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■4251 / inTopicNo.37)  〈仏教3.0〉を哲学するU>minoriさんへ
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/19(Sun) 18:17:55)
    2020/07/19(Sun) 19:34:10 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No4245に返信(minoriさんの記事)

    > パニチェさんが番号をつけて書いてくださった部分についてももちろん拝見しました。
    > ただ、私としては見解の相違については、「それぞれ違うよね。」で終わらせたいほうでもあり、こちらから書くことは特にありません。
    > (物足りないですよね。すみません。)

    いえ、お詫びには及びませんが。。。
    え〜〜〜と、見解の相違は埋めようがないとは思いますが、書籍や例えば経典や論書の読解ということであれば、書籍に書かれてある文面を根拠とすれば議論はできると考えています。

    パニチェがナンバーを付けたところは「〈仏教3.0〉を哲学するU」で永井さんや山下さん、藤田さんの発言の引用であり、その発言を根拠としてパニチェはこのように読解しているという意味での返信でした。

    > 以下は、質問になっているので書いていきますね。

    > >>慈悲ということに関しては。第四図にはそれはない、というのはパニチェさんとminoriで共通の理解でいいかな、と思うんです。
    >>いえ、慈悲が生じるとすれば第四図または第五図の四角内だと思います。これは一照さんも同じようです。・・・(2)
    > >>第五図以降でないとそれは発生しないですね。

    >>ここが意見の違うところです。
    >>慈悲が分別なく生じるというのがパニチェには理解できません。
    >>仮に見性体験の真っ只中(三昧)で世界が慈悲に溢れていると体得するとすれば、世界と体得する主体が分かれている(分別)ということになり、三昧(自他の区別がない体験)とは矛盾すます。
    >>minoriさんが第五図から慈悲が生じると思われている理由を聞かせていただければ有難いです。

    > 第四図いわゆる娑婆世間では、分離して見えているものでも「体験」している時には、そうは見えず、自他の境界がないように感じる、というようなことがあるようです。
    > その他にも、「世界は光だった。」とわかった、というような話も聞きます。
    > 実際にそのような体験をしてしまったら、日常においての見方、考え方も変化せざるをえないのではないでしょうか。
    > 第五図というのを私は、そのような「体験」をする場として考えているんです。
    > そうした体験をした結果として慈悲といわれるものが、体験した人に生じるようになる、ということです。

    > 生まれつき慈悲深い人もいますし、娑婆世間の中で慈悲が生じる人ももちろんいると思います。(無私なのか?と思われるような人です。)
    > ですから、何がなんでも体験が必要だという話でもなく、体験したからすごいんだ、という話でもないとは思うのですけどね。
    > 探究においても体験しなければそれ(探究)ができない、という話でもないと思います。
    > 知的な探究によって、いわゆる「体験」以上に理解する人というのもいると思います。
    > その場合、その知的な理解による変容が、第五図に位置するものと言ってもいいのではないか、と考えます。
    >  答えになっていなかったらすみません。

    minoriさん見解は理解しました。
    見性体験した人に慈悲といわれるものが生じるというところはパニチェも永井さんも藤田さんも(著者の発言からして)同意しているところではありますが、慈悲が第五図の主体から生じるというところは同意できないところです。

    永井さんと藤田さんがそのように考えていると読解した根拠が以下の引用です。
    永井さんの発言「〈私〉は存在しているだけです。倫理や善悪はないですね(P.175)」「〈私〉は存在だけしていて、開けですから見る力のようなものはありますが、動機になるような意味づける力は何もないんですね(P.175)」
    藤田さんの発言「僕はここの四角の外のところはきれいに、超越論的にしておきたいんですよ。そこにあまりいろいろなものを詰め込まないで、慈悲のようなものは四角の中に収めておく(P.178)」

    > いや〜、それは難しいです。 永井さんの〈私〉はさっぱり理解できないですし。。。
    > というより、わからなすぎて興味を失ってしまいました。
    > 読書会をせっかく提案いただいたのに申し訳ありません。
    > せっかく買ったので、わかりそうなところだけ一人で読んでみます。
    > (読むのじたいをやめるかもしれませんが。)

    了解しました。
    この書籍に関する読書会はこれまでとしましょう。^^

    >>全然、大丈夫です。^^
    >>ちなみに投稿後も編集できますが、そのやり方は分かりますか?

    > わからないです。 削除キーの使用法はまだしてませんがやればできそうです。

    投稿する前に削除キーのところに暗証番号を入力しておくと、投稿後も編集したり削除したりできます。
    実験でやってみてもらってもいいですよ。

引用返信/返信 削除キー/
■4245 / inTopicNo.38)  〈仏教3.0〉を哲学するU>パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/19(Sun) 17:37:37)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    パニチェさんが番号をつけて書いてくださった部分についてももちろん拝見しました。
    ただ、私としては見解の相違については、「それぞれ違うよね。」で終わらせたいほうでもあり、こちらから書くことは特にありません。
    (物足りないですよね。すみません。)

    以下は、質問になっているので書いていきますね。

    >>慈悲ということに関しては。第四図にはそれはない、というのはパニチェさんとminoriで共通の理解でいいかな、と思うんです。
    >
    > いえ、慈悲が生じるとすれば第四図または第五図の四角内だと思います。これは一照さんも同じようです。・・・(2)
    >
    >>第五図以降でないとそれは発生しないですね。
    >
    > ここが意見の違うところです。
    > 慈悲が分別なく生じるというのがパニチェには理解できません。
    > 仮に見性体験の真っ只中(三昧)で世界が慈悲に溢れていると体得するとすれば、世界と体得する主体が分かれている(分別)ということになり、三昧(自他の区別がない体験)とは矛盾すます。
    > minoriさんが第五図から慈悲が生じると思われている理由を聞かせていただければ有難いです。
    >


    第四図いわゆる娑婆世間では、分離して見えているものでも「体験」している時には、そうは見えず、自他の境界がないように感じる、というようなことがあるようです。
    その他にも、「世界は光だった。」とわかった、というような話も聞きます。
    実際にそのような体験をしてしまったら、日常においての見方、考え方も変化せざるをえないのではないでしょうか。
    第五図というのを私は、そのような「体験」をする場として考えているんです。
    そうした体験をした結果として慈悲といわれるものが、体験した人に生じるようになる、ということです。

    生まれつき慈悲深い人もいますし、娑婆世間の中で慈悲が生じる人ももちろんいると思います。(無私なのか?と思われるような人です。)
    ですから、何がなんでも体験が必要だという話でもなく、体験したからすごいんだ、という話でもないとは思うのですけどね。
    探究においても体験しなければそれ(探究)ができない、という話でもないと思います。
    知的な探究によって、いわゆる「体験」以上に理解する人というのもいると思います。
    その場合、その知的な理解による変容が、第五図に位置するものと言ってもいいのではないか、と考えます。

     答えになっていなかったらすみません。

    >> ※永井さんの〈私〉については、山下さんの青空関連の話が終わった後に、再度きちんとやる、ということでいかがでしょうか?
    >>なんか、頭がパンクしてしまいそうなので。
    >>できたらそのようにお願いします。
    >
    > 了解しました。ただ「〈仏教3.0〉を哲学するU」を良道さんを主として読解するのと、第五図=〈私〉として読解するのでは、かなり異なった解釈になるとは思います。
    > これは提案ですが「〈仏教3.0〉を哲学するU」の正確な読解ということを主とすればどうでしょうか。
    > そういうことであれば(言い出しっぺで申し訳なかったのですが)良道さんとパニチェの見解の相違は捨ておきましょう。^^


    いや〜、それは難しいです。 永井さんの〈私〉はさっぱり理解できないですし。。。
    というより、わからなすぎて興味を失ってしまいました。
    読書会をせっかく提案いただいたのに申し訳ありません。
    せっかく買ったので、わかりそうなところだけ一人で読んでみます。
    (読むのじたいをやめるかもしれませんが。)

    > 全然、大丈夫です。^^
    > ちなみに投稿後も編集できますが、そのやり方は分かりますか?

    わからないです。 削除キーの使用法はまだしてませんがやればできそうです。
引用返信/返信 削除キー/
■4229 / inTopicNo.39)  〈仏教3.0〉を哲学するU>minoriさんへ 2
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/19(Sun) 08:39:28)
    2020/07/19(Sun) 17:21:10 編集(投稿者)

    minoriさん、レスありがとうございます。

    No4225に返信(minoriさんの記事)

    先の私の返信も分かりにくかったと思いますので、番号をつけておきますね。

    > >> そのあたりが私にとっては興味深くもわからない部分でもあり。
    >>>「青空としてのわたし」には、分類区別する能力はなくただ観る、のだと思うのですね。

    > >パニチェもヴァージョンUを読むまではそう考えていましたが。。。

    (1)
    > >ヴァージョンUでは、第五図の人に関して山下さんは「コンパッションの根拠(P.172)」「マインドフルネスだし、ヴィパッサナーするし、慈悲の根源(P.172)」と述べてますね。

    (2)
    > >これに対して永井さんと藤田さんにとって第五図の人は、永井さん「〈私〉は存在しているだけです。倫理や善悪はないですね(P.175)」「〈私〉は存在だけしていて、開けですから見る力のようなものはありますが、動機になるような意味づける力は何もないんですね(P.175)」、一照さん「僕はここの四角の外のところはきれいに、超越論的にしておきたいんですよ。そこにあまりいろいろなものを詰め込まないで、慈悲のようなものは四角の中に収めておく(P.178)」と述べてます。

    (3)
    > >ヴァージョンTで山下さんは「『青空としてのわたし』というのは、この一連の内山老師の図のなかでは、第五図にあたります(TP.123〜124)」と述べてますから、この発言に従えば「青空とわたし」はただ観てるだけではなく、「慈悲の根源としてのわたし」でもあるようです。むしろ第五図が観ているだけと解釈しているのは永井さんと藤田さんだと思います。

    (4)
    > >第五図の坐禅をしている人は永井さんと藤田さんからすれば超越論的存在で、山下さんは超越的存在としているようです。・・・(4)

    (5)
    > >ちなみにパニチェの意見としては山下さんの「ただ観てるだけのわたし」は第六図になるように思います。つまり「青空としてのわたし」は第五図ではなく、第六図ではないかということです。


