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■36631 / inTopicNo.37)  Re[26]: 戒名外道論
  
□投稿者/ 時 -(2024/02/24(Sat) 13:25:55)
    2024/02/24(Sat) 13:44:43 編集(投稿者)

    パニチェさんへ。こんにちは。ご丁寧な返信をありがとうございます。

    No36627に返信(パニチェさんの記事)

    >>つまりは、時個人ができることというのは、その切っ掛けを作ることが精一杯だと感じますが、パニチェさんは、時のこの思いについてどのようにお考えになられるでしょうか。

    > 以下、私の意見をつらつらと書いてみますが興味のないところはスルーして下さい。

    了解しました。

    > 結論から言えば上記の時さんのお考え、葬式・法事仏教を生業としている大半の日本の僧侶たちが異論・反論に対して耳を傾けるとは思いませんし、無用な論争へと発展する可能性もあるとは思います。よって最終的には僧侶や檀家も含め当人の機根によって縁があれば本来の仏道を知ることになるだろうし、問題提起する側も時さんが言うように本来の仏教へのそれなりの知識と見解が必要だとは思います。切っ掛けをつくることが精一杯というのも、現実的にはそうなんでしょうね。

    ご理解いただきありがとうございます。

    > 一方で私は大乗運動が生じた意義や価値も認める立場です。

    パニチェさんのご認識は了解しました。

    > ご存じだとは思いますが、人里離れたところで自身の悟りや解脱に集中し修行や学究を主とした上座部仏教(小乗仏教)への反動として、自身の悟りや解脱よりも釈尊が行ったように民衆に向けて釈尊の教えや仏道を説くことを菩薩行とし重視すべきではないかという見解と運動が釈尊の遺骨をおさめた塔(ストゥーバ)を礼拝対象とし、この仏塔を守っていた在家信者を中心に生じました(この文章は大乗側からみた小乗という見解が主となっていますが)。

    時自身の現在での思いは、もともとが仏陀ありきでの教えであり、仏陀自身は文字で何も書き残してはいません。恐らくその理由は簡単で、それ(教え)に対して固執がないとき、書き記すという事(行為)が起こるでしょうか?という事だと思います。答えは否でしょう。

    半面、仏典という書き記されたものがあったので、現代でもそれを日本語訳として我々でも目にすることができるというのも事実だと思います。

    仮に当時、教えを受けた人々全員が阿羅漢果クラスになっていたとするならば、書き記すものは何もなかったのだと思いますが、必然的に、まだ学びの途中の弟子たちが多くいて、忘れなうちにと書き記したという事だと思っています。つまり、当時、修業中でありまだ固執があった比丘たちがいたお陰で現在にまで伝わる仏典軍が残っていると想像しています。表現が適切かはわかりませんが、怪我の功名でしょうか。

    その仏典軍の中には、当時の仏陀の言葉や論理、行為が多く記載されていますので、結果的に、時個人の知りたいことが記載されているのですね。自灯明法灯明と言うことで、仏陀ではない時には、それで十二分だと感じています。

    仏陀の死後、部派だ大乗だ小乗だと分岐してきた事は、その当時の弟子たち夫々の解釈によるものだと考えていますので、時にとっては無関係なことだと認識しています。

    仮に、、、当時の大乗だ小乗だと分岐する時のその場に、今現在の仏典内容の解釈をしている時が存在していたとするならば(時代背景が矛盾しますが)、、現在の解釈を持って、どこにも属さないのではないかと思います。あくまでも学びは個人の学びで、自灯明法灯明だと考えるからです。

    > 上座部仏教的発想(自身の悟りを目指す)と大乗仏教的発想(民衆の教化によって苦を軽減させる)の双方、言い換えればこのバランス(中道)を重視すべきだと考えており、

    中道とは、実在論と虚無論の2種類の誤見にこの世の人々の多くが固執するようなことは避けて(二元での価値判断基準を避けて)、物事の両極端に近づかないという意味の記載があります。それを学ぶのも八支聖道です。

    ですので、パニチェさんの解釈される、上座部仏教的発想(自身の悟りを目指す)と大乗仏教的発想(民衆の教化によって苦を軽減させる)の双方、言い換えればこのバランス(中道)を重視すべきだと考えておられという内容は、勿論了解しますが、時個人は、中道をこのような捉え方はしないと思います。

    > 例え一人でも本来の仏道を知る切っ掛けになればそこから優秀な人が出てくる可能性もゼロではなく(日本人の無意識的な仏教的精神、排他的ではない和の心や他者を思いやる利他的発想も持ち合わせていることから)いつかは大きな流れとなり本来の仏教哲学が日本人的な思想として根付いてくるのではないかという期待もあります。

