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■13466 / inTopicNo.61)  Re[25]: ニーチェ 3.
  
□投稿者/ みのり -(2021/06/02(Wed) 11:57:39)
    No13456に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、引用ありがとうございます。^^

    > 以下は、ちくま学芸文庫版「権力への意志 上巻」よりの引用です。
    >
    > 『私は「道徳」を解して、存在者の生の諸条件とふれあう価値評価の体系とする(権力への意志 第256番)』
    >
    > 上記のアフォリズムをさらに詳しく述べたニーチェらしいアフォリズムがありますので、参考までに引用しておきます。

    表現されているものはやはり私には難しいですが、アフォリズムの訳文そのままはやはり格調高い雰囲気ですね。

    自分なりに解釈させていただいたものを書いてみます。


    > 『私は、道徳的判断を解して、生理学的な成功や失敗の事象を、同じく保存条件や生長条件についての意識をうかがいしることのできる症候や記号であるとみなそうとこころみるが、──これは占星術の、本能によってそそのかされた先入見(種族、集団のもっている、青春とか頽齢とかその他さまざまな階梯がもっている)の価値を解釈する手法である。
    > これを、とくにキリスト教的・ヨーロッパ的な道徳に適用すれば、現今の道徳的判断は、頽落の、生の不信の徴候であり、ペシミズムを用意するものである。
    > 私の主要命題。すなわち、道徳的現象なるものはなく、あるのはただこの現象の道徳的解釈にすぎない。この解釈自身は道徳とのかかわりあいのない起源のものである。
    > 私たちが生存のうちへと矛盾を解釈し入れたということは、何を意味するのか?──決定的に重要なことは、すべてそれ以外の価値評価の背後でもあの道徳的価値評価が君臨しているということである。もしこの道徳的価値評価がやむとすれば、そのときには私たちは何を基準として測定するのか?またそのときには認識その他はいかなる価値をもつのであろうか???(権力への意志 第258番)』

    あの道徳的価値観が君臨しているということである、という文中の「あの」とは、キリスト教に立脚した道徳的価値観という意味なのだと読みました。
    その価値体系はキリスト教を信仰する人々の間での価値体系であって、絶対的なものではない。


    > 『すべての価値評価にあって問題なのは特定の遠近法であるということの洞察。すなわちそれは、個人、集団、種族、国家、教会、信仰、文化の保存である。──一つの遠近法的評価があるにすぎないということが忘却されるおかげで、矛盾した評価が、したがって矛盾した衝動がすべてみなひとりの人間のうちに集まるのである。このことは人間が病気にかかっていることのあらわれであり、これに反して動物においては、持ちあわせの本能すべてがまったく特定の課題を解決するのである。

    様々な遠近法的評価による数多くの種類の価値評価が私たち人間を取りまいている。
    そのどれもがけして絶対的なものではなく、人間がそれぞれの立場、文化、指向の相違によって「これが正しい」と主張しているにすぎないのに、そのことを人間は
    忘れてしまう。
    しかし、動物は本能に従うので迷いはない。

    > しかるにこの矛盾にみちた被造物はその本質のうちに認識という大いなる方法をもっている。すなわち人間は、多くの牽引するものnと反撥するものとを感じとり、公正へと高揚し、──善・悪の評価の彼岸で理解するにいたるのである。
    > 最も賢明な人間とは、いわばあらゆる種類の人間に対する触覚を、しかもときおりその壮大な諧和の大いなる瞬間をもつところの、矛盾に最も富んだ人間でろう──私たちのうちにある高い偶然!一種の惑星運動──(権力への意志 第259番)』

    善悪についての判断も時と場所によってその価値判断は変化するものである。
    これが善であり、これが悪である、という絶対的なものはない。
    いかなる時も、自分で考え判断していくのが賢明である。

引用返信/返信 削除キー/
■13456 / inTopicNo.62)  Re[24]: ニーチェ 3.
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/01(Tue) 20:48:12)
    No13444に返信(みのりさんの記事)

    > 〈ニーチェの道徳論〉

    > 「私が道徳を解釈すると、道徳とは、そこにいる人間の諸々の条件と密接にふれあっている価値評価の体系のことだ。」 『力への意志』256

    こんばんは、みのりさん。

    以下は、ちくま学芸文庫版「権力への意志 上巻」よりの引用です。

    『私は「道徳」を解して、存在者の生の諸条件とふれあう価値評価の体系とする(権力への意志 第256番)』

    上記のアフォリズムをさらに詳しく述べたニーチェらしいアフォリズムがありますので、参考までに引用しておきます。

    『私は、道徳的判断を解して、生理学的な成功や失敗の事象を、同じく保存条件や生長条件についての意識をうかがいしることのできる症候や記号であるとみなそうとこころみるが、──これは占星術の、本能によってそそのかされた先入見(種族、集団のもっている、青春とか頽齢とかその他さまざまな階梯がもっている)の価値を解釈する手法である。
    これを、とくにキリスト教的・ヨーロッパ的な道徳に適用すれば、現今の道徳的判断は、頽落の、生の不信の徴候であり、ペシミズムを用意するものである。
    私の主要命題。すなわち、道徳的現象なるものはなく、あるのはただこの現象の道徳的解釈にすぎない。この解釈自身は道徳とのかかわりあいのない起源のものである。
    私たちが生存のうちへと矛盾を解釈し入れたということは、何を意味するのか?──決定的に重要なことは、すべてそれ以外の価値評価の背後でもあの道徳的価値評価が君臨しているということである。もしこの道徳的価値評価がやむとすれば、そのときには私たちは何を基準として測定するのか?またそのときには認識その他はいかなる価値をもつのであろうか???(権力への意志 第258番)』

