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■37282 / inTopicNo.1)  Re[27]: つれづれなるままに 14
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/11(Sat) 16:04:46)
    No37281で見たように、
    わたしの語の使い分けや、フッサールの言う「他者経験」と「他我問題」や「独我論」とをごちゃまぜにしないように、気をつけたところ。
    で、
    「他者経験」について、なんだけど、
    これについては、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、第50節、第51節、第52節のところを読み返していた。

    次からは、ここんところからわたしが抜粋したところをまず書いて、そのあと、それらのわたしの見方を書いてくことにするね。

    ちなみに、ちょっと書いとくと、
    第五省察 超越論的な存在の場をモナドの間主観性としてあらわにする(p161〜)
    は、
    第42節 独我論という非難に対抗して、他者経験の問題を呈示する
    から始まってて、そのなかに、
    『さて、新しい省察を始めるにあたって、一見すると重大であるように見える一つの非難を手がかりにすることにしよう。・・・・
    省察する自我である私が、現象学的な判断停止(エポケー)によって、絶対的で超越論的な我(エゴ)へと還元される時、わたしは独我(ソルス・イプセ)になってしまうのではないだろうか。現象学という標題のもとで一貫した自己解明を行っている限り、私は独我(ソルス・イプセ)に留まるのではないだろうか。それゆえ、客観的な存在の問題を解決したつもりになって、もう哲学として登場しようとしている現象学は、超越論的な独我論という烙印を押されるべきではないだろうか。〔こう非難されるわけである。〕・・・』
    ってある。(〔 〕内は訳者による補足説明ね)

    フッサールのいう「超越論的」っていうの、
    No37157で見たように、わたしのばあい「純粋」ってして見てるから、
    〈現象学は、純粋な独我論という非難があった〉――のかな?って。 
    わたしここらへんよく知らないけど。

    つづく

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■37281 / inTopicNo.2)  Re[26]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/11(Sat) 15:55:29)
    な〜んかいろいろお喋りしてきたけど、
    No37109の資料の中に出て来る「私」にまつわる語についての、わたしのだいたいできたところで、

    つぎに、フッサールの言う「他者経験」について見てくことにするよ。

    あ、その前に、わたしの、ちょっと書いとく。
    「私」っていう語に対しては、「他者」って言う語を使うことにした。
    「他人」でもいいんだけど、そうすると「私人」ってしなくちゃだから、ひょっとヘンな感じだし。
    あと、「他者」って言うの、一般には「私」に対して「他の人」のこと、だから、「人」のことを指す語ね。
    「他者」は、広い意味で、私の外にあるものすべてのもの、たとえば、「ヒト科」に対して「他の動植物(たとえばイヌやネコや草木)」や、「物体(たとえば石や包丁)」っていうのも指すばあいも考えられるんだけど、これはそういうのはちょっと横に置いとくことにする。

    「他我」っていうのあるけど、これ〈他者の考える我〉ってしわたし見るから、ようするに他者の意識のなかのことを言い表している、ってして見てる。だからわたしのばあい、「他者」と「他我」はちょっと違うく見てる。
    「私」とか「他者」っていう語は、〈意識(精神)〉と〈身体〉の両方を指していて、「他我」っていうのは、意識(とくに考えることする意識の領域)の方だけを指してる、ってして見てる。

    「他我問題」って言うのあるみたい。
    改訂新版 世界大百科事典 からのをちょっと書いて見るね。
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。例えば,友人と赤の交通信号を見る。そのとき私と友人の赤の感覚は同じだろうか違うだろうか。あるいは,友人はそもそも何かの色を感じているのだろうか。それを直接にテストする方法はありえない。私は友人ではないからである。しかし間接的方法ならある,というのがこの〈他我問題〉での類推説である。・・・・
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。なんか難しそうだけど、わたし見たのは、
    私の心や〈他人の心〉は存在する、これ前提となってて、でも、それを知ることができるの?とか、「それ」の私の感じと他人の感じは同じ?みたな問題なんだと思う。

    「独我論」っていうのあるみたい。
    精選版 日本国語大辞典 に、
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    〘名〙 (solipsism の訳語) 自我とその意識だけが実在し、いっさいのものは、自我の意識のなかに存在するにすぎないとする立場。独在論。唯我論。
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。
    「独我主義」、これって人によってその捉え方が違うのかもしれないけど、この解説からだでけで見たわたしのは、
    「自我」を〈考えることする自〉ってしてるから、
    〈考えることする自〉とその意識(考えることする領域の意識)だけがが実在し、いっさいのものは、〈考えることする自〉の領域という意識のなかに存在するにすぎないとする立場。〉
    っていうことになるのね。

