TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No36617 の記事


■36617 / )  Re[22]: 戒名外道論
□投稿者/ 時 -(2024/02/23(Fri) 13:16:03)
    パニチェさん、こんにちは。

    No36615に返信(パニチェさんの記事)

    > これはもはや仏教ではなく外道(仏教以外の教えという意)だろう。
    > こういう悪習を真正面から否定したり、批判する真っ当な坊主はこの国にはいないのか?

    多分ですが、そのような"真っ当な仏弟子"はおられないように思います。例えば、おられたとしても、それらを否定や批判はされないでしょう。

    なぜならば、自灯明法灯明の教えにより、仏陀の面前で〜を私は聞いたという話を誰かがしていた時には、他者(話をしていた誰か)の言う事を鵜呑みにせず、自らを拠り処にして(自燈明)賛同も歓喜もせず、非難もしないでその場を離れ、自らが法(現代ならば仏典)に照らして(法燈明)その内容の是非を知ればよいですよ。という意味合いの記載が原始にはあります。その上で、彼の言っていた事柄は、確かに仏陀の教えとしてある、それは仏陀の教えではないという事で確認しなさいよ。という事です。

    戒名料等で命をつなぐこと・・仏弟子(真っ当な坊主)ならば、行いません。

    ですので、その悪習を真正面から否定、批判する人物は、仏陀の教えを守ろうとする人の中にはおられないと思います。おられたとしても、少なくとも我々凡夫の見えるところには出てはこられないでしょう。

    時の個人的な想いとしては、大きな、小さなお寺に住んで車を所有し、家族を持ち、檀家からそれを布施と称して金品を受け取りつつ、命を長らえているのは・・本来的には仏陀が説いた事柄とは真逆の生活に思えます。邪命です。邪命(邪な暮らしによって生活を営む)を捨断し、八支聖道の正命(邪な暮らしを捨て、正しい暮らしによって生活を営む事)を具足するために励むのが、八支聖道の正精進だからです。

    この事柄も批判になる可能性がありますので、本来的に書く必要は無いのかもしれませんが。

    仏典を読めば読むほどに、偏った見解が消えてゆき、それに伴い議論はもとより論争なども起こり得なくなるのが実感できます。そして一般的に言われる孤独の世界に埋没していきますが、そこに仏陀の説いた”楽”があるように感じています。所謂、一般的な楽を超えた楽の世界です。そこが四禅定の始まりの処、初禅の境地だと感じています。

    そしてまた仏陀の言葉が心(意・識・想)に浮かびます。「あなた方が行うべきは2つです。聖なる沈黙か、法の話です」と。

    ここも時の個人的な想いですが、現在、仏陀は不在ですので出家はできません。あくまでも在家の立場での学びです。しかし仏典内でのほとんどが出家者に向けたものですので、、、当時の出家者に向けた多くの仏典内での言葉を、現代日本の在家として、どこをどのように解釈実践していくのか?という整合性のとり方を今までは考えていました。言い換えますと、日本の在家にありながらどれだけ当時の出家者の境地に近づけるか?ですね。

    > 少なくとも私は実社会では本名で生きて本名で死ぬ。

    パニチェさんらしい表現ですね。
返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -