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■29992 / inTopicNo.13)  第一部 超越論的分析論V−1
  
□投稿者/ うましか -(2023/03/17(Fri) 00:45:50)
    2023/03/17(Fri) 00:47:05 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー(´;ω;`)ウッ…

    ぜんぜんアタマに入ってこない〜

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論〔DIE TRANSZENDENTALE ANALYTIK〕
    〔略〕

    第一篇 概念の分析論
    ◆私が意味している「概念の分析論」とは、提供されている諸概念をその内容からみて分析して判明ならしめるという概念の分析、或いは哲学的研究において通常行われる手続きのことではない。〔そうではなく、〕ほとんど試みられたことのない悟性能力そのものの分析〔Zergliederung des Verstandesvermoegens selbst〕≠フことである。これ〔悟性能力そのものの分析〕は、ア・プリオリな諸概念の可能性を、私たちがそうした諸概念をそれらの出生地としての悟性の内にのみ探し出して、悟性の純粋な使用一般を分析することによって探究するためのものなのである。何故なら、このことこそ超越論的哲学〔Transzendental-Philosophie〕の特有な業務であるからであり、その他のことは哲学一般における諸概念の論理的な取り扱いに過ぎないのである。それ故、私たちは純粋な概念を、人間の悟性におけるその最初の萌芽と素質に至るまで追求するだろうが、この〔人間の悟性における〕萌芽と素質の内に純粋な概念は予め潜んでおり、ついには経験を機会として発達を遂げ、まさにその同じ悟性によって、己に付着している経験的な諸概念から解放され、その混じりけの無い純粋な〔Lauterkeit〕姿で示されるに至るのである。

    --- No. 29963 からの続き ---

    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて〔Von dem Leitfaden der Entdeckung aller reinen Versatandesbegriffe〕

    ◇ 認識能力〔Erkenntnisvermoegen〕を活動させると、色々なきっかけから様々な概念が現れるが、それらの諸概念は、その認識能力を識別し得るものにし、相当長く、或いは相当鋭く観察された後では、集められて多少とも十分まとまりあるものとなる。

    ◇ どこでこの研究が完結するに至るかは、こうした言わば機械的な手続きによっては、決して確実には決められない。

    ◇ また、このように偶然的にしか見いだされない諸概念は、秩序立って体系的な統一を成して発見されることもなく、結局は類似性に従って組み合わされ、単純なものからもっと複雑なものへと、その内容の多少に応じて系列付けられるしかないが、この系列とて、たとえ或る種の仕方で方法的に立てられるにせよ、決して体系的なものではない。


    † 原佑訳上巻、p.208〜p.209参照。
    † その他に、中山元訳2、p.47〜p.48、石川文康訳上巻、p.124を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−1 No.29992
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992
    第一節 No.

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■29987 / inTopicNo.14)  想像力/構想力
□投稿者/ pipit -(2023/03/15(Wed) 20:39:12)
    カント的想像力(の二種/再生的想像力&産出的想像力)のことが気になって、カント事典開いたら、【構想力】のネーミングで、執筆者は黒ちゃんこと黒崎政男先生やった
    (*^ω^*)

    仏教の「想」サンニャーも関連として気になるんだよねぇ、、、
引用返信/返信 削除キー/
■29981 / inTopicNo.15)  B136.137あたりの英訳
□投稿者/ pipit -(2023/03/15(Wed) 09:32:03)
    The supreme principle of the possibility of all intuition in relation to sensibility was, according to our transcendental æsthetic, that all the manifold in intuition be subject to the formal conditions of space and time.
    The supreme principle of the possibility of it in relation to the understanding is that all the manifold in it be subject to conditions of the originally synthetical unity or apperception.[17]
    To the former of these two principles are subject all the various representations of intuition, in so far as they are given to us; to the latter, in so far as they must be capable of conjunction in one consciousness;
    for without this nothing can be thought or cognized, because the given representations would not have in common the act Of the apperception “I think” and therefore could not be connected in one self-consciousness.


    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap43
引用返信/返信 削除キー/
■29980 / inTopicNo.16)  Re[19]: B141
□投稿者/ pipit -(2023/03/15(Wed) 09:29:07)
    みなさまこんにちは!
    読み違ってるかもだけど、、、B152の想像力についての記述も参考にすると

    想像力[想像力とは、対象が現前していなくても、直観において対象の像を思い描くことのできる能力](中山元先生訳、第二巻p148.B151)

    想像力を@再生的な想像力とA産出的な想像力に二分して、

    @による知性の総合は、経験的な法則(連想の規則)にだけ従うもので、主観的な妥当性しか持たない・・・心理学に属するもの
    Aによる知性の総合は、想像力の超越論的な総合であり、客観的な妥当性を持つ、

    とカントは言ってるのかな??

