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■36686 / inTopicNo.25)  Re[32]: アナパナと禅定
  
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/02(Sat) 15:12:39)
    パニチェさん レスありがとうございます

    >>思うに、呼吸を体験できるのはいま吸う息か、いま吐く息。これしかありえない。
    >>過去の呼吸や未来の呼吸は、どんな人間であろうと直接体験できない。過去や未来の呼吸は観念としての呼吸でしかない。
    >
    > ここもうちょっと詳しく教えて下さい。
    > 呼吸に意識を向けるのは言いかえれば今だけに意識を集中することだとも思うのですが、そこに過去や未来の呼吸というのは入り込む余地はないと思うんですが。。。。


    アナパナ、つまり呼吸それ自体を瞑想オブジェクトにする瞑想は、今ここを意識しようとするより、呼吸に気づいていって、今ここの呼吸だけを意識することをゴールにするものだと理解しています。

    それが簡単にはいかないというか、吸う息、吐く息だけを意識しようとしても、雑念が群がり起こってきます。


    ところで、言語は呼吸の変形だ思いませんか?私はそう思います。息を吐かずに言葉を発語することはできません。基本的に言葉をつかって考えることは、過去の呼吸の時の思考を再現反復することにならざるをえない。

    呼吸はいまここの吐く息吸う息しか直接体験できないのに、言葉や言語的想念に支配される人間は、いまここの呼吸を取り逃して、過去の呼吸の時の痕跡をコピーしてしまう。
引用返信/返信 削除キー/
■36683 / inTopicNo.26)  Re[31]: アナパナと禅定
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/02(Sat) 08:05:53)
    おはようございます、knowing itselfさん。横レス失礼します。

    No36670に返信(knowingitselfさんの記事)

    > アナパナが本当にできるなら、禅定に入れるのは時間の問題だといわれる。
    > そうはいってもアナパナは容易ではない。

    > なぜアナパナがかくも重要で、しかし難しいのか。
    > みなさん考えたことはありますか。
    > 思うに、呼吸を体験できるのはいま吸う息か、いま吐く息。これしかありえない。
    > 過去の呼吸や未来の呼吸は、どんな人間であろうと直接体験できない。過去や未来の呼吸は観念としての呼吸でしかない。

    ここもうちょっと詳しく教えて下さい。
    呼吸に意識を向けるのは言いかえれば今だけに意識を集中することだとも思うのですが、そこに過去や未来の呼吸というのは入り込む余地はないと思うんですが。。。。

引用返信/返信 削除キー/
■36670 / inTopicNo.27)  アナパナと禅定
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/27(Tue) 17:28:56)
    アナパナが本当にできるなら、禅定に入れるのは時間の問題だといわれる。

    そうはいってもアナパナは容易ではない。

    なぜアナパナがかくも重要で、しかし難しいのか。

    みなさん考えたことはありますか。

    思うに、呼吸を体験できるのはいま吸う息か、いま吐く息。これしかありえない。

    過去の呼吸や未来の呼吸は、どんな人間であろうと直接体験できない。過去や未来の呼吸は観念としての呼吸でしかない。
引用返信/返信 削除キー/
■36652 / inTopicNo.28)  Re[29]: 戒名外道論
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/25(Sun) 13:52:40)
    時さん、返信ありがとうございます。

    No36650に返信(時さんの記事)

    >>私は聖徳太子が仏教精神を政治的に体現した「十七条憲法(和をもって尊しとなす)」や神仏習合(外来の仏教と神道を融合させた)は日本人的な和の心を重んじる原点だと考えています。大乗仏教自体も日本に伝来する途上でインドや中国の神々も集合しており、仏教の懐の深さをあらわしていると思っています。

    > ご認識は、了解しました。時自身は、良く調べられてはいませんので漠然とした表現になるのですが、日本人的な和の心を重んじる原点は、縄文文化にあるように感じています。

    情報ありがとうございます。くぐってみたところ、沢山出てきました。
    和の心のルーツが縄文時代にもあるってことは知りませんでした。

    >>素晴らしい!その通りです。
    >>永劫回帰の問いに“Yes”と答えることは、最高にして最も厳しい自己肯定だと思います。
    >>現在の自分を肯定するなら、自身を形成したこれまでの生も全肯定せよ、と。

