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■29821 / inTopicNo.49)  Re[9]: 超越論的論理学 序論W−1
  
□投稿者/ pipit -(2023/02/26(Sun) 18:22:24)
    うましかさん、こんばんは!

    No29809
    > それ〔超越論的弁証論と〕は、こうした仮象を独断的に引き起こす技術(残念ながら、これは、様々な形而上学的なペテンにおいて横行している技術であるが)としてではなく、その超自然的な使用に関する悟性及び理性の批判であって、これは悟性及び理性の根拠の無い越権から生ずる誤った仮象を暴露し、この弁証論が単に超越論的な原則によって達成できると思い込んでいる発見や拡張を悟性及び理性が要求することを、〔そうした〕詭弁的な幻影に対し純粋悟性を単に判定し擁護することへと引き下げるためのものに他ならないのである。<

    うわぁ,,,,

    一文....:(;゙゚'ω゚'):キョーキ?

    うましかさんの頑張りをみて、ずっと後回しにしてる演繹論、一文だけでも、進んでみようかな、と

    後で。。。

    (T ^ T)シク

    喜びもpipit的にはたくさん?あるんですけどねσ(^_^;)
引用返信/返信 削除キー/
■29809 / inTopicNo.50)  超越論的論理学 序論W−1
□投稿者/ うましか -(2023/02/25(Sat) 20:54:49)
    2023/02/25(Sat) 20:56:00 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    No.29807(pipitさん)

    >おつかれさまです m(_ _)m クルクル謎構文....

    ありがとうございます( ノД`)シクシク…

    『カント先輩の〇×▽◎〜!!!』(叫●の壺使用中)

    >中山先生の訳註を読んで、アリストテレス著書の『トピカ』由来の?トポス論からそう訳されたのかなと思いました。

    ありがとうございます! チェックします。うまとかとしては、原佑訳の「まことしやかな推論」という訳に?だったのですが、実はここに訳注〔154〕が付されていることを見落としていました。(;´Д`A ```

    原佑訳上巻p.547には以下のような説明があります。
    >〈まことしやかな推論〉の原語はTopikである。アリストテレスの論理学に由来するこの語をカントが利用していることについては、A版268(B版324)ページ以下、すなわち、本訳書504ページ以下参照。<

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学

    序論 超越論的論理学の構想
     W 論理学を超越論的論理学を超越論的分析論と超越論的弁証論とに区分することについて〔Von der Einteilung der transzendentalen Logik in die Transzendentale Analytik und Dialektik〕

    ◇ 超越論的論理学において、私たちは悟性を孤立させ(先に超越論的感性論において感性をそうしたように)、もっぱらその起源を悟性の内にもっている思考の部分を、私たちの認識から取り出す。しかし、この純粋認識の使用は、その純粋認識の条件としての次のことに、すなわち、この純粋認識がそれへと適用され得る諸対象は、私たちに直観において与えられていることに基づいている。なぜなら、直観無しではあらゆる私たちの認識は客観を欠き、その時にはあらゆる私たちの認識は完全に空虚のままであるからである。

    ◇ それ故、純粋悟性認識の諸要素を論述し、いかなる対象も、それ無くしては決して思考され得ない諸原理を論述するところの、超越論的論理学のこの部門は、超越論的分析論であり、だから同時に真理の論理学なのである。なぜなら、この超越論的分析論ないし真理の論理学とは、いかなる認識も矛盾することはできず、もし矛盾するならば、その認識は同時に全ての内容を失い、換言すれば、何らかの客観との全ての連関を、従って全ての真理を失うからである。

    ◇ しかし、こうした純粋悟性認識と原則を単独で用い、経験の限界を越え出てすら用いることは、極めて魅力的で誘惑的である。とはいえ、あくまでも、ひとえに経験のみが私たちに実質(客観)を手渡すことができる、その実質へと、あの純粋悟性概念は適用され得るだけである。それ故、悟性がもし空虚な詭弁を弄するならば、純粋悟性の単なる形式的な諸原理の実質的使用を行い、私たちには何としても与えられてはいない諸対象、いやおそらくはいかなる仕方でも与えられない諸対象に関して、見境なく判断するという危険に陥るのである。

