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■4438 / inTopicNo.25)  Re[43]: バーチャル・アリティー
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/23(Thu) 19:14:27)
    あなたの言う「 バーチャル・アリティー」って、
    「夢」、一般的に寝ている時のことをいってるのかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■4433 / inTopicNo.26)  Re[42]: バーチャル・アリティー
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/23(Thu) 18:56:20)
    2020/07/23(Thu) 19:01:23 編集(投稿者)

    No4423に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■4415
    > >この世界がバーチャル・リアリティであるかどうかを判定する術を私たちは持ち合わせていない<  ん?ん?
    > この人なにいってるのかしら。

    > あんたね〜、あんたの手であんたの体、触ってみて。
    > なにが見えます?

    なにが見えるん?
    で、あんたの夢の中で同じことをしたら何か違うのか?
引用返信/返信 削除キー/
■4423 / inTopicNo.27)  Re[41]: バーチャル・アリティー
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/23(Thu) 18:19:34)
    ■4415
    >この世界がバーチャル・リアリティであるかどうかを判定する術を私たちは持ち合わせていない<  ん?ん?
    この人なにいってるのかしら。

    あんたね〜、あんたの手であんたの体、触ってみて。
    なにが見えます?

引用返信/返信 削除キー/
■4420 / inTopicNo.28)  禅定から見性へのイメージ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/23(Thu) 17:50:44)
    2020/07/23(Thu) 18:06:34 編集(投稿者)

    左が世界(外界)

    右が〈私〉(内的世界)

    〈私〉を空にすることによって世界と一如となる(三昧)⇒ ウィトゲンシュタイン論考の図


    世界(外界)は3次元空間であるが、内的世界(精神世界)は空間的な広がりのない私秘的“場”である。


    悟りが顕教や密教で言うところの「大円鏡智」と呼ばれるのは、鏡自身が鏡面(我)を主張せず世界のあるがままと一如となるためであると思われる。
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■4415 / inTopicNo.29)  バーチャル・リアリティ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/23(Thu) 13:25:20)
    2020/07/23(Thu) 13:38:24 編集(投稿者)

    この世界がバーチャル・リアリティであるかどうかを判定する術を私たちは持ち合わせていない。

    仮にこの世界がバーチャル・リアリティであるとすれば私が見ている景色や今触れているPCのキーも、私の身体さえも仮想現実の中の存在となり実体はない。

    但し、バーチャル・リアリティを体験している私の意識は唯一確かなものとして今ここに実在する。

    デカルトのコギトとはこのような独我論的なものであって、さらに厳密に言えば、デカルトのコギトであって、他者(デカルト以外の)のコギトや意識のことではありえない。

    読者は自分のこととしてこれを読解し理解するが、理解した時点でデカルトのコギトではなくなるというパラドックス。

    言語によって一般化されることで生じる矛盾、言語化できない理由がここにある。


引用返信/返信 削除キー/
■4414 / inTopicNo.30)  〈仏教3.0〉を哲学する 2
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/23(Thu) 09:43:08)
    2020/07/23(Thu) 13:39:13 編集(投稿者)

    おはようございます。

    No4408に返信(おくったがわさんの記事)
    > ありがとうございます。基本的なことから始めないといけない状態なので、たぶんパニチェさんにとって有意義なやりとりはできないですよ。
    > 間違ったことを書いていたら指摘していただけるとありがたいですが、それは自分にしかメリットのないことですし。

    もうまんたい!おくったがわさんには今更こういうことを言うまでもないとは思いますが、説明するということは自分の考えを見直したり、まとめ直したり、場合によってはさらに探究が進んだりしますから、パニチェ(私という表記と分かりにくくなりますので、以後自分のことはパニチェと書きます)にとってもメリットは大ありです。
    逆説的に言えば人に説明できないということは自分でもよく理解できてないってことだとも思います。納得いかいない点とか疑問に思うところなどは、ほんと遠慮なしでぶつけてもらった方が有難いです。

    > 「何故、私はこの私なのか?」という問いに触れた時、私おくたがわは『同様の問いを自らに問うことはできる』というまさにその問題として考えていると思います。
    > しかしたしかに、「意識とは」の問いと同じように、多数の異なる<私>とそれに対応する多数の異なる人間との関係として括り一般化して考えていたと思います。それは、誰が問うた場合でも同じ問いであるとして括っていたことになるかなと。

