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■3893 / inTopicNo.61)  Re[25]: 再び >「言語批判」について
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/12(Sun) 19:43:40)
    レスありがとうございます。


    >>今日のやり取りの振り出しに戻りますが、Bの科学言語批判があてはまる局面といえないこともないと思います。哲学は科学的言語に先行するものであつて、科学の成果とは一応切り離すべきだというのがカント的だと思います。
    >
    > 以下、少し的外れになるかもしれませんが。。。
    > カントはともかく、私にとっては哲学も脳科学も仏教も〈私〉を探究する道具でしかないんです。^^
    > それらをひっくるめて哲学と考えています。

    もちろん、承知しています。

引用返信/返信 削除キー/
■3891 / inTopicNo.62)  Re[24]: 再び >「言語批判」について
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 18:35:04)
    2020/07/12(Sun) 18:53:02 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No3890に返信(knowing itselfさんの記事)
    > レスありがとうございます。
    >
    > >>なお、カントは認識の対象としては形而上学的なものを捨てましたが、認識の装置・形式としては「経験領域を超えた」ものを温存していると思います。感覚体験がそれを通して初めて可能になる時間と空間は、先天的(アプリオリ)な形式です。科学や哲学もそれなくして不可能といえる悟性のカテゴリーも先天的(アプリオリ)です。

    >>なるほど。空間認識ついては私は体性感覚野をはじめとした脳の機能(DNAに組み込まれた設計図)と考えてますが、これをカントの時代に先天的(アプリオリ)な形式と捉えたところは慧眼だと思います。過去から未来へ不可逆に流れているかのような時間感覚は幻想であり、運動を記述するために持ち出した仮象だと考えていますが。。。

    > 今日のやり取りの振り出しに戻りますが、Bの科学言語批判があてはまる局面といえないこともないと思います。哲学は科学的言語に先行するものであつて、科学の成果とは一応切り離すべきだというのがカント的だと思います。

    以下、少し的外れになるかもしれませんが。。。
    カントはともかく、私にとっては哲学も脳科学も仏教も〈私〉を探究する道具でしかないんです。^^
    それらをひっくるめて哲学と考えています。

引用返信/返信 削除キー/
■3890 / inTopicNo.63)  Re[23]: 再び >「言語批判」について
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/12(Sun) 17:47:48)
    レスありがとうございます。

    >>なお、カントは認識の対象としては形而上学的なものを捨てましたが、認識の装置・形式としては「経験領域を超えた」ものを温存していると思います。感覚体験がそれを通して初めて可能になる時間と空間は、先天的(アプリオリ)な形式です。科学や哲学もそれなくして不可能といえる悟性のカテゴリーも先天的(アプリオリ)です。
    >
    > なるほど。空間認識ついては私は体性感覚野をはじめとした脳の機能(DNAに組み込まれた設計図)と考えてますが、これをカントの時代に先天的(アプリオリ)な形式と捉えたところは慧眼だと思います。過去から未来へ不可逆に流れているかのような時間感覚は幻想であり、運動を記述するために持ち出した仮象だと考えていますが。。。

    今日のやり取りの振り出しに戻りますが、Bの科学言語批判があてはまる局面といえないこともないと思います。哲学は科学的言語に先行するものであつて、科学の成果とは一応切り離すべきだというのがカント的だと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■3887 / inTopicNo.64)  Re[22]: 再び >「言語批判」について
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 16:46:11)
    No3885に返信(knowing itselfさんの記事)

    > これこそがプラトニズムですね。こういった価値観に導かれた思索の展開が緻密な論理や体系を生み出して、西洋文明における哲学や数学、科学などの土壌になったことは否定できないと思います。経験主義一本ヤリではそういうことはなかったのでは?

    なるほど!欠陥ではなく原動力ですね。
    knowing itselfさんは私より遥に懐が深い。^^
    確かにもともと形而下は自然科学でしたからね。

    > なお、カントは認識の対象としては形而上学的なものを捨てましたが、認識の装置・形式としては「経験領域を超えた」ものを温存していると思います。感覚体験がそれを通して初めて可能になる時間と空間は、先天的(アプリオリ)な形式です。科学や哲学もそれなくして不可能といえる悟性のカテゴリーも先天的(アプリオリ)です。

    なるほど。空間認識ついては私は体性感覚野をはじめとした脳の機能(DNAに組み込まれた設計図)と考えてますが、これをカントの時代に先天的(アプリオリ)な形式と捉えたところは慧眼だと思います。過去から未来へ不可逆に流れているかのような時間感覚は幻想であり、運動を記述するために持ち出した仮象だと考えていますが。。。
引用返信/返信 削除キー/
■3885 / inTopicNo.65)  Re[21]: 再び >「言語批判」について
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/12(Sun) 16:26:33)
    レスありがとうございます。

    > ありがとうございます。ところでknowing itselfさんは「人間の経験領域をこえた事柄を、経験から独立した理性的思惟によって、先天的に認識していく」ことなんて可能だと思いますか?
    > 私は幻想だと思うんですよ。

    これこそがプラトニズムですね。こういった価値観に導かれた思索の展開が緻密な論理や体系を生み出して、西洋文明における哲学や数学、科学などの土壌になったことは否定できないと思います。経験主義一本ヤリではそういうことはなかったのでは?


    なお、カントは認識の対象としては形而上学的なものを捨てましたが、認識の装置・形式としては「経験領域を超えた」ものを温存していると思います。感覚体験がそれを通して初めて可能になる時間と空間は、先天的(アプリオリ)な形式です。科学や哲学もそれなくして不可能といえる悟性のカテゴリーも先天的(アプリオリ)です。



    >>こういう西洋哲学の根幹をなす形而上学に異議を唱えたのがニーチェで、それを完成したのがハイデガーとか言われていますね。ここはあたりはパニチェさんの得意分野ですね。
    >
    > 私の得意分野というほどのことはなにのですが、少し違った意見を持っています。
    > ニーチェは「力への意志(権力への意志)」の出版を途中で取りやめます。これは形而上学的なものを否定したにもかかわらず、まるで世界原理であるかのような「力への意志」を提唱することは新たな形而上学を構築することに他ならないと考えたからであると想像しています。この矛盾に気付いたため、1888年に入るとこの主著の執筆を中断し、「ワーグナー事件」「ディオニソス頌(賛)歌」「偶像の黄昏」「アンチクリスト」「この人を見よ」「ワーグナー対ニーチェ」を執筆したのだと思います。
    >
    > ニーチェの死後、反ユダヤ主義者にして国粋主義者である妹のエリザベートが友人のペーター・ガストの協力を得て1901年に「権力の意志・習作と断片」というタイトルの本を出版しますが、これはニーチェ自身が破棄したり、別のところで用いたメモや、関連のない走り書きや手記、箴言を寄せ集め、そこにあるはずのない秩序をもたせたものでしかなかったとのことです。後年にはさらに断片が追加され「権力への意志──すべての価値の価値転換」というタイトルに改められ出版されたましたが、既にこれはニーチェの著書ではありません。
    >
    > 1930年代後半に、これらの遺稿を手がかりにハイデガーが行った<ニーチェ講義>を自ら編集し出版(ハイデッガー全集 第6−1・6−2 ニーチェ)したことによって、ニーチェの未完の主著である「力への意志」に関する思想が再構成されたとも言われていますが、これはあくまでもハイデガーの哲学であるように思われます。

    なるほど。

引用返信/返信 削除キー/
■3884 / inTopicNo.66)  Re[17]: パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/12(Sun) 16:08:47)
    ありがとうございます。
    拝見していきますね。
引用返信/返信 削除キー/
■3883 / inTopicNo.67)  Re[20]: 再び >「言語批判」について
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 15:32:39)
    2020/07/12(Sun) 16:32:38 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No3881に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 「純粋理性批判」の純粋とは、経験から得た知識を含んでいない、その意味での純粋だそうです。形而上学の定義としては、「人間の経験領域をこえた事柄を、経験から独立した理性的思惟によって、先天的に認識していく営み」というのが一般的だと思いますが、カントが「純粋理性批判」で槍玉にあげたのも(世界は有限か無限かという設問等)まさにその種の営みですね。人間の理性には解答できる能力がないんだと。

    ありがとうございます。ところでknowing itselfさんは「人間の経験領域をこえた事柄を、経験から独立した理性的思惟によって、先天的に認識していく」ことなんて可能だと思いますか?
    私は幻想だと思うんですよ。

    > 形而上学が哲学のテーマたりえるかに関しては、プラトンなどの古代ギリシアから、哲学者は形而上学を中心テーマにして語り続けてきたという印象です。ヘーゲルなどは形而上学の滔々たる大河ドラマ。