    いづれにしても、「他我問題」や「独我論」は、意識についてのお話しだと思うんだけど、フッサールの「他者経験」っていうのは意識だけじゃなくて身体も含めて「他者」って言うふうにわたし見てる。

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■37278 / inTopicNo.3)  Re[25]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/10(Fri) 20:11:21)
    「既存」ってあるよね。
    その既存のなかで「生きのびる」っていうのあるよね。

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■37276 / inTopicNo.4)  Re[24]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/10(Fri) 18:33:11)
    No37239は後でわたしのお喋りのなかで、またでてくるかも、っていうことで書いとくことにしたのね。

    フッサールが見てるような、
    〔能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕
    ここ、問題となるとこかも?

    わたしのつぎの話題、「他者経験」についてなんだけど、しばらく『デカルト的省察』を読み返してて、わたしの見方がだいたいできてきから、後で書くね。

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■37239 / inTopicNo.5)  Re[23]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 18:43:55)
    No37238のつづき、
    【「現象学事典」弘文堂2014】にあったの、前にも一部書いたと思うけど、今回は全部書いとく。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    受動的総合/能動的総合 [(独)passive Synthesis/aktive Synthesis]
    フッサールにおいて総合は意識の原形式であり、その特徴は「流れ去る多様の統一」と規定される。サイコロという統一的対象の知覚は、どの側面から、どの距離で、どの光のもとで、見るか(さらには、どのように触れるかなど)に応じて変化する多様な現れ方を通して、その総合として成立する。この知覚したサイコロをのちに想起するときにも、かつて知覚したサイコロと同一のサイコロの想起であるという同一性の意識は総合にとってつくり出される。こうした個別的意識体験の総合が可能になのは、もともと意識生の全体が総合的に統一化されているからである。この普遍的総合の根本形式はすべてを包括する内的時間意識である。「能動的/受動的」という発生的現象学の基本概念は、以前から使用されていた「顕在的/潜在的」「主題/背景(地平)」などの対概念を力動化したものである。自我はいま見えているサイコロの面前を主題として顕在的に意識していると同時に、裏面を背景として潜在的に意識している。この区別の根拠は自我の関わり方の相違にある。「能動的/受動的」の区別も同様であり、能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。
    能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。受動的総合の基底をなすのは内的時間意識による時間構成であり、キネステーゼによる空間構成とともに総合の形式条件を形成する。実質的条件をなすのは連合法則に従う布置形成である。布置形成によって図と地が分化し、地から浮き上がった図が自我を触発する。自我は図に注目して把握的に対向する。それが触発の受容であり、能動性の最低段階をなす。受動的総合と能動的総合の境界線はここに引かれる。把握する、解明する、関係づけるなどの低次の能動的総合を超えた、数える、述定するなどの高次の能動的総合においては、数や述定的事態がなどのイデア的対象が産出される。能動的総合は作用としてはまもなく過ぎ去るが、その成果は自我極に沈殿し、習慣として妥当しつづける。習慣は第二の受動性として、より高度の能動的総合の土台となる。したがって、すべての能動性に先立つ受動性と能動性に由来する受動性が区別される。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    わたしのばあい、
    「自我」を〈考えることする自〉ってしてて、「能動的総合」を〈考知性〉、「受動的総合」を〈感知性〉って言うことにしてるから、

    〔能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕
    の部分、わたし的に言うと、
    《〈考知性〉はとくに〈考えることする自〉的な作用であるに対して、〈感知性〉は〈考えることする自〉の関与なしに〈自ずから〉生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。〈考知性〉はすべて〈感知性〉を土台にして行われる。》
    ってなる。
    〔おのずから〕を〈自ずから〉ってして見たよ。

    ここに出てくる、「内的時間意識」、「触発」、「自我極」っていうの、今回の資料にも出てくるんだけど。
    「キネステーゼ」っていうのは、
    No37189でちょっと書いた。

    現象学に関心がに人にはどうでもいい話しなんだけどね。

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■37238 / inTopicNo.6)  Re[22]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 15:54:52)
    No37237の感想ね。

    「先-自我的」、「間モナド的」、「先-対象的」、「先-反省的」、「先-言語的」ってあるんだけど、

    (a)の「先-自我的」っていうの、わたしのばあい、〈考えることする前の自〉って見るし、「先-反省的」の「反省」っていうのはたぶんデカルトのだと思うから、だいたい同じようなことなんだと思う。

    (b)にある、
    「間モナド的」は、
    No37183で見たように
    〈間にある、具体的な、生まれつき備わってる、ななかだちする領域的〉、ってなるんだけど、なんか分かりにくい。
    〔受動的で先-自我的な間モナド的原コミュニケーション〕ってあるから、
    〈受動的の領域で、考えることする前の自のような、なかだちする領域での原コミュニケーション、って見たらいいのかな?

    あと、「先-対象的」っていうの「非対象的な他者性」と関連してるようにも見えてて、これ、
    No37211で見たような、「対化」、「非対象化的・非主題化的」を想い出す。

    (d)の「先-言語的」からは、
    No35001の、
    〔フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。〕みたいなのを想い出してる。

    「受動的総合」ってあるけど、次にちょっと書いとくことにする。

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■37237 / inTopicNo.7)  Re[21]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 14:17:12)
    No37109の資料のから見てるんだけど、
    No37236で(5)からのを少し書いたから、つぎに資料(6)のからのを少し書いとく。

    〔フッサールの発生現象学は、20年代からのフッサール現象学の展開を決定づけているが、その内容と方法は、いまだ明確になっていない。この領域は、次第に明らかになっていったという領域そのものの開示のプロセスをもつ。その際、最も重要な契機となったのが、時間構成の分析と、時間内容に重点を置いて深化した時間分析でもある、20年来展開した「受動的綜合の分析」である。この展開に関して興味深いことの一つに、最近公刊された、『時間意識についてのベルナウ草稿』執筆期である1917/18年に、受動的総合の分析の端緒が見出されうることである。〕

    って言うことみたい。

    これもフッサール現象学を研究している人の論みたいなんだけど、やっぱわたしには難しくてよく分かんなかった。

    (6)の中には「原-自我(Ur-Ich)」って言う語は出てきてないんだけど、「先-自我」っていうのが出てきてるところを書き出して見ると、

    ・・・・・・・・・・
    (a)〔間モナド的共同化の能動的な感情移入において、ある人格が他の人格に人格全体で向かうことによって「我と汝の合致」
    が生じうる。しかし、そこでは、自分自身の行動を客観視し、対象化する理論的で反省的態度は、決定的な役割をはたしてはいない。能動的間主観性を基づける受動的で先−自我的な間モナド的原コミュニケーションにおいては、いまだ自我極もそれに相関的な対象極も形成されてはいない。しかも、重要なのは、この能動的相互主観性の頂点に位置する「我と汝の合致」においては、形成ずみの自我極と対象極としての汝が消滅し、融合する、ということである。〕

    (b)〔原初的な流れる先−自我的で先−対象的な時間化において、形式と内容が不可分離に生じているのと同様に、主観的形式と客観的形式の不可分離性は、我と汝の合致にも妥当するのであり、そこでは他者性に帰属する具体的内容が、非対象的な他者性へと転化しているのである。〕

    (c)〔我と汝の合致の超越論的可能性は、対象化する主観と対象化された客観の亀裂の克服である。〕

    (d)〔我と汝の合致が、発生的現象学による、無意識的に働き、先−反省的で、先−言語的に働く自己中心化と身体中心化の発生の解明なしには、その達成が難しいのも当然であるといえよう。〕
    ・・・・・・・・・・

    これについてのわたしの感想は後で。

引用返信/返信 削除キー/
■37236 / inTopicNo.8)  Re[20]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 10:41:29)
    きょうもお喋りしちゃうよ〜

    No37233のつづき

    いまの話題は、フッサールの言う「原-自我(Ur-Ich)」っていうの、どういうかな?ね。

    No37109の(5)のを少し。

    〔一般にフッサールの発生的現象学は、1920/21年に始まる「超越論的論理学」講義をもってその成立とされる。他方、発生的現象学という方法論の発見あるいは自覚と連動して、「自我」をめぐる思索もまた新たな深まりを見せた。『ベルナウ草稿』は「純粋自我」についての比較的まとまった新たな分析を含むことになった。〕
    ってある。
    わたしのばあい、
    ここにある「自覚」っていうのを、〈自に目覚める〉ってして見るのね。
    「自我」っていうのを、〈考えることする自〉ってして見るのね。
    「純粋自我」は、〈考えることする純粋な自〉ってして見る。
    こうみたとき、『ベルナウ草稿』あたりからフッサールの自我は、〈自〉への思索へ、って見ちゃったりして?

