
    > 同意です。最近は悪しき民主主義の典型が顕著になるつつあるように思われます。
    > 得点稼ぎのため、近視眼的、我田引水、理性より感情重視になりがちな大衆に迎合してしまう下降スパイラルです。


    こんばんは パニーチェさん レスありがとうございます。
    そうですよね 「権力への意志」より「力への意志」がふさわしい訳だと思います。なにか誤解されやすい言葉だと思います。引用ありがとうございます。
    自己超克って向上心のことだと思います。脱自ともいわれているようですが。
引用返信/返信 削除キー/
■14078 / inTopicNo.89)  Re[10]: アフォリズム
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/13(Sun) 19:19:13)
    ■14077、
    >真実とは何であるか?何をもって真実とするか?これって一言や二言で片付くようなテーマやないと思うよ。<
    そうね。言葉では表現できない、っていうことなのかな。

    >事実って何ってなると、疑えない、あるいは疑いようのないものってことにる<
    これって、「時間」が関係してくるんじゃない?んん〜ん「現在」の真実だったり事実だたり。

    >アフォリズムからは離れてしまうね<
    そうね、アフォリズムって過去のどこの誰さんの言説。
    現在のを考えると、
    >〈私〉の存在<における「現在」。
    ま、もっとも〈私〉が問題みたいだけどね。

    なに言ってるかわかんないかもしれないけど、書いちゃった。
    あ、つれずれなるままに、なのでこれスルーして。

    ちょっとパニさんと話ができてよかったかも。







引用返信/返信 削除キー/
■14077 / inTopicNo.90)  Re[9]: アフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/13(Sun) 18:55:30)
    2021/06/13(Sun) 18:56:38 編集(投稿者)

    No14075に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■14071、パニさん、ありがとございま〜す。

    どういたしまして。

    > わたし、>三歳児にもわかりやすく<、って聞いてるの。
    > >三歳児は無理やと思うけど<、わたしこれを問題としてるの。

    なるほど。

    > 「アフォリズム」を、「物事の真実を簡潔に鋭く表現した語句」ってするとするよね。でね三歳児でなくていいよ。「真実」ってなあに?って聞かれたとき、パニさんならなんて答えるの?

    真実とは何であるか?
    何をもって真実とするか?
    これって一言や二言で片付くようなテーマやないと思うよ。

    これを探究するのが哲学でもあるわけで。。。。まぁ、そんなことは横に置くとして言い換えしかできないけど、わしにとっての真実とは事実ってことかな。

    で、事実って何ってなると、疑えない、あるいは疑いようのないものってことにる。
    そうなるとパニチェにとっては〈私〉の存在ってことになるんだけど。。。
    ここまでくると初めのアフォリズムからは離れてしまうね(笑)。
引用返信/返信 削除キー/
■14075 / inTopicNo.91)  Re[8]: アフォリズム
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/13(Sun) 18:40:30)
    ■14071、パニさん、ありがとございま〜す。

    わたし、>三歳児にもわかりやすく<、って聞いてるの。
    >三歳児は無理やと思うけど<、わたしこれを問題としてるの。

    「アフォリズム」を、「物事の真実を簡潔に鋭く表現した語句」ってするとするよね。でね三歳児でなくていいよ。「真実」ってなあに?って聞かれたとき、パニさんならなんて答えるの?





引用返信/返信 削除キー/
■14071 / inTopicNo.92)  Re[7]: アフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/13(Sun) 18:02:36)
    2021/06/13(Sun) 18:06:42 編集(投稿者)

    No14070に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > パニさん、
    > 「アフォリズム」ってどういう意味なの?
    > 三歳児にもわかりやすく書いて見て。

    三歳児は無理やと思うけど。。。。(笑)