    はい、そうですね。それらへの期待もほんの少しはありますが、、それらも含めて、時個人は運命にお任せし、今まで通りその運命を受けいれると思います。

    > 大袈裟に言えば私は仏教哲学(融和的精神と利他の心)こそ世界平和への唯一の教義(道しるべ)だと考えています。

    これは仏教哲学とは言わずとも、古来から受け継がれてる日本文化の精神、おもてなしの文化、配慮や思いやりの心を、日本人が取り戻せれば良いように時個人は思っています。

    > 私はニーチェファンでもあるのでツァラトゥストラでも描かれている山を下りて民衆の元へ向かう(ツァラトゥストラは“没落”と呼びます)ことの意義や価値も(例え無駄な努力であったとしても)認めています。

    はい。パニチェさんのご認識は了解しました。

    > 『──そして或る朝、彼は曙光とともに起きて、太陽の前に歩み寄り、太陽に向かって次のように語った。「おまえ、大いなる天体よ!もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、お前の幸福はどうなることであろう!十年間おまえはここへわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしのワシとわたしのヘビとがいなかったら、おまえはおまえの光とおまえの道とに飽き果てたことであろう。だが、わたしたちは毎朝おまえを待ち、おまえからおまえの過剰を奪い取り、その代わりにおまえを祝福した。見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1-1)』

    ありがとうございます。

    > 物語の最初と最後が同じ場面となっており(永劫回帰を象徴する)、この曙光を音楽であらわしたのが有名なリヒャルト・シュトラウスの交響曲(交響詩)『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭部です。
    > https://www.youtube.com/watch?v=91173MqgohI

    この曲の名前は知りませんでしたが、よく耳にする音楽ですね^^

    全く詳しくはないのですが、ここで永遠回帰という概念について少し考えてみました。

    永劫回帰を、あらゆる出来事が今までと同じ順番で、永遠に繰り返し起こるような世界と仮定してみます。

    問いは、そのあなたの人生を肯定できますか?とします。

    答えは、Yesです。

    理由は、時の人生哲学で、全く同じという概念は存在しませんが、仮に存在するとしてという事を考えてみました。そこで、今現在では、前世の記憶は想像の中にありますが、確定的な事が言えないのが現状です。ですので、永遠回帰の思想では、同じことの繰り返しですね。つまりは、来世に、また、来来世にも同じことが起こるのであれば、今を観れば来るべき来世のその時(瞬間)と同じです。

    仏教の輪廻転生思想とは似て非なるもののように感じますが、原始には、危難がないなら厭離しないという表現があります。

    危難(苦しみ・患い・災難)がこの世間にないのであれば、人々は、厭離(それを嫌って離れること)を望みませんと言う意味ですが、その為に梵行が実行され、時個人はそれ(厭離)を目指しました。

    永遠回帰のお話に戻すと、自らの苦しみや災いを滅しつつの現在の環境が、もう一度来世にも起こるのであれば現世と同じことになり、現在、前世の記憶がはっきりとしていないという事は、来世でも同じことですね。

    つまり、永遠回帰の問いは、現在、今の現状である今現在の人生を肯定できますか?と言う問いだと思いましたので、答えはYesになりました。
引用返信/返信 削除キー/
■36627 / inTopicNo.38)  Re[25]: 戒名外道論
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/24(Sat) 08:46:06)
    2024/02/24(Sat) 09:10:56 編集(投稿者)

    おはようございます、時さん。レスありがとうございます。

    No36620に返信(時さんの記事)

    > ・・時個人の現時点での判断は、個々人の機根(理解する度量・器・性格)に基づいて、気づく人は気づき、学ぶ人は学び、解脱する人は解脱すると言う”自覚なき運命”の糸のようなものに導かれているのではないかと感じます。そのような中で、時個人としてできうるのは・・こうして掲示板等の場所をお借りして時々書き込み、その学びの切っ掛けとなる書き込みを行う事だけでしょうか。それを目にした人の中で、個々人の中で何がしかの興味が湧けば、見てみようとする人は見るでしょうし、スルーする人はスルーするしと言った感じです。というわけで、今まで仏教を飯の種としてきた日本の僧侶たちが、門外漢であろう時ごときのお話に耳を傾けるとは思えません。

