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■36053 / inTopicNo.25)  Re[75]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/06(Sat) 18:50:22)
    No36034 のつづき

    想像の位置づけ、フッサールの場合、
    No36015 の(2)に、

    (q)〔フッサールは師ブレンターノを、意識はいつも「〜についての意識」(Bewbßtsein von stwas)であること、つまり意識の志向性(Intentonalität)を発見した点において賞揚したが、想像もまた知覚に劣らず志向的意識であると考えた。想像を知覚と認識の中間に位置づけたりせず、知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象(Vorstellung)、つまり像あるいはイメージと見なした。〕
    ってある。

    フッサールは、「想像」っていうのを、「思考」と「知覚」の中間に、じゃなくて、知覚にどこまでも近い「表象」、って見てるんだと思う。

    わたしのばあい、
    「表象」っていうの、
    [representation(再び提出する)]って見てるから、「想像」っていうのは「記憶」とかかわってる、ってしてる。
    ここらへんはアリストテレスのと似てる。
    あと、「表象(再提出)」にも二つあって、〈能動的に再提出する〉と、〈受動的に再提出される〉っていうのがある、って見てる。
    カントの用語をかりれば、前者が「生産的」で、後者が「再生産的」っていうことになるかな?(あ、これはわたしの憶測)

    ひとまず、わたしのばあい、現象学のに倣って、「想像」の位置づけを、
    (C)知覚と並ぶ、あるいは知覚に超近接した表象(受動的再提出)
    ってしとくことにした。

    わたし、意識における〈知性〉の分節の仕方として大きく二つ、〈考性(知性)〉と〈感性〉ってしたなかで、「想像力」っていうの、〈感性〉のうちに入れることにした。
    〈考性=認識(正しく理解し判断する)〉っていうのから離れて、物語は〈感性〉の世界へ、っていうことになるかな。


引用返信/返信 削除キー/
■36034 / inTopicNo.26)  Re[74]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/06(Sat) 15:49:37)
    またお休みつづくくからわたしの今の物語り進める。

    No35873に書き出したのは、
    No36015の(2)からの一部ね。
    意識の分節のなかで、〈想像の位置づけ〉に関することだと思うんだけど、

    アリストテレスの場合、
    〔想像(fantasia)を感性的知覚と思惟の中間に位置づけ〕てて、思惟の〔遂行に不可欠なものと規定し、記憶と親近関係にあるとした〕。
    カントの場合、
    〔構想力〕。そして、〔再生産的構想力と生産的構想力に分け、後者は悟性的認識への通路を開く超越論的機能をもつとした〕。
    っていうことみたい。

    わたし的にみると、
    ふたりとも「想像」っていうのを、「知覚」や「思考」とは区別してて、その中間に位置づけてる、っていうことは言えるかも。そして、アリストテレスは「記憶」と関係があるってしてて、カントは生産的構想力というもので「思考」(=認識/物事を正しく理解し判断すること)と関係してる。
    こんな感じでいいかも。

    ちなみに、
    No36015の(3)「想像力」に、
    〔想像する力。再生産的想像力と創造的想像力に分けられる。〕
    ってあった。
    なんかカントのに似てる。

    〈想像の位置づけ〉はちょっと置いといて、
    ひとまず、
    (B)2種類の想像が考えられてる。
    ってしとく。

    じゃ、〈想像の位置づけ〉、フッサールの場合はどうなってるのかな?
    っていうのは後で。

引用返信/返信 削除キー/
■36016 / inTopicNo.27)  Re[73]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/04(Thu) 11:22:45)
    「想像力」について思うきっかけとなった、【モーリス・メルロ=ポンティ『子供の心理−社会学』ソルボンヌ講義2/松葉祥一・澤田哲生・酒井麻衣子訳/みすず書房2023】の「イメージ」のところから、わたしが気になったところを書き出しておく。

    (a)『イメージは弱体化した知覚ではありません。それは「観察され」うるものではないのです。』(p70)

    (b)『イメージは、内的もしくは「心的」な「事物」ではなく、むしろ包括的な確信です。』(p70)