    > ありがとうございます。アドヴァイタの深い処での理解と共通するものがあるように感じました。akaimiさんならば、ご理解頂けそうですが^^

    > では、この辺りで。ご返信をありがとうございました。

    ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■36650 / inTopicNo.29)  Re[28]: 戒名外道論
□投稿者/ 時 -(2024/02/25(Sun) 12:17:29)
    2024/02/25(Sun) 12:48:10 編集(投稿者)

    パニチェさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36647に返信(パニチェさんの記事)

    > あと、結集が口伝中心で行われたのは釈尊の尊い教えは自らの身につけるべきもので、忘れないために書きとめるということからして、書きとめる行為自体が教えを身から離すことになると考えられていたようです。

    > 結集についてはピピットさんも返信されていましたが、第一回の結集は釈尊の死の翌年であり、口伝の期間は400年とも500年とも言われています。
    > 最初に文字にしたのはマウリア王朝の第三代のアショーカ王(BC269?〜BC232?第三結集が行われた時期)が上座部仏教の信者となり、石碑や摩崖に刻んだとのこと、(仏弟子による書写は諸説あるようですが一説には)BC100年頃に上座部の正統派マハーヴィハーラの比丘たちによって書写されたとのことでした。

    多くの情報を、ありがとうございます。

    > はい。私の中道解釈は拡大解釈だという自覚はありますが、実生活のさまざまな場面での指針にはしています。
    > 例えば子育てにおいても過保護も過放任もよくないとか、右だと思った時には左も想定してみて、自身のバランス感覚を省みる。。。etc。

    はい。その通りですね。時も可能な限り生活の中での指針にしています。ここ最近では当たり前になっているネット検索でも、どうしても興味のある事柄のみ、一方向のみの項目、内容を検索しがちになりますね。そうすると自らが良いと思う方の結果しか出てきません。ですので、自らにバイアスがかからないようにという意識のもと、対極の事柄も検索をかけたりします。他いろいろと書き出しますときりがないくらいです。

    > これは後学のためにお聞きします。
    > パーリ律蔵 大品(マハーヴァッガ)にある有名な「箜篌の喩」。釈尊が肉体を極限にまで追い詰める苦行から離れたとさせる逸話(中村元博士の見解によれば、後に創作されたエピソードとされているようですが)は、断・常の二見や有・無の二辺より、もう少し広範囲な教説だと思うのですが、如何でしょうか。

    https://zeropointbuddha.hatenablog.com/entry/veena_body1
    「箜篌の喩」このお話もどこかで見たような記憶がありますが、律蔵自体は見ていませんので、なんとも言えませんが、上記ページの内容がそれにあたるのであれば、時自身の理解でのこのお話の内容は、普通に素通りしています。張りすぎず緩めすぎず、ほどほどにね。と言った感じでしょうか。

    例えば、苦と楽の中間の不苦不楽を維持しなさい。というのがあった場合に、これは解釈次第ではほどほどですとか、ましてや中道ですというのも違うように思いますしね。その時々の対象により、その表現は変わるのではないでしょうか。

    仏陀が苦行から離れた時のお話は、苦行に明け暮れていた当時、このままでは駄目(証得できない)だろうという自らの判断で、固形の食を少しづつ取り始めたのですね。特段拘ることではないとは思うのですが、経典の中にその言葉表現としての定義があるのであれば、一応、その通りに理解しているだけなのです。

    > 私は聖徳太子が仏教精神を政治的に体現した「十七条憲法(和をもって尊しとなす)」や神仏習合(外来の仏教と神道を融合させた)は日本人的な和の心を重んじる原点だと考えています。大乗仏教自体も日本に伝来する途上でインドや中国の神々も集合しており、仏教の懐の深さをあらわしていると思っています。