    > ですので、掲示板等で時個人は原始の内容を教えることができませんし、教える立場にも立てないのですね。例えば、教えることができたと仮定しても、それは教えられた人からすると他者(時)からのお話の内容で、その時点ではその人にとっての法灯明ではありません。いくら他者から学んだとしても、最終的には自らを拠り処として現代に残る仏典を基準に自らの感性で理解するほかはないのではないでしょうか。それが自灯明法灯明の理解だと思っています。

    > つまりは、時個人ができることというのは、その切っ掛けを作ることが精一杯だと感じますが、パニチェさんは、時のこの思いについてどのようにお考えになられるでしょうか。

    以下、私の意見をつらつらと書いてみますが興味のないところはスルーして下さい。

    結論から言えば上記の時さんのお考え、葬式・法事仏教を生業としている大半の日本の僧侶たちが異論・反論に対して耳を傾けるとは思いませんし、無用な論争へと発展する可能性もあるとは思います。よって最終的には僧侶や檀家も含め当人の機根によって縁があれば本来の仏道を知ることになるだろうし、問題提起する側も時さんが言うように本来の仏教へのそれなりの知識と見解が必要だとは思います。切っ掛けをつくることが精一杯というのも、現実的にはそうなんでしょうね。

    一方で私は大乗運動が生じた意義や価値も認める立場です。
    ご存じだとは思いますが、人里離れたところで自身の悟りや解脱に集中し修行や学究を主とした上座部仏教(小乗仏教)への反動として、自身の悟りや解脱よりも釈尊が行ったように民衆に向けて釈尊の教えや仏道を説くことを菩薩行とし重視すべきではないかという見解と運動が釈尊の遺骨をおさめた塔(ストゥーバ)を礼拝対象とし、この仏塔を守っていた在家信者を中心に生じました(この文章は大乗側からみた小乗という見解が主となっていますが)。

    上座部仏教的発想(自身の悟りを目指す)と大乗仏教的発想(民衆の教化によって苦を軽減させる)の双方、言い換えればこのバランス(中道)を重視すべきだと考えており、例え一人でも本来の仏道を知る切っ掛けになればそこから優秀な人が出てくる可能性もゼロではなく(日本人の無意識的な仏教的精神、排他的ではない和の心や他者を思いやる利他的発想も持ち合わせていることから)いつかは大きな流れとなり本来の仏教哲学が日本人的な思想として根付いてくるのではないかという期待もあります。

    大袈裟に言えば私は仏教哲学(融和的精神と利他の心)こそ世界平和への唯一の教義(道しるべ)だと考えています。

    私はニーチェファンでもあるのでツァラトゥストラでも描かれている山を下りて民衆の元へ向かう(ツァラトゥストラは“没落”と呼びます)ことの意義や価値も(例え無駄な努力であったとしても)認めています。

    『──そして或る朝、彼は曙光とともに起きて、太陽の前に歩み寄り、太陽に向かって次のように語った。「おまえ、大いなる天体よ!もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、お前の幸福はどうなることであろう!十年間おまえはここへわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしのワシとわたしのヘビとがいなかったら、おまえはおまえの光とおまえの道とに飽き果てたことであろう。だが、わたしたちは毎朝おまえを待ち、おまえからおまえの過剰を奪い取り、その代わりにおまえを祝福した。見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1-1)』

    物語の最初と最後が同じ場面となっており(永劫回帰を象徴する)、この曙光を音楽であらわしたのが有名なリヒャルト・シュトラウスの交響曲(交響詩)『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭部です。
    https://www.youtube.com/watch?v=91173MqgohI


    > 時個人の理想形ではないかもしれませんが、なにがしかの刺激という環境の形成はできたのかな?というのが率直な感想です^^ 後はパニチェさんご自身の機根にお任せとし、自覚なき運命の糸が、どこに、どのように伸びていくのかだけですね。時個人は、それに関して何も関与できませんので。

    ありがとうございます。

引用返信/返信 削除キー/
■36620 / inTopicNo.39)  Re[24]: 戒名外道論
□投稿者/ 時 -(2024/02/23(Fri) 19:38:09)
    2024/02/24(Sat) 04:24:12 編集(投稿者)
    2024/02/23(Fri) 19:49:38 編集(投稿者)

    パニチェさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No36618に返信(パニチェさんの記事)

    > 自洲・法洲(自灯明・法灯明)や十四無記の教えに沿って、無用な論争は避けるということですね。

    はい、そうですね。無用な論争を避けるというよりは、無用な論争にはならないという事でしょうか。原始の中に記載がある内容が理解できるのであれば、誰とも論争にはなりえませんかね。

