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Re[24]: ニーチェ 3.
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□投稿者/ パニチェ -(2021/06/01(Tue) 20:48:12)
| ■No13444に返信(みのりさんの記事)
> 〈ニーチェの道徳論〉
> 「私が道徳を解釈すると、道徳とは、そこにいる人間の諸々の条件と密接にふれあっている価値評価の体系のことだ。」 『力への意志』256
こんばんは、みのりさん。
以下は、ちくま学芸文庫版「権力への意志 上巻」よりの引用です。
『私は「道徳」を解して、存在者の生の諸条件とふれあう価値評価の体系とする(権力への意志 第256番)』
上記のアフォリズムをさらに詳しく述べたニーチェらしいアフォリズムがありますので、参考までに引用しておきます。
『私は、道徳的判断を解して、生理学的な成功や失敗の事象を、同じく保存条件や生長条件についての意識をうかがいしることのできる症候や記号であるとみなそうとこころみるが、──これは占星術の、本能によってそそのかされた先入見(種族、集団のもっている、青春とか頽齢とかその他さまざまな階梯がもっている)の価値を解釈する手法である。 これを、とくにキリスト教的・ヨーロッパ的な道徳に適用すれば、現今の道徳的判断は、頽落の、生の不信の徴候であり、ペシミズムを用意するものである。 私の主要命題。すなわち、道徳的現象なるものはなく、あるのはただこの現象の道徳的解釈にすぎない。この解釈自身は道徳とのかかわりあいのない起源のものである。 私たちが生存のうちへと矛盾を解釈し入れたということは、何を意味するのか?──決定的に重要なことは、すべてそれ以外の価値評価の背後でもあの道徳的価値評価が君臨しているということである。もしこの道徳的価値評価がやむとすれば、そのときには私たちは何を基準として測定するのか?またそのときには認識その他はいかなる価値をもつのであろうか???(権力への意志 第258番)』
『すべての価値評価にあって問題なのは特定の遠近法であるということの洞察。すなわちそれは、個人、集団、種族、国家、教会、信仰、文化の保存である。──一つの遠近法的評価があるにすぎないということが忘却されるおかげで、矛盾した評価が、したがって矛盾した衝動がすべてみなひとりの人間のうちに集まるのである。このことは人間が病気にかかっていることのあらわれであり、これに反して動物においては、持ちあわせの本能すべてがまったく特定の課題を解決するのである。 しかるにこの矛盾にみちた被造物はその本質のうちに認識という大いなる方法をもっている。すなわち人間は、多くの牽引するものnと反撥するものとを感じとり、公正へと高揚し、──善・悪の評価の彼岸で理解するにいたるのである。 最も賢明な人間とは、いわばあらゆる種類の人間に対する触覚を、しかもときおりその壮大な諧和の大いなる瞬間をもつところの、矛盾に最も富んだ人間でろう──私たちのうちにある高い偶然!一種の惑星運動──(権力への意志 第259番)』
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