    (c)『イメージと幻覚には欺瞞が含まれており、それらは疑似的な視覚として示されます。狂人の虚言は、自分自身をだましているわけではないでしょう。彼の視覚はつねに、彼の行動の基盤となっている積極的な何かがあります。』(p70)

    (d)『想像力はつねに知覚された対象を目ざします。想像することは、内的な場面を熟視することではなく、単一の対象を参照することです。』(p71)

    (e)『想像することは、現実の対象をここに出現させようとして、それに向かうことなのです。想像的な対象の偽―現実化があり、不在の対象の「類同物〔analogon〕」の産出があるのです。サルトルは、心のイメージと結合した現象とを比較することで、この類同物の機能を明らかにしました。』(p71)

    (f)『物質的な拠りどころのない純粋なイメージ。そこで重要なのがまさに投影ですが、それは情動的で、活動的で、非知性的な投影です。』(p72)

    (g)『想像力は、本質的に情動的かつ運動的な現象であることが明らかになります。』(p72)

    (h)『こうした見方をするなら、感情とは、対象を志向し、それを疑似−現前させる方法のことです。われわれは対象を実際に思い描かなくても、運動や運動的志向性によって対象を志向します(たとえば、自分の背後の空間を想像する場合、重要なのはある包括的な印象とつながる一種の身体を割り出すことです。つまり、知的に表象することはなく、空間を志向するのです)。このように、情動性は、もはや「状態」ではなく、「志向の仕方」ないしは志向性によって定義されうるのです。』(p72)

    (i)『情緒は諸事物の把握である』(p73)

    (J)『(サルトル)われわれはたとえば怒りのなかで問題の直接的解決を探しますが、解決できないのでその問題を抹消し否定しようとする(自分が利用できない物を壊す)ということを示します。それは、実際の活動を、問題の情緒的否定に置き換えることです。他者との関係においても同様です。敵を説得できないとき、われわれは激怒のうちに敵を仮想的に破壊します。情緒のなかには、意識のあらゆる力の肯定、ある種の「対自」の狂気があります。この狂気のなかでは、問題が、外部の目撃者自身においてではなく、私に対して解決されます。したがって、それは本質的に魔術的な意識の仕方なのです。』(p74)

    (k)『情緒とは存在の仕方のことなのです。この考え方から、われわれは、想像的なものの源泉が情緒にあること、また夢や幻覚という現象が新たなかたちで解明されることが理解できます。幻覚にとらわれた人は、想像的な世界を定立します。自分の行動によって、彼は諸事物に幻想的な意味を与えます。彼は自分の幻覚を知覚していません。彼自身が知覚された事物と幻覚の進展を区別しており、他の人々は彼の言葉(ヴォワ)を理解できないはずです。彼の知覚は妄想の方向に湾曲されているので、その知覚を包み込んでいる態度から新しい意味を受け取ります。したがって、幻覚の対象は感覚器官の対象ではなく、 ある志向対象なのです。病者にとって、幻覚の対象が現実の代わりとなるのは、現実の価値が下げられて、病者は、健康な主体のように、生きられた世界を想像的な世界に対置できないからなのです。』(p75)

    (l)『イメージと現実的なもののあいだにある根本的な違いを見てきました。イメージは、決して観察可能ではないという点で、知覚と区別されます。しかし、イメージは、それが観察可能ではないがゆえに、幻覚を見ている人や夢を見ている人の意識に密着します。イメージは、直接的で絶対的なコミュニケーションという観念を私に与えてくれます。イメージは突然もたらされます。この点で、イメージにはある種の説得力があります。イメージの知覚と子どもの絵には類似点があります。』(p75)