    ◇ それ故、超越論的分析論は、もともと悟性の経験的な使用を判定する規準に過ぎないはずであるから、人がこの分析論を普遍的で無制限な使用の機関とみなし、純粋悟だけでもって諸対象一般に関して綜合的に判断し、主張し、決定しようと敢えてする時には、この分析論は誤用されるのである。それ故、純粋悟性の使用は、その時には弁証論的とならざるを得ないであろう。

    ◇ それ故、超越論的論理学の第二部門は、この弁証論的仮象の批判でなければならず、だから超越論的弁証論と呼ばれる。それ〔超越論的弁証論と〕は、こうした仮象を独断的に引き起こす技術(残念ながら、これは、様々な形而上学的なペテンにおいて横行している技術であるが)としてではなく、その超自然的な使用に関する悟性及び理性の批判であって、これは悟性及び理性の根拠の無い越権から生ずる誤った仮象を暴露し、この弁証論が単に超越論的な原則によって達成できると思い込んでいる発見や拡張を悟性及び理性が要求することを、〔そうした〕詭弁的な幻影に対し純粋悟性を単に判定し擁護することへと引き下げるためのものに他ならないのである。


    † 原佑訳上巻、p.203〜p.205参照。
    † その他に、中山元訳2、p.37〜p.39、石川文康訳上巻、p.119〜p.120を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−1 No.29809
    V−7 No.29796
    V−4 No.29173、V−5 No.29700、V−6 No.29734
    V−1 No.28726、V−2 No.28740、V−3 No.28816
    U−4 No.28561、U−5 No.28709
    U−1 No.28334、U−2 No.28383、U−3 No.28436
    T−7 No.28210
    T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161
    T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310

    *******

    序論
    T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334
    U No.28334,28383,28436,28561,28709
    V No.28726,28740,28816,29173,29700,29734,29796
    W No.29809
引用返信/返信 削除キー/
■29807 / inTopicNo.51)  Re[8]: 超越論的論理学 序論V−7
□投稿者/ pipit -(2023/02/25(Sat) 17:07:21)
    2023/02/25(Sat) 17:14:55 編集(投稿者)
    2023/02/25(Sat) 17:08:32 編集(投稿者)

    うましかさん、こんにちはー ( ^ω^ )♪

    No29796
    > つぎからはW 「論理学を超越論的論理学を超越論的分析論と超越論的弁証論とに区分することについて」に入れます〜( ノД`)シクシク…<

    なにもかもきっとカント先輩のせいです
    _(┐「ε:)_シクシク....

    カントの文章を自分なりに訳すの本当に大変だと思います。おつかれさまです
    m(_ _)m クルクル謎構文....

    > ◆ 古人が学や技術のために名付けたこの弁証論という名称を用いた際の意味がどれほど異なっていようとも、それでも、この名称の実際の用法から確実に見て取ることができるのは、弁証論は彼ら〔古人〕にあっては仮象の論理学〔die Logik des Scheins〕∴ネ外の何ものでもなかったということである。
    > それは、己の無知に、いや、己が故意に企んだ幻想にすら、真理の外観を与える、一つの詭弁術であって、というのも、当時人は、論理学一般が指令する徹底性という方法を模倣して、論理学のまことしやかな推論*1をあらゆる空虚な言い抜けを言いつくろうために利用したからであった。<

    まことしやかな推論という単語を、どうして中山先生方は場所論って訳したのかなあ?と本を見てみました。中山先生の訳註を読んで、アリストテレス著書の『トピカ』由来の?トポス論からそう訳されたのかなと思いました。

    > ところで、確実で有用な警告として注意が払われてよいのは、一般論理学は、機関であるとみなされるならば=Aいつでも仮象の論理学であり、換言すれば、弁証論的であるということである。
    > なぜなら、一般論理学は私たちに認識の内容に関しては何ひとつとして全然教えず、悟性との合致の形式的な諸条件を教えるだけであって、これらの諸条件は、ともかく対象に関しては全面的に無頓着であるから、少なくとも、その申し立てから言って、己の知識を拡大し拡張するために、一般論理学を道具(機関)として使用しようとする不当な要求は、饒舌に終わるより他仕方ないのであり、そのような饒舌は、どのようなものであれ、あらゆることを、いくらかのもっともらしさを主張したり、或いは勝手に攻撃したりするためのものでしかない。
    >
    >  *1 原佑訳「論理学のまことしやかな推論」は、中山元訳2,p.35では「論理学の推論としての場所論(トピカ)」、石川文康訳,p.118では「論理学の場所論」と訳される。
    >
    > ◆このようなことに手ほどきするのは、決して哲学の尊厳にふさわしくない。このために弁証論というこの名称は、むしろ弁証論的仮象の批判≠ニして、論理学の内に数え入れられてきたのであり、このような意味に解されたものとして、私たちもここでは弁証論というこの名称を心得ておきたいと思う。<