    ご認識は、了解しました。時自身は、良く調べられてはいませんので漠然とした表現になるのですが、日本人的な和の心を重んじる原点は、縄文文化にあるように感じています。

    > 素晴らしい!その通りです。
    > 永劫回帰の問いに“Yes”と答えることは、最高にして最も厳しい自己肯定だと思います。
    > 現在の自分を肯定するなら、自身を形成したこれまでの生も全肯定せよ、と。

    ありがとうございます。アドヴァイタの深い処での理解と共通するものがあるように感じました。akaimiさんならば、ご理解頂けそうですが^^

    では、この辺りで。ご返信をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■36648 / inTopicNo.30)  Re[28]: 戒名外道論
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/25(Sun) 09:50:23)
    2024/02/25(Sun) 09:58:39 編集(投稿者)

    おはようございます、ピピットさん。レスありがとうございます。

    No36635に返信(pipitさんの記事)
    > お釈迦さまが亡くなられた時、ある一人の弟子の、「あーうるさく言う人がいなくなったーこれから好きなことできるぞー」みたいな発言を聞いたマハーカッサパ長老(阿羅漢)が、こりゃいかん、教えをまとめるぞー、と、阿羅漢ばかりのメンバー限定で教えの編集を行ったそうです。(第一結集)

    はい、釈尊の死の翌年、摩訶迦葉を中心として行われた第一結集ですね。
    この時、集まったのが500人と言われており、各地にある五百羅漢像は結集(第一結集または第四結集)に参加した阿羅漢のことのようです。

    > 当時のインドは口伝文化だったので、各グループが経典を担当分けして伝承していたのですが、ある時飢饉や戦争などで比丘の数がすごく減ってしまって、初めて葉っぱに書写して文字化して伝えようと決意されたそうです。(第四結集)

    他かに調べたところ文字として書写されたのは第四結集が行われた時期のようですね。
    「誰によって?」というのは諸説あるようです。

    > この話を聞いてpipitが思うのは、第一結集での阿羅漢のお坊様たちの利他の行いです。
    > お釈迦さまもそうですよね、利他行されて説法されました。
    > 大乗仏教も元来はすごく優しい心から生まれたものだとpipitは思っています。
    > (でも戒名で大金を要求するとかは仏教として変だ、と思います。)
    > 伝言ゲームのように変質を免れるものはなにもなく、生じたものは滅していくのかなとも思います。
    > それぞれ少しでもいい方向に進むといいですね!

    同意です。

引用返信/返信 削除キー/
■36647 / inTopicNo.31)  Re[27]: 戒名外道論
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/25(Sun) 09:24:39)
    おはようございます、時さん。レスありがとうございます。

    No36631に返信(時さんの記事)
    >>一方で私は大乗運動が生じた意義や価値も認める立場です。

    > パニチェさんのご認識は了解しました。

    >>ご存じだとは思いますが、人里離れたところで自身の悟りや解脱に集中し修行や学究を主とした上座部仏教(小乗仏教)への反動として、自身の悟りや解脱よりも釈尊が行ったように民衆に向けて釈尊の教えや仏道を説くことを菩薩行とし重視すべきではないかという見解と運動が釈尊の遺骨をおさめた塔(ストゥーバ)を礼拝対象とし、この仏塔を守っていた在家信者を中心に生じました(この文章は大乗側からみた小乗という見解が主となっていますが)。

    > 時自身の現在での思いは、もともとが仏陀ありきでの教えであり、仏陀自身は文字で何も書き残してはいません。恐らくその理由は簡単で、それ(教え)に対して固執がないとき、書き記すという事(行為)が起こるでしょうか?という事だと思います。答えは否でしょう。

    同意しますが、他の理由としては当時の慣習として文字は商業用として使われていたとか、文字に残すことよりも、今、目の前にいる人たちの苦を軽減させるための説法(活動)を優先したとかいろいろとあるとは思います。

    あと、結集が口伝中心で行われたのは釈尊の尊い教えは自らの身につけるべきもので、忘れないために書きとめるということからして、書きとめる行為自体が教えを身から離すことになると考えられていたようです。

