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■3876 / inTopicNo.73)  Re[18]: 「言語批判」について
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 08:03:53)
    レスありがとうございます。

    No3873に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 横レス失礼します。

    > 科学というのは言語批判から生まれたという側面もあると思いますが、それは置くとして、

    > 言語批判にはだいたい三つあると考えられます。

    > @形而上学的言語への批判

    > A日常言語への批判

    > B科学言語への批判

    > この三つをすべてカバーしているのが、言わずと知れたイマヌエルカントの「純粋理性批判」でしょう。

    すみません。上記のknowing itselfさんのカキコに同意したり、自分の意見を述べれるほど、私はカントを読み込めていないのです。^^
引用返信/返信 削除キー/
■3875 / inTopicNo.74)  Re[17]: 質問です
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 07:59:18)
    2020/07/12(Sun) 08:06:36 編集(投稿者)

    No3872に返信(田秋さんの記事)
    > パニチェさん

    > いっぱいあります。ただそれが原理的に言い表せないものなのか、それともこちらの言語能力に起因しているのかを考えると後者の例が多いと思います。作家などの表現能力を目の当たりにすると私の言語能力が不足しているのは確実です。

    私もよくあります。言い表せないのは言語能力不足が原因のことが多いです。
    そういうところを哲学者や作家がスコンっと言い表していたりすることもあり、感心します。

    > 何かに感動したとき「言葉には出来ない」と感じたり言いますよね。(表現能力の欠如問題はさておき)そういうものは言語の限界の一例でしょうか?

    そうだと思います。
    ふっと思っただけでも「ご愁傷様です」って言葉。
    発する度に、「今の気持ちと乖離してる」と思いますが、なんと言っていいのか分かりません。
    一番、その時の気持ちに近いのは言葉ではなく一緒に泣くことです。
引用返信/返信 削除キー/
■3874 / inTopicNo.75)  Re[16]: 仏教3.0 >ラマナ・マハルシ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 07:51:33)
    2020/07/12(Sun) 08:55:43 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。レスありがとうございます。

    No3868に返信(minoriさんの記事)

    > そうなんですね、なるほど。 仏道では瞑想を通じて「わたし」が明らかにされる、体験を通して明らかになる、というところを大切にすると思うのですが、永井さんは哲学者ですし、思索による<私>探究をされている、というふうにも言えるのかな、と思いました。

    そうだと思います。

    > その本を初めて読む私が、読み進めていく中で疑問に思う部分、わからない部分をパニチェさんに質問させていただく、というのならイメージできますし、それは可能ならお願いしたいです。
    > まずは手元にきたら読んでいきますね。

    了解しました。私も有難いです。質問されても分からないことは正直に分からないと返信させてもらいますので、その点はご了承下さい。

    > そうでしたか。パニチェさんの文章の一部分が消えてしまって・・・

    ここ、本当にお詫びします。すみませんでした。
    詳しい経緯はメールいただければお話しますが。。。
    あるコーナーを作った当初は私がカキコした(消去しましたが)通りだったのですが、その後、あることでそのコーナーは未公開にすることにしました。
    そのことを忘れてカキコしましたが、後から思い出して、編集しました。

    > しばらくは純理と3.0の本を読んでいこうと思ってます。
    > お二人の貴重なやりとりは、それを拝見するに値するminoriになってから、その際は改めてお願いします。

    私とゴウさんのやり取りは公開可能なので、必要であれば仰って下さい。

    > 環境によって人は形成されていく、というのはありますよね。
    > 何と出会うかは大きいと思います。

    ほんとそうですね。

    > 余談ですが。手越くんと機縁について書かれているのを拝見し、パニチェさんの思索の幅広さを感じました。

    あれ?何をカキコしましたっけ?なんか最近健忘症かも。。。(笑)

    > よかった。 気さくに接していただいてありがたいです。

    こちらこそ、です。^^


    No3869に返信(minoriさんの記事)
    > 意識

    > 存在あるいは意識が唯一の実在です。意識に目覚めを加えたものが目覚めと呼ばれ、意識に眠りを加えたものが眠りと呼ばれ、意識に夢を加えたものが夢見と呼ばれます。意識とはその上をあらゆる画像が現れては消えてゆくスクリーンです。スクリーンが実在であって、画像はその上で移り変わるただの影でしかないのです。

    > 上記は、ラマナ・マハルシ師の言葉です。
    > パニチェさんが、山下さんの「青空としてのわたし」とラマナ・マハルシ師の「私」について書かれていた時に触れようかと思いつつ、書ききれなかったので、今、追記で投稿します。