    言葉は悪いかもしれませんが、私は形而上と形而下に分類したのは西洋哲学の欠陥だと思ってます。その欠陥はやはり信仰に由来すると。
    形而上とか形而下に分ける理由や根拠、正当性などどこにもないと考えています。

    > こういう西洋哲学の根幹をなす形而上学に異議を唱えたのがニーチェで、それを完成したのがハイデガーとか言われていますね。ここはあたりはパニチェさんの得意分野ですね。

    私の得意分野というほどのことはないのですが、少し違った意見を持っています。
    ニーチェは「力への意志(権力への意志)」の出版を途中で取りやめます。これは形而上学的なものを否定したにもかかわらず、まるで世界原理であるかのような「力への意志」を提唱することは新たな形而上学を構築することに他ならないと考えたからであると想像しています。この矛盾に気付いたため、1888年に入るとこの主著の執筆を中断し、「ワーグナー事件」「ディオニソス頌(賛)歌」「偶像の黄昏」「アンチクリスト」「この人を見よ」「ワーグナー対ニーチェ」を執筆したのだと思います。

    ニーチェの死後、反ユダヤ主義者にして国粋主義者である妹のエリザベートが友人のペーター・ガストの協力を得て1901年に「権力の意志・習作と断片」というタイトルの本を出版しますが、これはニーチェ自身が破棄したり、別のところで用いたメモや、関連のない走り書きや手記、箴言を寄せ集め、そこにあるはずのない秩序をもたせたものでしかなかったとのことです。後年にはさらに断片が追加され「権力への意志──すべての価値の価値転換」というタイトルに改められ出版されたましたが、既にこれはニーチェの著書ではありません。

    1930年代後半に、これらの遺稿を手がかりにハイデガーが行った<ニーチェ講義>を自ら編集し出版(ハイデッガー全集 第6−1・6−2 ニーチェ)したことによって、ニーチェの未完の主著である「力への意志」に関する思想が再構成されたとも言われていますが、これはあくまでもハイデガーの哲学であるように思われます。

    > カントにはニーチェの先取りのようなところもあるのではないでしょうか。

    同意です。コペルニクス展開はまさにニーチェの解釈の哲学とか、マッハの「この世界は感性的諸要素が相互に関数的に依属し連関しあいながら絶えず離合集散している」という見解とともにフッサール現象学の先駆けとなった「世界とは、相対的に持続しながら生成しつつあり、その生成のそのつどの段階にある生の主体者の視点を中心とした遠近法的展望の範囲、換言すれば特定の力の中心から発する特定の様式の作用の総体にほかならない。」というニーチェの発想はカントの文脈にあります。

    > >>A日常言語への批判
    >>これは分かりますし、日常会話的なことでも、言語で全て表現できると思い込んでいること自体がある種の誤謬だと思います。
    > 同意です。個人的には、哲学に興味をもつようになったのは、言語への強い不信感です。

    なるほど。

    > >>B科学言語への批判
    >>ここで言う科学言語とは数式のことも含まれますか?
    > というか、科学言語と定量性の認識は切り離せないと考えています。

    同意です。

    >>例えば虚数を伴うショレンデンガー方程式なんかは言語化不能だとは思いますし、道具としての記述に過ぎないのではないかとさえ考えています。
    > 科学言語への批判という意味は、科学言語はどれだけ進化して完成形をなすようにみえても、も究極リアリティーについての究極真理ではありえないという意味においてです。

    同意です。

引用返信/返信 削除キー/
■3881 / inTopicNo.68)  Re[19]: 再び >「言語批判」について
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/12(Sun) 13:08:44)
    レスありがとうございます。

    > 以下、カントを離れてレスさせてもらいます。
    >
    > ■No3873に返信(knowing itselfさんの記事)
    >
    >>言語批判にはだいたい三つあると考えられます。
    >
    >>@形而上学的言語への批判
    >
    > 私は未だにこの形而上学といのがどういうテーマを指すのかよく理解できてないのと、これって哲学のテーマでありえるんだろうかという疑問があります。
    > knowing itselfさんは形而上学をどのように定義されていますか。
    > そして、その定義上、哲学のテーマたりえますか?