    Aの時の鍵になるのが、カテゴリー(純粋悟性概念)になるんだろうな。
    [カテゴリーに適合した形でさまざまな直観を総合するのであり、](中山元先生訳、第二巻p149.B152)
    自発性で客観目指して作るんだね。

    想像力とは感性だけど、
    想像力の総合とは知性、みたいな繊細な記述発見!
    ↓ここが、黒ちゃん先生が、揺れてるねー迷ってるねーみたいに印象されてた箇所なのかな?

    B152部分の中山元先生の訳を引用します。
    『ところでわたしたちのすべての直観は感覚能力によるものであるから、想像力は感性によるものである。
    そして想像力が作り出す主観的な条件がなければ、知性の概念に、それに対応する直観が与えられることはありえない。
    しかしこの想像力による総合は自発性として行使されるものであり、感覚能力とは違ってたんに規定されうるものではなく、[自発的に何かを]規定するものである。
    これは自己統合の意識における統一にしたがって、感覚能力の形式に基づいて、感覚能力をアプリオリに規定しうる能力なのである。
    だから想像力はカテゴリーに適合した形でさまざまな直観を総合するのであり、この働きは想像力の超越論的な総合と呼ばねばならない。
    これは知性が感性に及ぼす働きの一つであり、この働きによってわたしたちに可能な直観の対象に、初めて知性が適用されるのである(これは同時にその他のすべての形での知性の適用の根拠となるものである)。』
    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p148.149より引用

    【知性が感性に及ぼす働きの一つ】
    これが、B136.137に通じてるものなのかな?
    直観の最高原理には2つあるとカントは言ってて、
    感性のみの場合では空間時間の形式に従って直観が可能となる
    知性が感性に関わりを持つ場合では統覚の総合的統一の条件(この条件がカテゴリーなのかな?)に従って対象としての直観が可能となる、とB136.137で言ってるとpipitは一応理解してるのですが、...


    B136.137あたりのカント文章の英訳(※英訳は次の投稿で別引用します。)のpipit日訳を再掲します(過去投稿No23370より)↓

    『我々の超越論的感性論においては、感性との関係における直観の可能性の最高原理は、直観の全ての多様が空間と時間の形式的条件に従うことであった。
    知性との関係における直観の可能性の最高原理は、直観の全ての多様が統覚の根源的・総合的統一の条件に従うことである。

    これら二つの原理のうち、前者は、全ての直観の様々な表象が、私たちに与えられる限りで、従うものである;
    後者は、一つの意識の中で結合が可能でなければならないときに限りで、従うものである。

    というのも、これなしには、何も考えられることも認識されることもできないからである。
    (感性により)与えられた表象は、
    「私は考える」という統覚行為を共通に持っておらず、したがって、一つの自己意識に結びつくことができないからである。』

    つぎは、B142 !!

引用返信/返信 削除キー/
■29979 / inTopicNo.17)  B141
□投稿者/ pipit -(2023/03/15(Wed) 07:26:35)
    みなさまおはようございます。

    【判断】をカントはどう定義するのかな?
    このB141冒頭では、
    「わたしは論理学者たちが判断一般に示している説明にはまったく満足できなーい」
    と言ってますよ。
    その説明とは、
    判断とは、二つの概念を結ぶ関係の観念だと。これは断言判断についてはあてはまるかもだけど、仮言判断や選言判断には当てはまらない、と。

    、、、
    それでB142から、カント先生の【判断】についての考察が始まるみたいですね。

    ちょっとややこしそう。
    一文一文読まないと私の頭には入らないかな...

    カント先生、日本語話してください!!

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■29966 / inTopicNo.18)  Re[12]: 第一部 超越論的分析論U−1
□投稿者/ pipit -(2023/03/12(Sun) 16:56:59)
    うましかさん、こんばんはー( ^ω^ )

    No29963
    > 桜の季節がやってきたんだなあ(´-`).。oO

    暖かくなって、もうすぐ桜が開花しそうですね(^ ^)

    > > ◇ 〔そうではなく、〕ほとんど試みられたことのない悟性能力そのものの分析〔Zergliederung des Verstandesvermoegens selbst〕≠フことであって、これは、ア・プリオリな諸概念の可能性を、私たちがそうした諸概念をそれらの出生地としての悟性の内にのみ探し出して、悟性の純粋な使用一般を分析することによって探究するためのものなのである。
    >
    > ◇ 何故なら、このことこそ超越論的哲学〔Transzendental-Philosophie〕の特有な業務であるからであり、その他のことは哲学一般における諸概念の論理的な取り扱いに過ぎないのである。<

    カント先輩、熱い!
    ですが、、、

    > ◇ それ故、私たちは純粋な概念を、人間的悟性におけるその最初の萌芽と素質に至るまで追求するだろうが、この〔人間的悟性における〕萌芽と素質の内に純粋な概念は予め潜んでおり、ついには経験を機会として発達を遂げ、まさにその同じ悟性によって、己に付着している経験的な諸概念から解放され、その混じりけの無い純粋な〔Lauterkeit〕姿で示されるに至るのである。<

    ここらへんになると、ちょっと変◯な雰囲気!?