    >>ですので、その悪習を真正面から否定、批判する人物は、仏陀の教えを守ろうとする人の中にはおられないと思います。おられたとしても、少なくとも我々凡夫の見えるところには出てはこられないでしょう。
    >>時の個人的な想いとしては、大きな、小さなお寺に住んで車を所有し、家族を持ち、檀家からそれを布施と称して金品を受け取りつつ、命を長らえているのは・・本来的には仏陀が説いた事柄とは真逆の生活に思えます。邪命です。邪命(邪な暮らしによって生活を営む)を捨断し、八支聖道の正命(邪な暮らしを捨て、正しい暮らしによって生活を営む事)を具足するために励むのが、八支聖道の正精進だからです。
    >>この事柄も批判になる可能性がありますので、本来的に書く必要は無いのかもしれませんが。

    > 深いですね。
    > 基本的には同意ですが、その一方で少しでも仏教を本来のあるべき姿に戻すためにも、時さんのように誰かがどこかで発言すべきだとは思います。釈尊の教えを知らず僧侶も檀家も無明に囚われていますからね。

    うーん、現代日本で、本来の仏教の世界観に戻るのでしょうか。。もしもそれを行うのであれば、本来の仏教への自らの見解を持ち、それを主張して、お相手の理解がありという事が必要になるように思います。しかしそれら(日本の仏教)を今まで守ってきたつもりの僧侶や檀家の皆さんが、理解できるとは思えませんかね。そこでむきになっての持論の展開、僧侶であるというマウントやそれに対する固執からの論争となり、本来の教え自体が損なわれるように思いますが。。。原始の中にも、他者が他者を清浄にできませんという内容のものもありますので、、あくまでも個人の課題だろうと思います。(ダンマパダ165)

    そして、無明とは、四聖諦を知らないことという原始の中の定義でいうのであれば、一番大きな括りでの表題となりますので「四聖諦を知ること」と文字で書くのは簡単なのですが、四聖諦の下には多くの教えがツリー状にぶら下がります。原始の中で、四聖諦は動物の中で一番大きな象の足跡のようで、全ての教えがその中に入っていると比喩されるものですので。

    ・・時個人の現時点での判断は、個々人の機根(理解する度量・器・性格)に基づいて、気づく人は気づき、学ぶ人は学び、解脱する人は解脱すると言う”自覚なき運命”の糸のようなものに導かれているのではないかと感じます。そのような中で、時個人としてできうるのは・・こうして掲示板等の場所をお借りして時々書き込み、その学びの切っ掛けとなる書き込みを行う事だけでしょうか。それを目にした人の中で、個々人の中で何がしかの興味が湧けば、見てみようとする人は見るでしょうし、スルーする人はスルーするしと言った感じです。というわけで、今まで仏教を飯の種としてきた日本の僧侶たちが、門外漢であろう時ごときのお話に耳を傾けるとは思えません。

    ですので、掲示板等で時個人は原始の内容を教えることができませんし、教える立場にも立てないのですね。例えば、教えることができたと仮定しても、それは教えられた人からすると他者(時)からのお話の内容で、その時点ではその人にとっての法灯明ではありません。いくら他者から学んだとしても、最終的には自らを拠り処として現代に残る仏典を基準に自らの感性で理解するほかはないのではないでしょうか。それが自灯明法灯明の理解だと思っています。

    つまりは、時個人ができることというのは、その切っ掛けを作ることが精一杯だと感じますが、パニチェさんは、時のこの思いについてどのようにお考えになられるでしょうか。

    > ニーチェもスッタニパータを読んでいるので、上記の市場のハエが寄り付けない孤独という強風の地へ逃れよというのは、まさしく犀の角の教説に倣っているのだと思います。

    なるほどと納得できますね。市場のハエのお話を拝見した時に、妙にその世界観が似ているなぁと感じていました。

    > 確かに。私はまだまだ未熟で実践にはほど遠いですが。。。(;^_^

    時個人の理想形ではないかもしれませんが、なにがしかの刺激という環境の形成はできたのかな?というのが率直な感想です^^ 後はパニチェさんご自身の機根にお任せとし、自覚なき運命の糸が、どこに、どのように伸びていくのかだけですね。時個人は、それに関して何も関与できませんので。
引用返信/返信 削除キー/
■36618 / inTopicNo.40)  Re[23]: 戒名外道論
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/23(Fri) 16:35:24)
    2024/02/23(Fri) 17:16:19 編集(投稿者)

    こんにちは、時さん。レスありがとうございます。

    No36617に返信(時さんの記事)

    >>これはもはや仏道ではなく外道(仏教以外の教えという意)だろう。
    >>こういう悪習を真正面から否定したり、批判する真っ当な坊主はこの国にはいないのか?

