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■3813 / inTopicNo.85)  Re[12]: 青空としてのわたし>minoriさんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/07/11(Sat) 07:56:14)
    パニチェさん、ありがとうございます。
    今さっき、送信したのが反映されず、再投稿してみます。


    >>永井均さんの書かれた〈私〉についての文章をネット上で少し読んでみたのですが、こちらも難しくて理解できませんでした。。(とほほ。。)
    >
    > これならどうでしょう?
    > https://russell-j.com/miurat/hiruinai.htm
    > 「比類なき先言の<私>」を永井均氏の表現を借りて言い換えれば「その目からだけ現実に世界が見えており、その体だけが殴られると現実に痛く、その人の悲しみだけが現実に直接的に悲しい唯一の存在者」、「ある意味では誰もが『世界がそこから開けている原点』であるはずなのだが、唯一の現実の原点はこの点だけであり、この階層こそが〈私〉という他の人とはあり方の異なる存在者が現実に存在することを示している(もの)」です。
    >
    >>永井均さんが言われている〈私〉というのは、山下さんたち仏道の方の「名前や役割ではない私の探究」での「私」と被る部分があるのでしょうか?
    >>もしそうなら少しは理解していけるかもしれません。
    >>ん〜でもどうかな。。永井さんの文章、とにかく難しいわ〜、です。
    >
    > 私という表記が紛らわしくなるので、以降私のことをパニチェと書きます。
    > パニチェは未だそこに至っておりませんが、山下さんの言う「青空としてのわたし」、悟りの主体というか内実と同義だと思われます。
    > knowing itselfさんとのレス交換でも指摘されたのですが、ラマナ・マハルシ師が言うところの「私は私であるものである」と多分同じです。


    昨日、minoriが自分でネット上で探して読んでみた永井均さんの文章から受けた印象(あくまで印象)では、<私>」というのは、「この身体、心を自分と思っている私」のように感じられたのですが、貼っていただいた文章を読むと、山下さんの「わたし」と共通するものにも思えます。

    minoriは、山下さんの『青空としてのわたし』『光の中のマインドフルネス』は読んでいて、そちら方面のでの理解は多少はあるかもしれません。
    『仏教3.0を哲学する』も読みたくなり注文しました。
    読んでからならもしかしたら、永井さんと山下さんたちの共通する部分、もしかしたら若干は違う部分とかも理解できるかも?


    >>密教の覚者の方というのは、ヤフーに書かれていたゴウさんという方なのですね。
    >>パニチェさんが書かれていた文中にそのようにあるのを拝見しました。
    >
    > そうです。ほんとお世話になりました。^^

    ヤフー掲示板上でのやりとりだったのでしょうか。
    拝見したかったな〜。 時期にもよるけれど、だいぶ前のminoriにはまったく理解できなかったと思います。

    >>そうだ。パニチェさんが小五ぐらいの時に持たれたという問題意識。
    >>その内容を教えていただいてもいいですか。
    >
    > はい、喜んで♪以下のようなものです。
    > 「なんでオレはこの家に生まれてきたんやろか?オレが隣の〇〇ちゃんでないのは、なんでやろ?」みたいな思いからです。


    自分というものの独自性、それについて考え始めた、ということなんですね。
    その時期が小五頃だった、ということでいいのかな。
    (違ってたらすみません。)

    そして、大人になってからもその問題意識は続き、「私」についての探究を深めてこられた、のですね。
    小五ですでにそうした哲学的なことを考えられる、というのがすごいです。
    私など、大人になって自我思考に苦しめられまくりやっと、流されるようにして自我の苦しみから離れる方法を教えてくれるものに近づいた、という感じです。

    > PS.伝わらなくても、どうぞ気にしないで下さい。このレス交換自体がパニチェにとって、「言葉にできない対象」を如何に他者に伝えることができるかどうかの実験として楽しませてもらっていますので。。。^^