    同感です。
    「意識とは」の問いは、デイヴィド・チャーマーズらによって提起された「意識の難問」と呼ばれ「1.物質としての脳の情報処理過程に付随する主観的な意識的体験やクオリアというのは、そもそも一体何なのか?2.そしてこれら主観的な意識的体験やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか?(Wikipediaより引用)」というものです。この問いへは「これこれこのような脳や神経細胞の物理的プロセスによって説明あるいは記述可能である」という回答がイメージできます。

    一方、ティム・ロバーツが提起した「意識の超難問」と呼ばれる「なぜ私は他の誰かではないのか?」は上記のような回答がイメージできない、あるいは物理的プロセスでもって生じる「私」や自我意識は万人に共通するものであって「なぜ私は他の誰かではないのか?」への回答になりえないと考えますが、おくったがわさんは如何でしょうか。

    > 実は昨日まで「理屈ではそう言えるかな」という感じの理解でした。しかし上記を読んで、むしろ自分の見る世界の中に自分の意識や他者の意識が同等に併存しているような見方の方が理屈によって修正された解釈であって、ありのままに見るなら「世界の中に主体である自分の意識は含まれない」の方が事実なのかとピンと来始めている感じがあります。そうなると、前述した「多数の異なる<私>」を前提とするような演繹は無理になりそうですね。
    > つい今わかりかけているかな…という感じなので、ここからどう動くかは分かりません。

    その方向性は〈私〉やウィトゲンシュタインの独我論的考察に向かっていると思います。
    映画マトリックス(これは以前にエフニさんが〈私〉の説明の例として持ち出されていたものです)が分かりやすいと思います。実は映画自体が映画の世界を外から見ている観客が映画世界を客体として見ていることなるのですが、これは横に置くとして。。。

    マトリックスで描かれているバーチャルリアリティの世界の中には、それを体験しているチューブに繋がれ培養液?に浸されている身体やその脳にある意識は含まれません。映画ではバーチャルの外部にあるどこかの別空間に身体と意識があるという設定です。

    これと同じく現実も今まさにPCを見ているおくったがわさんの意識はPCがある世界(フィールド)には含まれず、それを見ている極地あるいは端っこにあるということなんですが、どうでしょうか。

    実は世界と〈私〉のこの関係は、映画と観客の関係と同じでもあり、映画を鑑賞している観客は映画の中に登場しないのと同じ図式であるとも言えます。
    参考までに、添付画像はこれまた客体として捉えた〈私の目〉と世界の関係図で、ウィトゲンシュタインが論考で紹介した図です。

    > もう一度「〈仏教3.0〉を哲学するT」を読み直してみようと思っています。

    「〈仏教3.0〉を哲学するT」は〈私〉が主題の読み物ではないので分かりにくいかもしれませんが、例えばP.32やP.115から始まる永井さんの説明を読んでもらって、おくったがわさんが疑問に思う点や異論、反論などをカキコしてもらえれば、共通の書籍もあることですし、理解が早まるかもしれません。私の拙い説明よりも。。。^^

    > まだ1/3くらいで概観の段階のようです。そして以下あくまで自分にとってのみの興味だと思いますが、
    > 多くの宗教が超越的な存在によって「人が為すべきこと・為さざるべきこと」を定められるという形を取る中で、仏教のみ(?)が、そのような超越的存在を置かず、それぞれの人間自らの中に真理があること、自己のみを拠り所とすることを教義とするとのこと。
    > もともと宗教が苦手で近づきたくない人間だった私が、禅だけは興味が持てて、そして仏教の真髄が禅であるといった言説から仏教に対しても苦手意識がなくなったのですが、まさに他の宗教が苦手なのも禅に興味があるのも、上述の特徴が大きいように再確認しました。
    > 以上個人的な話ですみません。
    > ニーチェが仏教に肯定的だったというのも、上記の点も関係があるのでしょうか?

