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■2077 / inTopicNo.25)  Re[69]: 永遠
  
□投稿者/ rest -(2019/11/15(Fri) 09:18:42)
    西脇順三郎詩集(現代詩文庫pp.72-73)

    「意識は過去だ
     意識の流れは追憶のせせらぎだ
     時の流れは意識の流れだ
     進化も退化もない
     変化するだけだ
     存在の意識は追憶の意識だ
     「現在」は文法学者が発見したイリユージョンである。
     「話す人」の位置だ
     永遠は時間でない
     時間は人間の意識にすぎない
     人間に考えられないものは永遠だ」

    「進歩といっても単に
     回転するだけだそれもやがては
     太陽とともに回転しなくなる
     でも永遠は永遠にのこる
     ヒョウタンも人間もムギも
     エーテルもアトムもなくなる
     だがすべての物質がなくなるとも
     永遠だけはのこる
     永遠はただ一つの存在で
     存在の根元として残る
     永遠という意識は人間の
     脳髄にのこされた宝石だ」(同著pp.98-99)


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■2074 / inTopicNo.26)  ありがとうございます!
□投稿者/ pipit -(2019/11/13(Wed) 12:34:37)
    返信ありがとうございます!

    rest先輩の書き込み内容はもちろん心に来ますが、
    それとは別頭で、カントの論文の題名にもグッと来ます !!(◎_◎;)

    >『――イマヌエル・カント『生きた力の真の査定についての考察』<

    そういえば解説本で時々目にした題名の論文だろうなぁ。。。

    と、本題に戻りまして、

    > 私はカントの書いた一言一句を無批判に信奉するものではありません。その意味ではカント主義者ではありません。しかしカントの上述のような批判精神を受け継ぐ者という意味では私はカント主義者です。<

    了解です (^ ^)ゞ
    御子柴善之先生も、『自分で考える勇気』という題名のジュニア向けの新書を出されていたのを思い出しました。

    >哲学者というのはだれかれの哲学者のエピゴーネンになることではありませんね。真理を探究することが第一です。そしてその真理は汝を自由にするのです。真に自由になるためにこそ真理を探究するのです。<

    はい!
    忘れがちなことも多々ありますが、
    私も、私自身で、この人生の中で真理を知りたい!!!、と、今は思ってる、ってことを、自分で時々確認するようにしたいです。
    でも、煩悩があるからかなぁ、カントのこと勉強したいと思ってしまいます。

    わたしは、カント哲学の解釈では、rest先輩と違う解釈することがいっぱいありますけど、
    restさんの穏やかなところとか尊敬しています。

    ありがとうございます、おつかれさまです (^O^)/

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■2073 / inTopicNo.27)  Re[67]: 乱入、おじゃまします〜
□投稿者/ rest -(2019/11/13(Wed) 09:14:56)
    哲学者富田恭彦の著書の孫引きですが

    「私は書物を委ねる世の人々が、私が失礼を顧みず偉大な人々に異議を唱えてみても、それが罪とみなされることはないとご判断くださるものと確信している。かような冒険的な企てを大いに恐れなければならない時代がかってあったが、それは過去のことであり、幸いにも人間知性は無知と崇拝がかつて人間知性に課した束縛からすでに脱却したと私は思う」
        ――イマヌエル・カント『生きた力の真の査定についての考察』序言より

    私はカントの書いた一言一句を無批判に信奉するものではありません。その意味ではカント主義者ではありません。しかしカントの上述のような批判精神を受け継ぐ者という意味では私はカント主義者です。哲学者というのはだれかれの哲学者のエピゴーネンになることではありませんね。真理を探究することが第一です。そしてその真理は汝を自由にするのです。真に自由になるためにこそ真理を探究するのです。
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■2071 / inTopicNo.28)  乱入、おじゃまします〜
□投稿者/ pipit -(2019/11/12(Tue) 19:43:36)
    rest先輩、こんばんは!

    rest先輩は、哲学者ではカントが好きなのですか?
    他の哲学者で、この哲学者、いいな〜と思われる方はいますか ?

    好きな作家とかはいますか ?
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■2063 / inTopicNo.29)  Re[65]: 時間の概念2
□投稿者/ rest -(2019/11/10(Sun) 13:43:28)
    2019/11/10(Sun) 13:56:32 編集(投稿者)