    (m)『イメージのなかでわれわれがもつ信念は、われわれが現実(そして現実が前提とする相対主義)との接触を失い。ある特殊な態度に移行したことから帰結します。あらゆる知覚は、自らが部分的で、相対的なもののなかで活動しているということを知っています。〔それに対して〕想像的なものは絶対的なものなかで活動します。想像的なものによって、私は絶対的なものとかかわることになります。だからといって、私は、想像的なものが現実的であると信じているわけではありません。幻覚を見ている人でさえ、この二つの世界を区別しますが、現実的なものへの準拠(あるものをよりどころとしてそれに従うこと。また、そのよりどころ)を失ったがゆえに、想像的なもののなかで生きるのです。  この意味で、想像する力は、あざむく力であると同時に、意識の自由の現れです。意識は、想像的なものによってわれわれを現在から解放してくれますが、それは諸事物の外で自らを非現実化する力なのです。』(p76)

    (n)『意識は、諸対象の世界で生きるのをやめ、自分にもたらされた光景のなかに身を「置かなければ」ならないのです。主観的なものと客観的なものは崩壊しています。このとき、問題になるのが言い表しがたい第三の次元です(サルトル『イマジネール』参照)。主観的−客観的という区別の手前にとどまることが、夢幻的意識の固有性なのです。・・・・神話はこの第三の夢幻の秩序に属しています。著者〔サルトル〕はこの第三の秩序を、著作の後半から導入します。この秩序は健康な大人の覚醒した知覚と「虚構」のあいだにあります。』(p76)

    (o)『現実的なものの知覚のなかに信念があるとすら言えません。信念は先行する懐疑の後に入ってくるだけです。われわれの信念には何の支えもないので、われわれが本当に信じているのは想像的なものです。私は、自分が見ているこの椅子すら信じていません。椅子がそこにある。ただそれだけです。知覚は対象に密着するために、証明を期待しません。それは注意深い観察以前にあります。この意味で、知覚は想像的なものと同じく、前提を乗り越えます。現実と同じ、ように想像的なものが価値をもつためには、知覚されたもののなかに、推測的で両義的な部分がある必要があります。この共通の両義性のおかげで、時として、想像的なものが現実的なものに取って代わることができるのです。子どもは、目覚めている大人の二極的な世界のなかにわけではありません。子どもは混合領域に、つまり夢幻の両義的領域に住んでいるのです。』(p76)

    (p)『想像的なものと現実的なもののあいだには弁証法があり、この二つの領域のあいだには両義性があります。可能な合理性は、生や知覚の非合理的な枠組みを受け入れる合理性だけです。われわれと他者との関係の合理性は、私が他者を考察しているときでも他者は自由だという事実にあります。私が他者に対して抱くイメージに合わせるような他者に強制しないようなコミュニケーションを確立する必要があるのです。』(p78)

    はじまりとして、

    すこしづつつづける

引用返信/返信 削除キー/
■36015 / inTopicNo.28)  Re[72]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/04(Thu) 09:21:50)
    今日までお休み〜

    メルポンの分け方に倣って、意識の2つの〈知性〉として、わたしのうちでは、
    〈考性〉=知性的意識=思・考=認識、理解、判断、概念、客観的、学的
    〈感性〉=感性的意識=感覚・知覚・統覚
    こういうことになってる。
    ん?「記憶」が入ってない。たぶん、〈考性〉と〈感性〉の両方に関係してる〈知性〉。
    「認識」っていのを〈物事(世界)を正しく理解し判断する意識〉ってして、一般的にはこういうのを「知性」って呼んでるんだとしとく。
    「感性」っていうの、簡単に言っちゃうと“感じる”っていうこと。
    で、
    意識には「想像力」っていうのもあるみたい。わたしもそういうのがある、って思ってるけどどういのか、っていうのがこれからの物語り。

    わたしがこれまで集めて見てきた資料は、

    (1)【モーリス・メルロ=ポンティ『子供の心理−社会学』ソルボンヌ講義2/松葉祥一・澤田哲生・酒井麻衣子訳/みすず書房2023】

    【「現象学事典」弘文堂2014】から、
    (2)「想像」
    (3)「想像力」
    (4)「ファンタスマ」
    (5)「現在化/準現在化/共現在化」