    〔純粋自我に関する限り、その原初的発生がそのまま時間的構成であるとは限らなない。〕
    〔以下の論考では、純粋自我の原初的発生と時間的構成が事柄として別ものであるという可能性に立脚しながら、問題を再構成しつつ、‥‥「内的時間意識」と「原-自我」との間の関係を規定し直すことで、フッサールが原-自我の発見とともに辿り着いた境位を明らかにしたい。〕
    っていうことみたいなんだけど、わたしにはよく分かんなかった。
    「内的時間意識」っていうの、【「現象学事典」弘文堂2014】のなかにあったけど、話がごちゃごちゃしてくるからここでは触れないよ。

    わたしがいちばん気になったのは、
    〔自我は「存在者ではなく、むしろ全ての存在者にとって対を成すもの(Gegenstück)」であり、「一つの対象ではなく、全ての対象性にとっての原象(Urstand)」であると言われる(Ibid.,S.277)。このような「原象」としての自我を、フッサールは便宜的に「原-自我(Ur-Ich)」(Ibid.S.286)と呼ぶ。この呼び名が便宜的である理由は、自我は「本来、自我と呼ばれるべきではなく」、「名無し(das Namenlose)」であるからだ(Ibid.S.277f.)。1931年のフッサールの草稿から引用すれば、「機能する自我は、それが機能しているときには匿名的」(Mat.V111,S.53,vgl.auch S.2,7,338)なのである。〕
    っていうところ。
    もうこうなると、「原-自我(Ur-Ich)」、「私(Ich)」、「自我(Ich)」――「私」、「自我」、「Ich」、もうごちゃごちゃになってる感じ。
    もし、「原-自我」っていうのが、人称的な「私(Ich?)」って言うのもでもなく、「自我」って言うでもないんだったら、こういう語を使わず、なんか“そのようなもの”に、別の名前をつけた方がいいんじゃない?って、わたし思うけどね。
    フッサールは、デカルトのやカントのをひきずっていたからかも?ね。

    資料(5)には、「原-自我(Ur-Ich)」、他にもっと書いてあったけどなんかめんどくさくなってきたから書き出すのやめとく。

    (5)からのはひとまずこれだけにしとく。

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■37233 / inTopicNo.9)  Re[19]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:08:02)
    今日はもうちょっと

    No37217で、「自我」、
    No37231で、「自己」(資料の中では、っていうことでね)、
    わたしの目安が出来たところで、

    資料の中をのぞいていって見る。

    No37109の(3)で、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    〔現象学にとって他者が困難な問題となるのは、他者が他者についての私の経験として、〈省察する私〉の反省の俎上にのせられてしまい、〈省察する私〉そのものとの関係で問われることがないからである。フッサールは、『イデーンT』や『省察』において曖昧であった〈超越論的自我〉と〈省察する自我〉との関係に関して、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1954)において、徹底的に首尾一貫した判断中止について言及している。そこでフッサールは、これまで「私の」という人称的意味を密かに冠していた〈超越論的自我〉を「原自我(Ur-Ich)」と呼び、規定し直すのである。フッサールによれば、それは他に呼びようがないので曖昧なまま「私」と呼ばれていたが、それ固有の意味では、「私」という人称的意味をもたない自我極として規定されるものである。〕
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    〈超越論的自我〉、この〈超越論的〉っていうの、
    No37157で見たように、〈純粋〉とも言っていいのかな。
    簡単に見て、
    〈超越論的(純粋)自我〉って呼んでいたもの、後で「原自我(Ur-Ich)」って、言い変えた、っていうことなのかな。
    そして、このような「自我(原自我)」っていうの、どうやら、人称的意味の「私」っていうんじゃなくて、って、いうことなのかな。
    ってすると〜、資料(3)の、「私・自我(Ich)」っていうの、じゃないんじゃないの?ってわたし思うけど。

    ここに〈省察する自我〉ってあるけど、わたしの見方では〈省察する考えることをする自〉っていう言い方になるかな。
    そして、その前の(原初の)自、こういうのを、フッサールは「先-自我」とか「原-自我」って呼んだんじゃないかしら?