    ただし私は時間は実在しないものと考えている。時間は社会的約束事でしかない。日周運動という太陽の位置変化は現在進行形においてなされているものであり、現在以前の過去は記憶として残っているだけであり、過去の痕跡はどこにもみあたらない。宇宙に光の痕跡として残っているのではないか、というが曇りの日には過去の経験としての光は宇宙には出ない、ということから宇宙には過去の痕跡はない。ミンコフスキー空間のような四次元空間も仮説としては成り立つが証明されたわけではない。むしろカントのいうように空間は唯一無二の三次元空間しかないとするのが日常経験に合致する。ミンコフスキー空間では未来も過去と同様に実在するという立場に立つので自由意志の存在根拠を失うことになる。カントの過去や未来は空間としては存在しない。だからこそ自由意志が存在でき、自由に未来を選択しあるいは選択するものがなければ新しく未来を造り出すことができるのである。
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■2062 / inTopicNo.30)  Re[64]: 時間の概念
□投稿者/ rest -(2019/11/10(Sun) 13:06:33)
    時間という概念は一日の概念から始まっている。一日という時間は太陽の日周運動から派生している。時間という概念は日周運動の経験なしには成り立たない。
    朝が来、日が沈む、という単純な時間概念が経験から形成され、日周運動によって一日の時間概念が形成され、それが恣意的に24時間に細分化された。日時計が造られ、時刻をその位置から細分化する。
    現在の時刻よりも前の時刻を過去とし、現在よりも後の時刻を未来とする。いわばマクタガートのA系列の時間である。B系列の時間は日周運動の順による数え方によって形成された。総じてカントのいうようなアプリオリなものではなく経験的なものである。先祖の誰かが経験から概念化したものを子供の頃から受け継いでいるのでアプリオリと勘違いしたのだろう。ちょうどミョウバンの三角形の結晶の経験から先祖が概念化した三角形の概念をアプリオリと勘違いしたのと同じだ。
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■2034 / inTopicNo.31)  Re[63]: 空間はアプリオリか経験か
□投稿者/ rest -(2019/11/03(Sun) 12:05:34)
    2019/11/04(Mon) 23:42:26 編集(投稿者)


    空間もアプリオリな直観の基本形式とされているが、これもおかしい。
    物と物の間には何もない空間が存在するという経験を通してはじめて空間は認識されるのではないか。その延長上に空間一般という認識が形成される。三次元の空間も経験としての空間がないと成り立たない。

    犬が歩くという経験を人に置き換えてみよう。Aという人が歩くという経験はAの自由意志によって主体的行為としてなされたものであり、私の超越論的主観によって、つまり私の意志がAの歩くという経験を造り出す主体ではないのである。あくまで私の超越論的主観は表面的に表象として経験を構成しているに過ぎない。歩くという経験の主体はAなのである。物自体としてのAが主体なのである。超越論的主観の私が経験の主体ではない。物自体の触発によって経験を構成しているに過ぎない。
    「われわれは物自体がどんな状態にあるのか知らず、ただその現象、すなわち、われわれの感性がこの知られない或る物によって触発される仕方だけを知るのである。そのようにして、悟性は現象を容認する、まさしくそのことによって、物自体の存在も承認する」(カント著『プロレゴーメナ』中央公論社pp.102-103))
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■2030 / inTopicNo.32)  Re[62]: 時間はアプリオリか経験か
□投稿者/ rest -(2019/11/02(Sat) 10:22:09)
    総合的判断によって正しい認識が得られる三つの契機のうち一つが時間という形式であるが、それは経験を可能とする形式、いわゆるアプリオリな形式とみなされている。時間は太陽の日周運動を基準にしたものだが、一年後の未来は日周運動が365回行われるという経験によって確認される。つまり経験を可能にする形式としての時間は経験を前提とするという矛盾が生じアプリオリな形式が成り立たないことがわかる。

    犬が歩くという経験を表象として構成しているのが超越論的主観であるが、犬の物自体として歩く行為、つまり移動中の犬の物自体を構成しているわけではない。したがって経験を構成しているというのは表面的なものであり、神のように経験を成り立たせるというふうに考えるのは無理がある。あくまで経験の主体は物自体であり、それが経験を造り出すのであり、超越論的主観は経験を造り出すのではなく、経験を表象としてして構成しているにすぎない。プロレゴーメナの「触発」の意味もその辺にあるのだろう。
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■2005 / inTopicNo.33)  Re[61]: 因果関係と恒等関係
□投稿者/ rest -(2019/10/29(Tue) 09:22:30)
    私は買い物に行きます、というときその原因は何かという問いは普通しない。時計が壊れた、というときその原因は何かという言い方はする。つまり原因を問う、というのは何か問題があったときである。水道の蛇口から水もれがする。その原因はパッキンの破損ないしはさびた金属の破片やごみがはさまれていたりする。原因を問うのは何か問題が発生したときと決まっている。航空機事故の原因はとかそういう問題が生じたときに使われるのが原因だ。何か問題が起きた時その責任を追及する、という仕方が原因の意味である。カントは責任主体を人格と呼んだが、原因追及は責任追及と酷似している。その結果をもたらした者は誰か、と類似した形で原因を追及する。
    原因をアプリオリな悟性的カテゴリーとしていまえばそれ以上の追及はできないいわばブラックボックス化してしまう。因果は発見なのかあるいは発明なのか、前者がカントであり、後者がヒュームである。アプリオリとなると結局思考停止に陥ってしまう。それ以上は追及できないからだ。しかし理性はもっと自由に推理してもいいのではないか。物自体を自由に推理するように。
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■1971 / inTopicNo.34)  Re[60]: 因果関係と恒等関係
□投稿者/ rest -(2019/10/23(Wed) 23:40:11)
    > 因果関係は行為の責任主体としての自由意志の責任を問う、という追及の仕方を自然現象にまで投影したものである。発熱の原因を、ある特定の病原菌を責任主体として疑似人間のように扱うことによって糾明するのである。人間の投影である以上それに属さない現象もでてくるのが自然だ。なぜなら自然は人間中心に造られていないからだ。恒等関係もそうだろう。総じて因果性はアプリオリといえないかもしれない。しかしだからこそ逆に自由意志の可能性は拡がるともいえる。

