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■2984 / inTopicNo.1)  〈私〉について 4
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/05/26(Tue) 16:11:27)
    涅槃は近い♪^^
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■2987 / inTopicNo.2)  Re[1]: 〈私〉について 4
□投稿者/ エフニ -(2020/05/27(Wed) 05:56:58)
    フローラ様、おはようございます。

    本当に、キリスト教はいろいろな宗教・風習と習合(融合)していますよね。

    ☆イエスの誕生日も貴女のおっしゃる通りです。

    ローマのサトルナリア祭から取ったとか、ミトラス教の太陽神を祝う祭日(12月25日)から取ったとか言われています。

    マタイの福音書(二章八節)に、イエス誕生の夜「この地方で羊飼いたちが野宿しながら羊の群れの番をしていた」と書かれています。

    当時も今も、ベツレヘムで真冬に家畜を野に出すことは有り得ないので、六月頃にイエスは生まれたのではないかと言われています。(アレクサンドリアのクレメンスによる。)


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■3001 / inTopicNo.3)  Re[2]: 〈私〉について 4
□投稿者/ flora -(2020/05/29(Fri) 01:50:35)
    エフニ様、こんにちは

    お返事ありがとうございます。

    >マタイの福音書(二章八節)に、イエス誕生の夜「この地方で羊飼いたちが野宿しながら羊の群れの番をしていた」と書かれています。

    私の見たマタイ伝が違うのかも知れませんが、2章8節は
    ヘロデ王が東方の三博士に対して生まれた子供を見つけるようにいうくだりになっていました。

    >当時も今も、ベツレヘムで真冬に家畜を野に出すことは有り得ないので、六月頃にイエスは生まれたのではないかと言われています。(アレクサンドリアのクレメンスによる。)

    『ストロマテイス』でしょうか? 
    第一巻21章に、オクタビアヌスの治世の28年目、パションスの第25日目、すなわち、紀元前27年から28年目、パションス(エジプト/コプト歴の9月=グレゴリオ歴の5月9日―6月 7日)ですから紀元元年6月3日に生まれた?

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■3005 / inTopicNo.4)  Re[3]: 〈私〉について 4
□投稿者/ エフニ -(2020/05/30(Sat) 00:05:10)
    No3001に返信(floraさんの記事)
    > エフニ様、こんにちは
    >
    > お返事ありがとうございます。
    >
    > >マタイの福音書(二章八節)に、イエス誕生の夜「この地方で羊飼いたちが野宿しながら羊の群れの番をしていた」と書かれています。
    >
    > 私の見たマタイ伝が違うのかも知れませんが、2章8節は
    > ヘロデ王が東方の三博士に対して生まれた子供を見つけるようにいうくだりになっていました。
    >
    > >当時も今も、ベツレヘムで真冬に家畜を野に出すことは有り得ないので、六月頃にイエスは生まれたのではないかと言われています。(アレクサンドリアのクレメンスによる。)
    >
    > 『ストロマテイス』でしょうか? 
    > 第一巻21章に、オクタビアヌスの治世の28年目、パションスの第25日目、すなわち、紀元前27年から28年目、パションス(エジプト/コプト歴の9月=グレゴリオ歴の5月9日―6月 7日)ですから紀元元年6月3日に生まれた?
    >


    フローラ様、こんばんは。

    レスありがとうございます。

    どうも大変なミスをして申し訳ありませんでした。

    マタイではなく、ルカの福音書(二章八節)でした。

    失礼いたしました。m(__)m

    >「ストロマティス」でしょうか?<

    そうです、そうです、それです。

    具体的な記載をありがとうございました。

    さすがゥ
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■3034 / inTopicNo.5)  「ラマハ・マハルシの教え」読了
□投稿者/ パニチェ -(2020/06/04(Thu) 21:42:18)
    knowing itselfさん、良書を紹介いただき、ありがとうございました。

