□投稿者/ パニチェ -(2021/06/13(Sun) 08:59:56)
| おはようございます、レストさん。
■No14047に返信(restさんの記事)
参考までに以下ニーチェの「力(権力)への意志」関連のアフォリズムを引用しておきます。 パニチェの解釈ではニーチェの「力への意志」(私はこの表現の方が好きです)は、restさんが指摘されるように「一般的な抑圧的な権力とは一線を画している」、生が本来有するところのベクトル(自己拡大や同化作用等々の方向性)みたいなものだと思います。ニーチェはこの「力への意志」を世界の原理(作用や反作用、力の鬩ぎ合いや、ある種の函数思想のようなもの)のようなものにまで拡大することを試みたところで、出版を断念したのだと思います。 理由はニーチェが嫌った普遍的な原理や真理を新たにでっち上げることになり、根本的にニーチェ哲学が矛盾を孕むことになるからです。私は英断だったと思いまます。
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『一切の存在者を思考可能なものにしようとする意志、このようにわたしはきみたちの意志を呼ぶのだ!一切の存在者を、きみたちはまず、思考可能なものにようと欲する。というのは、一切の存在者がもともと思考可能なものであるかどうか、きみたちは当然の不信をもって、疑問に思うからだ。しかし、きみたちは一切の存在者をなめらかにならしめ、精神の鏡ないしは、映像として、精神に従属させようとする。きみら最高の賢者たちよ、それが権力の意志の一種として、きみたちの全意志なのだ。・・・あの意志そのもの、権力への意志──尽きることのない、生産的な、生命意志なのだ。・・・けだし、存在しないものは、意欲することができないし、さりとて、現に存在しているものは、どうしてさらに現存在へと意欲するはずがあろう!ただ生あるところにのみ、意志もまたある。しかし、それは生への意志ではなくて、──わたしはおまえにこう教える──権力への意志なのだ!(ツァラトゥストラ 自己超克について)』
『「現代性」を栄養と消化にたとえて。──感受性の言いようのない敏感(──道徳主義的装いをこらせば、同情の増大──)、ばらばらの印象の以前にもましてはなはだしい充満、──食物、文学、新聞、様式、趣味、風景すらの世界市民主義。これらのものが流れこむテンポは快速調である。印象はたがいに消しあう。ひとは、何ものかを内に取りいれ、深刻に受けることを、何ものかを「消化する」ことを、本能的に警戒する。──消化力の弱化がこれから結果する。この累積した印象に対する一種の順応が入りこむ。人間は行動することを忘れ、外部からの刺戟にやっと反応するだけである。人間はおのれの力を、一部は同化で、一部は擁護で、一部は反抗で、使いはたす。自発性の深刻な弱化、すなわち──歴史家、批評家、分析家、解釈家、観察家、蒐集家、読書家、──すべては反作用の才能──すべてが科学であるとは!おのれの本性を〈鏡〉にするための人為的調性。関心はもちはするが、しかしいわばたんなる表皮的な関心。原則的な冷たさ、平衡、薄い表皮のすぐしたに保たれている不変の低い体温、その表皮のうえに、熱、動き、「あらし」、「波動」がある。動きやすい外面と、或る深いだるさや疲労との対立。(力への意志 第71番)』
『いわゆる認識衝動は、専有・征服衝動へと還元されるべきである。この衝動にしたがって、感官、記憶、本能などが発達したのである。(力への意志 第422番)』
『比較作用としてのすべての思考、判断、知覚のはたらきは「同等のものとみなすはたらき」を、もっとさかのぼれば「同等のものにでっちあげるはたらき」を、前提としてもっている。同等のものにでっちあげるとは、わがものとした素材をアミーバーが同化するのと同一のはたらきである。(力への意志 第501番)』
『同等性への意志は権力への意志である──或るものがこれこれであるとの信仰(判断の本質)は、能(あた)うかぎり多くのものが同等であるべきであるという意志の結果である。(力への意志 第511番)』
『「あらゆる生物は、権力をもとめて、権力の増大をもとめて努力する。」──快とは、達成された権力感情の一症候、差異性の意識性にすぎない──(──あらゆる生物は快をもとめて努力するのではない、そうではなくて、もとめんと努力されているものが達成されるとき、快が生ずるのである。快は随伴するものであって、快が動機であるのではない──)。すべての駆りたてる力は権力の意志であり、これ以外には、いかなる物理的、力学的、心理的力もないということ。(力への意志 第688番)』
『人間が意志するもの、生ける有機体の最小の部分のすべてが意志するもの、それは力への増加である。・・・原形質は何か自分に抵抗するものを求めて、その偽足をのばす、──飢えからではなく、力への意志から。それに続いて、抵抗するものに打ち克ち、我がものとし、同化を試みる。──栄養と呼ばれるものは、より強くなることを意志するところあの根源的意志の後続─現象、応用にすぎない。(力への意志 第702番)』
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> 排除を権力的にみると支配ー被支配の関係にみえる。支配する側は傲慢になり支配される側は卑屈あるいは卑下する。人間関係を上下関係でしかみないものは神経が休まることはない。絶えざる競争心ではいつか消耗する。諸行無常だ。 > そこで支配ー被支配の上下関係ではなく、支配ー被支配の関係ではない対等な関係がもっとも望まれるのではないか。民主主義社会のルールだと思うのだが。
同意です。最近は悪しき民主主義の典型が顕著になるつつあるように思われます。 得点稼ぎのため、近視眼的、我田引水、理性より感情重視になりがちな大衆に迎合してしまう下降スパイラルです。
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