    はい。義務感でやりとりしていただくとなると申し訳ないですし、パニチェさんにとってもなんらかの意義を感じていらっしゃるなら、ほっとします。
引用返信/返信 削除キー/
■3777 / inTopicNo.86)  青空としてのわたし>minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/10(Fri) 18:08:40)
    2020/07/10(Fri) 18:51:00 編集(管理者)

    minoriさん、レスありがとうございます。

    No3773に返信(minoriさんの記事)
    > パニチェさん、こちらに写してくださってありがとうございます。

    いえいえ、勝手に移動しましてごめんなさい。ここに取り置きたくて。。。^^

    >>ありがとうございます。トピはトピズレが多く、あまりテーマについては書いてないと思います。
    >>これまでYahoo!掲示板やtextream、このサイトでのレス交換で取り置きたいと思ったものは。。。
    >>「Panietzsche Room > 探究 > 〈私〉の哲学」 にまとめました。
    >>「探究 > 独我論」 は主にウィトゲンシュタイン、同じく 「友の金言」 はエフニさんをはじめ「比類なき先言の<私>」に関するレス交換を保管しています。
    >>気が向かれましたら、いくつか読んでみて下さい。
    >>異論、反論、質問、大歓迎です。

    > いや〜、私には難しくて。。理解できる部分はごく少しでしたので、異論も反論も出えません。

    やっぱ分かりにくいですよね。minoriさんの問題ではなくて、私の文才がないためです。。。^^;

    > 永井均さんの書かれた〈私〉についての文章をネット上で少し読んでみたのですが、こちらも難しくて理解できませんでした。。(とほほ。。)

    これならどうでしょう?
    https://russell-j.com/miurat/hiruinai.htm
    「比類なき先言の<私>」を永井均氏の表現を借りて言い換えれば「その目からだけ現実に世界が見えており、その体だけが殴られると現実に痛く、その人の悲しみだけが現実に直接的に悲しい唯一の存在者」、「ある意味では誰もが『世界がそこから開けている原点』であるはずなのだが、唯一の現実の原点はこの点だけであり、この階層こそが〈私〉という他の人とはあり方の異なる存在者が現実に存在することを示している(もの)」です。

    > 永井均さんが言われている〈私〉というのは、山下さんたち仏道の方の「名前や役割ではない私の探究」での「私」と被る部分があるのでしょうか?
    > もしそうなら少しは理解していけるかもしれません。
    > ん〜でもどうかな。。永井さんの文章、とにかく難しいわ〜、です。

    私という表記が紛らわしくなるので、以降私のことをパニチェと書きます。
    パニチェは未だそこに至っておりませんが、山下さんの言う「青空としてのわたし」、悟りの主体というか内実と同義だと思われます。
    knowing itselfさんとのレス交換でも指摘されたのですが、ラマナ・マハルシ師が言うところの「私は私であるものである」と多分同じです。

    > 密教の覚者の方というのは、ヤフーに書かれていたゴウさんという方なのですね。
    > パニチェさんが書かれていた文中にそのようにあるのを拝見しました。

    そうです。ほんとお世話になりました。^^

    > そうだ。パニチェさんが小五ぐらいの時に持たれたという問題意識。
    > その内容を教えていただいてもいいですか。

    はい、喜んで♪以下のようなものです。
    「なんでオレはこの家に生まれてきたんやろか?オレが隣の〇〇ちゃんでないのは、なんでやろ?」みたいな思いからです。

    PS.伝わらなくても、どうぞ気にしないで下さい。このレス交換自体がパニチェにとって、「言葉にできない対象」を如何に他者に伝えることができるかどうかの実験として楽しませてもらっていますので。。。^^
引用返信/返信 削除キー/
■3773 / inTopicNo.87)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/10(Fri) 17:22:21)
    パニチェさん、こちらに写してくださってありがとうございます。


    > ありがとうございます。トピはトピズレが多く、あまりテーマについては書いてないと思います。
    > これまでYahoo!掲示板やtextream、このサイトでのレス交換で取り置きたいと思ったものは。。。
    >
    > 「Panietzsche Room > 探究 > 〈私〉の哲学」 にまとめました。
    > 「探究 > 独我論」 は主にウィトゲンシュタイン、同じく 「友の金言」 はエフニさんをはじめ「比類なき先言の<私>」に関するレス交換を保管しています。
    >
    > 気が向かれましたら、いくつか読んでみて下さい。
    > 異論、反論、質問、大歓迎です。