    > 半面、仏典という書き記されたものがあったので、現代でもそれを日本語訳として我々でも目にすることができるというのも事実だと思います。
    > 仮に当時、教えを受けた人々全員が阿羅漢果クラスになっていたとするならば、書き記すものは何もなかったのだと思いますが、必然的に、まだ学びの途中の弟子たちが多くいて、忘れなうちにと書き記したという事だと思っています。つまり、当時、修業中でありまだ固執があった比丘たちがいたお陰で現在にまで伝わる仏典軍が残っていると想像しています。表現が適切かはわかりませんが、怪我の功名でしょうか。

    同意です。
    結集についてはピピットさんも返信されていましたが、第一回の結集は釈尊の死の翌年であり、口伝の期間は400年とも500年とも言われています。
    最初に文字にしたのはマウリア王朝の第三代のアショーカ王(BC269?〜BC232?第三結集が行われた時期)が上座部仏教の信者となり、石碑や摩崖に刻んだとのこと、(仏弟子による書写は諸説あるようですが一説には)BC100年頃に上座部の正統派マハーヴィハーラの比丘たちによって書写されたとのことでした。

    > その仏典軍の中には、当時の仏陀の言葉や論理、行為が多く記載されていますので、結果的に、時個人の知りたいことが記載されているのですね。自灯明法灯明と言うことで、仏陀ではない時には、それで十二分だと感じています。
    > 仏陀の死後、部派だ大乗だ小乗だと分岐してきた事は、その当時の弟子たち夫々の解釈によるものだと考えていますので、時にとっては無関係なことだと認識しています。
    > 仮に、、、当時の大乗だ小乗だと分岐する時のその場に、今現在の仏典内容の解釈をしている時が存在していたとするならば(時代背景が矛盾しますが)、、現在の解釈を持って、どこにも属さないのではないかと思います。あくまでも学びは個人の学びで、自灯明法灯明だと考えるからです。


    >>上座部仏教的発想(自身の悟りを目指す)と大乗仏教的発想(民衆の教化によって苦を軽減させる)の双方、言い換えればこのバランス(中道)を重視すべきだと考えており、
    > 中道とは、実在論と虚無論の2種類の誤見にこの世の人々の多くが固執するようなことは避けて(二元での価値判断基準を避けて)、物事の両極端に近づかないという意味の記載があります。それを学ぶのも八支聖道です。
    > ですので、パニチェさんの解釈される、上座部仏教的発想(自身の悟りを目指す)と大乗仏教的発想(民衆の教化によって苦を軽減させる)の双方、言い換えればこのバランス(中道)を重視すべきだと考えておられという内容は、勿論了解しますが、時個人は、中道をこのような捉え方はしないと思います。

    はい。私の中道解釈は拡大解釈だという自覚はありますが、実生活のさまざまな場面での指針にはしています。
    例えば子育てにおいても過保護も過放任もよくないとか、右だと思った時には左も想定してみて、自身のバランス感覚を省みる。。。etc。

    これは後学のためにお聞きします。
    パーリ律蔵 大品(マハーヴァッガ)にある有名な「箜篌の喩」。釈尊が肉体を極限にまで追い詰める苦行から離れたとさせる逸話(中村元博士の見解によれば、後に創作されたエピソードとされているようですが)は、断・常の二見や有・無の二辺より、もう少し広範囲な教説だと思うのですが、如何でしょうか。

    >>例え一人でも本来の仏道を知る切っ掛けになればそこから優秀な人が出てくる可能性もゼロではなく(日本人の無意識的な仏教的精神、排他的ではない和の心や他者を思いやる利他的発想も持ち合わせていることから)いつかは大きな流れとなり本来の仏教哲学が日本人的な思想として根付いてくるのではないかという期待もあります。
    > はい、そうですね。それらへの期待もほんの少しはありますが、、それらも含めて、時個人は運命にお任せし、今まで通りその運命を受けいれると思います。

    了解しました。

    >>大袈裟に言えば私は仏教哲学(融和的精神と利他の心)こそ世界平和への唯一の教義(道しるべ)だと考えています。
    > これは仏教哲学とは言わずとも、古来から受け継がれてる日本文化の精神、おもてなしの文化、配慮や思いやりの心を、日本人が取り戻せれば良いように時個人は思っています。

