| knowing itselfさん、良書を紹介いただき、ありがとうございました。
「ラマナ・マルハシの教え」を読んで、ちょうど今から10年前、密教行者のゴウさんから「逆にくだらない体験に引きずられると、この段階で停滞して足踏み状態に陥ります。そのような修行者が沢山います。ですからパニさんは、対話を通して、限界まで脳を使ってください。体験を求めないでください・・・。掲示板の対話でここから先に進むのは、私(ゴウ)にとっても初めての試みですから、解りづらい点が多々あるでしょうが、そのときは立ち止まって確認しながらゆっくり進めましましょう。」と言ってもらったことが思い出された。
マハルシは5つの実践(アビャ−サ)を上げている。1.ストゥティ(帰依と賛歌)、2.ジャパ(称名、マントラを唱える)、3.ディヤーナ(帰依とジャパ)、4.ヨーガ、5.ジュニャーナ(問いかけの道〈ヴィチャーラ〉)を説く。
5番目のジュニャーナは「私とは誰か」と問い続ける探究であり、アハム・ヴリッティ(私であること)が立ち上がるその源に潜りこむことによって、主体から分離された存在であることを止め、主客合一の自己、つまりハート(真我)であるところのプラジュニャーナ(絶対知識あるいは般若)に至る道である。プラジュニャーナは般若心経の六不(不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)、金剛般若経で説かれる如来、即ちブラフマンに他ならない。
レベルは全く異なるが、私がライフワークならぬライフホビーとしている「比類なき先言の<私>」の探究を「言語と論理による見性悟道」と想定していることも、アートマ・ヴィチャーラ(自己探究)やジュニャーナ(知識の探究)の道であり、そんなに的外れではないことが、ゴウさんのかつての言葉や「ラマナ・マルハシの教え」を読み終えて知り得たことは大きな収穫であった。
もうひとつの収穫はknowing itselfさんに解説いただいたこともあり、自己の本性であるところのプラジュニャーナは三つの心の状態(眼覚め、夢、眠り〈夢を見ていない睡眠〉)のうち眠りの状態であり、この三つの状態は睡眠中はもちろん、起きている状態でも一貫して継続しているということである。つまり「私は○○である」と表現できるところの私ではなく、言語表現不可能な「比類なき先言の<私>」は映像を映す純白のスクリーンに例えられるように、今も、ここに、こうして、夢を見ていない睡眠の如く無色透明にしてある、ということ。
アートマ・ヴィチャーラ(自己探究)からプラジュニャーナ(絶対知識あるいは般若)に至るプロセスは、道元禅師が正法眼蔵の現成公案で述べた「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」と全く同じであり、国や時代や宗派を超えた覚者の言葉であり、永久の指針となる。
途上で終わろうとも修証一等(修行と悟りは一如)を胸にアートマ・ヴィチャーラの道を行こうと思えた。
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