    いや〜、私には難しくて。。理解できる部分はごく少しでしたので、異論も反論も出えません。

    >>山下良道さんの本に、曹洞宗の内山老師という方が描かれた「第四図」「第五図」といった図での説明が載っていて、もしかしたらですが、パニチェさんの研究されているものとの関連もあるのかな、とか思いました。
    >
    > そうです、鋭い!ですね。^^
    > 山下良道氏と、藤田一照氏は、永井均氏と共著「<仏教3.0>を哲学する」というタイトルで永井均氏の独在論的な<私>について議論しています。
    >
    > 山下氏、藤田氏は、日本の伝統的な仏教を<仏教1.0>、ミャンマーで見た仏教やテラワーダ仏教を<仏教2.0>、これらをアップデートしたこれからの仏教を<仏教3.0>とし、ある種の仏教改革を試みています。
    >
    > 両名が共通しているのは坐禅や瞑想を始める前の道元禅師『普勘坐禅儀』にもある「そもそもの原点に返ってみれば」が重要であり、仏道での自己探究は、日常的な、名前や役割でない私の探究であるということを前提として仏道を始めることを推奨しています。
    >
    > 内山老師の描いた第四図(アタマが展開した世界の中に住む人間)は世間的な私を頭の中で想像した図であり、第五図(アタマの展開する根本には「わが生命」があったのだ!)から第六図(「ナマの体験」と、「ナマに体験される世界」と、それぐるみの自己)は「比類なき先言の<私>」とかぶるところはあると思いますが、正直言って「比類なき先言の<私>」と無我や真我については未だ統一できていません。
    >
    > 数年にわたってレス交換をしてもらった密教の覚者である方は真我(山下氏の言う「青空」)と同義だと述べられていますたが、パニチェの思惟はそこまで至っていないというところです。



    永井均さんの書かれた〈私〉についての文章をネット上で少し読んでみたのですが、こちらも難しくて理解できませんでした。。(とほほ。。)

    永井均さんが言われている〈私〉というのは、山下さんたち仏道の方の「名前や役割ではない私の探究」での「私」と被る部分があるのでしょうか?
    もしそうなら少しは理解していけるかもしれません。
    ん〜でもどうかな。。永井さんの文章、とにかく難しいわ〜、です。

    密教の覚者の方というのは、ヤフーに書かれていたゴウさんという方なのですね。
    パニチェさんが書かれていた文中にそのようにあるのを拝見しました。

    そうだ。パニチェさんが小五ぐらいの時に持たれたという問題意識。
    その内容を教えていただいてもいいですか。



引用返信/返信 削除キー/
■3761 / inTopicNo.88)  どういたしまして♪
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/10(Fri) 10:34:53)
    2020/07/10(Fri) 10:49:26 編集(投稿者)

    No3760に返信(田秋さんの記事)

    > 三重は関東から見ると関西、大阪から見ると他所もん、京都からみると田舎もん。
    > こうもり以下です。

    > 私秘性の説明ありがとうございました。

    どういたしまして。三重ご出身なんですね。
    こうもり以下なんてとんでもない。

    小学校の修学旅行では、真珠島、夫婦石。
    高校時代は鈴鹿で走ることに憧れてました。
    大人になってからは、牛銀、ネムリゾート、ナガシマスパーランド。
    須佐之男命の言を守り、通年でしめ縄を飾る街。
    友人が25年ほど「ブルース伊賀の乱」を開催しています。

引用返信/返信 削除キー/
■3760 / inTopicNo.89)  ありがとうございました。
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/10(Fri) 10:01:37)
    三重は関東から見ると関西、大阪から見ると他所もん、京都からみると田舎もん。
    こうもり以下です。

    私秘性の説明ありがとうございました。


引用返信/返信 削除キー/
■3759 / inTopicNo.90)  Re[13]: 質問です
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/10(Fri) 09:40:41)
    No3758に返信(田秋さんの記事)
    > あんた、わてが何考えとんのか、わからへんやろ〜、わしかて、おまんが何考えとんのかホントのところ、見当つかんわ。

    > みたいな理解でいいですか?

