| マクタガートにおける変化とはA系列の変化である。未来の出来事が現在に移動しそして現在から過去へと移動していく。これが変化だ。それに対してラッセルは変化を物の性質、状態の変化としてとらえている。それはB系列のみで変化を認識できるという考え方だ。真理値(真である/偽である)の交代で「変化」を捉えることである。「火かき棒は熱い」から「火かき棒は冷たい」への変化はこうなる。「時点tで火かき棒は熱い」は真であるが、「時点t′で火かき棒は熱い」は偽である。真理値のこのような真から偽への交代によって「変化」を捉える。 B系列=A系列+C系列なのでどの時点も現在であり、ある時点より前の時点は未来であり後の時点は過去である。われわれが今この時点を唯一の現在とする根拠はない。するとB系列は変化を含んでいることになる。 アウグスティヌスが 「三つの時間すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するというほうがおそらく正しいであろう。じっさいこれらのものは心のうちにいわば三つのものとして存在し、心以外に私はそれらのものを認めないのである。すなわち、過去のものの現在は記憶であり、現在のものの記憶は直覚であり、未来の現在は期待である」(『告白』岩波文庫p.123) で述べているようにすべてが現在である。 永遠の「現在」という概念は二つの存在の仕方があるのである。ひとつはB系列はどの時点も現在だから変化のない映像フィルムとして永遠の現在とみなす見方とつまりはラッセルの見方と、もう一つは未来や過去を主観とみなして現在のみを実在とみなす永遠の現在という見方つまりはアウグスティヌスの見方がある。前者は決定論的運命を示し、後者は非決定論的自由意志を示している。
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