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No13380 の記事


■13380 / )  Re[20]: ニーチェ 2.
□投稿者/ みのり -(2021/05/29(Sat) 16:35:13)
    No13359に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/05/29(Sat) 13:33:16 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    > ニーチェは別名「解釈の哲学」とも呼ばれています。ニーチェの意図するところもあるのですがアフォリズムには解釈の自由度があり、それも難解なひとつの理由になっています。通常、(宗教上の)ドグマというのは一義的でトップダウンで宗教によっては信仰対象にもなります。ニーチェはこのアンチテーゼ(反面教師)として自身のアフォリズムを想定しており、読者なりの解釈とか、さらに言えばアフォリズムに触発された新たな価値創造の余地を意図的に残していると思います。

    そういえば以前、少しニーチェについて教えていただいた際も、ニーチェは読者が自分なりの解釈をすることを許している、というような(表現は違ったかもですが)のを教えていただいたのを思い出しました。

    >前置きが長くなりましたが、そういうことで以下のカキコも(断定的には書きますが)パニチェ解釈でしかなく、間違ったり、曲解も大いにあると考えていただければ有難いです。質問や分からないとレスされた箇所のみ返信してみます。

    お手数おかけしました。ありがとうございます。

    > >>『「自我」──このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない!──まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない──それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。(力への意志第371番)』
    >>自我は概念的な綜合、という部分については言わんとすることが理解できるのですが、「それゆえ、利己主義からの行為など全然ない。」の部分が解りません。
    >>人間の行為で利己主義から出ているものはまったくない、という意味なのでしょうか。
    >>この部分について、よかったらパニチェさんに教えていただけると有難いです。
    >
    > キリスト教に限らず宗教では身体性(肉体)より精神性を重んじる教義が多いです。
    > そのため鞭打ちや苦行などで悪しきものとされる欲望の出所である肉体を苛めることによる自己鍛錬があります。

    はい。

    > ニーチェはこれを逆転させ自我も含めた意識や精神性は『意識。──意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であり、したがってまたその表面の最も未熟な、最も無力な部分である。(悦ばしき知識第11番)』や『きみが「精神」と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。きみの大いなる理性の一つの小さな道具ないしは玩具である。(ツァラトゥストラ)』と、意識や精神性よりも身体性を生が本来有するベクトルに沿った大いなる理性と考え重視します。よって自己は自我や意識などの精神性ではなく身体性であり、自我は身体性(本質)の大いなる(無意識的な)理性のもとに統一管理されたもろもろのもの(例えば本能的な反射や衝動)と同一(同列)ではない。

    まず、自己と自我というのは違うものだということですね。
    自己というのは身体性だとし、それを自我より重視している。
    ここについて、私は勘違いしていたので分かってよかったです。

    > 生や身体性は自己超克と自己拡大のベクトルがあり、異物を自らの内に取り込み、自らのエネルギーとして自己に同化させます。これは世界に意味や価値を付与し我がとするニーチェ的な認識論も同じです。
    > よって自我や意識から発せられる「利己主義」なんて「主義」「主張」などそもそもない、あるのは生と身体性の本来のベクトル(力への意志)だということ。
    >
    > 『人間が意志するもの、生ける有機体の最小の部分のすべてが意志するもの、それは力への増加である。・・・原形質は何か自分に抵抗するものを求めて、その偽足をのばす、──飢えからではなく、力への意志から。それに続いて、抵抗するものに打ち克ち、我がものとし、同化を試みる。──栄養と呼ばれるものは、より強くなることを意志するところあの根源的意志の後続─現象、応用にすぎない。(力への意志 第702番)』
    >
    > 『生存競争といったものなぞは、一個の例外にすぎない、生意志の一時的な制限状態にすぎない、ほかならぬ生の意志であるところの権力の意志のままに、大小の闘争が、いたるところで、優越を競い、成長と拡大を競い、権力を競って、おこなわれているのだ。(悦ばしき知識 第五書の349)』

    小賢しく生きるのではなく、ある意味本能に忠実に正直に生きるべし。
    そんなふうに言ってるように感じられます。
    え? ぜんぜん違うかな。。

    本能に忠実に生きるとは言え、我儘放題に生きるべし、ではもちろんなく、
    モラルは自分で守っていく、ということが同時に大切とニーチェは考えて
    いたとは思います。

    > >>2)「現象」の世界は調整されたものであるが、私たちはそれを実在していると感覚するのである。「実用性」は、等しい、既知の、似かよった事物がたえず回帰することのうちに、事物の論理化された性格のうちに、私たちはここでは計算し算定することができるとの信仰のうちにある。
    >>前半は解るのですが、「実用性」という言葉以降については解からないです。
    >
    > 世界の解釈と、それらを実用する(扱う、または使う)際には、われわれは異質なものを(言語によるラベリングでもって)等しくしたり、未知のものを既知に強引にあてはめることによって理解したり、同じようなものが同じようなものへと回帰(同化)しているかのような捏造や偽造、誤謬や錯覚も含めた解釈(価値創造)でもって論理化した上で、これらを計算したり算定することができるという、ある種の信仰(妄想)のうちにあるということ(そもそも世界には1=1なんてものはない)。
    >
    > 『いわゆる認識衝動は、専有・征服衝動へと還元されるべきである。この衝動にしたがって、感官、記憶、本能などが発達したのである(力への意志 第422番)』

    なるほど。私たちは世界のあらゆる事象を、分類したりラベリングしたりして
    実用性を持たせて生きていて、それがある種の信仰(妄想)というか過信にも
    なっている、というようなことを言ってるのかな、と。
    けっこう毒がある表現にも感じられますが、それがニーチェらしさなんでしょうね。

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