    前にこの箇所前後の訳文を読んだ時、「カント先生、熱いな!」と思いました。
    やっぱりカントは人間の能力としての『論理(学)』が大好きだったのかな???
引用返信/返信 削除キー/
■29796 / inTopicNo.52)  超越論的論理学 序論V−7
□投稿者/ うましか -(2023/02/25(Sat) 00:25:42)
    2023/02/25(Sat) 00:26:27 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    やっとVに目を通すことができました〜(;´Д`A ```

    つぎからはW 「論理学を超越論的論理学を超越論的分析論と超越論的弁証論とに区分することについて」に入れます〜( ノД`)シクシク…


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学

    序論 超越論的論理学の構想
     V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて〔Von der Einteilung der allgemeinen Logik in Analytik und Dialektik〕

    ◆ ところで、一般論理学は、悟性及び理性の形式的な全業務をその諸要素に分解し、それらの諸要素を私たちの認識のあらゆる論理的な判定の原理として叙述する。だから論理学のこの部門は分析論〔Analytik〕と呼ばれることができ、また、まさにこのゆえに、真理の少なくとも消極的な試金石なのである。
    なぜなら、あらゆる認識が対象に関して積極的な真理を含むかどうかを決定するためには、人は、そのあらゆる認識自身をその内容の面で研究する前に、まずもってそのあらゆる認識をその形式の面でこれらの諸規則に即して吟味し評価しなければならないからである。
    しかし、認識の単なる形式は、たとえその形式がどれほど論理的な諸法則と合致しようとも、だからといって実質的な(客観的な)真理をその認識に見つけてやるには、まだ到底十分とはゆかないので、誰一人として諸対象についてあらかじめ根拠ある知識をこの論理学以外から集めておくことなしには、単に論理学だけで、それらの諸対象に関して判断したり、何事か主張したりすることを敢えて成し得ないのである。
    そうした根拠ある知識を集めておくのは、それを集めてしまった後で、その知識を論理的な諸法則に従って単に利用し、また一つの脈絡のある全体として結合することを試みるだけのためなのであり、いや、もっと適切に言えば、その知識をもっぱら論理的な諸法則に従って吟味するだけのためなのである。
    にもかかわらず、まるで、あらゆる私たちの認識に悟性の形式を与えるかのように思われる表面的な技術を所有していることの内には、たとえ、その際、人が認識の内容に関してどれほど空虚で貧弱であろうとも、何か極めて誘惑的なものが潜んでいるので、単に〔対象の〕判定のための規準〔Kanon〕≠ノ過ぎないあの一般論理学は、客観的な諸主張を現実的に産み出すための、少なくともそうした諸主張についての幻想のための、いわば機関〔Organon〕≠ニして使用され、従って、事実このことによって誤用されるに至った。ところで、機関と思い誤られた一般論理学は、弁証論〔Dialektik〕≠ニ呼ばれるのである。

    --- No.29734 からの続き ---

    ◆ 古人が学や技術のために名付けたこの弁証論という名称を用いた際の意味がどれほど異なっていようとも、それでも、この名称の実際の用法から確実に見て取ることができるのは、弁証論は彼ら〔古人〕にあっては仮象の論理学〔die Logik des Scheins〕∴ネ外の何ものでもなかったということである。
    それは、己の無知に、いや、己が故意に企んだ幻想にすら、真理の外観を与える、一つの詭弁術であって、というのも、当時人は、論理学一般が指令する徹底性という方法を模倣して、論理学のまことしやかな推論*1をあらゆる空虚な言い抜けを言いつくろうために利用したからであった。
    ところで、確実で有用な警告として注意が払われてよいのは、一般論理学は、機関であるとみなされるならば=Aいつでも仮象の論理学であり、換言すれば、弁証論的であるということである。
    なぜなら、一般論理学は私たちに認識の内容に関しては何ひとつとして全然教えず、悟性との合致の形式的な諸条件を教えるだけであって、これらの諸条件は、ともかく対象に関しては全面的に無頓着であるから、少なくとも、その申し立てから言って、己の知識を拡大し拡張するために、一般論理学を道具(機関)として使用しようとする不当な要求は、饒舌に終わるより他仕方ないのであり、そのような饒舌は、どのようなものであれ、あらゆることを、いくらかのもっともらしさを主張したり、或いは勝手に攻撃したりするためのものでしかない。

