| ■14284、フーコーが出てきたので、ちょっと、
『性の歴史』のなかにこんなことが書いてある。
【17世紀の初頭には、まだある種の率直さが通用していた、と人は説く。現実の行動において秘密めかそうとすることはほとんどなかった。言葉で言うことを極端に避けるとか、その事柄自体も殊更に上辺を繕って行われるとかいうことはなかった。人々は許されざることとある種の寛容な親しさの関係を保っていた。猥褻なもの、淫らなものの基準(コード)は、19世紀のそれに比べればずっと緩やかだった。直接的な仕草、恥ずかしいとも思わぬ言説、はっきり目に見える犯罪行為。あけすけに体も見せ、簡単に結合させる。ませた子供たちが走りまわっても、大人たちは大笑いするだけで、誰も照れたり恥ずかしがったりしない。つまり誰の身体も、いわば孔雀が羽を拡げるように大手を振って歩いていた。】
フーコーがこう言っていることを、昔はよかった〜、とか、昔はダメねこれだから犯罪がふえるのよ、とか、いろいろな意見があるのかもしれないけど。彼の言ってることはそういうことじゃないとわたし思う。
>所得格差、経済格差の拡がりつつある資本主義社会はいずれ行き詰るとは思うがそれにしてもそれにかわる将来の社会像がいまだ見えてこない< って書いてるけど、restさんのいう「社会像」っていうの、「資本主義」とか「社会主義」とか、ん〜んあるいは「共産主義」とかそういうのが前提となっていません?
わたし、フーコーって、やっぱ哲学者だと思ってる。
あ、ついでに、真理は矛盾しないよ。矛盾しちゃダメなのを真理って呼んでるんであって、矛盾があったときには真理では対処できない、っていうことだけの話し。
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