| 我々の行動はかなり遺伝子に規定されているように思えるが、本当にそうだろうか。我々が教室で学ぶ場合黒板に書かれた文字は遺伝子の中に組み込まれているわけではない。本を読む場合分厚い本の文字はあらかじめ遺伝子の中に書き込まれているわけではない。遺伝子にはない外部から吸収して成長していくという面がある。それが意志だろう。遺伝子に規定されない外部の文字をあるいは経験を学習していく意志の側面が独立して存在しているようだ。遺伝子という環境に規定されない自由意志が存在しているのは明らかだ。ただ意志に弱い、強いの度合いがあるのも事実だ。不可抗力と思える環境に押しつぶされていく人間、それをはねかえして肥やしにして成長する人間、実に様々だ。定石がない、ということか。環境につぶされそうになったとき、誰かに助けを求めるというのも賢明だ。自力も他力も混然一体となって道を切り開く、ということかもしれない。ヒュームの経験論による因果説も恒常的連接を主観的必然性と考えると主観性ゆえに自由意志の可能性が開く。ヒュームは同意しないかもしれないが、自由意志は習慣を変えることができるゆえに、必然性に規定されない。
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