    純粋な概念 は 悟性 にあらかじめ潜んでおり 経験を機会として発達を遂げる
    まさにその悟性により 発達を遂げたゆえに付着した諸々の経験的な諸概念から解放され  
    元々の混じりけの無い純粋な姿で 純粋な概念が示されるに至る、、、
    悟性による悟性自身の分析…
    限界の確定となるのかなぁ (・・?)

    沼浴びおつかれさまです♪

    疲れるんですけど、不思議と カント沼浴び後はリフレッシュ気分???
    ナゾですー あ、気のせいかなっ ( ̄▽ ̄;)
引用返信/返信 削除キー/
■29963 / inTopicNo.19)  第一部 超越論的分析論U−1
□投稿者/ うましか -(2023/03/12(Sun) 10:21:50)
    2023/03/12(Sun) 10:22:41 編集(投稿者)

    pipitさん、おはようございますー

    久しぶりのカント沼です(;´・ω・)

    あー泥に塗れておぼれているのに、なぜかホッとしますね〜

    そういえば、そろそろまた4月、

    桜の季節がやってきたんだなあ(´-`).。oO

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学

    第一部 超越論的分析論〔DIE TRANSZENDENTALE ANALYTIK〕

    ◆この分析論〔Analytik〕は、私たちのア・プリオリな全認識を、純粋な悟性認識の諸要素〔Elemente〕へと分析するものである。その際、次の諸要件が問題となる。

     1.その諸概念は純粋な概念であって、経験的な概念ではないということ
     2.それらの諸概念は直観及び感性にではなく、思考及び悟性に属するということ
     3.それらの諸概念は要素概念〔Elementarbegriffe〕であって、派生的な概念、或いは派生的な概念から合成された概念からは十分区別されていること
     4.それらの諸概念の表は完璧〔vollstaendig〕であり、それらの諸概念は純粋悟性の全分野を全面的に充たすということ

    ところで、一つの学問のこうした完璧性〔Vollstaendigkeit〕は、単に試験的にこころみられた寄せ集めを概算してみたのでは信頼をもって想定されることはできない。だから、そうした完璧性は、ア・プリオリな悟性認識の全体の理念〔Idee des Ganzen〕≠介して、このア・プリオリな悟性認識を形成する諸概念をこの全体の理念に基づいて明確に区分することによってのみ、従って、それらの諸概念を一つの体系として脈絡付けること≠ノよってのみ、可能なのである。
    純粋悟性は、全ての経験的なものからのみならず、全ての感性からさえ、完全に分離されている。それ故、純粋悟性は、それ自身だけで存立している自足的な、外から付け加わるいかなる添え物によっても増大することのない、一つの統一である。だから、純粋悟性の認識の総括〔概念〕〔Inbegriff〕は、一つの理念の下で包括され規定され得ることのできる一つの体系を成すであろうし、この体系の完璧性と分節〔Artkulation〕は、同時に、その内へと組み込まれる全ての認識要素の正しさ〔Richtigkeit〕と純粋さ〔Echtheit〕の試金石をも与え得るのである。
    超越論的論理学のこうした全部門は、しかしながら、二つの篇≠ゥら成っており、そのうちの一つは純粋悟性の諸概念≠、他の一つは、純粋悟性の諸原則≠含んでいるのである。

    --- No.29850 からの続き ---

    第一部 超越論的分析論〔DIE TRANSZENDENTALE ANALYTIK〕

    第一篇 概念の分析論
    ◇ 私が意味している「概念の分析論」とは、提供されている諸概念をその内容からみて分析して判明ならしめるという概念の分析、或いは哲学的研究において通常行われる手続きのことではない、

    ◇ 〔そうではなく、〕ほとんど試みられたことのない悟性能力そのものの分析〔Zergliederung des Verstandesvermoegens selbst〕≠フことであって、これは、ア・プリオリな諸概念の可能性を、私たちがそうした諸概念をそれらの出生地としての悟性の内にのみ探し出して、悟性の純粋な使用一般を分析することによって探究するためのものなのである。

    ◇ 何故なら、このことこそ超越論的哲学〔Transzendental-Philosophie〕の特有な業務であるからであり、その他のことは哲学一般における諸概念の論理的な取り扱いに過ぎないのである。

    ◇ それ故、私たちは純粋な概念を、人間的悟性におけるその最初の萌芽と素質に至るまで追求するだろうが、この〔人間的悟性における〕萌芽と素質の内に純粋な概念は予め潜んでおり、ついには経験を機会として発達を遂げ、まさにその同じ悟性によって、己に付着している経験的な諸概念から解放され、その混じりけの無い純粋な〔Lauterkeit〕姿で示されるに至るのである。


    † 原佑訳上巻、p.207〜p.208参照。
    † その他に、中山元訳2、p.45〜p.46、石川文康訳上巻、p.123を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.
    第一節 No.