    「純粋理性批判」の純粋とは、経験から得た知識を含んでいない、その意味での純粋だそうです。形而上学の定義としては、「人間の経験領域をこえた事柄を、経験から独立した理性的思惟によって、先天的に認識していく営み」というのが一般的だと思いますが、カントが「純粋理性批判」で槍玉にあげたのも(世界は有限か無限かという設問等)まさにその種の営みですね。人間の理性には解答できる能力がないんだと。

    形而上学が哲学のテーマたりえるかに関しては、プラトンなどの古代ギリシアから、哲学者は形而上学を中心テーマにして語り続けてきたという印象です。ヘーゲルなどは形而上学の滔々たる大河ドラマ。こういう西洋哲学の根幹をなす形而上学に異議を唱えたのがニーチェで、それを完成したのがハイデガーとか言われていますね。ここはあたりはパニチェさんの得意分野ですね。カントにはニーチェの先取りのようなところもあるのではないでしょうか。

    >>A日常言語への批判
    >
    > これは分かりますし、日常会話的なことでも、言語で全て表現できると思い込んでいること自体がある種の誤謬だと思います。

    同意です。個人的には、哲学に興味をもつようになったのは、言語への強い不信感です。

    >>B科学言語への批判
    >
    > ここで言う科学言語とは数式のことも含まれますか?

    というか、科学言語と定量性の認識は切り離せないと考えています。

    > 例えば虚数を伴うショレンデンガー方程式なんかは言語化不能だとは思いますし、道具としての記述に過ぎないのではないかとさえ考えています。

    科学言語への批判という意味は、科学言語はどれだけ進化して完成形をなすようにみえても、も究極リアリティーについての究極真理ではありえないという意味においてです。


引用返信/返信 削除キー/
■3880 / inTopicNo.69)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 12:26:15)
    ゴウさんとの会話は以下にアップしました。

    「 Panietzsche Room > 探究 > 友の金言 > 9.gouichi師1〜18.gouichi師10 」

    Panietzsche Roomにコピペしたため幅が足りず見にくいと思いますので、以下のリンクを案内しておきます。
    気が向いたら読んで下さい。但し長いので無理はされないようにお願いします。
    あくまでも自分のためにアップしましたのでお気遣いなく♪^^

    https://ni-club.net/panietzsche/4tankyu/index004.html

引用返信/返信 削除キー/
■3879 / inTopicNo.70)  再び >「言語批判」について
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 10:20:09)
    2020/07/12(Sun) 10:20:33 編集(投稿者)

    以下、カントを離れてレスさせてもらいます。

    No3873に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 言語批判にはだいたい三つあると考えられます。

    > @形而上学的言語への批判

    私は未だにこの形而上学といのがどういうテーマを指すのかよく理解できてないのと、これって哲学のテーマでありえるんだろうかという疑問があります。
    knowing itselfさんは形而上学をどのように定義されていますか。
    そして、その定義上、哲学のテーマたりえますか?

    > A日常言語への批判

    これは分かりますし、日常会話的なことでも、言語で全て表現できると思い込んでいること自体がある種の誤謬だと思います。

    > B科学言語への批判

    ここで言う科学言語とは数式のことも含まれますか?
    例えば虚数を伴うショレンデンガー方程式なんかは言語化不能だとは思いますし、道具としての記述に過ぎないのではないかとさえ考えています。
引用返信/返信 削除キー/
■3878 / inTopicNo.71)  Re[19]: ありがとうございました
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 08:19:38)
    No3877に返信(田秋さんの記事)
    > パニチェさん

    > ありがとうございました。

    どういたしまして。

    > 私に哲学の素養が無いので自分の言葉でしか質問できず申し訳ありません。引き続き皆さんのやりとりを楽しみます。

    いえいえ、全然大丈夫です。また何なりと私でよければ質問して下さい。

    > 自分の肉親の死を経験してからは、以前よりは自然に「ご愁傷様」を言うことができるようになりました。

    あっ、そうですか。。。
    私は両親も亡くしましたが、どうも未だにこの言葉はピンときません。^^;
引用返信/返信 削除キー/
■3877 / inTopicNo.72)  ありがとうございました
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/12(Sun) 08:13:24)
    パニチェさん

    ありがとうございました。

    私に哲学の素養が無いので自分の言葉でしか質問できず申し訳ありません。引き続き皆さんのやりとりを楽しみます。

    自分の肉親の死を経験してからは、以前よりは自然に「ご愁傷様」を言うことができるようになりました。
引用返信/返信 削除キー/

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