    ネット「コトバンク」から、
    (6)「イメージ」
    (7)「想像」
    (8)「投影」
    (8)「感情」
    (10)「知覚」

    で〜す。

    じつはね、(1)のなかの「イメージ」っていうところを読んでて、メルポン、「想像力」っていうのどう見てるのか、っていうことから。

    簡単に、「思考」「知覚」「記憶」「想像」、っていうので見てくことにする。
    「想像」するっていうこと、どういうこと?どこに位置づけよっかな?そしてこれらの関係性はどうなってるのかな?っていうこと。


引用返信/返信 削除キー/
■36006 / inTopicNo.29)  Re[71]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/03(Wed) 18:32:54)
    〔世界における(への)存在としての「私」〕っていうのを話題として、
    No35601のような式を考えてみて、
    「意識」について、「意識と世界との関係性」について、見てきたんだけど、
    No35946の(A)にもうちょっと追加して、このごろは、
    私の外にある「それ」は、私の内で構成された〈それ〉と〔それ〕となってる。そして、(それ)を表現した[それ]。
    ってなってる。
    No27469に、
    〔言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕ってメルポンは言ってる。
    「私」と世界との関係において、〔表現する〕っていうことを忘れないようにするためにね。
    たぶん分けわかんないと思うけど、べつにいいのよ。

    いまは簡単に、こんな絵を描いて見て、いろいろ考えてる。
    添付します。

    〔それ〕っていうのは思考によって、〈それ〉っていうのは知覚によって、みたいな感じで。
    「それ」を、知覚pe-rceptによって捉えたceptのが〈それ〉、概念co-nceptによって捉えたceptのが〔それ〕、っていうふうに「それ」の捉え方(見方)が異なる2つの〈知性(知るさが)〉があるって見てたりもしてる。

    たぶん、対象、って言うと、私の外にあるもの(現前する「それ」)のことを指してると思うけど、わたし私の外にあるのを「それ」「対象」ってして、私の内で構成されたものとして、〈それ〉〈対象〉って表記して区別することにした。

    こうすることでちょっと簡単に書けるのね。たとえば、「苺」は〈苺〉となってる。だけで意味通じるでしょ?

    あと、「それ」は「物」だけじゃなくて「人」でもいいのよ。

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■35989 / inTopicNo.30)  Re[70]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/02(Tue) 17:44:45)
    ■35969、マジモンさん、ありがと。

    >美術界はこういう失敗があるよね。<
    ん〜ん、たぶん<失敗>じゃなくて、「美術界はそういう世界」っなんかもね。

    他者の価値に従うように自己の価値をつくりあげる。
    とか、
    他者に自己の価値を決めてもらう。
    的な世界。

    バンクシーって呼ばれてる人がもしそれで収入を得てないとしたら、
    その人、わたしから見たら裕福な人に属する人種でしかない。


引用返信/返信 削除キー/
■35969 / inTopicNo.31)  (削除)
□投稿者/ -(2024/01/01(Mon) 18:19:04)
    この記事は(投稿者)削除されました
引用返信/返信 削除キー/
■35967 / inTopicNo.32)  Re[68]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/01(Mon) 17:47:06)
    「バンクシー」って呼ばれてる人いるみたいじゃん?

    で、そのある人が描いた絵が「売れてる」みたいじゃん。

    「売れる絵」を「描ける」ひとは、すごいじゃん!

    ん?それを「売ってる」人が富を得てるだけの話しなのかも?
    ん?私の絵が売れるようにするための、ある手段として、見たいのがある?

    バンクシーの絵、あんなの、ふつう誰でも描けると思う。

    問題なのは「どこに書いたか」だけで、たんなるその人の主張の落描ききでしかないよと思うけど。

    ん〜ん、各国の首脳?首相?みたいな人が住んでる家の壁にペイントしたものなら、価値あるとうけどね。


引用返信/返信 削除キー/
■35946 / inTopicNo.33)  Re[67]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/31(Sun) 17:12:29)
    メルポンのに倣って、わたしの「意識」の分節、〈考性〉と〈感性〉っていう語での分節ができたところで、
    つぎに、私の「意識」と「世界」との関係について考えてみたのね。