    > 多分ですが、そのような"真っ当な仏弟子"はおられないように思います。例えば、おられたとしても、それらを否定や批判はされないでしょう。
    > なぜならば、自灯明法灯明の教えにより、仏陀の面前で〜を私は聞いたという話を誰かがしていた時には、他者(話をしていた誰か)の言う事を鵜呑みにせず、自らを拠り処にして(自燈明)賛同も歓喜もせず、非難もしないでその場を離れ、自らが法(現代ならば仏典)に照らして(法燈明)その内容の是非を知ればよいですよ。という意味合いの記載が原始にはあります。その上で、彼の言っていた事柄は、確かに仏陀の教えとしてある、それは仏陀の教えではないという事で確認しなさいよ。という事です。

    自洲・法洲(自灯明・法灯明)や十四無記の教えに沿って、無用な論争は避けるということですね。

    > 戒名料等で命をつなぐこと・・仏弟子(真っ当な坊主)ならば、行いません。

    > ですので、その悪習を真正面から否定、批判する人物は、仏陀の教えを守ろうとする人の中にはおられないと思います。おられたとしても、少なくとも我々凡夫の見えるところには出てはこられないでしょう。
    > 時の個人的な想いとしては、大きな、小さなお寺に住んで車を所有し、家族を持ち、檀家からそれを布施と称して金品を受け取りつつ、命を長らえているのは・・本来的には仏陀が説いた事柄とは真逆の生活に思えます。邪命です。邪命(邪な暮らしによって生活を営む)を捨断し、八支聖道の正命(邪な暮らしを捨て、正しい暮らしによって生活を営む事)を具足するために励むのが、八支聖道の正精進だからです。
    > この事柄も批判になる可能性がありますので、本来的に書く必要は無いのかもしれませんが。

    深いですね。
    基本的には同意ですが、その一方で少しでも仏教を本来のあるべき姿に戻すためにも、時さんのように誰かがどこかで発言すべきだとは思います。釈尊の教えを知らず僧侶も檀家も無明に囚われていますからね。

    > 仏典を読めば読むほどに、偏った見解が消えてゆき、それに伴い議論はもとより論争なども起こり得なくなるのが実感できます。そして一般的に言われる孤独の世界に埋没していきますが、そこに仏陀の説いた”楽”があるように感じています。所謂、一般的な楽を超えた楽の世界です。そこが四禅定の始まりの処、初禅の境地だと感じています。

    仰る通りだと思います。

    「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねに人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。(中村元訳『スッタニパータ40』より)」

    「のがれよ、わが友よ、きみの孤独の中へ、そしてかしこへ、或る荒々しい強い風の吹くところへ!ハエたたきとなることは、きみの運命ではないのだ。(ニーチェ著『ツァラトゥストラ 市場のハエどもについて』より)」

    ニーチェもスッタニパータを読んでいるので、上記の市場のハエが寄り付けない孤独という強風の地へ逃れよというのは、まさしく犀の角の教説に倣っているのだと思います。

    > そしてまた仏陀の言葉が心(意・識・想)に浮かびます。「あなた方が行うべきは2つです。聖なる沈黙か、法の話です」と。
    > ここも時の個人的な想いですが、現在、仏陀は不在ですので出家はできません。あくまでも在家の立場での学びです。しかし仏典内でのほとんどが出家者に向けたものですので、、、当時の出家者に向けた多くの仏典内での言葉を、現代日本の在家として、どこをどのように解釈実践していくのか?という整合性のとり方を今までは考えていました。言い換えますと、日本の在家にありながらどれだけ当時の出家者の境地に近づけるか?ですね。

    確かに。私はまだまだ未熟で実践にはほど遠いですが。。。(;^_^

    >>少なくとも私は実社会では本名で生きて本名で死ぬ。
    > パニチェさんらしい表現ですね。

    ありがとうございます。

引用返信/返信 削除キー/
■36617 / inTopicNo.41)  Re[22]: 戒名外道論
□投稿者/ 時 -(2024/02/23(Fri) 13:16:03)
    パニチェさん、こんにちは。

    No36615に返信(パニチェさんの記事)

    > これはもはや仏教ではなく外道(仏教以外の教えという意)だろう。
    > こういう悪習を真正面から否定したり、批判する真っ当な坊主はこの国にはいないのか?