    > まず最初に。私が書いた、
    > ・・・・・
    > 「青空としてのわたし」には、分類区別する能力はなくただ観る、のだと思うのですね。
    > 一方、永井さんの〈私〉は、世界が開闢する場である部分においては他者も同じ仕組みになっていて、しかし、その開闢している場に現れてくるものが、一人一人違う個人(実存)であり、したがって他者の考えていることはまったく同一に理解することは不可能である。
    >>こんなふうに理解したのですが、どうでしょう。
    > ・・・・・
    > ↑ この文章ですが。これは。
    > 「青空としてのわたし」には、分別区別する能力はない。
    > 一方、永井さんの〈私〉には、分別区別する能力もあって、それは一人の身体を持つ人間ですよね。
    > つまり。「分別区別する能力」のあるなし、その違いがあるのでは?と感じたので、そのことを言いたかったものなんです。
    > そこに加えて、永井さんの〈私〉というのをこんなふうに今のところ考えてます、というのを付け加えた、ということです。
    > このあたりまで最初に書くべきでした。すみません。

    はい、先のminoriさんの返信は、そのように理解していました。

    > まず。「青空としてのわたし」ですが。これをパニチェさんご自身は、第五図ではなく第六図なのではないか、と考えられているのですね。

    そうです。・・・(5)

    > そして。「ただ観ているだけ」というのは、第五図ではなく第六図なのではないか、と考えられている、のですね。

    いえ、〈私〉は第五図だと考えており、〈私〉=第五図はただ観ているだけで、慈悲も含めた分別区分は〈私〉=第五図にはありえないと考えています。

    山下さんとパニチェとの違いは、山下さんが第五図=「青空とわたし」とし、ここが慈悲の根源である・・・(1)(3)と述べていることから、何らかの分別が働かなくては慈悲が生じるはずがないとパニチェは考えているとことです。

    ただ観ているだけでは慈悲の根源になりえないということです。これは永井さんも藤田さんも同じ意見を持っており、慈悲は第五図の(山下さんが主張する第五図の主体ではなく)四角の中(坐禅している図として見れば頭の部分)に生じると述べています。・・・(2)

    > 以下、私の考えを書きますね。
    > 『バージョンU』p15に、ほんとうの私というのは第五図であり、これがいままで、「青空としてのわたし」と呼んでいたもの、と山下さんの発言としてあります。

    はい、先のレスでも引用しましたが、ヴァージョンTで山下さんはそのように述べていました。・・・(3)

    > また、『光の中のマインドフルネス』という、山下さんがお一人で書かれた本があって、そのp65に、「青空からの気づきと言った場合の青空は、違う次元に属しています。その違う次元こそが第五図なのです。」とあります。
    > minoriは、「青空としてのわたし」というのは第五図として理解しています。

    この山下さん(minoriさんの見解も含めて)の主張にパニチェは疑問を持っています。
    但し、「青空としてのわたし」が第五図であると山下さんが主張していることは理解しています・・・(3)。

    違う次元というのは私たちが認識するところの世界の外だと思います。ここは3人の著者も同じです。・・・(4)超越論的存在(パニチェ、永井さん、藤田さん)、超越的存在(山下さん)

    で、第五図の坐禅をしている人(実際には人ではなく〈主体〉=〈私〉です)は世界の外(第四図までの世界とは別次元)にいる・・・(4)何の「分別」も「気づき」も生じない〈私〉であるなら、慈悲という分別は生じない、生じるとすれば永井さんも藤田さんも述べているように第五図の四角内(つまり第四図)に生じると考えており、パニチェもこれに同意であるということです。・・・(2)

    > そして。第六図というのは、修証一等の世界なのだ、ということが同じ本のp96に書いてあります。
    > 「第五図が私だとわかった人間、そこが本籍だとわかった人間が、じゃあそのあとどういうふうに現実を生きていったらいいの?というのが第六図の問題意識です。」とあります。

    第六図は第五図の主体=〈私〉も跡形もなく消えた状態であるとパニチェは考えています。
    だから三昧から戻れば、〈私〉も消失していたことが分かる(明晰夢はともかく、通常の夢の中では夢と気づかないが、目覚めてから眠っていたことや夢を見ていたことを気付くという図式と同じ)というものだと考えています。

    修証一等は「修行と悟りが一如である」ということであって、第六図に限定するものではなく、無分別を体得した覚者から見れば修行と悟りが別物でないという佛智というのが一般的な理解です。

    > 第五図に話を戻すと。
    > 第五図というのは、坐禅をしている身体を持つ人間として描かれていますが、山下さんは、第五図を形あるものとしてではなく、かたちなき空なる意識として存在している、と言います。(同じ本のp42にあります。)

    これはパニチェも永井さんも藤田さんも同意見です。(第五図の主体に身体性はありません。だた識のみ〈唯識〉=〈私〉です。)・・・(4)

    > その第五図の世界を体験し、それから第六図を生きる、ということになります。

    生きるのはあくまでも第四図内(または第五図の四角内)です。
    十牛図で言えば第六図は「人牛倶忘」でないとパニチェの中では辻褄が合いません。

    > 慈悲ということに関しては。第四図にはそれはない、というのはパニチェさんとminoriで共通の理解でいいかな、と思うんです。

    いえ、慈悲が生じるとすれば第四図または第五図の四角内だと思います。これは藤田さんも同じようです。・・・(2)

    > 第五図以降でないとそれは発生しないですね。

    ここが意見の違うところです。
    慈悲が分別なく生じるというのがパニチェには理解できません。
    仮に見性体験の真っ只中(三昧)で世界が慈悲に溢れていると体得するとすれば、世界と体得する主体が分かれている(分別)ということになり、三昧(自他の区別がない体験)とは矛盾すます。
    minoriさんが第五図から慈悲が生じると思われている理由を聞かせていただければ有難いです。