    そうです!そうです!(笑)
    但し、大阪弁で「わて」「おまん」は死語です(笑)
    ちなみにリアルで私は自分のことを「わし」と言ってますが、これもどうやら変みたいです。
引用返信/返信 削除キー/
■3758 / inTopicNo.91)  Re[12]: 質問です
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/10(Fri) 09:35:20)
    あんた、わてが何考えとんのか、わからへんやろ〜、わしかて、おまんが何考えとんのかホントのところ、見当つかんわ。

    みたいな理解でいいですか?
引用返信/返信 削除キー/
■3757 / inTopicNo.92)  Re[11]: 質問です
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/10(Fri) 09:23:47)
    2020/07/10(Fri) 09:32:23 編集(投稿者)

    おはようございます。田秋さん。

    No3756に返信(田秋さんの記事)

    > 初心者から質問です。
    > 時々書き込みで見かける「私秘性」ってどういう意味です?

    他人からは直接知ることのできない(想像はできますが)私の心の中の秘匿性という意味でいいと思います。

    内容としては、感覚(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)、質感(クオリア)、痛み、痒み等々、感情、思い、思考その他、主観的な体験が他者からは知られない性質ってことですかねぇ〜。

    本当にお腹が痛いのか仮病かは、本人しか知りようがない性質、秘密性のことです。
引用返信/返信 削除キー/
■3756 / inTopicNo.93)  質問です
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/10(Fri) 09:09:29)
    おはようございます、パニチェさん

    初心者から質問です。
    時々書き込みで見かける「私秘性」ってどういう意味です?
引用返信/返信 削除キー/
■3754 / inTopicNo.94)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/10(Fri) 08:36:07)
    2020/07/10(Fri) 08:48:44 編集(投稿者)

    minoriさん、レスありがとうございます。

    No3752に返信(minoriさんの記事)

    > 「比類なき先言の<私>」。 パニチェさんの探究として書かれた文章、それとこちらのホールにあるパニチェさんのトピックにそのあたりが書かれているのですね。
    > まずは少しずつ拝読しますね。
    > 探究のほうは拝読したのですが、難しい。。。

    ありがとうございます。トピはトピズレが多く、あまりテーマについては書いてないと思います。
    これまでYahoo!掲示板やtextream、このサイトでのレス交換で取り置きたいと思ったものは。。。

    「Panietzsche Room > 探究 > 〈私〉の哲学」 にまとめました。
    「探究 > 独我論」 は主にウィトゲンシュタイン、同じく 「友の金言」 はエフニさんをはじめ「比類なき先言の<私>」に関するレス交換を保管しています。

    気が向かれましたら、いくつか読んでみて下さい。
    異論、反論、質問、大歓迎です。

    > 山下良道さんの本に、曹洞宗の内山老師という方が描かれた「第四図」「第五図」といった図での説明が載っていて、もしかしたらですが、パニチェさんの研究されているものとの関連もあるのかな、とか思いました。

    そうです、鋭い!ですね。^^
    山下良道氏と、藤田一照氏は、永井均氏と共著「<仏教3.0>を哲学する」というタイトルで永井均氏の独在論的な<私>について議論しています。

    山下氏、藤田氏は、日本の伝統的な仏教を<仏教1.0>、ミャンマーで見た仏教やテラワーダ仏教を<仏教2.0>、これらをアップデートしたこれからの仏教を<仏教3.0>とし、ある種の仏教改革を試みています。

    両名が共通しているのは坐禅や瞑想を始める前の道元禅師『普勘坐禅儀』にもある「そもそもの原点に返ってみれば」が重要であり、仏道での自己探究は、日常的な、名前や役割でない私の探究であるということを前提として仏道を始めることを推奨しています。

    内山老師の描いた第四図(アタマが展開した世界の中に住む人間)は世間的な私を頭の中で想像した図であり、第五図(アタマの展開する根本には「わが生命」があったのだ!)から第六図(「ナマの体験」と、「ナマに体験される世界」と、それぐるみの自己)は「比類なき先言の<私>」とかぶるところはあると思いますが、正直言って「比類なき先言の<私>」と無我や真我については未だ統一できていません。

    数年にわたってレス交換をしてもらった密教の覚者である方は真我(山下氏の言う「青空」)と同義だと述べられていますたが、パニチェの思惟はそこまで至っていないというところです。