    私は聖徳太子が仏教精神を政治的に体現した「十七条憲法(和をもって尊しとなす)」や神仏習合(外来の仏教と神道を融合させた)は日本人的な和の心を重んじる原点だと考えています。大乗仏教自体も日本に伝来する途上でインドや中国の神々も集合しており、仏教の懐の深さをあらわしていると思っています。

    > 全く詳しくはないのですが、ここで永遠回帰という概念について少し考えてみました。
    > 永劫回帰を、あらゆる出来事が今までと同じ順番で、永遠に繰り返し起こるような世界と仮定してみます。
    > 問いは、そのあなたの人生を肯定できますか?とします。
    > 答えは、Yesです。

    > 理由は、時の人生哲学で、全く同じという概念は存在しませんが、仮に存在するとしてという事を考えてみました。そこで、今現在では、前世の記憶は想像の中にありますが、確定的な事が言えないのが現状です。ですので、永遠回帰の思想では、同じことの繰り返しですね。つまりは、来世に、また、来来世にも同じことが起こるのであれば、今を観れば来るべき来世のその時(瞬間)と同じです。
    > 仏教の輪廻転生思想とは似て非なるもののように感じますが、原始には、危難がないなら厭離しないという表現があります。
    > 危難(苦しみ・患い・災難)がこの世間にないのであれば、人々は、厭離(それを嫌って離れること)を望みませんと言う意味ですが、その為に梵行が実行され、時個人はそれ(厭離)を目指しました。
    > 永遠回帰のお話に戻すと、自らの苦しみや災いを滅しつつの現在の環境が、もう一度来世にも起こるのであれば現世と同じことになり、現在、前世の記憶がはっきりとしていないという事は、来世でも同じことですね。
    > つまり、永遠回帰の問いは、現在、今の現状である今現在の人生を肯定できますか?と言う問いだと思いましたので、答えはYesになりました。

    素晴らしい!その通りです。
    永劫回帰の問いに“Yes”と答えることは、最高にして最も厳しい自己肯定だと思います。
    現在の自分を肯定するなら、自身を形成したこれまでの生も全肯定せよ、と。

引用返信/返信 削除キー/
■36645 / inTopicNo.32)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/25(Sun) 00:29:49)
    こんばんは!返信ありがとうございます♪

    No36643
    > ある粗暴な人々の住む地方に遊行に出たいと仏陀に申し出て、了解されたものならば、
    >
    > ・中部経典145経のブンナ教誡経(中部経典 後分五十篇 六処品 145 プンナ教誡経)
    > ・相応部経典 4-35-88 (相応部 六処篇 六処相応 チャンナ品 プンナ経) <


    わーい、また光明寺さまのホームページなどで読ませていただきますね!
    ありがとうございます(*^◯^*)
    感謝ですm(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■36643 / inTopicNo.33)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/02/25(Sun) 00:20:41)
    pipitさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No36641に返信(pipitさんの記事)

    > 【律蔵】の けん度(けんど)・小品(しょうほん)・「五百結集けん度 」にあるようです。

    ありがとうございます。律蔵でしたか。僧伽内での規則集ですかね。経典で手いっぱいで、律蔵は見たことがありませんでした。(リンク先も拝見しました)

    > 兄上さま、私、釈尊が阿羅漢にこの教えを伝えるために遊行しなさい、とおっしゃった経典を今回探しているのですがまだ見つけられないのですがご存知でしょうか
    > (*_*)?

    ある粗暴な人々の住む地方に遊行に出たいと仏陀に申し出て、了解されたものならば、

    ・中部経典145経のブンナ教誡経(中部経典 後分五十篇 六処品 145 プンナ教誡経)
    ・相応部経典 4-35-88 (相応部 六処篇 六処相応 チャンナ品 プンナ経) 

    でしょうか。それ以外だと・・すみません。今は分かりません。 m(__)m

    > 横レスしてすみませんでしたm(_ _)m
    > いつもありがとうございます!