     *1 原佑訳「論理学のまことしやかな推論」は、中山元訳2,p.35では「論理学の推論としての場所論(トピカ)」、石川文康訳,p.118では「論理学の場所論」と訳される。

    ◆このようなことに手ほどきするのは、決して哲学の尊厳にふさわしくない。このために弁証論というこの名称は、むしろ弁証論的仮象の批判≠ニして、論理学の内に数え入れられてきたのであり、このような意味に解されたものとして、私たちもここでは弁証論というこの名称を心得ておきたいと思う。


    † 原佑訳上巻、p.201〜p.203参照。
    † その他に、中山元訳2、p.33〜p.36、石川文康訳上巻、p.117〜p.119を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******
    V−7 No.29796
    V−4 No.29173、V−5 No.29700、V−6 No.29734
    V−1 No.28726、V−2 No.28740、V−3 No.28816
    U−4 No.28561、U−5 No.28709
    U−1 No.28334、U−2 No.28383、U−3 No.28436
    T−7 No.28210
    T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161
    T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310

    *******

    序論
    T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334
    U No.28334,28383,28436,28561,28709
    V No.28726,28740,28816,29173,29700,29734,29796

引用返信/返信 削除キー/
■29758 / inTopicNo.53)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/02/22(Wed) 11:50:26)
    こんにちはー(/・ω・)/

    No.29736(pipitさん)

    昨夜はいつになくカント先輩の文章(原佑訳の文章?)で目が回りましたが、なるほどpipitさんのように、視覚的にこまかく諸要素に分解(;´・ω・)する方法が、ときには有効なのだなあ、と今さらながら感じたのでしたー

    感謝です!

    あと、、、

    >カントコダマ(゚ω゚) ← みょうに気になります(゚Д゚;)


    (◎_◎;)沼


引用返信/返信 削除キー/
■29739 / inTopicNo.54)  朝の日記
□投稿者/ pipit -(2023/02/22(Wed) 08:08:11)
    あ!
    って、さっき思い浮かびました。

    悪魔ちゃんの
    No29585 で言う「地」が、

    うましかさんの
    No29700 の中に出てくる「一般論理学は、悟性及び理性の形式的な全業務をその諸要素に分解し、それらの諸要素を私たちの認識のあらゆる論理的な判定の原理として叙述する。」

    に相当するんじゃないかな、って。

    そんで、その地の上に何を乗せる(べき)か、が超越論的弁証論の箇所で間接的な隠れテーマとなってくる可能性もあるのかな、と、思いました。

    全然違うかもやけど(゚ω゚)ヌマッ
引用返信/返信 削除キー/
■29736 / inTopicNo.55)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/02/21(Tue) 23:15:05)
    うましかさん、こんばんはー
    ( ^ω^ )

    No29734
    > この辺り原典とにらめっこしましたが、<

    大変だろうなぁ、(;ω;)ウゥ...

    >今夜はなんだかもうカント先輩の文章(或いは原佑訳の文章)でグルグル目が回りそうです…(◎Д◎;)<

    カント沼&カントコダマ(゚ω゚)


    > 序論 超越論的論理学の構想<

    構想の訳、やっぱりいいですね!