引用返信/返信 削除キー/
■3622 / inTopicNo.95)  ウィトゲンシュタインかく語りき
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/07(Tue) 08:16:13)
    2020/07/07(Tue) 09:15:39 編集(投稿者)

    私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(ウィトゲンシュタイン著「論理哲学論考5.6」より)

    私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。(ウィトゲンシュタイン「草稿1915.5.23」より)

    論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。従って我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない。というのも外見上このことは或る可能性の排除を前提しているが、この排除は実情ではありえないからである。というのも仮にそうとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならないからである。つまりそのようになるのは、論理が世界の限界を他の側からも考察しうる場合なのである。我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。従って我々が考えることのできないことを、我々は語ることもできない。(同5.61)

    世界が私の世界であるということは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されている。(同5.62)

    主体は世界に属さない。それは世界の限界である。(同5.632)

    哲学的自我は人間ではない。人間の肉体でも、心理学的な性質を備えた人間の魂でもない。それは形而上学的主体であり、世界の(部分ではなく)限界である。(同5.641)

    だがしかし表明しえぬものが存在する。それは自らを示す。それは神秘的なものである。(同6.522)

    「わたくしはかれが自動機械でないと信ずる」というのは、かくしてそのままでは、いまだいかなる意義ももってはいない。わたくしの彼に対する態度は、魂に対する態度である。わたしくしは、かれに魂があるなどという意見をもっているのではない。宗教は、肉体が砕けちっても魂は存続しうる、と教える。では、わたくしはそれが何を教えているのか理解しているか。──もちろん理解している──わたしくしはそのほかにも多くのことを表象できるのだ。・・・《中略》・・・人間の身体は、人間の魂の最良の映像である。しかし、「あなたがそう言ったとき、わたくしはそれを自分の心の中で理解した」というような表現についてはどうなのか。このとき当人は胸を指している〔とする〕。すると、そのひとはもしやそのような身ぶりのことをいみしているのではないか?!もちろん、そのことをいみしている。それとも、ひとはある映像だけ使っていると意識しているのか。明かにそうではない。──それはわれわれの選択する映像ではなく、比喩でもないけれども、一つの映像的な表現ではある。(ウィトゲンシュタイン「哲学探究第二部4」より)

    ****************************

    ウィトゲンシュタインは暗闇の跳躍によって前期から後期へ移行したように思う。

    換言すれば言語ゲーム上の独我論から、前期独我論の主体者にして、語り得ない、即ち言語ゲームの外にあって言語ゲームを成立させる〈魂〉の存在の発見に至った。ウィトゲンシュタインは特定宗教の教義やドグマから、〈魂〉の存在証明にいたったのではなく、全く異なる哲学的思惟(懐疑)の果てに〈魂〉の存在を確信した。ここに至ってウィトゲンシュタインの他者性は〈魂〉に対する態度となり、前期独我論は破棄される。言語ゲーム外への跳躍は非言語的であり、語り得ないことが対象の本質であることを突破口とする。

    論考で述べていることは、世界は論理と言語に満たされており、主体は世界の限界にあり世界には属さないということ。これをもって独我論と考えることも可能だが、探究では世界が論理と言語に満たされている理由を言語ゲームとして説明する。そして言語ゲーム上に意味が発生する以上、世界に属さない主体は言語ゲーム外の存在として必然的に「語り得ない〈魂〉」の存在証明の確信に至った。もちろん“世界に属さない”や“語りえない”という要素をもって〈魂〉としているのではない。永井均氏が指摘する“独在と頽落の終わることなき拮抗運動”の本質的な原因として〈魂〉の存在を確信するということである。科学の定義にも絡む再現性や自然の斉一性の網の目にかからないところが本質でもある<私>はこのことからしても唯物論には還元できないことを示している。

    言語と語りえぬ〈私〉の関係性は、言語によって浮かび上がるものの、言語の網の目からはすり抜けてしまい透明無色となるカニッツァの三角形のようなものである。

引用返信/返信 削除キー/
■3494 / inTopicNo.96)  〈私〉についての探究
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/04(Sat) 19:04:18)
    ちょいサボってるなw
引用返信/返信 削除キー/

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