    日本語で言うと「箴言」でいいように思いまする。
    ちょっと教訓とか啓発とか、為になるような文章っていう意味でいいんやないかなぁ〜。

    ニーチェの書いた文章がよくアフォリズムっていう表現が使われるね。


    PS.追記
    ネットでクグった。いろいろありました。^^;

    https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-26664
引用返信/返信 削除キー/
■14070 / inTopicNo.93)  Re[6]: アフォリズム
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/13(Sun) 17:48:33)
    パニさん、
    「アフォリズム」ってどういう意味なの?
    三歳児にもわかりやすく書いて見て。
引用返信/返信 削除キー/
■14056 / inTopicNo.94)  個人的メモ書き
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/13(Sun) 09:11:15)
    『存在──私たちは「生きている」という以外にいかなるそれについての表象をももってはいない。──それゆえ、どうしても何か死せるものが「存在」しうるのであるか?(力への意志 第582番)』

    「〈私〉の哲学」「比類なき先言の<私>」、あるいは「無我」「非我」に隣接するニーチェの数少ないアフォリズム。

    前者は「有」を後者は「無」を示唆する。

引用返信/返信 削除キー/
■14055 / inTopicNo.95)  力への意志
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/13(Sun) 08:59:56)
    おはようございます、レストさん。

    No14047に返信(restさんの記事)

    参考までに以下ニーチェの「力(権力)への意志」関連のアフォリズムを引用しておきます。
    パニチェの解釈ではニーチェの「力への意志」(私はこの表現の方が好きです)は、restさんが指摘されるように「一般的な抑圧的な権力とは一線を画している」、生が本来有するところのベクトル(自己拡大や同化作用等々の方向性)みたいなものだと思います。ニーチェはこの「力への意志」を世界の原理(作用や反作用、力の鬩ぎ合いや、ある種の函数思想のようなもの)のようなものにまで拡大することを試みたところで、出版を断念したのだと思います。
    理由はニーチェが嫌った普遍的な原理や真理を新たにでっち上げることになり、根本的にニーチェ哲学が矛盾を孕むことになるからです。私は英断だったと思いまます。

    ******************************************

    『一切の存在者を思考可能なものにしようとする意志、このようにわたしはきみたちの意志を呼ぶのだ!一切の存在者を、きみたちはまず、思考可能なものにようと欲する。というのは、一切の存在者がもともと思考可能なものであるかどうか、きみたちは当然の不信をもって、疑問に思うからだ。しかし、きみたちは一切の存在者をなめらかにならしめ、精神の鏡ないしは、映像として、精神に従属させようとする。きみら最高の賢者たちよ、それが権力の意志の一種として、きみたちの全意志なのだ。・・・あの意志そのもの、権力への意志──尽きることのない、生産的な、生命意志なのだ。・・・けだし、存在しないものは、意欲することができないし、さりとて、現に存在しているものは、どうしてさらに現存在へと意欲するはずがあろう!ただ生あるところにのみ、意志もまたある。しかし、それは生への意志ではなくて、──わたしはおまえにこう教える──権力への意志なのだ!(ツァラトゥストラ 自己超克について)』

    『「現代性」を栄養と消化にたとえて。──感受性の言いようのない敏感(──道徳主義的装いをこらせば、同情の増大──)、ばらばらの印象の以前にもましてはなはだしい充満、──食物、文学、新聞、様式、趣味、風景すらの世界市民主義。これらのものが流れこむテンポは快速調である。印象はたがいに消しあう。ひとは、何ものかを内に取りいれ、深刻に受けることを、何ものかを「消化する」ことを、本能的に警戒する。──消化力の弱化がこれから結果する。この累積した印象に対する一種の順応が入りこむ。人間は行動することを忘れ、外部からの刺戟にやっと反応するだけである。人間はおのれの力を、一部は同化で、一部は擁護で、一部は反抗で、使いはたす。自発性の深刻な弱化、すなわち──歴史家、批評家、分析家、解釈家、観察家、蒐集家、読書家、──すべては反作用の才能──すべてが科学であるとは!おのれの本性を〈鏡〉にするための人為的調性。関心はもちはするが、しかしいわばたんなる表皮的な関心。原則的な冷たさ、平衡、薄い表皮のすぐしたに保たれている不変の低い体温、その表皮のうえに、熱、動き、「あらし」、「波動」がある。動きやすい外面と、或る深いだるさや疲労との対立。(力への意志 第71番)』