    「ラマナ・マルハシの教え」を読んで、ちょうど今から10年前、密教行者のゴウさんから「逆にくだらない体験に引きずられると、この段階で停滞して足踏み状態に陥ります。そのような修行者が沢山います。ですからパニさんは、対話を通して、限界まで脳を使ってください。体験を求めないでください・・・。掲示板の対話でここから先に進むのは、私(ゴウ)にとっても初めての試みですから、解りづらい点が多々あるでしょうが、そのときは立ち止まって確認しながらゆっくり進めましましょう。」と言ってもらったことが思い出された。

    マハルシは5つの実践(アビャ−サ)を上げている。1.ストゥティ(帰依と賛歌)、2.ジャパ(称名、マントラを唱える)、3.ディヤーナ(帰依とジャパ)、4.ヨーガ、5.ジュニャーナ(問いかけの道〈ヴィチャーラ〉)を説く。

    5番目のジュニャーナは「私とは誰か」と問い続ける探究であり、アハム・ヴリッティ(私であること)が立ち上がるその源に潜りこむことによって、主体から分離された存在であることを止め、主客合一の自己、つまりハート(真我)であるところのプラジュニャーナ(絶対知識あるいは般若)に至る道である。プラジュニャーナは般若心経の六不(不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)、金剛般若経で説かれる如来、即ちブラフマンに他ならない。

    レベルは全く異なるが、私がライフワークならぬライフホビーとしている「比類なき先言の<私>」の探究を「言語と論理による見性悟道」と想定していることも、アートマ・ヴィチャーラ(自己探究)やジュニャーナ(知識の探究)の道であり、そんなに的外れではないことが、ゴウさんのかつての言葉や「ラマナ・マルハシの教え」を読み終えて知り得たことは大きな収穫であった。

    もうひとつの収穫はknowing itselfさんに解説いただいたこともあり、自己の本性であるところのプラジュニャーナは三つの心の状態(眼覚め、夢、眠り〈夢を見ていない睡眠〉)のうち眠りの状態であり、この三つの状態は睡眠中はもちろん、起きている状態でも一貫して継続しているということである。つまり「私は○○である」と表現できるところの私ではなく、言語表現不可能な「比類なき先言の<私>」は映像を映す純白のスクリーンに例えられるように、今も、ここに、こうして、夢を見ていない睡眠の如く無色透明にしてある、ということ。

    アートマ・ヴィチャーラ(自己探究)からプラジュニャーナ(絶対知識あるいは般若)に至るプロセスは、道元禅師が正法眼蔵の現成公案で述べた「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」と全く同じであり、国や時代や宗派を超えた覚者の言葉であり、永久の指針となる。

    途上で終わろうとも修証一等(修行と悟りは一如)を胸にアートマ・ヴィチャーラの道を行こうと思えた。

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■3157 / inTopicNo.6)  純粋統覚
□投稿者/ パニチェ -(2020/06/17(Wed) 15:55:39)
    カントは、認識や思考に際して「私がしたこと」としてまとめる作用を『純粋統覚』と呼び、「恒常的な自分がある」「同じ私がある」という意識を保つ悟性使用の最高原理であると述べているらしい。(NHKテキスト「カント 純粋理性批判」P.66〜P.67より)

    この『純粋統覚』なるものが万人に共通するところの自己同一性や自己継続性を担保する記憶に関連するものであれば、脳科学に還元できる機能ということになるが、ここはもう少し掘り下げてデカルトのコギト、後のハイデッガーの現存在など認識主体の存在について探究してもらいたかった。

    〈私〉はもっとも身近な原因なき超越論的現象でもあり、存在でもある。


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■3240 / inTopicNo.7)  現存在
□投稿者/ パニチェ -(2020/06/24(Wed) 17:16:59)
    ハイデガーの現存在が〈私〉と同じかどうかは未だに不明
引用返信/返信 削除キー/
■3494 / inTopicNo.8)  〈私〉についての探究
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/04(Sat) 19:04:18)
    ちょいサボってるなw
引用返信/返信 削除キー/
■3622 / inTopicNo.9)  ウィトゲンシュタインかく語りき
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/07(Tue) 08:16:13)
    2020/07/07(Tue) 09:15:39 編集(投稿者)

