| パニチェさん、返信ありがとうございます(o^^o)
■No15543 > 〈私〉が認識する世界も他者も物も〈私〉の存在とは次元というかフィールドが違う。 > あくまで認識対象であって、これを認識している主体が〈私〉であり、〈私〉が存在する地点は如何なる他者はもちろん、いかなる物も並び立つことができない世界の特異点(そこから世界が開闢するという意味も含)です。 > 絶対的に孤独で私秘性は何人も直接的に垣間見ることもできないところにあり、世界の中にはなく世界の極点にあります。 > その意味で存在論的にも認識論的にも独我論(独在論)が(私の認識能力からして)ありのままの究極のリアルであり、これ以上確かなものがない真実だと考えています。<
あぁ、そうかぁ、次元、フィールド、階層?が違うかぁ、 認識対象、と、認識システム、、
> で、日常的には物も他者の存在も認めています。 > ただ先ほど述べたように完全に?マークは払拭されませんが、極めて薄い?マークというか、存在の次元やフィールドが違うということです。 > こういうスタンスに立った時には他者も絶対的に孤独な存在であり、かつ唯一無二で他者が認識する世界の中心に位置する主役でもあるわけです。 > パニチェはここにパニチェなりの他者へ優しさや尊重が生じ、人としての尊厳があると考えています。<
生命の尊厳を認めることができそうですよね。 でも、食べてるわけで、 そこが、わたしは、この世界の切なさに思います。 ここは、個性で方向が分かれるかもしれませんね。
> pipitさんもご存じの『「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人があれば、争いはしずまる。(ダンマパダ6)』と同じく『「われらは、ここにあって絶対的に孤独である」と覚悟しよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人があれば、他者へのいたわりや優しさがあふれ、人間と命の尊厳を知る。』と考えています。 > > パニチェの言葉だけでは説得力に欠けますので、パニチェと多分同じテーマを探究している哲学者の言葉を最後に引用します。 > > 『もしここで論じられているような問題が確かに存在し、それを論じる私のやり方に大過がないことが納得できたなら、私は次に、このような問題が人生にとってどういう意味をもつかを、主題的に考察していきたい。これまで考えてきた道徳哲学やニーチェに関する問題と交差する地点に、徐々に接近していきたいと思う。(永井均著「〈私〉の存在の比類なさ はじめに」より引用)』<
このような話を、対話してもらうことができて、とてもうれしいです。 一般的には(?)ほぼほぼ無理かもと、思いますもん(^◇^;)
> ■No15529に返信(pipitさんの記事) >>わたしから見た認識、 >>犬から見た認識、 >>それぞれ、いっぱいの認識が存在すると思われてますか? > > はい。 > >>いっぱい存在するのかは、推測でしかできない、と思われてますか? >>推測だけど、まあ、いいか、というかんじで日常生活されてますか? > > 上記で述べたように厳密(哲学的)には?マークは払拭できませんが、走ってくる車の存在を避けるようなリアルさでもって他者の認識も犬の認識も存在すると考えています。 > それは推測といえば推測に過ぎませんし、私たちは推測以上の確信を得る手段を持ち合わせていないと思います。<
あぁ、いいですね、 わたしが車を避けるなら、わたしは犬の存在も認めよ、と、パニチェさんの文章を読んで、自分に思いました。 わたし、日常で車突っ込んできたら、避けれるなら絶対避けます!
元気でます。ありがとうございます!
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