    > ◇ ところで、一般論理学は、悟性及び理性の形式的な全業務をその諸要素に分解し、<

    おもしろいなぁ、形式的な全業務を分解して、

    >それらの諸要素を私たちの認識のあらゆる論理的な判定の原理として叙述する。<

    そうかぁ、判断表もそのように、思えば、、、
     
    >だから論理学のこの部門は分析論〔Analytik〕と呼ばれることができ、また、まさにこのゆえに、真理の少なくとも消極的な試金石なのである。なぜなら、あらゆる認識が対象に関して積極的な真理を含むかどうかを決定するためには、<

    認識 が 対象に関して

    >人は、そのあらゆる認識自身をその内容の面で研究する前に、まずもってそのあらゆる認識をその形式の面でこれらの諸規則に即して吟味し評価しなければならないからである。<

    その認識の内容を吟味する以前に、その認識が、悟性理性業務の分解により取り出された原理に沿ってるか否かを評価、、、

    例えば、夢なんかは、悟性の原理から外れた(失格)認識、ってカント的にはなるのかなー


    > しかし、認識の単なる形式は、たとえその形式がどれほど論理的な諸法則と合致しようとも、だからといって実質的な(客観的な)真理をその認識に見つけてやるには、まだ到底十分とはゆかないので、<

    認識の内容を見てないからかな?

    >誰一人として諸対象についてあらかじめ根拠ある知識をこの論理学以外から集めておくことなしには、単に論理学だけで、それらの諸対象に関して判断したり、何事か主張したりすることを敢えて成し得ないのである。<

    形式だけで、内容が無いと、対象についての知識にならないということなのかな?

    > --- No.29700 からの続き ---
    >
    > ◇そうした根拠ある知識を集めておくのは、それを集めてしまった後で、その知識を論理的な諸法則に従って単に利用し、また一つの脈絡のある全体として結合することを試みるだけのためなのであり、いや、もっと適切に言えば、その知識をもっぱら論理的な諸法則に従って吟味するだけのためなのである。<

    例えば、
    原因があるとき結果がある。
    という思考に、集めた知識を投入するのかな??


    > ◇それにもかかわらず、まるであらゆる私たちの認識に悟性の形式を与えるかのように思われる表面的な技術を所有していることのうちには、たとえその際人が認識の内容に関してどれほど空虚で貧弱であろうとも、何か極めて誘惑的なものが潜んでいるので、単に〔対象の〕判定のための規準〔Kanon〕≠ノ過ぎないあの一般論理学は、客観的な諸主張を現実的に産み出すための、少なくともそうした諸主張についての幻想のためのいわば機関〔Organon〕≠ニして使用され、従って事実このことによって誤用されるに至った。<

    なんか急に文章難しくなりました?
    カント先輩の沼思考ですかね( ̄◇ ̄;)
    あ、夢みたいな認識でも、あたかも悟性の形式が与えられているかのようにみせるのが詭弁的なソフィストの技術って言ってるのかな??
    機関と言えば、永久機関を私は思い出すのですが、そういう何かを産み出す装置みたいな意味が機関なのかなぁ。

    > ◇ところで、機関と思い誤られた一般論理学は、弁証論〔Dialektik〕≠ニ呼ばれる。<
     


    >今夜はなんだかもうカント先輩の文章(或いは原佑訳の文章)でグルグル目が回りそうです…(◎Д◎;)<

    案外?安眠できるといいですね(*^◯^*)v
    おつかれさまです♪

引用返信/返信 削除キー/
■29734 / inTopicNo.56)  超越論的論理学 序論V−6
□投稿者/ うましか -(2023/02/21(Tue) 22:06:27)
    2023/02/21(Tue) 22:07:13 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    この辺り原典とにらめっこしましたが、今夜はなんだかもうカント先輩の文章(或いは原佑訳の文章)でグルグル目が回りそうです…(◎Д◎;)

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学

    序論 超越論的論理学の構想
     V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて〔Von der Einteilung der allgemeinen Logik in Analytik und Dialektik〕

    ◇ ところで、一般論理学は、悟性及び理性の形式的な全業務をその諸要素に分解し、それらの諸要素を私たちの認識のあらゆる論理的な判定の原理として叙述する。だから論理学のこの部門は分析論〔Analytik〕と呼ばれることができ、また、まさにこのゆえに、真理の少なくとも消極的な試金石なのである。なぜなら、あらゆる認識が対象に関して積極的な真理を含むかどうかを決定するためには、人は、そのあらゆる認識自身をその内容の面で研究する前に、まずもってそのあらゆる認識をその形式の面でこれらの諸規則に即して吟味し評価しなければならないからである。
    しかし、認識の単なる形式は、たとえその形式がどれほど論理的な諸法則と合致しようとも、だからといって実質的な(客観的な)真理をその認識に見つけてやるには、まだ到底十分とはゆかないので、誰一人として諸対象についてあらかじめ根拠ある知識をこの論理学以外から集めておくことなしには、単に論理学だけで、それらの諸対象に関して判断したり、何事か主張したりすることを敢えて成し得ないのである。