    私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(ウィトゲンシュタイン著「論理哲学論考5.6」より)

    私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。(ウィトゲンシュタイン「草稿1915.5.23」より)

    論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。従って我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない。というのも外見上このことは或る可能性の排除を前提しているが、この排除は実情ではありえないからである。というのも仮にそうとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならないからである。つまりそのようになるのは、論理が世界の限界を他の側からも考察しうる場合なのである。我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。従って我々が考えることのできないことを、我々は語ることもできない。(同5.61)

    世界が私の世界であるということは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されている。(同5.62)

    主体は世界に属さない。それは世界の限界である。(同5.632)

    哲学的自我は人間ではない。人間の肉体でも、心理学的な性質を備えた人間の魂でもない。それは形而上学的主体であり、世界の(部分ではなく)限界である。(同5.641)

    だがしかし表明しえぬものが存在する。それは自らを示す。それは神秘的なものである。(同6.522)

    「わたくしはかれが自動機械でないと信ずる」というのは、かくしてそのままでは、いまだいかなる意義ももってはいない。わたくしの彼に対する態度は、魂に対する態度である。わたしくしは、かれに魂があるなどという意見をもっているのではない。宗教は、肉体が砕けちっても魂は存続しうる、と教える。では、わたくしはそれが何を教えているのか理解しているか。──もちろん理解している──わたしくしはそのほかにも多くのことを表象できるのだ。・・・《中略》・・・人間の身体は、人間の魂の最良の映像である。しかし、「あなたがそう言ったとき、わたくしはそれを自分の心の中で理解した」というような表現についてはどうなのか。このとき当人は胸を指している〔とする〕。すると、そのひとはもしやそのような身ぶりのことをいみしているのではないか?!もちろん、そのことをいみしている。それとも、ひとはある映像だけ使っていると意識しているのか。明かにそうではない。──それはわれわれの選択する映像ではなく、比喩でもないけれども、一つの映像的な表現ではある。(ウィトゲンシュタイン「哲学探究第二部4」より)

    ****************************

    ウィトゲンシュタインは暗闇の跳躍によって前期から後期へ移行したように思う。

    換言すれば言語ゲーム上の独我論から、前期独我論の主体者にして、語り得ない、即ち言語ゲームの外にあって言語ゲームを成立させる〈魂〉の存在の発見に至った。ウィトゲンシュタインは特定宗教の教義やドグマから、〈魂〉の存在証明にいたったのではなく、全く異なる哲学的思惟(懐疑)の果てに〈魂〉の存在を確信した。ここに至ってウィトゲンシュタインの他者性は〈魂〉に対する態度となり、前期独我論は破棄される。言語ゲーム外への跳躍は非言語的であり、語り得ないことが対象の本質であることを突破口とする。

    論考で述べていることは、世界は論理と言語に満たされており、主体は世界の限界にあり世界には属さないということ。これをもって独我論と考えることも可能だが、探究では世界が論理と言語に満たされている理由を言語ゲームとして説明する。そして言語ゲーム上に意味が発生する以上、世界に属さない主体は言語ゲーム外の存在として必然的に「語り得ない〈魂〉」の存在証明の確信に至った。もちろん“世界に属さない”や“語りえない”という要素をもって〈魂〉としているのではない。永井均氏が指摘する“独在と頽落の終わることなき拮抗運動”の本質的な原因として〈魂〉の存在を確信するということである。科学の定義にも絡む再現性や自然の斉一性の網の目にかからないところが本質でもある<私>はこのことからしても唯物論には還元できないことを示している。