    『すべての価値評価にあって問題なのは特定の遠近法であるということの洞察。すなわちそれは、個人、集団、種族、国家、教会、信仰、文化の保存である。──一つの遠近法的評価があるにすぎないということが忘却されるおかげで、矛盾した評価が、したがって矛盾した衝動がすべてみなひとりの人間のうちに集まるのである。このことは人間が病気にかかっていることのあらわれであり、これに反して動物においては、持ちあわせの本能すべてがまったく特定の課題を解決するのである。
    しかるにこの矛盾にみちた被造物はその本質のうちに認識という大いなる方法をもっている。すなわち人間は、多くの牽引するものnと反撥するものとを感じとり、公正へと高揚し、──善・悪の評価の彼岸で理解するにいたるのである。
    最も賢明な人間とは、いわばあらゆる種類の人間に対する触覚を、しかもときおりその壮大な諧和の大いなる瞬間をもつところの、矛盾に最も富んだ人間でろう──私たちのうちにある高い偶然!一種の惑星運動──(権力への意志 第259番)』

引用返信/返信 削除キー/
■13455 / inTopicNo.63)  フォイエルバッハ
□投稿者/ みのり -(2021/06/01(Tue) 20:44:42)
    ニーチェのキリスト教批判は、フォイエルバッハという哲学者の言説
    の影響を受けているらしい。
    ということだけ、メモとして残しておく。

引用返信/返信 削除キー/
■13444 / inTopicNo.64)  ニーチェ 3.
□投稿者/ みのり -(2021/06/01(Tue) 12:54:49)
    『生きるための哲学 ニーチェ[超]入門』白取春彦 著 を参考にさせていただいて
    ニーチェの哲学についてまとめていく、の3回目。

    〈ニーチェの道徳論〉

    「私が道徳を解釈すると、道徳とは、そこにいる人間の諸々の条件と密接にふれあっている価値評価の体系のことだ。」 『力への意志』256

    どのような道徳でも遠近法的な思考から生まれたものだと、ニーチェは考えた。
    真の道徳というものは最初からなく、何を自分たちの道徳とするかという遠近法的解釈があるだけである。

    ニーチェは、古代の支配者の持つ道徳、君主道徳が人間性の本来的なものだと考えた。
    生気と力がみなぎり、自己を強く信頼し、創造的に事をなし、勇気ある行いをする、というような気質やふるまいである。

    一方、キリスト教に立脚した道徳を、卑屈で屈折したものと考えた。
    弱いこと、貧しいこと、階層の低いことこそが善である、というルサンチマン(怨恨感情)を発端としているからである。
    支配者は、今ここに生きていることを肯定するのに対して、キリスト教では、天国に憧れ、いずれ幸福になれると憧れる。
    こうしたキリスト教での性向をニーチェは嫌悪した。
    また、キリスト教道徳、その他のあらゆる道徳に禁止項目、命令が多いことについても批判的に見て、人間本来が持つ生き生きとした本能に基づきながらも自らが判断した行為を選択していく〈超人〉であることを強く望んだ。


    (感想)

    道徳的に生きることこそ幸福への道と考えたカントとも、道徳に対しての考え方はだいぶ違うなぁ。

    ニーチェは子どもの頃、学校からの帰り道に雨に降られても走って帰ってこないような子どもだったそうだ。
    (走らなかった理由は、学校で帰り道は走らず静かに帰りましょう、と教えられたから。)
    牧師の子として、キリスト教に基づく厳格な道徳を教えられていた子どもの頃のニーチェは、上から与えられた道徳に従順に従うような子どもだった。
    そのニーチェがキリスト教道徳に対しての激しい不信感を抱くようになる。
    もしかしたらだけど・・・自分の中に根づいている卑屈さ、弱さを青年になったニーチェは嫌悪し、その性向がどこから発生しているのかを考えた時、キリスト教道徳からであると気づいたのかもしれない。
    (これはあくまで私の想像だけど・・。
    それとも、身の回りにルサンチマンに支配されているようなキリスト教がたくさんいて、嫌悪するきっかけになったのだろうか。。

    盗んではいけない、殺してはいけない、といった基本的ともいえる道徳。
    これらはやはり、幼少の頃に周りの大人から教え込まれるべきものと私は思う。
    このようなことを教えてもらいながら、徐々に自律心を養っていく。
    最初は禁止事項で教えるしかない部分もあると思う。
    ニーチェもこうしたことについてはおそらくだけれど、反対してはいなかったのではないかな、とこのあたりは自分の中で想像しています。

    恐怖や罪悪感に支配された心で生き、言動すること。
    現実を直視しようとないこと。
    こうしたことをニーチェは良しとはしなかったのだと思う。

















引用返信/返信 削除キー/
■13392 / inTopicNo.65)  Re[22]: ニーチェ 2.
□投稿者/ みのり -(2021/05/30(Sun) 08:12:32)
    パニチェさん、ありがとうございます。^^
    じっくりと読ませていただきました。

    >ニーチェは、われわれの認識に伴う誤謬や錯覚をマイナスの意味ではありまり用いておらず、むしろ創造性や価値創出などの原動力となりえるよい意味で多用します。真理はある意味で静的な妄想であり、極論すれば思考停止を意味する、対して誤謬は動的な妄想であり、意味や価値の上書きや超克など創造的かつ生産的と言えます。

    >生には普遍的または画一的な意味や価値や目的などない。真っ白なキャンパスであるが故に自ら意味や価値や目的を創出できるのが言語を有する人間として生まれてきた特権である、と。


    認識に伴う誤謬や錯覚は、創造性や価値創出などの原動力になりえるという意味で
    ニーチェは多用している、のですね。
    誤解しやすい部分だと思いますので、理解できてよかったです。

    ますます楽しくなってきました。♪
    ぼちぼちと次に進んでいきます。
引用返信/返信 削除キー/
■13381 / inTopicNo.66)  Re[21]: ニーチェ 2.
□投稿者/ パニチェ -(2021/05/29(Sat) 17:44:57)
    2021/05/29(Sat) 19:10:04 編集(投稿者)

    みのりさん、レスありがとうございます。
    同意のところは省略しますが、参考になりそうなアフォリズムを引用しておきますが、これへの返信はお気遣いなく。
    次に進んでいただいて結構ですよ。^^

    No13380に返信(みのりさんの記事)

    > 小賢しく生きるのではなく、ある意味本能に忠実に正直に生きるべし。
    > そんなふうに言ってるように感じられます。
    > え? ぜんぜん違うかな。。

    > 本能に忠実に生きるとは言え、我儘放題に生きるべし、ではもちろんなく、
    > モラルは自分で守っていく、ということが同時に大切とニーチェは考えて
    > いたとは思います。

    その通りです。ニーチェが批判した道徳は。。。
    セム系宗教のトップダウンで下されるような善悪二元論道徳です。本来はダイナミックであるはずの生に原罪の汚名を着せ委縮させる、生よりも死後の最後の審判を重視する教義、個性が特権であるはずの人間を均一化し、没個性化した上で、飼いならすかのような畜群道徳であり、身体を軽蔑するかのような度を超えた禁欲主義など、僧侶階級や教会によって後世に捏造されたさまざまな価値観です。
    但し、野獣のように生きればよいということではなく、ニーチェは奴隷道徳に代わる君主道徳を提示します。

    『インモラリストという私の言葉が内に含んでいるのは、結局は二種類の否定である。まず第一に私が否定するのは、これまで最高の人間と看破されてきたタイプの人間、善人、善意の人、善行の人である。第二に私が否定するのは、道徳の一種にすぎないのに道徳そのものとして通用して支配権を獲得するに至ったあのデカダンス道徳、手っ取り早くいえばキリスト教道徳である。(この人を見よ なぜ私は一個の運命であるのか4)』

    『──私は一つの原理を定式化してみることに致します。道徳における自然主義、すなわちすべての健康な道徳の中心の座を占めているのは、生の諸本能であります。──生の掟は「すべし」「すべからず」の一定の規範で満たされていて、生の途上における何らかの阻害や敵意もこの規範によって取り除かれてしまいます。ところがこれとは反対に、反自然的な道徳、すなわち今日まで教えられ、尊ばれ、説かれて来たほとんどすべての道徳は、ほかでもありません、この生の諸本能に逆らっているのです。──これらの反自然的な道徳は、生の諸本能をあるときは密やかに、またあるときは大声をあげて、ふてぶてしくも断罪します。(偶像の黄昏 反自然としての道徳4)』

    『自明なことであるが、──私が愚か者でないとすれば──、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。──しかし前者も後者も、これまでとは別な理由からであると私は考える。われわれは学び直さなければならない。──結局おそらく極めて後のことかもしれないが、さらにそれ以上に到達するために、感じ直すために。(曙光103)』


    > なるほど。私たちは世界のあらゆる事象を、分類したりラベリングしたりして
    > 実用性を持たせて生きていて、それがある種の信仰(妄想)というか過信にも
    > なっている、というようなことを言ってるのかな、と。
    > けっこう毒がある表現にも感じられますが、それがニーチェらしさなんでしょうね。

    その通りですが、ニーチェは、われわれの認識に伴う誤謬や錯覚をマイナスの意味ではありまり用いておらず、むしろ創造性や価値創出などの原動力となりえるよい意味で多用します。真理はある意味で静的な妄想であり、極論すれば思考停止を意味する、対して誤謬は動的な妄想であり、意味や価値の上書きや超克など創造的かつ生産的と言えます。

    生には普遍的または画一的な意味や価値や目的などない。真っ白なキャンパスであるが故に自ら意味や価値や目的を創出できるのが言語を有する人間として生まれてきた特権である、と。
    生に意味や価値や目的などないということに絶望し悲観するのが受動的ニヒリズム(デカダンスやペシミズム)であり、むしろこれを肯定し自ら認識する世界に意味や価値を付与することで認識する世界の創造者たりえると奮い立つのが能動的ニヒリズムです。

    『ニヒリズムとは何を意味するのか?──至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。(力への意志 第2番)』

    『ニヒリズム。それは二義的である、
    A、精神の上昇した権力の徴候としてのニヒリズム、すなわち、能動的ニヒリズム。
    B、精神の権力の衰退と後退としてのニヒリズム、すなわち、受動的ニヒリズム。(力への意志 第22番)』

    『人生の半ばにおいて、──いな!人生は私を失望させはしなかった!それどころか、私には、歳を重ねるにつれて人生は一そう豊かな、一そう好ましい、いよいよ神秘に充ちたものに感じられる。──それは、あの偉大な解放者が、つまり、人生は認識者にとって一個の実験でありうる──義務でもなく・宿命でもなく・妄想でもなくして──というあの思想が、私に訪れた日以来のことだ!──そして、認識そのものは、よしそれが他の人たちにとってはたとえば安楽椅子だとか・安楽椅子まで辿りつく道だとか・慰みごとだとか・無為不精だとかいった何か別のものであるとしても──私にとって認識そのものは、英雄的感情でさえそこをそれ自身の舞踏場とし戦場とすることのできる危険と勝利との世界なのだ。「人生は認識の一手段なり」──この原則を抱懐するわれわれは、ただに勇猛であるだけでなく、悦ばしく生き悦ばしく笑うことすらできるのだ!何はさておきまずもって戦闘と勝利の道に通暁する者でなければ、そもそも誰が一体良く笑い良く生きるすべを解しえようとも!(悦ばしき知識 第324番)』


引用返信/返信 削除キー/
■13380 / inTopicNo.67)  Re[20]: ニーチェ 2.
□投稿者/ みのり -(2021/05/29(Sat) 16:35:13)
    No13359に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/05/29(Sat) 13:33:16 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    > ニーチェは別名「解釈の哲学」とも呼ばれています。ニーチェの意図するところもあるのですがアフォリズムには解釈の自由度があり、それも難解なひとつの理由になっています。通常、(宗教上の)ドグマというのは一義的でトップダウンで宗教によっては信仰対象にもなります。ニーチェはこのアンチテーゼ(反面教師)として自身のアフォリズムを想定しており、読者なりの解釈とか、さらに言えばアフォリズムに触発された新たな価値創造の余地を意図的に残していると思います。

    そういえば以前、少しニーチェについて教えていただいた際も、ニーチェは読者が自分なりの解釈をすることを許している、というような(表現は違ったかもですが)のを教えていただいたのを思い出しました。

    >前置きが長くなりましたが、そういうことで以下のカキコも(断定的には書きますが)パニチェ解釈でしかなく、間違ったり、曲解も大いにあると考えていただければ有難いです。質問や分からないとレスされた箇所のみ返信してみます。

    お手数おかけしました。ありがとうございます。

    > >>『「自我」──このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない!──まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない──それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。(力への意志第371番)』
    >>自我は概念的な綜合、という部分については言わんとすることが理解できるのですが、「それゆえ、利己主義からの行為など全然ない。」の部分が解りません。
    >>人間の行為で利己主義から出ているものはまったくない、という意味なのでしょうか。
    >>この部分について、よかったらパニチェさんに教えていただけると有難いです。
    >
    > キリスト教に限らず宗教では身体性(肉体)より精神性を重んじる教義が多いです。
    > そのため鞭打ちや苦行などで悪しきものとされる欲望の出所である肉体を苛めることによる自己鍛錬があります。

    はい。

    > ニーチェはこれを逆転させ自我も含めた意識や精神性は『意識。──意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であり、したがってまたその表面の最も未熟な、最も無力な部分である。(悦ばしき知識第11番)』や『きみが「精神」と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。きみの大いなる理性の一つの小さな道具ないしは玩具である。(ツァラトゥストラ)』と、意識や精神性よりも身体性を生が本来有するベクトルに沿った大いなる理性と考え重視します。よって自己は自我や意識などの精神性ではなく身体性であり、自我は身体性(本質)の大いなる(無意識的な)理性のもとに統一管理されたもろもろのもの(例えば本能的な反射や衝動)と同一(同列)ではない。

