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No36631 の記事


■36631 / )  Re[26]: 戒名外道論
□投稿者/ 時 -(2024/02/24(Sat) 13:25:55)
    2024/02/24(Sat) 13:44:43 編集(投稿者)

    パニチェさんへ。こんにちは。ご丁寧な返信をありがとうございます。

    No36627に返信(パニチェさんの記事)

    >>つまりは、時個人ができることというのは、その切っ掛けを作ることが精一杯だと感じますが、パニチェさんは、時のこの思いについてどのようにお考えになられるでしょうか。

    > 以下、私の意見をつらつらと書いてみますが興味のないところはスルーして下さい。

    了解しました。

    > 結論から言えば上記の時さんのお考え、葬式・法事仏教を生業としている大半の日本の僧侶たちが異論・反論に対して耳を傾けるとは思いませんし、無用な論争へと発展する可能性もあるとは思います。よって最終的には僧侶や檀家も含め当人の機根によって縁があれば本来の仏道を知ることになるだろうし、問題提起する側も時さんが言うように本来の仏教へのそれなりの知識と見解が必要だとは思います。切っ掛けをつくることが精一杯というのも、現実的にはそうなんでしょうね。

    ご理解いただきありがとうございます。

    > 一方で私は大乗運動が生じた意義や価値も認める立場です。

    パニチェさんのご認識は了解しました。

    > ご存じだとは思いますが、人里離れたところで自身の悟りや解脱に集中し修行や学究を主とした上座部仏教(小乗仏教)への反動として、自身の悟りや解脱よりも釈尊が行ったように民衆に向けて釈尊の教えや仏道を説くことを菩薩行とし重視すべきではないかという見解と運動が釈尊の遺骨をおさめた塔(ストゥーバ)を礼拝対象とし、この仏塔を守っていた在家信者を中心に生じました(この文章は大乗側からみた小乗という見解が主となっていますが)。

    時自身の現在での思いは、もともとが仏陀ありきでの教えであり、仏陀自身は文字で何も書き残してはいません。恐らくその理由は簡単で、それ(教え)に対して固執がないとき、書き記すという事(行為)が起こるでしょうか?という事だと思います。答えは否でしょう。

    半面、仏典という書き記されたものがあったので、現代でもそれを日本語訳として我々でも目にすることができるというのも事実だと思います。

    仮に当時、教えを受けた人々全員が阿羅漢果クラスになっていたとするならば、書き記すものは何もなかったのだと思いますが、必然的に、まだ学びの途中の弟子たちが多くいて、忘れなうちにと書き記したという事だと思っています。つまり、当時、修業中でありまだ固執があった比丘たちがいたお陰で現在にまで伝わる仏典軍が残っていると想像しています。表現が適切かはわかりませんが、怪我の功名でしょうか。

    その仏典軍の中には、当時の仏陀の言葉や論理、行為が多く記載されていますので、結果的に、時個人の知りたいことが記載されているのですね。自灯明法灯明と言うことで、仏陀ではない時には、それで十二分だと感じています。

    仏陀の死後、部派だ大乗だ小乗だと分岐してきた事は、その当時の弟子たち夫々の解釈によるものだと考えていますので、時にとっては無関係なことだと認識しています。

    仮に、、、当時の大乗だ小乗だと分岐する時のその場に、今現在の仏典内容の解釈をしている時が存在していたとするならば(時代背景が矛盾しますが)、、現在の解釈を持って、どこにも属さないのではないかと思います。あくまでも学びは個人の学びで、自灯明法灯明だと考えるからです。

    > 上座部仏教的発想(自身の悟りを目指す)と大乗仏教的発想(民衆の教化によって苦を軽減させる)の双方、言い換えればこのバランス(中道)を重視すべきだと考えており、

    中道とは、実在論と虚無論の2種類の誤見にこの世の人々の多くが固執するようなことは避けて(二元での価値判断基準を避けて)、物事の両極端に近づかないという意味の記載があります。それを学ぶのも八支聖道です。

