| 横レス御免!
■No36599に返信(悪魔ちゃんさんの記事) > そこはかとなく、 > ちょっと想い出したので、
> 【ニーチェ著『善悪の彼岸』1885-86/木場深定訳/発行者山口昭男/発行所岩波書店1970】の中に、 > ************* > 第2章 自由な精神 > 36 > 『実在的に「与えられて」いるのは、われわれの欲望と情熱の世界より他の何ものでもなく、従ってわれわれはまさにわれわれの衝動の実在性より以外の他の「実在性」へ下降することも上昇することもできないとすれば――思惟することはこれらの衝動が相互に関係し合うことにすぎないから――、この「与えられて」いるものがその同類のものから更にいわゆる機械的(または「物質的」)世界をも理解するに十分でないかどうかを、試みに問うことが許されるのではないか。・・・・』(P63) > ************* > ってあるのね。 > 「欲望と情熱の世界」、 > スケベおやじも、 > No36016のようなの、見てるんじゃないかしら?って。 > (f)の『投影』 > No36590で見たよな、〔刺激対象を知覚する際に,個体の興味,欲求,期待などの影響を受けてそれにそうように知覚が生じること。〕の〔個体の興味、欲求、期待〕のような「欲望」。 > (j)の『想像的なものの源泉が情緒にある』 > (m)の『意識の自由の現れ』 > みたいなの。
> 【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかの、 > 『現象学はずっと以前から、その道を歩みつつあったのである。その信奉者たちはいたるところに、ヘーゲルやキルケゴールはもちろん、マルクス、ニーチェ、フロイトにもまた、現象学を見出すのである。』 > っていうのも思い出してる。
> ちなみに、わたしのいばあい、「価値」って、「欲求(欲望)を満たすもの」ってしてる。 > 価値って、ひとそれぞれね。
悪魔ちゃんが引用したアフォリズム『善悪の彼岸 第2章 自由な精神36』の結論部分を参考までに引用しておきます。
「すなわち、〈作用〉が認められるところではどこでも意志が意志に作用しているのではないか──そしてあらゆる機械的な事象は、そのなかにある力がはたらいているかぎり,それはまさに意志の力、意志の作用ではないか、という仮説である。──かくて結局においてわれわれの衝動的生の全体を、意志の唯一の根本形態──すなわち私の命題にしたがえば、権力の意志──の発展的な形成および分岐として説明することができたなら、また、すべての有機的機能をこの権力の意志に還元して、そのうちに生殖や栄養の問題の解決──これは一つの問題だが──をも見出すことができたならば、それによってわれわれはあらゆる作用する力を一義的に権力の意志として提起する権利を手に入れたことになろう。内部から観られた世界、この〈叡智的性格〉にしたがって規定され特色づけられた世界、──これこそはまさに〈権力の意志〉なのであって、そのほかの何ものでもないだろう。──(善悪の彼岸 第2章 自由な精神36)」
ニーチェが後に破棄した『権力への意志』に関するアフォリズム。 普遍的真理や根本的原理を誤謬とし、形而上学を否定したはずのニーチェが新たな形而上学的概念でもある「権力の意志」をでっちあげようととしたまさにそのプロセスにあるアフォリズム。
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