引用返信/返信 削除キー/
■37232 / inTopicNo.10)  Re[18]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:00:08)
    そこはかとなく

    誰かに作り出された自分の価値っていうのあるかもね。
引用返信/返信 削除キー/
■37231 / inTopicNo.11)  Re[17]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 17:21:34)
    連休も再開したことだし、わたしのお喋りも再開〜

    いまは、
    No37109のを読んでて、
    No37212に揚げたようないろんな「私」を見ようとしてるところ。
    あ、わたしのはフッサール現象学を正確に理解することじゃなくて、
    それを手引きとして、わたしのどうしとっこかな〜、っていうの。

    つぎに、「自己」っていうの、どう見とっこっかな、って。

    資料の中で、「自我」と「自己」をどう使い分けてるのか、いくつか探し出して見たよ。

    (3)に、
    「自己移入」「自己統覚」「自我の自己構成」「自己時間化」
    (5)に、
    「反省以前に自己感触が機能していた」「自我の自己感触」
    (6)に、
    「内的時間による自己構成」「自己自身」
    ってあるのね。

    たとえば、(3)の「自我の自己構成」みたいに、「自我」と「自己」は区別されてる。
    日本語で考えて見るんだけど、
    「自我」「自己」の区別は「我」と「己」の違い。
    で、いろいろ考えたんだけど、いまんとこ、
    資料の中での「己」っていうのを〈体〉ってして見て、
    「自己」≒〈自体〉ってして、見ようとしてる。
    こう見たとき、「私自身」となんか似てる感じだから、
    「自己」≒〈自体〉≒「私自身」ってして見ていくことにしたよ。

    「〈意識(精神)〉と〈身体〉」を表す語としてね。

    かなりむりやりな感じするけど‥‥ひとまず。

引用返信/返信 削除キー/
■37217 / inTopicNo.12)  Re[16]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/30(Tue) 19:01:02)
    昨日はわたしの物語りの原稿、展開について考えてて、疲れちゃて寝ちゃった。

    No37212のつづき
    No37109のなかから、外国語の,あったのを、いくつか抜き出して見るよ。

    資料(3)に、
    @「私・自我(Ich)」
    A「純粋自我(reines Ich)」
    資料(3),(5)に、
    B「原-自我(Ur-Ich)」
    資料(5)に、
    C「先-自我(Vor-Ich)」
    ってあった。
    カッコ内の外国語はドイツ語みたい。

    ネットで調べて見たんだけど、簡単に、

    Aの[reines]、( reines – 日本語への翻訳 – ドイツ語の例文 | Reverso Context)
    (独)reines:純粋な。

    Bの[Ur-]、(プログレッシブ 独和辞典)
    ・非常に… 
    ・((名詞・形容詞と)) 原初の…,根源的な…
    ・((名詞と)) 最初の…
    ・(血縁関係で)一代前の…,一代後の…
    ・古くからの…

    ・Cの[Vor-]、(プログレッシブ独和辞典)
    …より前に,…前に;((順序))…より先に

    ってあった。

    資料(3)では、
    「私」=「自我」=「Ich」って見てるのかな?

    でね、わたしのね。
    日本語で見みるんだけど、

    わたしのばあい、「私」っていうのと「自我」っていうのとは、区別してる。
    「私」っていうのはちょっと置いといて、
    ABCにはぜ〜んぶ、「自我」っていうのあるから、まず、「自我」っていうの中心に見てくことにして、「自我」っていうの、わたしのばあいどうしとこっかな〜、って。
    で、
    「自我」っていうの、「自」と「我」に分けて見て、
    「我」っていうのを、デカルトの「我考える」の「我」ってして見て、
    「自我」って言うのを、〈考えることをする自〉ってする。
    これから、
    「純粋自我」は、〈考えることする純粋な自〉
    「先-自我」は、〈考えることをする前の自〉、
    「原-自我」は、〈考えることをする原初の自〉、
    ってなる。
    こう見ると、「先-自我」も「原-自我」もだいたい同じようなものを指してる、ってして見る。

    これでひとまず「自我」っていうの、わたしのが出来たところで、
    もし、フッサールの「原-自我」って言うのを問題としてるんだとしたら、
    わたしのばあい、この〈自〉っていうのが問題になるのね。

    なんか〈自〉が浮き上がってきた感じしない?

    つづく



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