    多分ですが、そのような"真っ当な仏弟子"はおられないように思います。例えば、おられたとしても、それらを否定や批判はされないでしょう。

    なぜならば、自灯明法灯明の教えにより、仏陀の面前で〜を私は聞いたという話を誰かがしていた時には、他者(話をしていた誰か)の言う事を鵜呑みにせず、自らを拠り処にして(自燈明)賛同も歓喜もせず、非難もしないでその場を離れ、自らが法(現代ならば仏典)に照らして(法燈明)その内容の是非を知ればよいですよ。という意味合いの記載が原始にはあります。その上で、彼の言っていた事柄は、確かに仏陀の教えとしてある、それは仏陀の教えではないという事で確認しなさいよ。という事です。

    戒名料等で命をつなぐこと・・仏弟子(真っ当な坊主)ならば、行いません。

    ですので、その悪習を真正面から否定、批判する人物は、仏陀の教えを守ろうとする人の中にはおられないと思います。おられたとしても、少なくとも我々凡夫の見えるところには出てはこられないでしょう。

    時の個人的な想いとしては、大きな、小さなお寺に住んで車を所有し、家族を持ち、檀家からそれを布施と称して金品を受け取りつつ、命を長らえているのは・・本来的には仏陀が説いた事柄とは真逆の生活に思えます。邪命です。邪命(邪な暮らしによって生活を営む)を捨断し、八支聖道の正命(邪な暮らしを捨て、正しい暮らしによって生活を営む事)を具足するために励むのが、八支聖道の正精進だからです。

    この事柄も批判になる可能性がありますので、本来的に書く必要は無いのかもしれませんが。

    仏典を読めば読むほどに、偏った見解が消えてゆき、それに伴い議論はもとより論争なども起こり得なくなるのが実感できます。そして一般的に言われる孤独の世界に埋没していきますが、そこに仏陀の説いた”楽”があるように感じています。所謂、一般的な楽を超えた楽の世界です。そこが四禅定の始まりの処、初禅の境地だと感じています。

    そしてまた仏陀の言葉が心(意・識・想)に浮かびます。「あなた方が行うべきは2つです。聖なる沈黙か、法の話です」と。

    ここも時の個人的な想いですが、現在、仏陀は不在ですので出家はできません。あくまでも在家の立場での学びです。しかし仏典内でのほとんどが出家者に向けたものですので、、、当時の出家者に向けた多くの仏典内での言葉を、現代日本の在家として、どこをどのように解釈実践していくのか?という整合性のとり方を今までは考えていました。言い換えますと、日本の在家にありながらどれだけ当時の出家者の境地に近づけるか?ですね。

    > 少なくとも私は実社会では本名で生きて本名で死ぬ。

    パニチェさんらしい表現ですね。
引用返信/返信 削除キー/
■36615 / inTopicNo.42)  戒名外道論
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/23(Fri) 09:18:11)
    2024/02/23(Fri) 20:50:09 編集(投稿者)

    戒名のルーツは上座部仏教で悟った人、つまり阿羅漢(上座部仏教での最高の悟りを得た人という意)に与えられた法名である。

    仏教の土台となったバラモン教の時代には生産に直接従事しない司祭や王族や武士階級の人口が増えてしまい、生産者を確保する目的から、ブラーフマナ(司祭)、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(農・牧・商に従事する庶民)、シュードラ(先住民を主体とする奴隷)からなる四階級のヴァルナ(種姓)制度が成立した。

    一説によれば紀元前1500年頃、コーカサス地方から東進し、西北インドに侵攻したアーリア人の身分を子孫まで確固たるものにするため、カースト制度の土台となり、正当性の根拠ともなりえる輪廻転生説が唱えられたとも言われている。

    バラモン教では人生を四つの時期に分け、75歳からは最後の遊行期に入り、家や身分を捨て乞食(こつじき:托鉢して食を乞い受ける行)しながらこの世に対する執着を捨て死ぬ準備をする時期となる。

    これが出家の起源であり、釈尊が生きた時代には世俗での地位や立場を捨て、剃髪して法衣を着すればみな等しく沙門釈子(この出家者は釈迦の子どもという意)と呼ばれていた。

    「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(初期仏典『スッタニパータ』より)」

    上記の釈尊の教説からして仏教の根底には平等思想があり、釈尊自身が遊行期の遥か以前に王子の身分を捨て出家したこともあり、カースト制度上の生れによる社会的身分の差を認めていない(ジャイナ教徒や一部のヴェーダーンタ学派も人間の平等を唱え、カースト制度による身分倫理を否定した)。

    法名をルーツとした戒名は中国に伝わった後、受戒儀礼を受けて与える名として定着した。

    檀家制度が成立した日本では、仏式で葬儀を執り行う際に仏弟子になるという建前でもって寺の僧侶に戒名をつけてもらうのが慣例となっており、今では戒名に位を付けて高い身分ほど高値で売っている。

    これはもはや仏道ではなく外道(仏教以外の教えという意)だろう。
    こういう悪習を真正面から否定したり、批判する真っ当な坊主はこの国にはいないのか?