    まず、自己と自我というのは違うものだということですね。
    自己というのは身体性だとし、それを自我より重視している。
    ここについて、私は勘違いしていたので分かってよかったです。

    > 生や身体性は自己超克と自己拡大のベクトルがあり、異物を自らの内に取り込み、自らのエネルギーとして自己に同化させます。これは世界に意味や価値を付与し我がとするニーチェ的な認識論も同じです。
    > よって自我や意識から発せられる「利己主義」なんて「主義」「主張」などそもそもない、あるのは生と身体性の本来のベクトル(力への意志)だということ。
    >
    > 『人間が意志するもの、生ける有機体の最小の部分のすべてが意志するもの、それは力への増加である。・・・原形質は何か自分に抵抗するものを求めて、その偽足をのばす、──飢えからではなく、力への意志から。それに続いて、抵抗するものに打ち克ち、我がものとし、同化を試みる。──栄養と呼ばれるものは、より強くなることを意志するところあの根源的意志の後続─現象、応用にすぎない。(力への意志 第702番)』
    >
    > 『生存競争といったものなぞは、一個の例外にすぎない、生意志の一時的な制限状態にすぎない、ほかならぬ生の意志であるところの権力の意志のままに、大小の闘争が、いたるところで、優越を競い、成長と拡大を競い、権力を競って、おこなわれているのだ。(悦ばしき知識 第五書の349)』

    小賢しく生きるのではなく、ある意味本能に忠実に正直に生きるべし。
    そんなふうに言ってるように感じられます。
    え? ぜんぜん違うかな。。

    本能に忠実に生きるとは言え、我儘放題に生きるべし、ではもちろんなく、
    モラルは自分で守っていく、ということが同時に大切とニーチェは考えて
    いたとは思います。

    > >>2)「現象」の世界は調整されたものであるが、私たちはそれを実在していると感覚するのである。「実用性」は、等しい、既知の、似かよった事物がたえず回帰することのうちに、事物の論理化された性格のうちに、私たちはここでは計算し算定することができるとの信仰のうちにある。
    >>前半は解るのですが、「実用性」という言葉以降については解からないです。
    >
    > 世界の解釈と、それらを実用する(扱う、または使う)際には、われわれは異質なものを(言語によるラベリングでもって)等しくしたり、未知のものを既知に強引にあてはめることによって理解したり、同じようなものが同じようなものへと回帰(同化)しているかのような捏造や偽造、誤謬や錯覚も含めた解釈(価値創造)でもって論理化した上で、これらを計算したり算定することができるという、ある種の信仰(妄想)のうちにあるということ(そもそも世界には1=1なんてものはない)。
    >
    > 『いわゆる認識衝動は、専有・征服衝動へと還元されるべきである。この衝動にしたがって、感官、記憶、本能などが発達したのである(力への意志 第422番)』

    なるほど。私たちは世界のあらゆる事象を、分類したりラベリングしたりして
    実用性を持たせて生きていて、それがある種の信仰(妄想)というか過信にも
    なっている、というようなことを言ってるのかな、と。
    けっこう毒がある表現にも感じられますが、それがニーチェらしさなんでしょうね。

引用返信/返信 削除キー/
■13359 / inTopicNo.68)  Re[19]: ニーチェ 2.
□投稿者/ パニチェ -(2021/05/29(Sat) 11:47:00)
    2021/05/29(Sat) 13:33:16 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん。レスありがとうございます。

    No13340に返信(みのりさんの記事)

    ニーチェは別名「解釈の哲学」とも呼ばれています。ニーチェの意図するところもあるのですがアフォリズムには解釈の自由度があり、それも難解なひとつの理由になっています。通常、(宗教上の)ドグマというのは一義的でトップダウンで宗教によっては信仰対象にもなります。ニーチェはこのアンチテーゼ(反面教師)として自身のアフォリズムを想定しており、読者なりの解釈とか、さらに言えばアフォリズムに触発された新たな価値創造の余地を意図的に残していると思います。前置きが長くなりましたが、そういうことで以下のカキコも(断定的には書きますが)パニチェ解釈でしかなく、間違ったり、曲解も大いにあると考えていただければ有難いです。質問や分からないとレスされた箇所のみ返信してみます。

    >>『「自我」──このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない!──まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない──それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。(力への意志第371番)』
    > 自我は概念的な綜合、という部分については言わんとすることが理解できるのですが、「それゆえ、利己主義からの行為など全然ない。」の部分が解りません。
    > 人間の行為で利己主義から出ているものはまったくない、という意味なのでしょうか。
    > この部分について、よかったらパニチェさんに教えていただけると有難いです。

    キリスト教に限らず宗教では身体性(肉体)より精神性を重んじる教義が多いです。
    そのため鞭打ちや苦行などで悪しきものとされる欲望の出所である肉体を苛めることによる自己鍛錬があります。

