□投稿者/ パニチェ -(2021/08/12(Thu) 20:44:59)
| 2021/08/12(Thu) 21:14:38 編集(投稿者)
こんばんは、pipitさん、レスありがとうございます。 この手の質問は発言の機会をいただいたようで有難いです。 答えになっていないところがあれば遠慮なく突っ込みやり質問、反論等々をよろしくお願いします。
■No15528に返信(pipitさんの記事) > No.15508 > >この意味において独在論は袋小路であり、抜け出る手段は私たちは持っていない。<
> パニチェさんの捉え方を教えていただきたいな、と思うのですが、 > パニチェさんの中では、 > 別在はある(他人はいる)と、思われてますか? > 『他の生命』について、どんなふうに思われて生活をされていますか? > わたしは、他人は居るやろな、とは思うのですが、 > 独在やといややな、と、考えることもあります。
哲学的にはというか厳密には疑いようがない存在というのは〈私〉だけです。 デカルトの第一原理であるコギトの存在。これ以外の存在については?マークを完全に払拭することはできません。 それは現象学的還元(自我論的還元)の結果、唯一残ったものと同じです。
〈私〉が認識する世界も他者も物も〈私〉の存在とは次元というかフィールドが違う。 あくまで認識対象であって、これを認識している主体が〈私〉であり、〈私〉が存在する地点は如何なる他者はもちろん、いかなる物も並び立つことができない世界の特異点(そこから世界が開闢するという意味も含)です。 絶対的に孤独で私秘性は何人も直接的に垣間見ることもできないところにあり、世界の中にはなく世界の極点にあります。 その意味で存在論的にも認識論的にも独我論(独在論)が(私の認識能力からして)ありのままの究極のリアルであり、これ以上確かなものがない真実だと考えています。
で、日常的には物も他者の存在も認めています。 ただ先ほど述べたように完全に?マークは払拭されませんが、極めて薄い?マークというか、存在の次元やフィールドが違うということです。 こういうスタンスに立った時には他者も絶対的に孤独な存在であり、かつ唯一無二で他者が認識する世界の中心に位置する主役でもあるわけです。 パニチェはここにパニチェなりの他者へ優しさや尊重が生じ、人としての尊厳があると考えています。
pipitさんもご存じの『「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人があれば、争いはしずまる。(ダンマパダ6)』と同じく『「われらは、ここにあって絶対的に孤独である」と覚悟しよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人があれば、他者へのいたわりや優しさがあふれ、人間と命の尊厳を知る。』と考えています。
パニチェの言葉だけでは説得力に欠けますので、パニチェと多分同じテーマを探究している哲学者の言葉を最後に引用します。
『もしここで論じられているような問題が確かに存在し、それを論じる私のやり方に大過がないことが納得できたなら、私は次に、このような問題が人生にとってどういう意味をもつかを、主題的に考察していきたい。これまで考えてきた道徳哲学やニーチェに関する問題と交差する地点に、徐々に接近していきたいと思う。(永井均著「〈私〉の存在の比類なさ はじめに」より引用)』
■No15529に返信(pipitさんの記事) > わたしから見た認識、 > 犬から見た認識、 > それぞれ、いっぱいの認識が存在すると思われてますか?
はい。
> いっぱい存在するのかは、推測でしかできない、と思われてますか? > 推測だけど、まあ、いいか、というかんじで日常生活されてますか?
上記で述べたように厳密(哲学的)には?マークは払拭できませんが、走ってくる車の存在を避けるようなリアルさでもって他者の認識も犬の認識も存在すると考えています。 それは推測といえば推測に過ぎませんし、私たちは推測以上の確信を得る手段を持ち合わせていないと思います。
|
|