    ですので、パニチェさんの解釈される、上座部仏教的発想(自身の悟りを目指す)と大乗仏教的発想(民衆の教化によって苦を軽減させる)の双方、言い換えればこのバランス(中道)を重視すべきだと考えておられという内容は、勿論了解しますが、時個人は、中道をこのような捉え方はしないと思います。

    > 例え一人でも本来の仏道を知る切っ掛けになればそこから優秀な人が出てくる可能性もゼロではなく(日本人の無意識的な仏教的精神、排他的ではない和の心や他者を思いやる利他的発想も持ち合わせていることから)いつかは大きな流れとなり本来の仏教哲学が日本人的な思想として根付いてくるのではないかという期待もあります。

    はい、そうですね。それらへの期待もほんの少しはありますが、、それらも含めて、時個人は運命にお任せし、今まで通りその運命を受けいれると思います。

    > 大袈裟に言えば私は仏教哲学(融和的精神と利他の心)こそ世界平和への唯一の教義(道しるべ)だと考えています。

    これは仏教哲学とは言わずとも、古来から受け継がれてる日本文化の精神、おもてなしの文化、配慮や思いやりの心を、日本人が取り戻せれば良いように時個人は思っています。

    > 私はニーチェファンでもあるのでツァラトゥストラでも描かれている山を下りて民衆の元へ向かう(ツァラトゥストラは“没落”と呼びます)ことの意義や価値も(例え無駄な努力であったとしても)認めています。

    はい。パニチェさんのご認識は了解しました。

    > 『──そして或る朝、彼は曙光とともに起きて、太陽の前に歩み寄り、太陽に向かって次のように語った。「おまえ、大いなる天体よ!もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、お前の幸福はどうなることであろう!十年間おまえはここへわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしのワシとわたしのヘビとがいなかったら、おまえはおまえの光とおまえの道とに飽き果てたことであろう。だが、わたしたちは毎朝おまえを待ち、おまえからおまえの過剰を奪い取り、その代わりにおまえを祝福した。見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1-1)』

    ありがとうございます。

    > 物語の最初と最後が同じ場面となっており(永劫回帰を象徴する)、この曙光を音楽であらわしたのが有名なリヒャルト・シュトラウスの交響曲(交響詩)『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭部です。
    > https://www.youtube.com/watch?v=91173MqgohI

    この曲の名前は知りませんでしたが、よく耳にする音楽ですね^^

    全く詳しくはないのですが、ここで永遠回帰という概念について少し考えてみました。

    永劫回帰を、あらゆる出来事が今までと同じ順番で、永遠に繰り返し起こるような世界と仮定してみます。

    問いは、そのあなたの人生を肯定できますか?とします。

    答えは、Yesです。

    理由は、時の人生哲学で、全く同じという概念は存在しませんが、仮に存在するとしてという事を考えてみました。そこで、今現在では、前世の記憶は想像の中にありますが、確定的な事が言えないのが現状です。ですので、永遠回帰の思想では、同じことの繰り返しですね。つまりは、来世に、また、来来世にも同じことが起こるのであれば、今を観れば来るべき来世のその時(瞬間)と同じです。

    仏教の輪廻転生思想とは似て非なるもののように感じますが、原始には、危難がないなら厭離しないという表現があります。

    危難(苦しみ・患い・災難)がこの世間にないのであれば、人々は、厭離(それを嫌って離れること)を望みませんと言う意味ですが、その為に梵行が実行され、時個人はそれ(厭離)を目指しました。

    永遠回帰のお話に戻すと、自らの苦しみや災いを滅しつつの現在の環境が、もう一度来世にも起こるのであれば現世と同じことになり、現在、前世の記憶がはっきりとしていないという事は、来世でも同じことですね。

    つまり、永遠回帰の問いは、現在、今の現状である今現在の人生を肯定できますか?と言う問いだと思いましたので、答えはYesになりました。
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