    鋭い!その通りです。
    ニーチェが数々のアフォリズムで仏教に親近性があると述べている理由は次のようなものだとパニチェは考えています。

    1.一神教の批判論者である。
    2.若い頃、傾倒したショーペンハウアーがシャンカラの「マーヤの覆い」に多大な影響を受けていたこと。
    3.静養中のシルヴァプラナ湖畔で見性体験に近い状態で永劫回帰を受胎している
    4.知られているかぎりではケッペン著「仏陀の宗教」、英訳本「スッタニパータ」、オルデンベルグ著「仏陀──その生涯、教説、教団」、ヴァッカーナーゲルの論文「バラモンの起源について」を読んでいる(新田章著「ヨーロッパの仏陀─ニーチェの問い─」より)。
    5.出版を取り止めたが「力への意志」と「相依性縁起」は世界を説明する類似概念である。
    6.仏教もニーチェも実存主義(浄土門を除いて正道門においては今まさに生きてい人間やその生(苦悩)を教義や思想の中心に展開している)。
    7.あるがままをあるがままに肯定する教義や思想である(正見、運命愛)。
    8.形而上学的なものを述べない(十四無記)または批判対象とする。
    。。などなどです。

    > この本は自分にとって読んでよかった本になりそうで、また投稿すると思います。

    是非、よろしくお願いします。

    PS.横レス歓迎。
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引用返信/返信 削除キー/
■4413 / inTopicNo.31)  Re[38]: 〈仏教3.0〉を哲学する 1
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/23(Thu) 09:33:48)
    おはようございます。横レス的なので参考程度にしてスルーされて結構です。
    テーマの内山興正の「図」について、永井均氏は「図」を見た瞬間にカント的だと思ったそうですね。内山興正が大学で哲学を専攻して卒論がカントだったという事実を指摘しつつ、カントのデカルト誤読に起因する限界を超えようとする試みがこの「図」であって、その意味でカントを超えるものだ、と。そのことがわかっているのは、哲学界を見渡してもデカルトとウィトゲンシュタインと内山興正と自分(永井氏)しかいない。仏教界もこの点は誤解している。釈迦や龍樹にもこの視点はなかった可能性がある。このように言われています。

    この「図」に物凄く深い意味を読み込んでおられることは間違いありません。
引用返信/返信 削除キー/
■4408 / inTopicNo.32)  Re[37]: 〈仏教3.0〉を哲学する 1
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/23(Thu) 07:43:46)
    2020/07/23(Thu) 08:00:12 編集(投稿者)

    おはようございます。

    >>「〈仏教3.0〉を哲学するT」を購入して読みました。(三浦さんの本は延期)
    >>添付した画像は同書に掲載の内田興正老師作の図です。
    >
    > おくったがわさん、読まれましたか!嬉しいなぁ〜。
    > いろいろレス交換できたら有難いです。

    ありがとうございます。基本的なことから始めないといけない状態なので、たぶんパニチェさんにとって有意義なやりとりはできないですよ。
    間違ったことを書いていたら指摘していただけるとありがたいですが、それは自分にしかメリットのないことですし。

    >><私>について、
    >>自分(おくったがわ)は、意識とは何か、どうやって生じるのか、また意識には何故「この自分」といった思いや感覚が伴うのかという問題は分かるのですが、<私>はなぜこの私なのか という問題は分からないタイプの人間のようです。
    >
    > なるほど。単なる私の印象でしかないのですが、「意識とは何か、どうやって生じるのか、また意識には何故「この自分」といった思いや感覚が伴うのか」という問いは、客体というか客観的な(外に向けた、あるいは一般的or普遍的、誰にでも当てはまる)問いのように思えます。(対称性がある問い)
    >
    >
    > 一方、「何故、私はこの私なのか?」という問いは内に向けた、あるいは主観的な問いであり、おくったがわさんがパニチェ(名前ではなく)でない限り、おくったがわさんには当てはまらない(おくったがわさんも同様の問いを自らに問うことはできるが、「何故パニチェ〈私〉なのか」の問いとはイコールにならないと思うのですが、如何でしょうか。(対称性がない問い)

    「何故、私はこの私なのか?」という問いに触れた時、私おくたがわは『同様の問いを自らに問うことはできる』というまさにその問題として考えていると思います。
    しかしたしかに、「意識とは」の問いと同じように、多数の異なる<私>とそれに対応する多数の異なる人間との関係として括り一般化して考えていたと思います。それは、誰が問うた場合でも同じ問いであるとして括っていたことになるかなと。