    > つまり、私は以下のように考えています。
    > かたちのない空の意識である第五図は、「分別区別のないところ」であり、それゆえ慈悲がそこから発生する、ということ。
    > 分別区別しないで観る(たた観る)ところでないと慈悲は生まれない。

    ここがパニチェには理解できません。ただ観ているだけは〈私〉であることには間違いないです。
    で、永井さんも藤田さんも主張している通り第五図がただ観ているだけなら、ここから慈悲は生じないと述べています。・・・(2)

    ****************************

    念のため上記をまとまると。。。

    > 「青空としてのわたし」には、分別区別する能力はない。

    山下さんがそのように主張しているということでは同意。
    但し、第五図の主体がただ観ているだけなら慈悲はここから生じない(パニチェ、永井さん、藤田さんも同じ意見)・・・(2)

    「青空としてのわたし」には、分別区別する能力はないということと、ここが慈悲の根源というのは矛盾するとパニチェは考えています、これは多分、永井さん、山下さんも同じだと思います。

    > 一方、永井さんの〈私〉には、分別区別する能力もあって、それは一人の身体を持つ人間ですよね。

    いえ、〈私〉は一人の身体を持つ人間ではないですし、分別区別する能力もありません。(これは3人の共著者も同じで意見です)・・・(4)

    > つまり。「分別区別する能力」のあるなし、その違いがあるのでは?と感じたので、そのことを言いたかったものなんです。

    第五図が〈私〉であるなら「分別区別する能力がない」ということはパニチェ、山下さん、永井さん、一照さんも同意してますが・・・(2)、違うのは第五図(の主体)に慈悲を認めるかどうかです。パニチェ、永井さん、藤田さんは認めず、山下さんは認めているという違いです。・・・(2)(3)

    ****************************

    >  ※永井さんの〈私〉については、山下さんの青空関連の話が終わった後に、再度きちんとやる、ということでいかがでしょうか?
    > なんか、頭がパンクしてしまいそうなので。
    > できたらそのようにお願いします。

    了解しました。ただ「〈仏教3.0〉を哲学するU」を山下さんを主として読解するのと、第五図=〈私〉として読解するのでは、かなり異なった解釈になるとは思います。
    これは提案ですが「〈仏教3.0〉を哲学するU」の正確な読解ということを主とすればどうでしょうか。
    そういうことであれば(言い出しっぺで申し訳なかったのですが)山下さんとパニチェの見解の相違は捨ておきましょう。^^

    ちなみにヴァージョンUでは(ヴァージョンTと比べて)山下さんが浮いている感じがします。根本的な違いは永井さんと藤田さんが第五図の主体=〈私〉は超越論的存在としているのに対して、山下さんは第五図の主体に関しては超越的存在としている点です。慈悲の有無の違いもここから出てきます。・・・(4)

    永井さんが鼎談を今回が最後としたのはこの辺の交わらない食い違いが生じているためだと思われます。
    永井さんと藤田さんはほぼ同じ見解を持っているようで、パニチェもこの二人には同意できますが、山下さんの主張には?が付きます。
    後書きで三人の違いが明確になったということはそういうことだと思います。

    No4227に返信(minoriさんの記事)
    > 今、投稿した私の文章ですが。
    > ワードに写して作り、こちらに写したものでして。
    > パニチェさんの文章の前につけるべき「>」が抜けていて、パニチェさんの文章なのかminoriの文章なのかわからなくなっている部分が出てしまっているのに気づきました。
    > その点についても、すみません。
    > 以降、気を付けます。

    全然、大丈夫です。^^
    ちなみに投稿後も編集できますが、そのやり方は分かりますか?

引用返信/返信 削除キー/
■4227 / inTopicNo.40)  〈仏教3.0〉を哲学するU>パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/19(Sun) 05:26:57)
    今、投稿した私の文章ですが。
    ワードに写して作り、こちらに写したものでして。
    パニチェさんの文章の前につけるべき「>」が抜けていて、パニチェさんの文章なのかminoriの文章なのかわからなくなっている部分が出てしまっているのに気づきました。
    その点についても、すみません。
    以降、気を付けます。
引用返信/返信 削除キー/
■4225 / inTopicNo.41)  〈仏教3.0〉を哲学するU>パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/19(Sun) 05:20:38)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    > さっそくですが。P80付近は読まれましたか?

    第二章P.182まで読みました。

    もうそんなに。さすがです。

    >> そのあたりが私にとっては興味深くもわからない部分でもあり。
    > >「青空としてのわたし」には、分類区別する能力はなくただ観る、のだと思うのですね。

    >パニチェもヴァージョンUを読むまではそう考えていましたが。。。

    >ヴァージョンUでは、第五図の人に関して良道さんは「コンパッションの根拠(P.172)」「マインドフルネスだし、ヴィパッサナーするし、慈悲の根源(P.172)」と述べてますね。

    >これに対して永井さんと一照さんにとって第五図の人は、永井さん「〈私〉は存在しているだけです。倫理や善悪はないですね(P.175)」「〈私〉は存在だけしていて、開けですから見る力のようなものはありますが、動機になるような意味づける力は何もないんですね(P.175)」、一照さん「僕はここの四角の外のところはきれいに、超越論的にしておきたいんですよ。そこにあまりいろいろなものを詰め込まないで、慈悲のようなものは四角の中に収めておく(P.178)」と述べてます。

    >ヴァージョンTで良道さんは「『青空としてのわたし』というのは、この一連の内山老師の図のなかでは、第五図にあたります(TP.123〜124)」と述べてますから、この発言に従えば「青空とわたし」はただ観てるだけではなく、「慈悲の根源としてのわたし」でもあるようです。むしろ第五図が観ているだけと解釈しているのは永井さんと一照さんだと思います。

    >第五図の坐禅をしている人は永井さんと一照さんからすれば超越論的存在で、良道さんは超越的存在としているようです。ちなみにパニチェの意見としては良道さんの「ただ観てるだけのわたし」は第六図になるように思います。つまり「青空としてのわたし」は第五図ではなく、第六図ではないかということです。


    まず最初に。私が書いた、
    ・・・・・
    「青空としてのわたし」には、分類区別する能力はなくただ観る、のだと思うのですね。
    一方、永井さんの〈私〉は、世界が開闢する場である部分においては他者も同じ仕組みになっていて、しかし、その開闢している場に現れてくるものが、一人一人違う個人(実存)であり、したがって他者の考えていることはまったく同一に理解することは不可能である。
    > こんなふうに理解したのですが、どうでしょう。
    ・・・・・
    ↑ この文章ですが。これは。
    「青空としてのわたし」には、分別区別する能力はない。
    一方、永井さんの〈私〉には、分別区別する能力もあって、それは一人の身体を持つ人間ですよね。
    つまり。「分別区別する能力」のあるなし、その違いがあるのでは?と感じたので、そのことを言いたかったものなんです。
    そこに加えて、永井さんの〈私〉というのをこんなふうに今のところ考えてます、というのを付け加えた、ということです。
    このあたりまで最初に書くべきでした。すみません。

    まず。「青空としてのわたし」ですが。これをパニチェさんご自身は、第五図ではなく第六図なのではないか、と考えられているのですね。
    そして。「ただ観ているだけ」というのは、第五図ではなく第六図なのではないか、と考えられている、のですね。

    以下、私の考えを書きますね。
    『バージョンU』p15に、ほんとうの私というのは第五図であり、これがいままで、「青空としてのわたし」と呼んでいたもの、と山下さんの発言としてあります。
    また、『光の中のマインドフルネス』という、山下さんがお一人で書かれた本があって、そのp65に、「青空からの気づきと言った場合の青空は、違う次元に属しています。その違う次元こそが第五図なのです。」とあります。
    minoriは、「青空としてのわたし」というのは第五図として理解しています。

    そして。第六図というのは、修証一等の世界なのだ、ということが同じ本のp96に書いてあります。
    「第五図が私だとわかった人間、そこが本籍だとわかった人間が、じゃあそのあとどういうふうに現実を生きていったらいいの?というのが第六図の問題意識です。」とあります。

    第五図に話を戻すと。
    第五図というのは、坐禅をしている身体を持つ人間として描かれていますが、山下さんは、第五図を形あるものとしてではなく、かたちなき空なる意識として存在している、と言います。(同じ本のp42にあります。)
    その第五図の世界を体験し、それから第六図を生きる、ということになります。

    慈悲ということに関しては。第四図にはそれはない、というのはパニチェさんとminoriで共通の理解でいいかな、と思うんです。
    第五図以降でないとそれは発生しないですね。

    つまり、私は以下のように考えています。
    かたちのない空の意識である第五図は、「分別区別のないところ」であり、それゆえ慈悲がそこから発生する、ということ。
    分別区別しないで観る(たた観る)ところでないと慈悲は生まれない。


     ※永井さんの〈私〉については、山下さんの青空関連の話が終わった後に、再度きちんとやる、ということでいかがでしょうか?
    なんか、頭がパンクしてしまいそうなので。
    できたらそのようにお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■4160 / inTopicNo.42)  〈仏教3.0〉を哲学するUとカント
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/18(Sat) 17:01:44)
    2020/07/18(Sat) 17:25:28 編集(投稿者)

    「〈仏教3.0〉を哲学する ヴァージョンU 第三章はじめに」で永井均氏がカントから〈私〉を語っているところを読んで思ったこと。

    乳幼児が言葉を覚え、世界を言語的に認識し、世界の中に自己を投棄するまでのプロセスがカント哲学と重複するように思える。

    その途上で時間と空間を認識する。

    これらが可能なのは生得的に言語野(やブローカ中枢とウェルニッケ中枢)や空間認識を司る体性化感覚が備わっているためであり、時間は学習によって(1日や1年の区切りや運動を記述する道具として)習得していく。

    カントのコペルニクス的転回はその逆ベクトルではないか?ということ。


引用返信/返信 削除キー/
■4150 / inTopicNo.43)  〈仏教3.0〉を哲学するU>minoriさんへ 2
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/18(Sat) 14:54:07)
    2020/07/18(Sat) 15:16:19 編集(投稿者)

    minoriさん、レスありがとうございます。
    投稿ではお手間かけました。^^;

    > さっそくですが。P80付近は読まれましたか?

    第二章P.182まで読みました。

    > そのあたりが私にとっては興味深くもわからない部分でもあり。
    > 「青空としてのわたし」には、分類区別する能力はなくただ観る、のだと思うのですね。

    パニチェもヴァージョンUを読むまではそう考えていましたが。。。

    ヴァージョンUでは、第五図の人に関して良道さんは「コンパッションの根拠(P.172)」「マインドフルネスだし、ヴィパッサナーするし、慈悲の根源(P.172)」と述べてますね。

    これに対して永井さんと一照さんにとって第五図の人は、永井さん「〈私〉は存在しているだけです。倫理や善悪はないですね(P.175)」「〈私〉は存在だけしていて、開けですから見る力のようなものはありますが、動機になるような意味づける力は何もないんですね(P.175)」、一照さん「僕はここの四角の外のところはきれいに、超越論的にしておきたいんですよ。そこにあまりいろいろなものを詰め込まないで、慈悲のようなものは四角の中に収めておく(P.178)」と述べてます。

    ヴァージョンTで良道さんは「『青空としてのわたし』というのは、この一連の内山老師の図のなかでは、第五図にあたります(TP.123〜124)」と述べてますから、この発言に従えば「青空とわたし」はただ観てるだけではなく、「慈悲の根源としてのわたし」でもあるようです。むしろ第五図が観ているだけと解釈しているのは永井さんと一照さんだと思います。

    第五図の坐禅をしている人は永井さんと一照さんからすれば超越論的存在で、良道さんは超越的存在としているようです。ちなみにパニチェの意見としては良道さんの「ただ観てるだけのわたし」は第六図になるように思います。つまり「青空としてのわたし」は第五図ではなく、第六図ではないかということです。

    > 一方、永井さんの〈私〉は、世界が開闢する場である部分においては他者も同じ仕組みになっていて、しかし、その開闢している場に現れてくるものが、一人一人違う個人(実存)であり、したがって他者の考えていることはまったく同一に理解することは不可能である。
    > こんなふうに理解したのですが、どうでしょう。

    ここのところは〈私〉は何を指しているかを知る必要があると思います。
    (参考までに、P.160で永井さんが〈私〉に関する新しい例えを述べています)

    上記でminoriさんが指摘している箇所がP.79の終わりに一照さんの「例えば、この世界で、永井均という人がここでこういうことを説明したとしますね。その時、ここに藤田一照という名の私がいて、先生の話を聞いて『わかる、わかる』となったら、それは『私』であった一照が〈私〉を発見したということになりますよね。でも、一照の〈私〉と、永井さんの〈私〉は全然違うよ。ということですか」という問いに答えて、永井さんが「そうじゃないんです」と返答したところだとすると。。。

    「その開闢している場に現れてくるもの」が一人一人違う個人(実存)であるということではなくて、〈私〉の存在自体が他者に伝えようがない実存であるということになります。

    何故なら、〈私〉自体が共有できるものであるとするなら、パニチェとminoriさんが同じ位置から同じ世界を同じように観ることが可能となり、二人の身体もどちらか一方が動かそうとすれば動くのような、ありえない存在になってしまうからです。

    他者に伝わった時点でパニチェの〈私〉ではないものとして、minoriさんが理解することになるというような話です。そういう意味で「他者の考えていることというよりも、他者の〈私〉は、まったく同一に理解することは不可能である」ということです。

    絶対に同じではありないものが言葉によって同一化される。これによって他者に伝わるというありえない(パラドックス)なこととなり、これ故に言語化不能ということです。

    それともパニチェがminoriさんの返信の読解を間違ってますかね。

    PS.用語も含めて、分からないことは何でも聞いて下さい。中途半端な妥協はなしで、遠慮なく疑問に思う点や異論があれば述べて下さい。その方が絶対レス交換は楽しいし、心地よい知的刺激になりますから。^^

引用返信/返信 削除キー/
■4146 / inTopicNo.44)  〈仏教3.0〉を哲学するU>パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/18(Sat) 09:56:38)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >そうだと思います。
    >この書籍(T&U)でも再三論じられていますが、無我や真我、アドヴァイタやノンデュアリティ(非二元)、仏教には不二の法門(維摩経)というのもありますが、これらの教義が同一なのか、それとも相反する教義なのかが明確でない理由は、その起点である「我」や「私」が無定義であるからだと思います。

    同じ漢字の「我」でも意味するものが違っている、とかありますよね。

    >坐禅や瞑想をはじめるにしても、ここのところが重要で、起点を明確にすべきというのは共著者3名が共通するところで、これにはパニチェも同意です。
    >「私」を起点として坐禅や瞑想をはじめた場合と、〈私〉を起点としてはじめた仏教者では、これらの教義の捉え方が異なり、それは「私」に関して定義されてないからだと思います。

    なるほど。

    >ちなみにゴウさんと6年にわたってレス交換(議論)できたのは、ゴウさんが「私」ではなく〈私〉を起点とされていたからだと思っています。これは仏教だけに限定したことではなく、哲学の主たるテーマのひとつでもある存在論や認識論(現象学も含)をはじめ、科学、哲学、宗教、文学、芸術、日常におけるすべては、疑いようもなく〈私〉が起点であるということです。ここを押さえているのと押さえていないのでは、大きな違いがあると思われます。

    おっしゃること、わかると思います。

    >以上はパニチェの欠点でもあり、結論めいたことを断定的にカキコしましたが、異論、反論、質問、横レスは歓迎します。
    テーマが言語化不可能な対象だけに的確な返信ができるかどうかはともかくとして。。。

    はい、よろしくお願いします。

    >100%の確信はないですが、多分同じだと思います。

    まだ読み切れていない本文中にも、同じような内容がもしかしたら書かれているかもしれないので、その時にまた再考したいです。

    >はい、私で分かることであれば何なりと。^^
    >永井氏の主張も時々分からないところはあります。
    >読書会みたくレス交換できれば私も有難いです。
    >後書きを先に読み、まだ「鼎談の前のプレ鼎談」のところしか読んでないですが。。。。^^;
    >こちらこそ、よろしくお願いします。

    さっそくですが。P80付近は読まれましたか?
    そのあたりが私にとっては興味深くもわからない部分でもあり。

    「青空としてのわたし」には、分類区別する能力はなくただ観る、のだと思うのですね。
    一方、永井さんの〈私〉は、世界が開闢する場である部分においては他者も同じ仕組みになっていて、しかし、その開闢している場に現れてくるものが、一人一人違う個人(実存)であり、したがって他者の考えていることはまったく同一に理解することは不可能である。
    こんなふうに理解したのですが、どうでしょう。



     Reをタイトルからはずし、投稿してみます。

引用返信/返信 削除キー/
■4143 / inTopicNo.45)  〈仏教3.0〉を哲学するU>minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/18(Sat) 08:44:08)
    テストです。
引用返信/返信 削除キー/
■4113 / inTopicNo.46)  〈仏教3.0〉を哲学するU>minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/17(Fri) 07:52:06)
    2020/07/17(Fri) 10:16:37 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。
    レスありがとうございます。

    No4111に返信(minoriさんの記事)

    > 唯識もほんのわずかしか私は知らないのですが、たしかに似てる気はしてました。
    > ノンデュアリティのティーチャーの欧米人の方々は、仏教、特に禅修行で坐禅をしたりヨガをされる方もいます。
    > 仏教に対して批判的な発言をされる方々は見る限りないですね。

    そうだと思います。
    この書籍(T&U)でも再三論じられていますが、無我や真我、アドヴァイタやノンデュアリティ(非二元)、仏教には不二の法門(維摩経)というのもありますが、これらの教義が同一なのか、それとも相反する教義なのかが明確でない理由は、その起点である「我」や「私」が無定義であるからだと思います。

    坐禅や瞑想をはじめるにしても、ここのところが重要で、起点を明確にすべきというのは共著者3名が共通するところで、これにはパニチェも同意です。
    「私」を起点として坐禅や瞑想をはじめた場合と、〈私〉を起点としてはじめた仏教者では、これらの教義の捉え方が異なり、それは「私」に関して定義されてないからだと思います。

    ちなみにゴウさんと6年にわたってレス交換(議論)できたのは、ゴウさんが「私」ではなく〈私〉を起点とされていたからだと思っています。これは仏教だけに限定したことではなく、哲学の主たるテーマのひとつでもある存在論や認識論(現象学も含)をはじめ、科学、哲学、宗教、文学、芸術、日常におけるすべては、疑いようもなく〈私〉が起点であるということです。ここを押さえているのと押さえていないのでは、大きな違いがあると思われます。

    以上はパニチェの欠点でもあり、結論めいたことを断定的にカキコしましたが、異論、反論、質問、横レスは歓迎します。
    テーマが言語化不可能な対象だけに的確な返信ができるかどうかはともかくとして。。。

    >>お手間かけました。引用ありがとうございました。
    >>永井氏もほぼ同じような問題意識を持ってるようですね。

    > ということは、パニチェさんもということですか?
    > 実は私も、言葉としてまとめるのが難しいところを永井さんが文章化してくださった、と(勝手に)感じるくらい、けっこうガーンときました。

    100%の確信はないですが、多分同じだと思います。

    > わ〜、買われたのですね。わからないところ、質問させてくださいね。
    > 今たしか一つ、永井さんの〈私〉がわからないと結局のところ理解できないのかもしれないけれど、どういうことなのだろう?という個所を最初に近い部分で見つけたので、次回書いてみますね。
    > よろしくお願いします。

    はい、私で分かることであれば何なりと。^^
    永井氏の主張も時々分からないところはあります。
    読書会みたくレス交換できれば私も有難いです。
    後書きを先に読み、まだ「鼎談の前のプレ鼎談」のところしか読んでないですが。。。。^^;
    こちらこそ、よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■4111 / inTopicNo.47)  Re[25]: 青空と〈私〉>パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/17(Fri) 07:27:13)
    パニチェさん、レスありがとうございます。


    > なるほど。でも仏教者にもよるでしょうね。とくに僧侶は自分が所属する宗派の教義しか知らない人が多く、それをもとに判断するので批判的なんだと思います。
    > 唯識(法相宗)なんて“唯(ただ)識のみがある”ですから、意識だけが実在とする教義と相性がいいです。


    唯識もほんのわずかしか私は知らないのですが、たしかに似てる気はしてました。

    ノンデュアリティのティーチャーの欧米人の方々は、仏教、特に禅修行で坐禅をしたりヨガをされる方もいます。
    仏教に対して批判的な発言をされる方々は見る限りないですね。


    > ちなみに正見って八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の一番初めにきてますけど、実は七正道の最終目標ってことらしいです。

    七正道というのがあるんですね。その最終目標が正見になっている、と。


    > 了解しました。実はですね。。。あ、後回しにします。。。

    はい。


    > ■No4081に返信(minoriさんの記事)
    >>お客さんからの質疑応答で話した内容からなんですね。
    >
    >>〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり影響を与える、というのがどうして可能なのか?
    >>〈私〉が娑婆世界に対して無寄与的な存在であるかぎり、それは不可能ではないのか?
    >>という質問に答えたもの。
    >
    >>(以下、引用させていただきます。)
    >>私はまず、その二つのあいだの関係を独立の二つの実在的存在者のあいだのふつうの意味での関係と同じように扱うべきでないと言って、その後、対立する二種の答えを提示している。
    >>一つは、それは問題なく可能ではあるが、じつのところそれは、〈私〉という事実に気づいた「私」が、気づいたその事実を利用して、それとは無関係に実在している自分の心の内容をそういうものとして観察するという心理的事実であるにすぎないのだ、というものであり、もう一つは、そうではなく、じつのところはもともと(=普段でも)〈私〉だけが、この世界の外からこの世を観察しそこに影響を与えうる唯一の存在なのだが、瞑想的実践においては、通常はそこに纏わる夾雑物がすべて削ぎ落され、その事実そのものが剥きだしで明るみに出されるのだ、というものである。
    >>後者の場合には、〈私〉は無寄与的存在であるどころか、むしろ通常の客観的世界(娑婆世間)をその外から観察し結果として影響を与えうる唯一の存在であることになる。
    >>『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』p280〜p281より引用。
    >
    > お手間かけました。引用ありがとうございました。
    > 永井氏もほぼ同じような問題意識を持ってるようですね。


    ということは、パニチェさんもということですか?
    実は私も、言葉としてまとめるのが難しいところを永井さんが文章化してくださった、と(勝手に)感じるくらい、けっこうガーンときました。


    > めっちゃ気になったので、買ってきました!!
    > 一緒に読み進みましょう♪ヾ(≧▽≦)ノ


    わ〜、買われたのですね。わからないところ、質問させてくださいね。

    今たしか一つ、永井さんの〈私〉がわからないと結局のところ理解できないのかもしれないけれど、どういうことなのだろう?という個所を最初に近い部分で見つけたので、次回書いてみますね。
    よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■4084 / inTopicNo.48)  Re[24]: 青空と〈私〉>minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/16(Thu) 16:38:12)
    レスありがとうございます。

    No4078に返信(minoriさんの記事)
    > ノンデュアリティ(非二元)では、気づき(意識)だけが実在で、すべてのものはそれが姿を変えてそのように見えているもの、とされます。
    > それだと、一人一人の人間が修行するという観点が抜けてしまうのではないか、そして、非倫理的になってしまうのではないか、という批判になると思います。

    なるほど。でも仏教者にもよるでしょうね。とくに僧侶は自分が所属する宗派の教義しか知らない人が多く、それをもとに判断するので批判的なんだと思います。
    唯識(法相宗)なんて“唯(ただ)識のみがある”ですから、意識だけが実在とする教義と相性がいいです。

    >> 同意です。先入観なしに観る=正見=洞察だと理解してます。私も三冊くらいですよ。^^
    > なるほど。そうかもしれないです。

    ちなみに正見って八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の一番初めにきてますけど、実は七正道の最終目標ってことらしいです。

    > 質問ですか〜(;^_^A  第一、二章の途中ぐらいまではなんとか理解できるところもあるようですけど、第三章はカント哲学が絡んできて全然わからないんです。
    > そこはご了承いただければと思います。

    了解しました。実はですね。。。あ、後回しにします。。。

    > 本文中p20〜21の内容から、表面的な判断で私は、「同じようだ」と考えたわけですが。
    > 実際には、パニチェさんが言われているように、中身そのものが純粋に合致しているのではない、ようですね。

    > ※以下、本文から引用させていただきます。
    > (永井) ええ、だっていちおう僕の考えと結合していますからね。つまらないって言ったら自分のことをつまらないって言ってることになる。(笑)
    > (藤田) 内山老師の図と永井さんの議論とのつなげ方に無理はないですかね。
    > (永井) いや、無理はないと思うんです。だって、この内山老師の図をこういうふうに解釈したのは、まさに私ですから。無理があるって言ったら、自分自身が無理になるわけで、無理かもしれないけれど、私はそうだと思います。
    > 『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』p21から引用


    No4081に返信(minoriさんの記事)
    > お客さんからの質疑応答で話した内容からなんですね。

    > 〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり影響を与える、というのがどうして可能なのか?
    > 〈私〉が娑婆世界に対して無寄与的な存在であるかぎり、それは不可能ではないのか?
    > という質問に答えたもの。

    > (以下、引用させていただきます。)
    > 私はまず、その二つのあいだの関係を独立の二つの実在的存在者のあいだのふつうの意味での関係と同じように扱うべきでないと言って、その後、対立する二種の答えを提示している。
    > 一つは、それは問題なく可能ではあるが、じつのところそれは、〈私〉という事実に気づいた「私」が、気づいたその事実を利用して、それとは無関係に実在している自分の心の内容をそういうものとして観察するという心理的事実であるにすぎないのだ、というものであり、もう一つは、そうではなく、じつのところはもともと(=普段でも)〈私〉だけが、この世界の外からこの世を観察しそこに影響を与えうる唯一の存在なのだが、瞑想的実践においては、通常はそこに纏わる夾雑物がすべて削ぎ落され、その事実そのものが剥きだしで明るみに出されるのだ、というものである。
    > 後者の場合には、〈私〉は無寄与的存在であるどころか、むしろ通常の客観的世界(娑婆世間)をその外から観察し結果として影響を与えうる唯一の存在であることになる。
    > 『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』p280〜p281より引用。

    お手間かけました。引用ありがとうございました。
    永井氏もほぼ同じような問題意識を持ってるようですね。

    めっちゃ気になったので、買ってきました!!
    一緒に読み進みましょう♪ヾ(≧▽≦)ノ

引用返信/返信 削除キー/

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