    発熱の原因である病原菌は発熱を目的に意図的に、それこそ責任主体として登場してきたのではなく、ただ弱肉強食の自然の法則に従って人間の体に忍び込んできたに過ぎない。時計が壊れたのはある部品が原因だがその部品が意図的に責任主体として壊したのではなく、自然現象として部品の寿命がきていたり、あるいは自然現象として部品がさびていたりする。つまり疑似人間として責任を追及するところの原因というのはわれわれ人間の側の勝手な価値判断であって、客観的に因果という法則が存在するわけではない。因果性が成り立っているのは人間の都合である。
    発熱は病原菌が捕食の過程で生じた身体の反応である。ある意味ヒュームの恒常的連接に近いかもしれない。カントのアプリオリを信じてみたい気もするがどこか無理がある。カントは第一原因を自由意志としているが、原因という概念を造っているのが自由意志なのであってつまり因果概念の主体であって、因果の法則に従うものではない。もっと因果から自由になってもいいのではないか。
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■1960 / inTopicNo.35)  Re[59]: 因果関係と恒等関係
□投稿者/ rest -(2019/10/20(Sun) 01:05:37)
    2019/10/20(Sun) 11:29:22 編集(投稿者)

    自然の事象を捉える場合、因果関係だけで見るのは一面的過ぎる。もう一つの見方がある。恒等関係だ。因果関係は時間的に継起的だが、恒等関係は同時的である。
    磁石のN極とS極の関係もそうだ。N極とN極は反発し対立しあうがN極とS極は親和的で結合する。個性原理もそうだ。同じ個性だと反発しあうが、個性が違うと親和的だ。これらの二つの現象に因果関係はない。同業種の企業は対立競争するが、異業種の企業は親和的である。第三類推の同時性も因果関係に収れんするので該当しない。二つの現象の関係は因果関係ではなく、数学的恒等関係である。因果では語れない事象があるということである。構成的原理か統整的原理かというと個別の経験的現象を全体として恒等関係として捉える統整的原理といえる。
    因果関係は行為の責任主体としての自由意志の責任を問う、という追及の仕方を自然現象にまで投影したものである。発熱の原因を、ある特定の病原菌を責任主体として疑似人間のように扱うことによって糾明するのである。人間の投影である以上それに属さない現象もでてくるのが自然だ。なぜなら自然は人間中心に造られていないからだ。恒等関係もそうだろう。総じて因果性はアプリオリといえないかもしれない。しかしだからこそ逆に自由意志の可能性は拡がるともいえる。
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■1951 / inTopicNo.36)  Re[58]: 必然性と自由
□投稿者/ rest -(2019/10/14(Mon) 00:14:44)
    このコップはじっとしている。因果性のカテゴリーはこの先もじっとすることを予測する。ところが私が動かそうという意志によって動いてしまう。つまりこのコップの必然性は途中で途切れてしまった。私の自由意志はこのコップの位置を変えることができる。トータルとしての自然は必然性ではないことがわかる。
    同じように独裁体制の続く国家は必然性であるようにじっと固定しているように見える。何もさわらなければそのまま自然状態としてその体制は続く。しかし人々の自由意志がこの必然性を途中で途切れさせることができる。それが市民革命だ。
    ヒュームのいうように必然性とは慣習による恒常的連接に過ぎないのかもしれない。慣習が変われば恒常的連接も変わらざるを得ない。カントのアプリオリな悟性のカテゴリーという見方も可能(第二類推)だが、第三アンチノミーにおいて自然因果性を自由因果性と対立するという見方はやめて、トータルとして人間の自由意志が存在するかぎり自然因果性は必然性ではないことを自覚すべきだろう。
    地球環境問題は自由意志の負の側面として捉える必要がある。平均気温1度強の上昇は平均に騙されてはいけない。夏場の気温が50度近く異常に上昇しても冬の気温がマイナス49度に下がれば平均は1度上昇ということになってしまう。だから平均しかみていないと現実を見誤ってしまう。異常気象の問題は平均の問題ではないのだ。それは地球という自然に働きかける自由意志の負の側面として自覚し、厳しく反省しなくてはいけない。反省こそ人類と動物を区別するものであり、反省こそが人類に進歩をもたらすものである。
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