    >>これは、自分が第4図までの見え方に浸りきっているからなのかとも思います(もちろん分かりません)。
    >
    > 第四図で描く世界の中に自分がいるとして、そういう世界(自分も含めた世界)が頭の中の空想とかフィクションでしかないということについては違和感ありますか?
    > 花を見ている自分をリモートカメラで撮影したような、あるいは大きな鏡に自分も風景も映して見るような図式はあくまでも写真や鏡像の世界であって、リアルは、いついかなる時でも添付画像である「マッハ的光景」から世界を見ており(見ている主体であるおくったがわさんの意識は世界の中には含まれない)、これが紛れもない事実であるということなんですがどうでしょうか。

    実は昨日まで「理屈ではそう言えるかな」という感じの理解でした。しかし上記を読んで、むしろ自分の見る世界の中に自分の意識や他者の意識が同等に併存しているような見方の方が理屈によって修正された解釈であって、ありのままに見るなら「世界の中に主体である自分の意識は含まれない」の方が事実なのかとピンと来始めている感じがあります。そうなると、前述した「多数の異なる<私>」を前提とするような演繹は無理になりそうですね。
    つい今わかりかけているかな…という感じなので、ここからどう動くかは分かりません。
    もう一度「〈仏教3.0〉を哲学するT」を読み直してみようと思っています。


    >>Uも読まないといけないかと思いましたが、パニチェさんの話では読まなくても良さそうですね。
    >
    > 私のカキコは信用するに値しませんが(笑)、さしたる進展はないですね。

    分かりました。読むべき本が増えなくてありがたいです^^

    >>Tで必要最小限の参考文献として挙がっている内田興正「進みと安らい」がアマゾンkindleの月極読み放題に入っていて超ラッキーと、ダウンロードして読み始めました。
    >
    > 興味あります。おくったがわさんがおもしろいと思った箇所などを教えてもらえたら有難いです。

    まだ1/3くらいで概観の段階のようです。そして以下あくまで自分にとってのみの興味だと思いますが、
    多くの宗教が超越的な存在によって「人が為すべきこと・為さざるべきこと」を定められるという形を取る中で、仏教のみ(?)が、そのような超越的存在を置かず、それぞれの人間自らの中に真理があること、自己のみを拠り所とすることを教義とするとのこと。
    もともと宗教が苦手で近づきたくない人間だった私が、禅だけは興味が持てて、そして仏教の真髄が禅であるといった言説から仏教に対しても苦手意識がなくなったのですが、まさに他の宗教が苦手なのも禅に興味があるのも、上述の特徴が大きいように再確認しました。
    以上個人的な話ですみません。
    ニーチェが仏教に肯定的だったというのも、上記の点も関係があるのでしょうか?

    この本は自分にとって読んでよかった本になりそうで、また投稿すると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■4347 / inTopicNo.33)  〈仏教3.0〉を哲学する 1
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/21(Tue) 12:45:35)
    2020/07/22(Wed) 08:13:55 編集(投稿者)

    こんにちは。

    No4346に返信(おくったがわさんの記事)
    > こんにちわ。
    > 「〈仏教3.0〉を哲学するT」を購入して読みました。(三浦さんの本は延期)
    > 添付した画像は同書に掲載の内田興正老師作の図です。

    おくったがわさん、読まれましたか!嬉しいなぁ〜。
    いろいろレス交換できたら有難いです。

    > <私>について、
    > 自分(おくったがわ)は、意識とは何か、どうやって生じるのか、また意識には何故「この自分」といった思いや感覚が伴うのかという問題は分かるのですが、<私>はなぜこの私なのか という問題は分からないタイプの人間のようです。

    なるほど。単なる私の印象でしかないのですが、「意識とは何か、どうやって生じるのか、また意識には何故「この自分」といった思いや感覚が伴うのか」という問いは、客体というか客観的な(外に向けた、あるいは一般的or普遍的、誰にでも当てはまる)問いのように思えます。(対称性がある問い)