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■29962 / inTopicNo.20)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/03/12(Sun) 08:34:30)
    No29961に返信(pipitさんの記事)
    > ■No29960に返信(pipitさんの記事)
    >>人間として、客観を経験する準備が出来ている、というのが 超越論的統一 という状態であって、
    >>
    >>その超越論的統一の上に(普遍的な前提)、個別経験(特殊)による経験的統一が行われる。
    >>
    >>とカントは考えたのかな、と、朝思いました。全然違うかもだけど。
    >
    > 間主観、は、人間の超越論的統一分、と考えてもpipitとしては煩悩減らすには実用的な気がするな

    今、勤め先が、ほんまかいな?状態な日常で、でもカント哲学で知ったこういう見方は、わたしの気持ちをラクにする手助けしてくれてると思ってます。
    ニーチェさんの見方とかもね(ニーチェさんはやっぱり強力かもですね、劇薬という言葉が思い浮かんじゃうけど(^◇^;))

    たくさんの哲学者、先人、、、

    わたしは多分、哲学、好きだなぁと、思うけど、

    なんか最後に思い浮かぶのは、ウィトゲンシュタインさんの
    梯子は登ったらその梯子を投げ捨てなくてはならない

    あ、仏教徒でありたいpipitとしては、
    お釈迦様の、岸に渡ったら法をすてよ、みたいな筏の話(岸についたのに筏背負うの?みたいな)も思い出しました。

    …しかし、カント哲学に関しては、、、
    あれ?pipitの煩悩逆に増えてるかなぁ???
    ( ̄▽ ̄;)あれもこれもカント先生のせいだー!!

    でも、カント先生、ありがとございます(o^^o)
引用返信/返信 削除キー/
■29961 / inTopicNo.21)  Re[21]: 朝思いついた日記
□投稿者/ pipit -(2023/03/12(Sun) 08:09:15)
    No29960に返信(pipitさんの記事)
    > 人間として、客観を経験する準備が出来ている、というのが 超越論的統一 という状態であって、
    >
    > その超越論的統一の上に(普遍的な前提)、個別経験(特殊)による経験的統一が行われる。
    >
    > とカントは考えたのかな、と、朝思いました。全然違うかもだけど。

    間主観、は、人間の超越論的統一分、と考えてもpipitとしては煩悩減らすには実用的な気がするな
引用返信/返信 削除キー/
■29960 / inTopicNo.22)  朝思いついた日記
□投稿者/ pipit -(2023/03/12(Sun) 08:02:13)
    人間として、客観を経験する準備が出来ている、というのが 超越論的統一 という状態であって、

    その超越論的統一の上に(普遍的な前提)、個別経験(特殊)による経験的統一が行われる。

    とカントは考えたのかな、と、朝思いました。全然違うかもだけど。
引用返信/返信 削除キー/
■29956 / inTopicNo.23)  Re[19]: 個人用日記
□投稿者/ pipit -(2023/03/11(Sat) 21:42:33)
    the empirical (略)is merely a unity deduced from the former

    超越論的統一から生じる(派生する)経験的な統一とは、

    under given conditions in concreto,

    具体的なものの中で与えられた条件によるもの。

    possesses only subjective validity.

    それは主観的合法性(妥当性)があるのみ。

    not necessarily and universally valid.

    必然性があるわけでも、普遍的妥当性があるわけでもない。

    ....

    うーん、超越論的統一と経験的統一を分けてるわけやけど、超越論的はアプリオリな領域になるんかな。
    変な思考やなぁと思ってしまうなぁ

    やっぱり形而上学(する行為)のことが関係してくるんかなぁ

    なんとなく思うのは、川が海に流れていくように、いろいろ思考が流れていって、個人の自由の領域を確保する思考につながっていくのかなぁって気もするんだけど

    あー、カント哲学なんか考えなくても、自由になれる !?!?
    考えても自由になれるといいな♪

引用返信/返信 削除キー/
■29955 / inTopicNo.24)  個人用日記
□投稿者/ pipit -(2023/03/11(Sat) 21:22:28)
    The transcendental unity of apperception is alone objectively valid;

    (pipit超私的雑感)
    統覚の超越論的統一は、ただ、客観的にのみ、合法、ダンマ、カント用語としては「妥当」とかかな?
引用返信/返信 削除キー/

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