    > それぞれのものは、おそらく同じものを指しているのだろう、と私も思います。

    同意です。ラマナ・マハルシ師も読まれているのですね。
    良道さんは「<仏教3.0>を哲学する」のあとがきで『青空としてのわたし』を別の言い方で「『有心の気づき』でも、『何もない無心』でもない、そのどちらでもない『無心の気づき』という、なんとも不思議な事態が出現したのです」と述べておられます。
    ラマナ・マハルシ師の言う「意識」「スクリーン」、良道さんの言う「青空としてのわたし」「無心の気づき」は同じでしょうね。

引用返信/返信 削除キー/
■3873 / inTopicNo.76)  「言語批判」について
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/12(Sun) 07:22:54)
    横レス失礼します。

    科学というのは言語批判から生まれたという側面もあると思いますが、それは置くとして、

    言語批判にはだいたい三つあると考えられます。

    @形而上学的言語への批判

    A日常言語への批判

    B科学言語への批判

    この三つをすべてカバーしているのが、言わずと知れたイマヌエルカントの「純粋理性批判」でしょう。

引用返信/返信 削除キー/
■3872 / inTopicNo.77)  質問です
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/12(Sun) 07:14:00)
    パニチェさん

    いっぱいあります。ただそれが原理的に言い表せないものなのか、それともこちらの言語能力に起因しているのかを考えると後者の例が多いと思います。作家などの表現能力を目の当たりにすると私の言語能力が不足しているのは確実です。

    何かに感動したとき「言葉には出来ない」と感じたり言いますよね。(表現能力の欠如問題はさておき)そういうものは言語の限界の一例でしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■3871 / inTopicNo.78)  Re[17]: また質問です
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/12(Sun) 06:33:29)
    おはようございます、田秋さん。
    レスありがとうございます。

    No3867に返信(田秋さんの記事)

    > パニチェさま

    私のことは呼び捨てか「パニさん」でいいですよ。
    私が「さん」付けなのに恐縮です。。。^^

    > おはようございます。返信ありがとうございます。

    どういたしまして。

    > 理解できたかできてないかよくわからないところがあるので、反芻してみます。

    また何なりと質問して下さい。
    私も考えたり、自分の意見をまとめるよいきっかけになりますから。

    > 因みに言語の限界を否定して人もいるのですか?

    いるかもしれませんが、私は知りません。

    ところで、田秋さんはご自身の気持ちとか、またそれ以外のことで、言葉にした瞬間に「これ違うな」とか、「どう表現すればいいのか、適当な言葉が見当たらない」という経験はありますか?
引用返信/返信 削除キー/
■3869 / inTopicNo.79)  Re[15]: 仏教3.0 >ラマナ・マハルシ
□投稿者/ minori -(2020/07/12(Sun) 05:58:31)
    意識

    存在あるいは意識が唯一の実在です。意識に目覚めを加えたものが目覚めと呼ばれ、意識に眠りを加えたものが眠りと呼ばれ、意識に夢を加えたものが夢見と呼ばれます。意識とはその上をあらゆる画像が現れては消えてゆくスクリーンです。スクリーンが実在であって、画像はその上で移り変わるただの影でしかないのです。


    上記は、ラマナ・マハルシ師の言葉です。
    パニチェさんが、山下さんの「青空としてのわたし」とラマナ・マハルシ師の「私」について書かれていた時に触れようかと思いつつ、書ききれなかったので、今、追記で投稿します。

    それぞれのものは、おそらく同じものを指しているのだろう、と私も思います。
引用返信/返信 削除キー/
■3868 / inTopicNo.80)  Re[14]: 仏教3.0 >パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/12(Sun) 05:31:34)
    パニチェさん、ありがとうございます。

    > すみません。時々そういうことがありますね。私はワードでカキコしてコピペし投稿するようにしています。


    いえいえ、そんな。 そうなんですね、ワードに書かれてからコピペで投稿されてるんですね。


    >>昨日、minoriが自分でネット上で探して読んでみた永井均さんの文章から受けた印象(あくまで印象)では、<私>」というのは、「この身体、心を自分と思っている私」のように感じられたのですが、貼っていただいた文章を読むと、山下さんの「わたし」と共通するものにも思えます。
    >
    > はい、多分共通すると思います。
    > 誰が「この身体、心を自分と思っている私」と考えているのか?この答えが<私>ってことです。
    > 万人は「この身体、心を自分と思っている私」と確認することができる。これに対して誰が?という答えは「万人が」と回答できるが、この回答では「自分であること」は消滅します。
    > 人類史500万年に無数とも言えるほど生じ、今も世界の人口数だけある自我の中で、何故か間違うことなく「自分が自分である」という他者とは異なる在り方をしているのがリアルであり、上記の万人に共通する世界はあくまでも想像上、文脈上の事態でしかないみたいな話です。


