| 中山元先生訳本第二巻p49 B93あたり
J. M. D. Meiklejohnさまによる英訳
The understanding was defined above only negatively, as a non-sensuous faculty of cognition. (知性は、感性によらない認識能力、とここまでは消去法的に表現してきた。)
Now, independently of sensibility, we cannot possibly have any intuition; (感性によらずに、直観を得ることはできない。)
consequently, the understanding is no faculty of intuition. (したがって、知性は直観の能力ではない。・・・感性だけが直観を得る能力を持つので)
But besides intuition there is no other mode of cognition, except through conceptions; (直観以外の認識要素とすれば、概念による認識しか残されていない。)
consequently, the cognition of every, at least of every human, understanding is a cognition through conceptions―not intuitive, but discursive. (人間にとって、知性とは概念による認識。 直観によってではなく、論証的・推論的に、概念による認識。)
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(pipitの感想) 自分の認識を観察したとき、 素材、と、思考 があるように思える。
五感によって現れてる直観、が素材で、 その素材についての思考、と。
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おもちゃのレゴで考えてみます。
@レゴの、バラバラの個パーツが素材。
A個パーツを組み立て、ある存在物を作る。(車、とか、テーブルとか)
Bその存在物を使って、命題文で表現されるような世界を記述する。(ストーリーの作成)
今のところの予想私見を書きます。
@が感性による直観を得ること、 Bが知性による命題文として記述できるような世界を得ること、 としてカントは考えてるのではないか、と。
そしてAが、想像力・構想力による、@の結合で対象としての存在物を作る工程ではないかと。
純粋知性概念は、Bに関わることである。 そして、 Aの取り扱いについて、第一版と第二版では変更されている、いや、変更されていない、と、様々な研究者が考察している箇所ではないかと。
間違ってるかもしれませんが、今の感想です。
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