    一方、「何故、私はこの私なのか?」という問いは内に向けた、あるいは主観的な問いであり、おくったがわさんがパニチェ(名前ではなく)でない限り、おくったがわさんには当てはまらない(おくったがわさんも同様の問いを自らに問うことはできるが、「何故パニチェ〈私〉なのか」の問いとはイコールにならないと思うのですが、如何でしょうか。(対称性がない問い)

    > これは、自分が第4図までの見え方に浸りきっているからなのかとも思います(もちろん分かりません)。

    第四図で描く世界の中に自分がいるとして、そういう世界(自分も含めた世界)が頭の中の空想とかフィクションでしかないということについては違和感ありますか?
    花を見ている自分をリモートカメラで撮影したような、あるいは大きな鏡に自分も風景も映して見るような図式はあくまでも写真や鏡像の世界であって、リアルは、いついかなる時でも添付画像である「マッハ的光景」から世界を見ており(見ている主体であるおくったがわさんの意識は世界の中には含まれない)、これが紛れもない事実であるということなんですがどうでしょうか。

    > Uも読まないといけないかと思いましたが、パニチェさんの話では読まなくても良さそうですね。

    私のカキコは信用するに値しませんが(笑)、さしたる進展はないですね。

    > Tで必要最小限の参考文献として挙がっている内田興正「進みと安らい」がアマゾンkindleの月極読み放題に入っていて超ラッキーと、ダウンロードして読み始めました。

    興味あります。おくったがわさんがおもしろいと思った箇所などを教えてもらえたら有難いです。

    > これを読んで、または読みつつ、<私>や仏教について、質問させていただくかもわかりません。よろしくお願いいたします。

    大歓迎です!質問だけでなく、異論、反論、違和感などなどの感想も含めてレス交換できたら嬉しいなぁ〜。

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■4346 / inTopicNo.34)  Re[35]: 〈仏教3.0〉を哲学するT&U
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/21(Tue) 11:51:37)
    こんにちわ。
    「〈仏教3.0〉を哲学するT」を購入して読みました。(三浦さんの本は延期)
    添付した画像は同書に掲載の内田興正老師作の図です。

    <私>について、
    自分(おくったがわ)は、意識とは何か、どうやって生じるのか、また意識には何故「この自分」といった思いや感覚が伴うのかという問題は分かるのですが、<私>はなぜこの私なのか という問題は分からないタイプの人間のようです。
    これは、自分が第4図までの見え方に浸りきっているからなのかとも思います(もちろん分かりません)。
    Uも読まないといけないかと思いましたが、パニチェさんの話では読まなくても良さそうですね。

    Tで必要最小限の参考文献として挙がっている内田興正「進みと安らい」がアマゾンkindleの月極読み放題に入っていて超ラッキーと、ダウンロードして読み始めました。
    これを読んで、または読みつつ、<私>や仏教について、質問させていただくかもわかりません。よろしくお願いいたします。
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引用返信/返信 削除キー/
■4296 / inTopicNo.35)  〈仏教3.0〉を哲学するT&U
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/20(Mon) 09:38:34)
    2020/07/20(Mon) 10:11:59 編集(投稿者)

    「〈仏教3.0〉を哲学する ヴァージョンU」を読み終えた

    感想としては、出来の悪い続編の映画のようであった

    ヴァージョンUはいらなかったんやないかな

    ヴァージョンTで十分だし

    Uでは哲学的に追究すべきテーマがスルーされている

    鼎談とは名ばかりで全く議論が噛み合っていない

    仏教を哲学している書籍ではないし

    仏教書としては中途半端

    もちろん〈私〉の哲学書にもなっていない

    読む価値がなかったと言えば

    価値なんて如何様にも読者側で創出できる

    但し、自分にとって新たな発見や知的刺激がなかったことは紛れもない事実

    哲学者と宗教者が如何に異なる人種であるか

    明確になったところは面白かった
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■4284 / inTopicNo.36)  〈仏教3.0〉を哲学するU>パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/19(Sun) 22:02:18)
    >了解しました。
    >この書籍に関する読書会はこれまでとしましょう。^^


    はい。 ありがとうございました。^^



    >投稿する前に削除キーのところに暗証番号を入力しておくと、投稿後も編集したり削除したりできます。
    >実験でやってみてもらってもいいですよ。


    ああ、なるほど。 それで削除だけでなく編集もできるのですね。

引用返信/返信 削除キー/

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