    ニーチェはこれを逆転させ自我も含めた意識や精神性は『意識。──意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であり、したがってまたその表面の最も未熟な、最も無力な部分である。(悦ばしき知識第11番)』や『きみが「精神」と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。きみの大いなる理性の一つの小さな道具ないしは玩具である。(ツァラトゥストラ)』と、意識や精神性よりも身体性を生が本来有するベクトルに沿った大いなる理性と考え重視します。よって自己は自我や意識などの精神性ではなく身体性であり、自我は身体性(本質)の大いなる(無意識的な)理性のもとに統一管理されたもろもろのもの(例えば本能的な反射や衝動)と同一(同列)ではない。

    生や身体性は自己超克と自己拡大のベクトルがあり、異物を自らの内に取り込み、自らのエネルギーとして自己に同化させます。これは世界に意味や価値を付与し我がとするニーチェ的な認識論も同じです。
    よって自我や意識から発せられる「利己主義」なんて「主義」「主張」などそもそもない、あるのは生と身体性の本来のベクトル(力への意志)だということ。

    『人間が意志するもの、生ける有機体の最小の部分のすべてが意志するもの、それは力への増加である。・・・原形質は何か自分に抵抗するものを求めて、その偽足をのばす、──飢えからではなく、力への意志から。それに続いて、抵抗するものに打ち克ち、我がものとし、同化を試みる。──栄養と呼ばれるものは、より強くなることを意志するところあの根源的意志の後続─現象、応用にすぎない。(力への意志 第702番)』

    『生存競争といったものなぞは、一個の例外にすぎない、生意志の一時的な制限状態にすぎない、ほかならぬ生の意志であるところの権力の意志のままに、大小の闘争が、いたるところで、優越を競い、成長と拡大を競い、権力を競って、おこなわれているのだ。(悦ばしき知識 第五書の349)』


    >>2)「現象」の世界は調整されたものであるが、私たちはそれを実在していると感覚するのである。「実用性」は、等しい、既知の、似かよった事物がたえず回帰することのうちに、事物の論理化された性格のうちに、私たちはここでは計算し算定することができるとの信仰のうちにある。
    > 前半は解るのですが、「実用性」という言葉以降については解からないです。

    世界の解釈と、それらを実用する(扱う、または使う)際には、われわれは異質なものを(言語によるラベリングでもって)等しくしたり、未知のものを既知に強引にあてはめることによって理解したり、同じようなものが同じようなものへと回帰(同化)しているかのような捏造や偽造、誤謬や錯覚も含めた解釈(価値創造)でもって論理化した上で、これらを計算したり算定することができるという、ある種の信仰(妄想)のうちにあるということ(そもそも世界には1=1なんてものはない)。

    『いわゆる認識衝動は、専有・征服衝動へと還元されるべきである。この衝動にしたがって、感官、記憶、本能などが発達したのである(力への意志 第422番)』

    > 私の打ち間違いでした。 すみません。
    > 本のほうには、その部分、243と記載されています。

    了解しました。^^

引用返信/返信 削除キー/
■13340 / inTopicNo.69)  Re[18]: ニーチェ 2.
□投稿者/ みのり -(2021/05/29(Sat) 08:25:51)
    No13321に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/05/29(Sat) 07:06:37 編集(投稿者)

    > 以下のアフォリズムを『ちくま学芸文庫 ニーチェ全集』より引用しておきます。
    > あくまで参考になればということでの引用なので、返信はお気遣いなく。

    パニチェさん、ありがとうございます。
    アフォリズムそのものは、表現が硬く私には難しく感じられますが、可能な限りにおいて書いてみます。

    > 『「自我」──このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない!──まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない──それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。(力への意志第371番)』

    自我は概念的な綜合、という部分については言わんとすることが理解できるのですが、「それゆえ、利己主義からの行為など全然ない。」の部分が解りません。
    人間の行為で利己主義から出ているものはまったくない、という意味なのでしょうか。
    この部分について、よかったらパニチェさんに教えていただけると有難いです。

    > 『二つの方向。──もしわれわれが鏡それ自体の観察を企てるなら、われわれは結局鏡に映った物以外の何ものも見出さない。もしわれわれが物を把握しようとするなら、われわれはついに鏡以外の何ものにも到達しない。──これが、認識の最も一般的な歴史である。(曙光第243番)』

    鏡面とそこに写る物。それぞれのみ、それぞれだけを認識しようとしてもそれは人間には不可能。
    物や事物があってそれに関わる自己が生まれる、ということを言っているのだろうと解釈しました。


    > 『私たちの心理学的光学は以下のことによって想定されている。すなわち、
    > 1)伝達が必要であり、また、伝達のためには、或るものが、固定的な、単純化された、精密化されうるものでなければならないということ(なかんずく、いわゆる同一の場合において)。しかし、それが伝達のきくものでありうるためには、「再認識されうる」ものとして、それは調整されていると感覚されなければならない。感官の素材は、悟性によって調整されて、大まかな輪郭へと還元され、類似化され、類縁あるもののもとへと包摂される。それゆえ、感官印象の不明瞭さと混沌とかいわば論理化されるのである。