    そうなんですね、なるほど。 仏道では瞑想を通じて「わたし」が明らかにされる、体験を通して明らかになる、というところを大切にすると思うのですが、永井さんは哲学者ですし、思索による<私>探究をされている、というふうにも言えるのかな、と思いました。


    >>minoriは、山下さんの『青空としてのわたし』『光の中のマインドフルネス』は読んでいて、そちら方面のでの理解は多少はあるかもしれません。
    >>『仏教3.0を哲学する』も読みたくなり注文しました。
    >>読んでからならもしかしたら、永井さんと山下さんたちの共通する部分、もしかしたら若干は違う部分とかも理解できるかも?
    >
    > そうなんですね。もし読み進みながら読書会みたいなレス交換ができれば有難いです。
    > 私も完全に消化できてないので、再度一緒に読み直してみます。

    その本を初めて読む私が、読み進めていく中で疑問に思う部分、わからない部分をパニチェさんに質問させていただく、というのならイメージできますし、それは可能ならお願いしたいです。
    まずは手元にきたら読んでいきますね。

    > Yahoo!掲示板から始まりましたが、ニーチェクラブに移しました。
    > 過去のレス交換は私のPCには残ってますが。。。


    そうでしたか。パニチェさんの文章の一部分が消えてしまって・・・
    しばらくは純理と3.0の本を読んでいこうと思ってます。
    お二人の貴重なやりとりは、それを拝見するに値するminoriになってから、その際は改めてお願いします。


    >>小五ですでにそうした哲学的なことを考えられる、というのがすごいです。
    >>私など、大人になって自我思考に苦しめられまくりやっと、流されるようにして自我の苦しみから離れる方法を教えてくれるものに近づいた、という感じです。
    >
    > そのような問いが必然的に浮かばざるをえないような環境にあったとも言えます。^^

    環境によって人は形成されていく、というのはありますよね。
    何と出会うかは大きいと思います。

    余談ですが。手越くんと機縁について書かれているのを拝見し、パニチェさんの思索の幅広さを感じました。

    >>はい。義務感でやりとりしていただくとなると申し訳ないですし、パニチェさんにとってもなんらかの意義を感じていらっしゃるなら、ほっとします。
    >
    > 十分、楽しませてもらってます。^^

    よかった。 気さくに接していただいてありがたいです。
引用返信/返信 削除キー/
■3867 / inTopicNo.81)  Re[16]: また質問です
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/12(Sun) 04:57:14)
    パニチェさま

    おはようございます。返信ありがとうございます。
    理解できたかできてないかよくわからないところがあるので、反芻してみます。

    因みに言語の限界を否定して人もいるのですか?
引用返信/返信 削除キー/
■3863 / inTopicNo.82)  Re[15]: また質問です
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/11(Sat) 22:24:27)
    2020/07/11(Sat) 23:17:10 編集(投稿者)

    こんばんは、田秋さん

    No3859に返信(田秋さんの記事)
    > パニチェさま

    > また質問です。言語の限界という言葉も時どき見かけます。これは

    > 1.証明されたことですか?
    > 2.多くの人がうすうす感じている強い仮説ですか?
    > 3.ある一派が唱えている一主張ですか?

    証明というかたちをとっているかどうかはともかく、1または2だと思います。

    > 1、の場合、哲学は言葉で論理を構築する学問だと思うのですが、言語の限界とどのように付き合うのでしょうか?

    > 2.の場合、哲学は

    > 1.どこに限界があるのか探る。
    > 2.限界が無いことを証明しようとする。
    > 3.限界があることを前提に論理を展開する。
    > 4.その他

    > この辺りはどうなんでしょう。

    以下はストレートな返信にならず申し訳ないのですが。。。。

    西洋哲学で有名なのはウィトゲンシュタインです。彼の哲学は言語の限界を示すことによって語りえないものを指し示した上で「語りえないことについては沈黙しなければならない」と述べ、哲学についても、彼の前期哲学では「哲学はさまざまな語の主たる用法を扱うだけにしなければならない。さもないと、それらの語についての無理解をさらけだすことになってしまう。」と主張します。

    マイケル・ポランニーは言葉にできない知識を暗黙知とし、これに対してマニュアル化可能(言葉にできる知識)な知識を形式知と呼びます。
    暗黙知は職人芸(技)みたいなもので、演奏技術なども含まれると思いますが、言葉で全てを伝えることができないので「見て覚えろ」とか「盗め」、あるいはひたすら反復練習することによって習得する知識(技術)みたいなものです。

    仏教的な真理や悟りの内実については不立文字、言語道断、勝義諦と言って言語化不可能としています。言葉として示せるもは悟りへ導く指針とか乗り物や道のりに例えられるような教説(説法)や、相対的な真理(世俗諦:法印や四諦など)です。

