| 『生きるための哲学 ニーチェ[超]入門』白取春彦 著 を参考にさせていただいて ニーチェの哲学についてまとめていく、の3回目。
〈ニーチェの道徳論〉
「私が道徳を解釈すると、道徳とは、そこにいる人間の諸々の条件と密接にふれあっている価値評価の体系のことだ。」 『力への意志』256
どのような道徳でも遠近法的な思考から生まれたものだと、ニーチェは考えた。 真の道徳というものは最初からなく、何を自分たちの道徳とするかという遠近法的解釈があるだけである。
ニーチェは、古代の支配者の持つ道徳、君主道徳が人間性の本来的なものだと考えた。 生気と力がみなぎり、自己を強く信頼し、創造的に事をなし、勇気ある行いをする、というような気質やふるまいである。
一方、キリスト教に立脚した道徳を、卑屈で屈折したものと考えた。 弱いこと、貧しいこと、階層の低いことこそが善である、というルサンチマン(怨恨感情)を発端としているからである。 支配者は、今ここに生きていることを肯定するのに対して、キリスト教では、天国に憧れ、いずれ幸福になれると憧れる。 こうしたキリスト教での性向をニーチェは嫌悪した。 また、キリスト教道徳、その他のあらゆる道徳に禁止項目、命令が多いことについても批判的に見て、人間本来が持つ生き生きとした本能に基づきながらも自らが判断した行為を選択していく〈超人〉であることを強く望んだ。
(感想)
道徳的に生きることこそ幸福への道と考えたカントとも、道徳に対しての考え方はだいぶ違うなぁ。
ニーチェは子どもの頃、学校からの帰り道に雨に降られても走って帰ってこないような子どもだったそうだ。 (走らなかった理由は、学校で帰り道は走らず静かに帰りましょう、と教えられたから。) 牧師の子として、キリスト教に基づく厳格な道徳を教えられていた子どもの頃のニーチェは、上から与えられた道徳に従順に従うような子どもだった。 そのニーチェがキリスト教道徳に対しての激しい不信感を抱くようになる。 もしかしたらだけど・・・自分の中に根づいている卑屈さ、弱さを青年になったニーチェは嫌悪し、その性向がどこから発生しているのかを考えた時、キリスト教道徳からであると気づいたのかもしれない。 (これはあくまで私の想像だけど・・。 それとも、身の回りにルサンチマンに支配されているようなキリスト教がたくさんいて、嫌悪するきっかけになったのだろうか。。
盗んではいけない、殺してはいけない、といった基本的ともいえる道徳。 これらはやはり、幼少の頃に周りの大人から教え込まれるべきものと私は思う。 このようなことを教えてもらいながら、徐々に自律心を養っていく。 最初は禁止事項で教えるしかない部分もあると思う。 ニーチェもこうしたことについてはおそらくだけれど、反対してはいなかったのではないかな、とこのあたりは自分の中で想像しています。
恐怖や罪悪感に支配された心で生き、言動すること。 現実を直視しようとないこと。 こうしたことをニーチェは良しとはしなかったのだと思う。
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