    あくまで私の印象ですが、ここはカントの認識論の感性、悟性の部分と似ているように感じました。

    > 2)「現象」の世界は調整されたものであるが、私たちはそれを実在していると感覚するのである。「実用性」は、等しい、既知の、似かよった事物がたえず回帰することのうちに、事物の論理化された性格のうちに、私たちはここでは計算し算定することができるとの信仰のうちにある。

    前半は解るのですが、「実用性」という言葉以降については解からないです。

    > 3)この現象の世界の反対は「真の世界」ではなく、混沌たる感覚の没形式的な定式化されえない世界である、──それゆえ、別種の現象の世界、私たちにとっては「認識されえない」それである。

    私たちにとって認識されえないものを「真の世界」と呼ぶことはできない、という主張なのだろうと解釈しました。

    > 4)事物「自体」とはどのようなものであるかと問うことは、私たちの感官の受容性と悟性の活動性をまったく別としても、事物があるということを私たちはどこから知りうるのかと問うことに代わらなければならない。「事物性」は私たちによってはじめてつくりあげられたものである。問題は、そのような仮象の世界をつくる仕方はなお多々ありうるのではなかろうか──だから、現在いとなまれている創造し、論理化し、調整し、偽造するはたらきのみが実在的であるのではなかろうか、また、「私たちははたらきかける外界の作用」もそのような意欲する主観の帰結にすぎないのでなかろうか、と問うことである・・・他の「存在者」が私たちへと働きかけるのである。私たちの調整された仮象は、このものの諸作用の調整や征服である。一種の防衛策。主観のみが証明されうるものである、すなわちこれは、主観のっみがあるとの──「客観」は主観から主観へとはたらきかける一種の作用にすぎず・・・主観の一様態であるとの仮説。(力への意志 第569番)』

    人間は調整された現象という主観から離れることはできない。
    客観と言われるものも主観の一形態である。(ここは仮説としている。)


    > PS.曙光第245番はナポレオンについてのアフォリズムで「鏡そのものを熟視しようと努めたところで、人間は結局のところ、鏡に写っているものしか見ることができない」というアフォリズムはありませんでした。第243番にそれらしいアフォリズムがありましたので参考までに引用しました。

    私の打ち間違いでした。 すみません。
    本のほうには、その部分、243と記載されています。
引用返信/返信 削除キー/
■13321 / inTopicNo.70)  Re[17]: ニーチェ 2.
□投稿者/ パニチェ -(2021/05/28(Fri) 21:27:06)
    2021/05/29(Sat) 07:06:37 編集(投稿者)

    こんばんは、みのりさん。
    以下のアフォリズムを『ちくま学芸文庫 ニーチェ全集』より引用しておきます。
    あくまで参考になればということでの引用なので、返信はお気遣いなく。

    No13297に返信(みのりさんの記事)
    > 「自我は、概念を総合したものにすぎない」と『力への意志』371で書いているそうだ。
    > また、「鏡そのものを熟視しようと努めたところで、人間は結局のところ、鏡に写っているものしか見ることができない」と『曙光』245で書いているそうだ。
    > 「わたしたちが疑いもなく実在していると感じているものは、調整された現象の世界なのだ」『力への意志』569とも。

    『「自我」──このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない!──まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない──それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。(力への意志第371番)』

    『二つの方向。──もしわれわれが鏡それ自体の観察を企てるなら、われわれは結局鏡に映った物以外の何ものも見出さない。もしわれわれが物を把握しようとするなら、われわれはついに鏡以外の何ものにも到達しない。──これが、認識の最も一般的な歴史である。(曙光第243番)』

    『私たちの心理学的光学は以下のことによって想定されている。すなわち、
    1)伝達が必要であり、また、伝達のためには、或るものが、固定的な、単純化された、精密化されうるものでなければならないということ(なかんずく、いわゆる同一の場合において)。しかし、それが伝達のきくものでありうるためには、「再認識されうる」ものとして、それは調整されていると感覚されなければならない。感官の素材は、悟性によって調整されて、大まかな輪郭へと還元され、類似化され、類縁あるもののもとへと包摂される。それゆえ、感官印象の不明瞭さと混沌とかいわば論理化されるのである。

    2)「現象」の世界は調整されたものであるが、私たちはそれを実在していると感覚するのである。「実用性」は、等しい、既知の、似かよった事物がたえず回帰することのうちに、事物の論理化された性格のうちに、私たちはここでは計算し算定することができるとの信仰のうちにある。

    3)この現象の世界の反対は「真の世界」ではなく、混沌たる感覚の没形式的な定式化されえない世界である、──それゆえ、別種の現象の世界、私たちにとっては「認識されえない」それである。

