| 原文調べてみました。 (わたしはドイツ語全然わかりませんけど、wikiから原文のってるページ開けるので、当たりつけて、グーグル翻訳使ったりして該当箇所探し出そうとしました。)
多分ですが、 『Man nennt solche Erkenntnisse a priori, und unterscheidet sie von den empirischen, die ihre Quellen a posteriori n□mlich in der Erfahrung, haben.』 が、 『ところでこのように経験から独立して生まれる認識を、アプリオリな認識と呼んで、経験的な認識と区別することにしよう。経験的な認識の源泉はアポステリオリである。すなわち経験のうちにその源泉があるのである。』と中山元先生が訳された箇所かな、と、思いました。
それで、もしそうだとすると、認識と訳されてる言葉は、Erkenntnisseですが、これ、、、 洞察や知見という訳語でて、
語尾を2つ削って、Erkenntnisで調べると、洞察、ナレッジ、エピステーメー、とかいう意味が出てきました。
それで、『語源から哲学がわかる事典』山口裕之さん著のp58に、 『つまり、哲学の対象となるのは、学問的に正しい知識なのである。この「正しい知識」のことを、英語ではknowledge、ギリシア語では「エピステーメー」と呼ぶ。この言葉は、哲学用語としては「認識」と訳された。 なので、哲学の文献で「認識」という言葉が出てくれば「学問的に正しい知識」という意味であり、「認識する」といえば「正しく知る」という意味である。』 とありました。
ちなみに、辞書コトバンクで、『エピステーメー』調べると、 2つ意味が出てて、そのうちの1つが、 『知識。ドクサ(臆見。根拠のない主観的信念)に対して、学問的に得られる知識。』 とありました。
『純粋理性批判』の英訳でも、認識はknowledgeと訳されてる箇所があるのをわたしは覚えています。 ただカントは、ひとつの単語を厳密に同一的に使わないこともあるようなので、単語で意味を見ながらも、文脈でも意味を捉えなくてはいけないかもと思いました。
とりあえず、『序論』冒頭の有名な箇所を引用します。 『Da□ alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange, daran ist gar kein Zweifel; 』 『わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。』(中山元先生訳)
ここでも、認識と訳されてる原語は、Erkenntnisで、私の持ってる英訳ではknowledgeという訳語が選択されていました。
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というわけで、悪魔ちゃんさんの問いの、 カントは認識ってどんな意味で使ってる?に私が今の段階で思うことは、
「学問的に正しい知、かなぁ、間違ってたらすみません。」です。
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