    言語と語りえぬ〈私〉の関係性は、言語によって浮かび上がるものの、言語の網の目からはすり抜けてしまい透明無色となるカニッツァの三角形のようなものである。

引用返信/返信 削除キー/
■3754 / inTopicNo.10)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/10(Fri) 08:36:07)
    2020/07/10(Fri) 08:48:44 編集(投稿者)

    minoriさん、レスありがとうございます。

    No3752に返信(minoriさんの記事)

    > 「比類なき先言の<私>」。 パニチェさんの探究として書かれた文章、それとこちらのホールにあるパニチェさんのトピックにそのあたりが書かれているのですね。
    > まずは少しずつ拝読しますね。
    > 探究のほうは拝読したのですが、難しい。。。

    ありがとうございます。トピはトピズレが多く、あまりテーマについては書いてないと思います。
    これまでYahoo!掲示板やtextream、このサイトでのレス交換で取り置きたいと思ったものは。。。

    「Panietzsche Room > 探究 > 〈私〉の哲学」 にまとめました。
    「探究 > 独我論」 は主にウィトゲンシュタイン、同じく 「友の金言」 はエフニさんをはじめ「比類なき先言の<私>」に関するレス交換を保管しています。

    気が向かれましたら、いくつか読んでみて下さい。
    異論、反論、質問、大歓迎です。

    > 山下良道さんの本に、曹洞宗の内山老師という方が描かれた「第四図」「第五図」といった図での説明が載っていて、もしかしたらですが、パニチェさんの研究されているものとの関連もあるのかな、とか思いました。

    そうです、鋭い!ですね。^^
    山下良道氏と、藤田一照氏は、永井均氏と共著「<仏教3.0>を哲学する」というタイトルで永井均氏の独在論的な<私>について議論しています。

    山下氏、藤田氏は、日本の伝統的な仏教を<仏教1.0>、ミャンマーで見た仏教やテラワーダ仏教を<仏教2.0>、これらをアップデートしたこれからの仏教を<仏教3.0>とし、ある種の仏教改革を試みています。

    両名が共通しているのは坐禅や瞑想を始める前の道元禅師『普勘坐禅儀』にもある「そもそもの原点に返ってみれば」が重要であり、仏道での自己探究は、日常的な、名前や役割でない私の探究であるということを前提として仏道を始めることを推奨しています。

    内山老師の描いた第四図(アタマが展開した世界の中に住む人間)は世間的な私を頭の中で想像した図であり、第五図(アタマの展開する根本には「わが生命」があったのだ!)から第六図(「ナマの体験」と、「ナマに体験される世界」と、それぐるみの自己)は「比類なき先言の<私>」とかぶるところはあると思いますが、正直言って「比類なき先言の<私>」と無我や真我については未だ統一できていません。

    数年にわたってレス交換をしてもらった密教の覚者である方は真我(山下氏の言う「青空」)と同義だと述べられていますたが、パニチェの思惟はそこまで至っていないというところです。

引用返信/返信 削除キー/
■3756 / inTopicNo.11)  質問です
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/10(Fri) 09:09:29)
    おはようございます、パニチェさん

    初心者から質問です。
    時々書き込みで見かける「私秘性」ってどういう意味です?
引用返信/返信 削除キー/
■3757 / inTopicNo.12)  Re[11]: 質問です
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/10(Fri) 09:23:47)
    2020/07/10(Fri) 09:32:23 編集(投稿者)

    おはようございます。田秋さん。

    No3756に返信(田秋さんの記事)

    > 初心者から質問です。
    > 時々書き込みで見かける「私秘性」ってどういう意味です?

    他人からは直接知ることのできない(想像はできますが)私の心の中の秘匿性という意味でいいと思います。

    内容としては、感覚(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)、質感(クオリア)、痛み、痒み等々、感情、思い、思考その他、主観的な体験が他者からは知られない性質ってことですかねぇ〜。

    本当にお腹が痛いのか仮病かは、本人しか知りようがない性質、秘密性のことです。
引用返信/返信 削除キー/

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