    いえいえ、こちらこそいつもお付き合いをありがとうございます。横レスはいつでもご自由にどうぞ。^^

    しかし時の書き込みをあらためてみると、、、日本語で書いてはいるのですが、まるで外国語の文章ようですね(笑)
引用返信/返信 削除キー/
■36641 / inTopicNo.34)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/24(Sat) 21:56:42)
    2024/02/24(Sat) 21:57:28 編集(投稿者)

    兄上さま、返信ありがとうございます!

    No36638
    > ん?このお話は、どこかで見たように思うなぁという事で探してみたところ、前段の「あーうるさく言う人がいなくなったーこれから好きなことできるぞー」みたいな発言というのは、長部16経の大般涅槃経に記載があるようです。が、後段の「こりゃいかん、教えをまとめるぞー」的なマハーカッサパの発言らしきものが、実際にはあるのかもしれませんが、現時点では見つかっていません。でも多分、この辺りがpipitさんが仰る第一結集の切っ掛けとなるのでしょうね。<

    【律蔵】の けん度(けんど)・小品(しょうほん)・「五百結集けん度 」にあるようです。
    wiki↓

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%8D%E5%BA%A6

    ↓英訳を見つけました(*_*)

    https://suttacentral.net/pli-tv-kd21/en/brahmali?lang=en&layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin

    『Then Venerable Mahakassapa addressed the monks:
    (マハーカッサパ尊者は修行僧たちに語りかけました)』

    と始まり、途中でスバッダさんの発言が取り上げられて、直後に、

    『英訳略
    (それでは、教えと律を合誦(ごうじゅ)しましょうー教えに反するものが光り輝き、教えが妨げられる前に)』

    などと宣言され、その後500人を任命して雨季のラージャガハで結集されたようです。

    > 時は、仏典以外の歴史的事実(と思われる)事柄については詳しくなく、どちらかといえば、基本的に分からないというのが本音であり、スタンスなのですね。
    >
    > 歴史的には、仏陀の没後に大乗や小乗等に分かれていったのでしょう。しかしこれは、、仏教の歴史辞典的な学者になろうとは考えていない、現代日本で生活している時には無関係な事なのですね。。。時にとって重要なことは、その仏典内容のみでしょうか。ですので、それ以外の事柄につきましては、ほぼ無知なのです(笑)どこかでも書いたかもしれませんが、仏陀は何を説いていたのか?だけが時にとっての重要項目であり、果たしてそれが実践可能なのか?が重要なのです。
    >
    > 仏陀が存命中には分裂しなかった僧伽が、その没後に分裂したという事のみ、知っていることなのですね。そして時に巷で聞く様な利他の大乗、利己の小乗と時は分けられないのです。(一般的に言われていることは承知していますが)上手く伝わるでしょうか。<

    はい、私が不出来なのでわかってないと思うのですが、兄上のおっしゃりたいことが私に理解できたらいいなーと思っています(^ ^)

    兄上さま、私、釈尊が阿羅漢にこの教えを伝えるために遊行しなさい、とおっしゃった経典を今回探しているのですがまだ見つけられないのですがご存知でしょうか
    (*_*)?
    岩波文庫にあったと思ってパラパラ探してるんですけど、なくて、、、あれー?

    でももしあったとしてもこれはきちんと悟った阿羅漢に向けてですもんね

    まず自分が精進しなくちゃと思ってますp(^_^)q←怠け者

    横レスしてすみませんでしたm(_ _)m
    いつもありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■36638 / inTopicNo.35)  Re[28]: 戒名外道論
□投稿者/ 時 -(2024/02/24(Sat) 20:04:44)
    pipitさんへ。こんばんは。ご返信並びに貴重な情報をありがとうございます。

    No36635に返信(pipitさんの記事)

    > お釈迦さまが亡くなられた時、ある一人の弟子の、「あーうるさく言う人がいなくなったーこれから好きなことできるぞー」みたいな発言を聞いたマハーカッサパ長老(阿羅漢)が、こりゃいかん、教えをまとめるぞー、と、阿羅漢ばかりのメンバー限定で教えの編集を行ったそうです。(第一結集)