    4)事物「自体」とはどのようなものであるかと問うことは、私たちの感官の受容性と悟性の活動性をまったく別としても、事物があるということを私たちはどこから知りうるのかと問うことに代わらなければならない。「事物性」は私たちによってはじめてつくりあげられたものである。問題は、そのような仮象の世界をつくる仕方はなお多々ありうるのではなかろうか──だから、現在いとなまれている創造し、論理化し、調整し、偽造するはたらきのみが実在的であるのではなかろうか、また、「私たちははたらきかける外界の作用」もそのような意欲する主観の帰結にすぎないのでなかろうか、と問うことである・・・他の「存在者」が私たちへと働きかけるのである。私たちの調整された仮象は、このものの諸作用の調整や征服である。一種の防衛策。主観のみが証明されうるものである、すなわちこれは、主観のっみがあるとの──「客観」は主観から主観へとはたらきかける一種の作用にすぎず・・・主観の一様態であるとの仮説。(力への意志 第569番)』


    PS.曙光第245番はナポレオンについてのアフォリズムで「鏡そのものを熟視しようと努めたところで、人間は結局のところ、鏡に写っているものしか見ることができない」というアフォリズムはありませんでした。第243番にそれらしいアフォリズムがありましたので参考までに引用しました。

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■13297 / inTopicNo.71)  ニーチェ 2.
□投稿者/ みのり -(2021/05/28(Fri) 14:28:16)
    『生きるための哲学 ニーチェ[超]入門』白取春彦 著 を参考にさせていただいて、ニーチェについて少しずつまとめていくのの二回目。
    道徳論に行こうかとも思ったのですが、興味深いものをみつけたのでちょっと止まります。

    〈ニーチェにとって自分とは〉

    人間は周囲の様々なものや事柄に意味と価値を与え、解釈することによって生きていて、同時に、そのようにしてしか自分を見出せない。
    物や事柄があるから、それに関わる自己が生まれる。

    「自我は、概念を総合したものにすぎない」と『力への意志』371で書いているそうだ。
    また、「鏡そのものを熟視しようと努めたところで、人間は結局のところ、鏡に写っているものしか見ることができない」と『曙光』245で書いているそうだ。
    「わたしたちが疑いもなく実在していると感じているものは、調整された現象の世界なのだ」『力への意志』569とも。

    現象というこのリアルから誰も脱出することはできず、現象界の裏側に真実の世界などを描くことは妄想、とニーチェは考えた。


    (感想)

    物や事柄があるから、それに関わる自己が生まれる。
    ここでの自己というのは、自分、自我の自分という意味だと私は解釈しました。

    何かを見、何かに触れ、それに対して何かを感じ思う。
    その何かが自分にとってどうであるか。
    判断と価値づけが集積されたものを人は自分と呼んでいる、とニーチェは考えたのだと、ここも解釈しました。

    実体としての自分としては自分を考えない、というのはヒュームなどもそうだったかな、と微かな記憶で思い出したのだけど(記憶違いかも、その際はすみません)、西洋哲学の中ではあまり多くはないのかもしれない。

    ニーチェが、自分というものについてこのように考えているとは知らなかったので、けっこう驚いたというか親近感を持つ材料ともなりました。

    現象という世界から人は逃れることはできない、真実の世界の有無は知りえないどころか妄想だ、とした。
    こうした考え方をもってすれば、キリスト教に対して批判を向けていくのは自然なことだと思う。



     
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■13283 / inTopicNo.72)  Re[15]: あのキースジャレットは
□投稿者/ みのり -(2021/05/28(Fri) 07:40:56)
    No13263に返信(田秋さんの記事)
    > 2021/05/27(Thu) 17:22:54 編集(投稿者)

    田秋さん、おはようございます。
    今朝のこちらは雨も上がり、気温が上がりそうな気配です。

    > 先に挙げたURLはTomasz Trzcinskiという人がキースジャレットのケルンコンサートをコピーしたものでした。オリジナルじゃないです。すみません!

    そうだったのですね。私はぜんぜんわからず、ただ心地よく聴いていましたので、
    お気になさらないでください。

    > 本物はと探したら、今はプレミアムメンバーじゃないと聴けなくなっていました。昔は聴けたのにぃ。

    田秋さんは、キースジャレットのピアノがお好きなんですね。^^
    ウィキで少し調べたところ、かなり有名な方みたいで来日コンサートも
    されてたようですね。

    > キースジャレットが1975年、ケルンで行ったライブがそのままレコードになりました。大変優れた演奏で超有名になりました。
    > このTomasz Trzcinskiの演奏も決して悪くありませんが・・・

    > ホントすみません!
    > お詫びに本物のキースジャレットをどうぞ。
    > https://www.youtube.com/watch?v=K1DjminYtg8

    ピアノが身体の一部になっているかのような演奏ですね。
    自然に音が入ってきて馴染みました。


    > お詫びのオマケです。
    > https://www.youtube.com/watch?v=cwJ4j88mlu0
    > 癒しにはならないかもしれませんがハッピーになります。ピアニストの拳奏法にご注目!

    拳で鍵盤をこね回すみたいな演奏がありましたね。^^
    パワフルで、元気になれる感じです。
    大汗かいて演奏してるサックスの方も、洗練されてお洒落なサックスという
    私が持ってたイメージを覆す演奏でした。
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