    --- No.29700 からの続き ---

    ◇そうした根拠ある知識を集めておくのは、それを集めてしまった後で、その知識を論理的な諸法則に従って単に利用し、また一つの脈絡のある全体として結合することを試みるだけのためなのであり、いや、もっと適切に言えば、その知識をもっぱら論理的な諸法則に従って吟味するだけのためなのである。

    ◇それにもかかわらず、まるであらゆる私たちの認識に悟性の形式を与えるかのように思われる表面的な技術を所有していることのうちには、たとえその際人が認識の内容に関してどれほど空虚で貧弱であろうとも、何か極めて誘惑的なものが潜んでいるので、単に〔対象の〕判定のための規準〔Kanon〕≠ノ過ぎないあの一般論理学は、客観的な諸主張を現実的に産み出すための、少なくともそうした諸主張についての幻想のためのいわば機関〔Organon〕≠ニして使用され、従って事実このことによって誤用されるに至った。

    ◇ところで、機関と思い誤られた一般論理学は、弁証論〔Dialektik〕≠ニ呼ばれる。


    † 原佑訳上巻、p.201〜p.202参照。
    † その他に、中山元訳2、p.34〜p.35、石川文康訳上巻、p.117〜p.118を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−4 No.29173、V−5 No.29700、V−6 No.29734
    V−1 No.28726、V−2 No.28740、V−3 No.28816
    U−4 No.28561、U−5 No.28709
    U−1 No.28334、U−2 No.28383、U−3 No.28436
    T−7 No.28210
    T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161
    T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310

    *******

    序論
    T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334
    U No.28334,28383,28436,28561,28709
    V No.28726,28740,28816,29173,29700,29734

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■29700 / inTopicNo.57)  超越論的論理学 序論V−5
□投稿者/ うましか -(2023/02/19(Sun) 11:01:25)
    2023/02/19(Sun) 11:02:17 編集(投稿者)

    pipitさん、おはようございます。

    カント沼ダイブ、遅々としてすすみませんが、何とか読んでいます〜(;´・ω・)

    (/・ω・)/パシャパシャ


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学

    序論 超越論的論理学の構想
     V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて〔Von der Einteilung der allgemeinen Logik in Analytik und Dialektik〕

    ◆ しかし、その単なる形式からみた(全ての内容を除去した)認識に関して言えば、同様に次のことは明瞭である。すなわち、論理学は、それが悟性の普遍的で必然的な諸規則を論述する限り、まさにこれらの諸規則のうちで真理の標識を明示しなければならないということである。なぜなら、それらの諸規則と矛盾するものは偽であるからである。というのも、悟性は、その際〔悟性の諸規則と矛盾する際〕には、思考に関する己の普遍的な諸規則と、従って己自身と矛盾するからである。
    だが、こうした標識は、真理の、換言すれば、思考一般の形式にだけ関わり、だからその限りではまったく正しいが、しかし十分ではない。なぜなら、たとえ或る認識がその論理的な形式には完全に適っているとしても、換言すれば、自己矛盾はおかしていないとしても、それでもその認識は依然としてその対象と矛盾することがあり得るからである。
    それ故、真理の単に論理的な標識、即ち悟性及び理性の普遍的で形式的な諸法則との認識の合致は、なるほど全ての真理の必要条件であり、従って全ての真理の消極的条件ではある。しかし、この論理学はそれ以上に出ることはできず、だから形式にではなく内容に関する誤謬を、この論理学はいかなる試金石によっても発見することはできないのである。

    --- No.29173 からの続き ---

    ◇ ところで、一般論理学は、悟性及び理性の形式的な全業務をその諸要素に分解し、それらの諸要素を私たちの認識のあらゆる論理的な判定の原理として叙述する。だから論理学のこの部門は分析論と呼ばれることができ、また、まさにこのゆえに、真理の少なくとも消極的な試金石なのである。

    ◇なぜなら、あらゆる認識が対象に関して積極的な真理を含むかどうかを決定するためには、人は、そのあらゆる認識自身をその内容の面で研究する前に、まずもってそのあらゆる認識をその形式の面でこれらの諸規則に即して吟味し評価しなければならないからである。