    ん?このお話は、どこかで見たように思うなぁという事で探してみたところ、前段の「あーうるさく言う人がいなくなったーこれから好きなことできるぞー」みたいな発言というのは、長部16経の大般涅槃経に記載があるようです。が、後段の「こりゃいかん、教えをまとめるぞー」的なマハーカッサパの発言らしきものが、実際にはあるのかもしれませんが、現時点では見つかっていません。でも多分、この辺りがpipitさんが仰る第一結集の切っ掛けとなるのでしょうね。

    > 当時のインドは口伝文化だったので、各グループが経典を担当分けして伝承していたのですが、ある時飢饉や戦争などで比丘の数がすごく減ってしまって、初めて葉っぱに書写して文字化して伝えようと決意されたそうです。(第四結集)

    > https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E9%9B%86

    貴重な情報をありがとうございます。m(__)m

    > この話を聞いてpipitが思うのは、第一結集での阿羅漢のお坊様たちの利他の行いです。
    > お釈迦さまもそうですよね、利他行されて説法されました。

    > 大乗仏教も元来はすごく優しい心から生まれたものだとpipitは思っています。
    > (でも戒名で大金を要求するとかは仏教として変だ、と思います。)

    そうですね。時の仏典内容から受ける印象でも、憐憫の情で仏陀は説いていたようですので、利他での行為ですね。

    時は、仏典以外の歴史的事実(と思われる)事柄については詳しくなく、どちらかといえば、基本的に分からないというのが本音であり、スタンスなのですね。

    歴史的には、仏陀の没後に大乗や小乗等に分かれていったのでしょう。しかしこれは、、仏教の歴史辞典的な学者になろうとは考えていない、現代日本で生活している時には無関係な事なのですね。。。時にとって重要なことは、その仏典内容のみでしょうか。ですので、それ以外の事柄につきましては、ほぼ無知なのです(笑)どこかでも書いたかもしれませんが、仏陀は何を説いていたのか?だけが時にとっての重要項目であり、果たしてそれが実践可能なのか?が重要なのです。

    仏陀が存命中には分裂しなかった僧伽が、その没後に分裂したという事のみ、知っていることなのですね。そして時に巷で聞く様な利他の大乗、利己の小乗と時は分けられないのです。(一般的に言われていることは承知していますが)上手く伝わるでしょうか。

    貴重な情報をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■36635 / inTopicNo.36)  Re[27]: 戒名外道論
□投稿者/ pipit -(2024/02/24(Sat) 18:29:50)
    パニチェさん、時さん、こんばんは(^○^)

    横レス失礼します。

    pipitには何が事実かはわかりませんけど、パーリ経典を伝えてきたグループ内での伝承を本などで読んだのでお伝えします。(記憶違いしてたらすみません。もし元になった各文章を読みたいときは当該箇所を探してみますのでおっしゃってください)

    お釈迦さまが亡くなられた時、ある一人の弟子の、「あーうるさく言う人がいなくなったーこれから好きなことできるぞー」みたいな発言を聞いたマハーカッサパ長老(阿羅漢)が、こりゃいかん、教えをまとめるぞー、と、阿羅漢ばかりのメンバー限定で教えの編集を行ったそうです。(第一結集)

    当時のインドは口伝文化だったので、各グループが経典を担当分けして伝承していたのですが、ある時飢饉や戦争などで比丘の数がすごく減ってしまって、初めて葉っぱに書写して文字化して伝えようと決意されたそうです。(第四結集)

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E9%9B%86


    この話を聞いてpipitが思うのは、第一結集での阿羅漢のお坊様たちの利他の行いです。
    お釈迦さまもそうですよね、利他行されて説法されました。

    大乗仏教も元来はすごく優しい心から生まれたものだとpipitは思っています。
    (でも戒名で大金を要求するとかは仏教として変だ、と思います。)

    伝言ゲームのように変質を免れるものはなにもなく、生じたものは滅していくのかなとも思います。

    それぞれ少しでもいい方向に進むといいですね!

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