TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No36627 の記事


■36627 / )  Re[25]: 戒名外道論
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/24(Sat) 08:46:06)
    2024/02/24(Sat) 09:10:56 編集(投稿者)

    おはようございます、時さん。レスありがとうございます。

    No36620に返信(時さんの記事)

    > ・・時個人の現時点での判断は、個々人の機根(理解する度量・器・性格)に基づいて、気づく人は気づき、学ぶ人は学び、解脱する人は解脱すると言う”自覚なき運命”の糸のようなものに導かれているのではないかと感じます。そのような中で、時個人としてできうるのは・・こうして掲示板等の場所をお借りして時々書き込み、その学びの切っ掛けとなる書き込みを行う事だけでしょうか。それを目にした人の中で、個々人の中で何がしかの興味が湧けば、見てみようとする人は見るでしょうし、スルーする人はスルーするしと言った感じです。というわけで、今まで仏教を飯の種としてきた日本の僧侶たちが、門外漢であろう時ごときのお話に耳を傾けるとは思えません。

    > ですので、掲示板等で時個人は原始の内容を教えることができませんし、教える立場にも立てないのですね。例えば、教えることができたと仮定しても、それは教えられた人からすると他者(時)からのお話の内容で、その時点ではその人にとっての法灯明ではありません。いくら他者から学んだとしても、最終的には自らを拠り処として現代に残る仏典を基準に自らの感性で理解するほかはないのではないでしょうか。それが自灯明法灯明の理解だと思っています。

    > つまりは、時個人ができることというのは、その切っ掛けを作ることが精一杯だと感じますが、パニチェさんは、時のこの思いについてどのようにお考えになられるでしょうか。

    以下、私の意見をつらつらと書いてみますが興味のないところはスルーして下さい。

    結論から言えば上記の時さんのお考え、葬式・法事仏教を生業としている大半の日本の僧侶たちが異論・反論に対して耳を傾けるとは思いませんし、無用な論争へと発展する可能性もあるとは思います。よって最終的には僧侶や檀家も含め当人の機根によって縁があれば本来の仏道を知ることになるだろうし、問題提起する側も時さんが言うように本来の仏教へのそれなりの知識と見解が必要だとは思います。切っ掛けをつくることが精一杯というのも、現実的にはそうなんでしょうね。

    一方で私は大乗運動が生じた意義や価値も認める立場です。
    ご存じだとは思いますが、人里離れたところで自身の悟りや解脱に集中し修行や学究を主とした上座部仏教(小乗仏教)への反動として、自身の悟りや解脱よりも釈尊が行ったように民衆に向けて釈尊の教えや仏道を説くことを菩薩行とし重視すべきではないかという見解と運動が釈尊の遺骨をおさめた塔(ストゥーバ)を礼拝対象とし、この仏塔を守っていた在家信者を中心に生じました(この文章は大乗側からみた小乗という見解が主となっていますが)。

    上座部仏教的発想(自身の悟りを目指す)と大乗仏教的発想(民衆の教化によって苦を軽減させる)の双方、言い換えればこのバランス(中道)を重視すべきだと考えており、例え一人でも本来の仏道を知る切っ掛けになればそこから優秀な人が出てくる可能性もゼロではなく(日本人の無意識的な仏教的精神、排他的ではない和の心や他者を思いやる利他的発想も持ち合わせていることから)いつかは大きな流れとなり本来の仏教哲学が日本人的な思想として根付いてくるのではないかという期待もあります。

    大袈裟に言えば私は仏教哲学(融和的精神と利他の心)こそ世界平和への唯一の教義(道しるべ)だと考えています。

    私はニーチェファンでもあるのでツァラトゥストラでも描かれている山を下りて民衆の元へ向かう(ツァラトゥストラは“没落”と呼びます)ことの意義や価値も(例え無駄な努力であったとしても)認めています。

    『──そして或る朝、彼は曙光とともに起きて、太陽の前に歩み寄り、太陽に向かって次のように語った。「おまえ、大いなる天体よ!もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、お前の幸福はどうなることであろう!十年間おまえはここへわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしのワシとわたしのヘビとがいなかったら、おまえはおまえの光とおまえの道とに飽き果てたことであろう。だが、わたしたちは毎朝おまえを待ち、おまえからおまえの過剰を奪い取り、その代わりにおまえを祝福した。見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1-1)』

    物語の最初と最後が同じ場面となっており(永劫回帰を象徴する)、この曙光を音楽であらわしたのが有名なリヒャルト・シュトラウスの交響曲(交響詩)『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭部です。
    https://www.youtube.com/watch?v=91173MqgohI


    > 時個人の理想形ではないかもしれませんが、なにがしかの刺激という環境の形成はできたのかな?というのが率直な感想です^^ 後はパニチェさんご自身の機根にお任せとし、自覚なき運命の糸が、どこに、どのように伸びていくのかだけですね。時個人は、それに関して何も関与できませんので。

    ありがとうございます。

返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -