| お客さんからの質疑応答で話した内容からなんですね。
〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり影響を与える、というのがどうして可能なのか? 〈私〉が娑婆世界に対して無寄与的な存在であるかぎり、それは不可能ではないのか? という質問に答えたもの。
(以下、引用させていただきます。)
私はまず、その二つのあいだの関係を独立の二つの実在的存在者のあいだのふつうの意味での関係と同じように扱うべきでないと言って、その後、対立する二種の答えを提示している。
一つは、それは問題なく可能ではあるが、じつのところそれは、〈私〉という事実に気づいた「私」が、気づいたその事実を利用して、それとは無関係に実在している自分の心の内容をそういうものとして観察するという心理的事実であるにすぎないのだ、というものであり、もう一つは、そうではなく、じつのところはもともと(=普段でも)〈私〉だけが、この世界の外からこの世を観察しそこに影響を与えうる唯一の存在なのだが、瞑想的実践においては、通常はそこに纏わる夾雑物がすべて削ぎ落され、その事実そのものが剥きだしで明るみに出されるのだ、というものである。 後者の場合には、〈私〉は無寄与的存在であるどころか、むしろ通常の客観的世界(娑婆世間)をその外から観察し結果として影響を与えうる唯一の存在であることになる。
『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』p280〜p281より引用。
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