    「アナヴァタプタという泉からガンガー・シンドゥ・ヴァクシュ・シーターの四つの大河が海へと流れ出している。それらは海に流れ込むと、もとの名はなくなり、ただ海と呼ばれる。同様に、クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ・シュードラの四つの身分があるが、釈尊のもとで出家し、教えを学ぶ者となれば、元の身分がなくなり、釈尊の弟子というだけになる。なぜなら、私(釈尊)と教え(法)によって生れた者だからである。(『増一阿含経』より)」


    少なくとも私は実社会では本名で生きて本名で死ぬ。

引用返信/返信 削除キー/
■36609 / inTopicNo.43)  善悪の彼岸 第2章 自由な精神36
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/22(Thu) 19:40:22)
    横レス御免!

    No36599に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > そこはかとなく、
    > ちょっと想い出したので、

    > 【ニーチェ著『善悪の彼岸』1885-86/木場深定訳/発行者山口昭男/発行所岩波書店1970】の中に、
    > *************
    > 第2章 自由な精神
    > 36
    > 『実在的に「与えられて」いるのは、われわれの欲望と情熱の世界より他の何ものでもなく、従ってわれわれはまさにわれわれの衝動の実在性より以外の他の「実在性」へ下降することも上昇することもできないとすれば――思惟することはこれらの衝動が相互に関係し合うことにすぎないから――、この「与えられて」いるものがその同類のものから更にいわゆる機械的(または「物質的」)世界をも理解するに十分でないかどうかを、試みに問うことが許されるのではないか。・・・・』(P63)
    > *************
    > ってあるのね。
    > 「欲望と情熱の世界」、
    > スケベおやじも、
    > No36016のようなの、見てるんじゃないかしら?って。
    > (f)の『投影』
    > No36590で見たよな、〔刺激対象を知覚する際に,個体の興味,欲求,期待などの影響を受けてそれにそうように知覚が生じること。〕の〔個体の興味、欲求、期待〕のような「欲望」。
    > (j)の『想像的なものの源泉が情緒にある』
    > (m)の『意識の自由の現れ』
    > みたいなの。

    > 【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかの、
    > 『現象学はずっと以前から、その道を歩みつつあったのである。その信奉者たちはいたるところに、ヘーゲルやキルケゴールはもちろん、マルクス、ニーチェ、フロイトにもまた、現象学を見出すのである。』
    > っていうのも思い出してる。

    > ちなみに、わたしのいばあい、「価値」って、「欲求(欲望)を満たすもの」ってしてる。
    > 価値って、ひとそれぞれね。

    悪魔ちゃんが引用したアフォリズム『善悪の彼岸 第2章 自由な精神36』の結論部分を参考までに引用しておきます。

    「すなわち、〈作用〉が認められるところではどこでも意志が意志に作用しているのではないか──そしてあらゆる機械的な事象は、そのなかにある力がはたらいているかぎり,それはまさに意志の力、意志の作用ではないか、という仮説である。──かくて結局においてわれわれの衝動的生の全体を、意志の唯一の根本形態──すなわち私の命題にしたがえば、権力の意志──の発展的な形成および分岐として説明することができたなら、また、すべての有機的機能をこの権力の意志に還元して、そのうちに生殖や栄養の問題の解決──これは一つの問題だが──をも見出すことができたならば、それによってわれわれはあらゆる作用する力を一義的に権力の意志として提起する権利を手に入れたことになろう。内部から観られた世界、この〈叡智的性格〉にしたがって規定され特色づけられた世界、──これこそはまさに〈権力の意志〉なのであって、そのほかの何ものでもないだろう。──(善悪の彼岸 第2章 自由な精神36)」

    ニーチェが後に破棄した『権力への意志』に関するアフォリズム。
    普遍的真理や根本的原理を誤謬とし、形而上学を否定したはずのニーチェが新たな形而上学的概念でもある「権力の意志」をでっちあげようととしたまさにそのプロセスにあるアフォリズム。

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■36421 / inTopicNo.44)  倫理道徳の源泉
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/04(Sun) 09:30:12)
    DNAで方向づけられている近しい遺伝子を保存しようとするベクトルが倫理道徳の源泉ではないか?