    前に、「実在主義」と「観念主義」(これって意識と世界との関係性についての見方よね)について、
    No26476で、
    (1)〔事物が意識から独立してそれ自体で実在する〕のが「実在主義」
    (2)〔外界の事物は意識の現象や所産だとする〕のが「観念主義」
    ってして見て、なんかごちゃごちゃ書いてたみたいだけど、
    いまはとっても簡単、

    (A)〔私の外にある「それ」は、私の内で構成された〈それ〉になってる。〕

    って、わたししてる。
    〔外にある〕っていうのは「外界」とか「世界」、〔内で構成された〕っていうのは私の脳の活動によって生み出された「意識」ってしてる。
    〔私の外〕っていう言い方は「世界内存在」っていうのとなんか矛盾してる感じがするけど、私の外にある「それ(ぞれ)」(外界、世界)によって私は囲まれてるって見るとそうでもないよね。

    (A)って、観念主義に近いかもだけど、
    でもね、
    〈それ〉は、「それ」が前提になってるから、「それ」は存在する、ことを認めてることになるのね。
    No35001の(k)に、『「つねに—すでに—そこに」あるわれわれの世界』ってある。【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかでメルポンは、(現象学は)『世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。』(p1)って言ってる。
    ただ、〈それ〉は、「それ」“そのもの”じゃない、っていうことは言えるのね。だって〔私の内で構成された〈それ〉〕になちゃってるんだから。
    カントの言うように「物自体」(それ自体がどんなものであるかは不可知――人間のあらゆる認識手段を使用しても知り得ないこと――「もの」そのものは人間に“認識(正しく理解し判断)する”ことはできない――みたいな?でもね、カントの『純理』は、あくまでも「認識」についての、ってわたし見てるから、「意識」っていうことになるとちょっと話が変わってくると思うのね。

    「知性的意識」「認識という理論的実践」「客観的な世界」「判断」「学的世界理解」「述語的」「知性によって理解された世界」「知的概念」っていう〈考性〉は、「世界」というものを、“対象として”見てるのかも。私の外に置いて客観的に見る、みたいな感じで。
    「私を世界における(への)存在として露呈する」のばあい、私を世界の内に置いて私を見る、みたいな感じかな?
    No34934の(i)に『ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである』ように。

    で、ここで、
    No35646の(4)を見て見るね。
    「客観的な世界」(認識による世界)に対(つい)して、「前客観的な世界」(認識先立つ世界)を〈知覚されたもの−感性〉ってしたとき、「客観的」に対して〈知覚されたもの〉を「主観的」ってすることはできないのね。だって、〈知覚されたもの〉は、〔私の外にあるもの〕だし、そういうのって「主観」とは言わないんじゃないかしら。「知性的意識」を「客観的」として見るとしても、「知覚的意識」はあくまでも「前客観的」なんだと思う。
    ってすると、「主観」っていうの、どこにあるのかな?

    今年のお喋りはここまでにしとく。

引用返信/返信 削除キー/
■35932 / inTopicNo.34)  (削除)
□投稿者/ -(2023/12/30(Sat) 20:52:42)
    この記事は(投稿者)削除されました
引用返信/返信 削除キー/
■35931 / inTopicNo.35)  Re[66]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/30(Sat) 19:29:29)
    「信念」は、「懐疑」から始まるのね。
    だから、懐疑が前にないのは「信念」とは言わないのね。
    だから、
    ○○ある、っていうそれだけ。





引用返信/返信 削除キー/
■35930 / inTopicNo.36)  Re[65]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/30(Sat) 18:47:32)
    ■35927、マジモンさん、ありがと。
    日本語で考えてるのね、わたしのばあい。

    「理性」の「理」、
    学校で教わるのは「理科」とか「物理学」っていうのあったかな。
    でね、それを教えてる人に、
    「ねえ、先生、「理」って何ですか?」
    って、問えななかった自分を反省してるみたいな。

    非反省的なわたしを、反省的なわたしが見てる、
    みたいな場所がここなのかも。



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