    『いわゆる認識衝動は、専有・征服衝動へと還元されるべきである。この衝動にしたがって、感官、記憶、本能などが発達したのである。(力への意志 第422番)』

    『比較作用としてのすべての思考、判断、知覚のはたらきは「同等のものとみなすはたらき」を、もっとさかのぼれば「同等のものにでっちあげるはたらき」を、前提としてもっている。同等のものにでっちあげるとは、わがものとした素材をアミーバーが同化するのと同一のはたらきである。(力への意志 第501番)』

    『同等性への意志は権力への意志である──或るものがこれこれであるとの信仰(判断の本質)は、能(あた)うかぎり多くのものが同等であるべきであるという意志の結果である。(力への意志 第511番)』

    『「あらゆる生物は、権力をもとめて、権力の増大をもとめて努力する。」──快とは、達成された権力感情の一症候、差異性の意識性にすぎない──(──あらゆる生物は快をもとめて努力するのではない、そうではなくて、もとめんと努力されているものが達成されるとき、快が生ずるのである。快は随伴するものであって、快が動機であるのではない──)。すべての駆りたてる力は権力の意志であり、これ以外には、いかなる物理的、力学的、心理的力もないということ。(力への意志 第688番)』

    『人間が意志するもの、生ける有機体の最小の部分のすべてが意志するもの、それは力への増加である。・・・原形質は何か自分に抵抗するものを求めて、その偽足をのばす、──飢えからではなく、力への意志から。それに続いて、抵抗するものに打ち克ち、我がものとし、同化を試みる。──栄養と呼ばれるものは、より強くなることを意志するところあの根源的意志の後続─現象、応用にすぎない。(力への意志 第702番)』

    ******************************************

    > 排除を権力的にみると支配ー被支配の関係にみえる。支配する側は傲慢になり支配される側は卑屈あるいは卑下する。人間関係を上下関係でしかみないものは神経が休まることはない。絶えざる競争心ではいつか消耗する。諸行無常だ。
    > そこで支配ー被支配の上下関係ではなく、支配ー被支配の関係ではない対等な関係がもっとも望まれるのではないか。民主主義社会のルールだと思うのだが。

    同意です。最近は悪しき民主主義の典型が顕著になるつつあるように思われます。
    得点稼ぎのため、近視眼的、我田引水、理性より感情重視になりがちな大衆に迎合してしまう下降スパイラルです。


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■14047 / inTopicNo.96)  権力とは
□投稿者/ rest -(2021/06/12(Sat) 21:56:47)
     ニーチェにとって権力への意志とは向上心の現れとみなしているようだ。一般的な抑圧的な権力とは一線を画しているようにみえる。
     フーコーにとっての権力は抑圧的なものであり、ことに日常の言説を批判する。たとえば真理は真理の枠からはずれるものを排除するので真理の権力であると批判した。厳密にいうと真理を信じる共同体が真理を信じない他者を排除することであるが、私は異質な他者を排除する共同体原理がはたらいているとみる。秩序維持もそうであり道徳心の教育もそうだろうと思う。一長一短だろう。いい面では安心感をもたらすが悪い面では個性を圧殺する。
     排除を権力的にみると支配ー被支配の関係にみえる。支配する側は傲慢になり支配される側は卑屈あるいは卑下する。人間関係を上下関係でしかみないものは神経が休まることはない。絶えざる競争心ではいつか消耗する。諸行無常だ。
     そこで支配ー被支配の上下関係ではなく、支配ー被支配の関係ではない対等な関係がもっとも望まれるのではないか。民主主義社会のルールだと思うのだが。
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