    自己保存本能や種の保存本能と呼ばれる方向性。

    人間以外の動物も子の面倒を見たり保護しようとするのは先天的なこのベクトルからであり、人間の場合は生後の教育によってこの原型が他者や利他の方向性もともなって倫理道徳と呼べるものとして形成される。

    よって人間を主とした倫理道徳とならざるをえない。

    結論から言えば理性や道徳は先天的なものでもなく、まして神から与えられたようなものではなくて、生物のもつ生へのベクトルが拡大化されたものであるということ。

    その意味ではニーチェの「力への意志」が上記の生のベクトルも意味するだとすれば、善悪の彼岸に位置する倫理道徳の源泉ではないか?と思う。
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■36301 / inTopicNo.45)  『〈私〉の哲学をアップデートする』1
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/27(Sat) 18:11:50)
    2024/01/27(Sat) 20:38:24 編集(投稿者)

    そもそもの問い(永井氏の引用ではなくパニチェの問い)世界に多くの自我意識が存在する中で、今ここにある意識が何故私なのか?

    もう少し正確に言えば、何故世界が今ここから開かれているという唯一の地点に私であるという特殊な在り方をした意識が存在しているのか?

    この問いは正確には他者に伝わらない。他者に伝わらないことがこの問いの本質と言ってもよい。

    但し、この文を読む他者は一般論として読解することはできる。

    そして自分自身に当てはめ、一般論を超えた特殊な問いであり、唯一無二の問いでもあり事実であるというように捉えることは可能だろう。

    その時点では誰にとっても当てはまる問いや存在ではありえなくなっているはずである。

    さらに言えば上記の問いは答えを求める問いではなく、〈私〉に気付くための問い(公案のようなもの)であるということ。


    異論、反論、ここまでは理解できる等々、横レス歓迎します。
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■36295 / inTopicNo.46)  〈私〉の哲学をアップデートする
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/26(Fri) 21:52:25)
    2024/01/26(Fri) 22:29:05 編集(投稿者)

    永井 均、入不二 基義、青山 拓央、谷口 一平 共著

    『〈私〉の哲学 をアップデートする』


    一応、チェックするためにAmazonをプチっとしますた。
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61tebhxCr2L._SL1000_.jpg
/84KB
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■36148 / inTopicNo.47)  独〈私〉論
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/13(Sat) 08:03:36)
    永井氏は誰にでも当てはまる独我論を似非独我論とし、これと区別するために真正独我論を「独在論」と名付けた。

    独我論や独在論において常に問題となるのが他者の自我や私秘性の有無である。

    日常感覚(自然的態度)からすればどんな人間でも他者の自我(心的状態)や私秘性は暗黙の前提として認めており、日常生活の上でもこれを認めないなんてことは現実離れしている。

    確かに他者の自我や私秘性は私の認識可能な世界内にはなく、確認しようがないのだから仕方がないと言えばそれまでではあるが、同じ身体(脳をはじめとした感覚器官)を有することからして、他者にも自分と同じ自我や私秘性があるということは排除できない。

    言いかえればこれは一種の身体性に対する信念というか信仰みたいなものかもしれない。

    哲学の一側面がより確かなものの探究であるとするなら、他者の自我や私秘性はあるともないとも言えない(確証不能)。

    ただ一つだけ確実には断言できるのは、今ここに在る「比類なき先言の<私>」は他者にはありえないということ。

    何故なら、今まさにここから視野が開け世界を見ている地点はここしかなく、自分の痛みや感覚を体験しているのは〈私〉であることから、他者に〈私〉は当てはまらない。

    仮に世界に数多くの自我や私秘性があったとしても、〈私〉が体験する自我や私秘性は広大な時空間において、「今、ここ」の特異点しかないということ。

    これをもって「比類なき先言の<私>」は唯一無二の存在であるということからパニチェ独自の独在論を「独〈私〉論」と名付ける。


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■36077 / inTopicNo.48)  Re[15]: 野矢茂樹「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/07(Sun) 20:18:14)
    こんばんは、knowing itselfさん。

    No34967に返信(knowingitselfさんの記事)

    > ここあたりは、前期ウィトゲンシュタインの背景知識として重要なので、ウィトゲンシュタインの研究者として定評のある野矢茂樹本人による、最新の新書は目をとおす価値があるでしょう。一般的にいって、新書ほどわかりやすいものはない。そのわかりやすさが安直にわかったつもりでおわる危険がないではないが、本格的に原本にあたる前に新書レベルは避けて通れない。

    knowing itselfさんの仰る通りでした。
    前期ウィトゲンシュタインの写像理論を理解する上で重要な哲学的背景が紹介されていました。
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