□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/28(Sun) 18:44:08)
| pipitさま、お邪魔しちゃうね。
■11598 >別にいいでしょ?悪魔ちゃんは、pipitにお釈迦さまの教えを嫌え、とは言ってないよね??<
じぇーんじぇーん!そんなこと言ってないよ〜。ましていいもなにもないじゃん、好き嫌いって。好き嫌って、ご自由に、っていう感じがわたしの好みだし。
〈それは○○である〉っていうのを、わたし「判断」っていう名にしてる。 「それは真である」「それは偽である」「それは善である」「それは悪である」「それは好きである」「それは嫌いである」こういうのぜ〜んぶ「判断」ってしちゃってる、っていうこと。
わたし「真・偽」「善・悪」「好・嫌い」っていう判断にはそれぞれ〈独自性〉があるって思ってる。そうでなけれはこのようには分けられていなんじゃない?でなければ分ける意味ないんじゃない?
だから、それぞれのその独自性を認めたうえで、その連関性を見ようとするのわたし賛成なんだけど、このような判断のどれか一つににほかのものをすべて含めちゃうっていうの反対なのね。
「真偽」「善悪」を関係で見て見ると、「真は善である」「偽は悪である」、「善は真である」「悪は偽である」、ん〜ん、ありえそう。
ん〜ん、でもね、じゃこうのはどうかしら。「わたし、イチゴ好き」に、「それは偽である」とか「それは悪である」な〜んて言うヤツがいたら、わたし何言ってるの?大きなお世話、ってわたしなる。 あまりにしつこかったら、聞いちゃうよ。あんたの言う「真偽」ってなんなの?あんたの言う「善悪」ってなんなのよ?ってね。おそらく”だんまり”。たぶん。
で、逆に「真・偽」「善・悪」っていう判断を「好・嫌い」っていう判断から見たらどうかしら。「真は好き、偽は嫌い」「善は好き、悪は嫌い」って、なんかふつうに通用する気がする。あ、「偽が好き、真が嫌い」「悪が好き、善が嫌い」っていうばあいもあるかも。でもこのばあいでも「真偽善悪」ってなあに?っていうのが問題となってくるんじゃないかしら?
あ、ごめんね、な〜んかだらだら、長くなっちゃみたい。
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