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No13321 の記事


■13321 / )  Re[17]: ニーチェ 2.
□投稿者/ パニチェ -(2021/05/28(Fri) 21:27:06)
    2021/05/29(Sat) 07:06:37 編集(投稿者)

    こんばんは、みのりさん。
    以下のアフォリズムを『ちくま学芸文庫 ニーチェ全集』より引用しておきます。
    あくまで参考になればということでの引用なので、返信はお気遣いなく。

    No13297に返信(みのりさんの記事)
    > 「自我は、概念を総合したものにすぎない」と『力への意志』371で書いているそうだ。
    > また、「鏡そのものを熟視しようと努めたところで、人間は結局のところ、鏡に写っているものしか見ることができない」と『曙光』245で書いているそうだ。
    > 「わたしたちが疑いもなく実在していると感じているものは、調整された現象の世界なのだ」『力への意志』569とも。

    『「自我」──このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない!──まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない──それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。(力への意志第371番)』

    『二つの方向。──もしわれわれが鏡それ自体の観察を企てるなら、われわれは結局鏡に映った物以外の何ものも見出さない。もしわれわれが物を把握しようとするなら、われわれはついに鏡以外の何ものにも到達しない。──これが、認識の最も一般的な歴史である。(曙光第243番)』

    『私たちの心理学的光学は以下のことによって想定されている。すなわち、
    1)伝達が必要であり、また、伝達のためには、或るものが、固定的な、単純化された、精密化されうるものでなければならないということ(なかんずく、いわゆる同一の場合において)。しかし、それが伝達のきくものでありうるためには、「再認識されうる」ものとして、それは調整されていると感覚されなければならない。感官の素材は、悟性によって調整されて、大まかな輪郭へと還元され、類似化され、類縁あるもののもとへと包摂される。それゆえ、感官印象の不明瞭さと混沌とかいわば論理化されるのである。

    2)「現象」の世界は調整されたものであるが、私たちはそれを実在していると感覚するのである。「実用性」は、等しい、既知の、似かよった事物がたえず回帰することのうちに、事物の論理化された性格のうちに、私たちはここでは計算し算定することができるとの信仰のうちにある。

    3)この現象の世界の反対は「真の世界」ではなく、混沌たる感覚の没形式的な定式化されえない世界である、──それゆえ、別種の現象の世界、私たちにとっては「認識されえない」それである。

    4)事物「自体」とはどのようなものであるかと問うことは、私たちの感官の受容性と悟性の活動性をまったく別としても、事物があるということを私たちはどこから知りうるのかと問うことに代わらなければならない。「事物性」は私たちによってはじめてつくりあげられたものである。問題は、そのような仮象の世界をつくる仕方はなお多々ありうるのではなかろうか──だから、現在いとなまれている創造し、論理化し、調整し、偽造するはたらきのみが実在的であるのではなかろうか、また、「私たちははたらきかける外界の作用」もそのような意欲する主観の帰結にすぎないのでなかろうか、と問うことである・・・他の「存在者」が私たちへと働きかけるのである。私たちの調整された仮象は、このものの諸作用の調整や征服である。一種の防衛策。主観のみが証明されうるものである、すなわちこれは、主観のっみがあるとの──「客観」は主観から主観へとはたらきかける一種の作用にすぎず・・・主観の一様態であるとの仮説。(力への意志 第569番)』


    PS.曙光第245番はナポレオンについてのアフォリズムで「鏡そのものを熟視しようと努めたところで、人間は結局のところ、鏡に写っているものしか見ることができない」というアフォリズムはありませんでした。第243番にそれらしいアフォリズムがありましたので参考までに引用しました。

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