□投稿者/ みのり -(2021/05/28(Fri) 14:28:16)
| 『生きるための哲学 ニーチェ[超]入門』白取春彦 著 を参考にさせていただいて、ニーチェについて少しずつまとめていくのの二回目。 道徳論に行こうかとも思ったのですが、興味深いものをみつけたのでちょっと止まります。
〈ニーチェにとって自分とは〉
人間は周囲の様々なものや事柄に意味と価値を与え、解釈することによって生きていて、同時に、そのようにしてしか自分を見出せない。 物や事柄があるから、それに関わる自己が生まれる。
「自我は、概念を総合したものにすぎない」と『力への意志』371で書いているそうだ。 また、「鏡そのものを熟視しようと努めたところで、人間は結局のところ、鏡に写っているものしか見ることができない」と『曙光』245で書いているそうだ。 「わたしたちが疑いもなく実在していると感じているものは、調整された現象の世界なのだ」『力への意志』569とも。
現象というこのリアルから誰も脱出することはできず、現象界の裏側に真実の世界などを描くことは妄想、とニーチェは考えた。
(感想)
物や事柄があるから、それに関わる自己が生まれる。 ここでの自己というのは、自分、自我の自分という意味だと私は解釈しました。
何かを見、何かに触れ、それに対して何かを感じ思う。 その何かが自分にとってどうであるか。 判断と価値づけが集積されたものを人は自分と呼んでいる、とニーチェは考えたのだと、ここも解釈しました。
実体としての自分としては自分を考えない、というのはヒュームなどもそうだったかな、と微かな記憶で思い出したのだけど(記憶違いかも、その際はすみません)、西洋哲学の中ではあまり多くはないのかもしれない。
ニーチェが、自分というものについてこのように考えているとは知らなかったので、けっこう驚いたというか親近感を持つ材料ともなりました。
現象という世界から人は逃れることはできない、真実の世界の有無は知りえないどころか妄想だ、とした。 こうした考え方をもってすれば、キリスト教に対して批判を向けていくのは自然なことだと思う。
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