    ◇しかし、認識の単なる形式は、たとえその形式がどれほど論理的な諸法則と合致しようとも、だからといって実質的な(客観的な)真理をその認識に見つけてやるには、まだ到底十分とはゆかないので、誰一人として諸対象についてあらかじめ根拠ある知識をこの論理学以外から集めておくことなしには、単に論理学だけで、それらの諸対象に関して判断したり、何事か主張したりすることを敢えて成し得ないのである。


    † 原佑訳上巻、p.200〜p.201参照。
    † その他に、中山元訳2、p.33〜p.34、石川文康訳上巻、p.117を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−4 No.29173、V−5 No.29700
    V−1 No.28726、V−2 No.28740、V−3 No.28816
    U−4 No.28561、U−5 No.28709
    U−1 No.28334、U−2 No.28383、U−3 No.28436
    T−7 No.28210
    T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161
    T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310

    *******

    序論
    T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334
    U No.28334,28383,28436,28561,28709
    V No.28726,28740,28816,29173,29700

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■29675 / inTopicNo.58)  Re[16]: 日記
□投稿者/ pipit -(2023/02/17(Fri) 23:44:56)
    2023/02/17(Fri) 23:46:00 編集(投稿者)

    >まぁカントの場合、客観に関する部分だけとすると、大部分はポロポロと落ちて、要素として残るものはすごく軽くなる気もするけど<

    客観として残るものは、直観の多様のカテゴリーによる統一(量、質、関係、様相)なのかな?

    おやすみなさい☆彡(( _ _ ))..zzzZZ
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■29673 / inTopicNo.59)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/02/17(Fri) 23:32:12)
    一瞬一瞬のバラバラな意識しかないと、バラバラ分断孤立意識になっちゃうから、この意識を統合する意識が必要とされる、ってかんじかな
    Now all union of representations requires unity of consciousness in the synthesis of them.

    ふむー

    雪だるまみたいにくっつけてくっつけて、大きくなっちゃうね

    まぁカントの場合、客観に関する部分だけとすると、大部分はポロポロと落ちて、要素として残るものはすごく軽くなる気もするけど
    (´-`).。oO

    おもしろいな
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■29672 / inTopicNo.60)  純粋理性批判B136-137
□投稿者/ pipit -(2023/02/17(Fri) 23:13:21)
    2023/02/18(Sat) 00:05:49 編集(投稿者)

    みなさま、こんばんはー (^O^)

    No29348
    >次はB136から。
    『第一七項 自己統合の意識の総合的な統一の原則は、知性の利用のための最高原理である。』『純粋理性批判2』中山元先生訳、p123<

    B136から読み進めて、B137
    Understanding is, to speak generally, the faculty Of cognitions.
    悟性(知性)とは、一般的に言えば、認識の能力である。

    These consist in the determined relation of given representation to an object.
    これらは与えられた表象と客体との 決定された関係に存する。

    But an object is that, in the conception of which the manifold in a given intuition is united.
    しかし、客体とは、与えられた直観の中にある多様なものが一体となった概念の中にあるものである。

    Now all union of representations requires unity of consciousness in the synthesis of them.
    さて、すべての表象の結合は、それらの総合における意識の統一を必要とする。

    Consequently, it is the unity of consciousness alone that constitutes the possibility of representations relating to an object, and therefore of their objective validity, and of their becoming cognitions, and consequently, the possibility of the existence of the understanding itself.
    したがって、意識の統一だけが、表象が客体に関係する可能性、したがって、その客観的妥当性、認識になる可能性、ひいては、悟性そのものの存在の可能性を構成するのである。

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap44

    ※※※※※※※※
    (pipit雑感)

    映像「☆ 」 を 概念「星」 と認識する。
    (カントの場合、「☆」(直観)も「星」(概念)も「表象」なんだね。)

    「☆は星である。」と認識するのが悟性能力。

    ☆直観の多様を概念に統一するためには、
    unity of consciousness(意識の統一)
    が要求される。

    意識の統一があるとき、表象が客体に関係する可能性がある。
    ゆえに、
    意識の統一こそが表象を認識にする可能性

    難....眠....
    _φ(・_・
    おやすみなさい(( _ _ ))..zzzZZ

    次もまだB137 ( ;∀;)ナガイ-

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