    さまざまな分野で言語化不可能となる理由は言語の基本的な機能によるものだと思います。
    言語は他者とのコミュニケーションや意識疎通には便利ですが、それらが主たる目的であるために、言葉で表現した対象を固定化したり、ラベリングによって同等化したり、普遍化したりします。
    これらの機能と相性が悪いものが言語にできない、言語の限界を示しうるものだと思います。

    ちなみに哲学は言語で語られる範囲だけが対象かと言えば、そうではなくて私が時々引き合いに出す永井均氏なんかは言語で語れない対象(主体)を主たるテーマとして延々と論じでいますし、私がライフボビーとして探究しているテーマも言語で語れない対象です。
    最近ではminoriさんとレス交換できてますから、この辺が行間を読める人間の面白いところだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■3859 / inTopicNo.83)  また質問です
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/11(Sat) 20:57:06)
    パニチェさま

    また質問です。言語の限界という言葉も時どき見かけます。これは
    1.証明されたことですか?
    2.多くの人がうすうす感じている強い仮説ですか?
    3.ある一派が唱えている一主張ですか?

    1、の場合、哲学は言葉で論理を構築する学問だと思うのですが、言語の限界とどのように付き合うのでしょうか?

    2.の場合、哲学は

    1.どこに限界があるのか探る。
    2.限界が無いことを証明しようとする。
    3.限界があることを前提に論理を展開する。
    4.その他

    この辺りはどうなんでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■3815 / inTopicNo.84)  仏教3.0 >minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/11(Sat) 09:04:50)
    2020/07/11(Sat) 13:57:58 編集(管理者)

    minoriさん、おはようございます&レスありがとうございます。

    No3813に返信(minoriさんの記事)
    > パニチェさん、ありがとうございます。
    > 今さっき、送信したのが反映されず、再投稿してみます。

    すみません。時々そういうことがありますね。私はワードでカキコしてコピペし投稿するようにしています。

    > 昨日、minoriが自分でネット上で探して読んでみた永井均さんの文章から受けた印象(あくまで印象)では、<私>」というのは、「この身体、心を自分と思っている私」のように感じられたのですが、貼っていただいた文章を読むと、山下さんの「わたし」と共通するものにも思えます。

    はい、多分共通すると思います。
    誰が「この身体、心を自分と思っている私」と考えているのか?この答えが<私>ってことです。
    万人は「この身体、心を自分と思っている私」と確認することができる。これに対して誰が?という答えは「万人が」と回答できるが、この回答では「自分であること」は消滅します。

    人類史500万年に無数とも言えるほど生じ、今も世界の人口数だけある自我の中で、何故か間違うことなく「自分が自分である」という他者とは異なる在り方をしているのがリアルであり、上記の万人に共通する世界はあくまでも想像上、文脈上の事態でしかないみたいな話です。

    > minoriは、山下さんの『青空としてのわたし』『光の中のマインドフルネス』は読んでいて、そちら方面のでの理解は多少はあるかもしれません。
    > 『仏教3.0を哲学する』も読みたくなり注文しました。
    > 読んでからならもしかしたら、永井さんと山下さんたちの共通する部分、もしかしたら若干は違う部分とかも理解できるかも?

    そうなんですね。もし読み進みながら読書会みたいなレス交換ができれば有難いです。
    私も完全に消化できてないので、再度一緒に読み直してみます。

    > ヤフー掲示板上でのやりとりだったのでしょうか。
    > 拝見したかったな〜。 時期にもよるけれど、だいぶ前のminoriにはまったく理解できなかったと思います。

    Yahoo!掲示板から始まりましたが、ニーチェクラブに移しました。
    過去のレス交換は私のPCには残ってますが。。。

    > 自分というものの独自性、それについて考え始めた、ということなんですね。
    > その時期が小五頃だった、ということでいいのかな。
    > (違ってたらすみません。)

    そうです。

    > そして、大人になってからもその問題意識は続き、「私」についての探究を深めてこられた、のですね。
    > 小五ですでにそうした哲学的なことを考えられる、というのがすごいです。
    > 私など、大人になって自我思考に苦しめられまくりやっと、流されるようにして自我の苦しみから離れる方法を教えてくれるものに近づいた、という感じです。

    そのような問いが必然的に浮かばざるをえないような環境にあったとも言えます。^^

    > はい。義務感でやりとりしていただくとなると申し訳ないですし、パニチェさんにとってもなんらかの意義を感じていらっしゃるなら、ほっとします。

    十分、楽しませてもらってます。^^

引用返信/返信 削除キー/

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