■29796 / inTopicNo.52) |
超越論的論理学 序論V−7
|
□投稿者/ うましか -(2023/02/25(Sat) 00:25:42)
| 2023/02/25(Sat) 00:26:27 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
やっとVに目を通すことができました〜(;´Д`A ```
つぎからはW 「論理学を超越論的論理学を超越論的分析論と超越論的弁証論とに区分することについて」に入れます〜( ノД`)シクシク…
*******
T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学
序論 超越論的論理学の構想 V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて〔Von der Einteilung der allgemeinen Logik in Analytik und Dialektik〕
◆ ところで、一般論理学は、悟性及び理性の形式的な全業務をその諸要素に分解し、それらの諸要素を私たちの認識のあらゆる論理的な判定の原理として叙述する。だから論理学のこの部門は分析論〔Analytik〕と呼ばれることができ、また、まさにこのゆえに、真理の少なくとも消極的な試金石なのである。 なぜなら、あらゆる認識が対象に関して積極的な真理を含むかどうかを決定するためには、人は、そのあらゆる認識自身をその内容の面で研究する前に、まずもってそのあらゆる認識をその形式の面でこれらの諸規則に即して吟味し評価しなければならないからである。 しかし、認識の単なる形式は、たとえその形式がどれほど論理的な諸法則と合致しようとも、だからといって実質的な(客観的な)真理をその認識に見つけてやるには、まだ到底十分とはゆかないので、誰一人として諸対象についてあらかじめ根拠ある知識をこの論理学以外から集めておくことなしには、単に論理学だけで、それらの諸対象に関して判断したり、何事か主張したりすることを敢えて成し得ないのである。 そうした根拠ある知識を集めておくのは、それを集めてしまった後で、その知識を論理的な諸法則に従って単に利用し、また一つの脈絡のある全体として結合することを試みるだけのためなのであり、いや、もっと適切に言えば、その知識をもっぱら論理的な諸法則に従って吟味するだけのためなのである。 にもかかわらず、まるで、あらゆる私たちの認識に悟性の形式を与えるかのように思われる表面的な技術を所有していることの内には、たとえ、その際、人が認識の内容に関してどれほど空虚で貧弱であろうとも、何か極めて誘惑的なものが潜んでいるので、単に〔対象の〕判定のための規準〔Kanon〕≠ノ過ぎないあの一般論理学は、客観的な諸主張を現実的に産み出すための、少なくともそうした諸主張についての幻想のための、いわば機関〔Organon〕≠ニして使用され、従って、事実このことによって誤用されるに至った。ところで、機関と思い誤られた一般論理学は、弁証論〔Dialektik〕≠ニ呼ばれるのである。
--- No.29734 からの続き ---
◆ 古人が学や技術のために名付けたこの弁証論という名称を用いた際の意味がどれほど異なっていようとも、それでも、この名称の実際の用法から確実に見て取ることができるのは、弁証論は彼ら〔古人〕にあっては仮象の論理学〔die Logik des Scheins〕∴ネ外の何ものでもなかったということである。 それは、己の無知に、いや、己が故意に企んだ幻想にすら、真理の外観を与える、一つの詭弁術であって、というのも、当時人は、論理学一般が指令する徹底性という方法を模倣して、論理学のまことしやかな推論*1をあらゆる空虚な言い抜けを言いつくろうために利用したからであった。 ところで、確実で有用な警告として注意が払われてよいのは、一般論理学は、機関であるとみなされるならば=Aいつでも仮象の論理学であり、換言すれば、弁証論的であるということである。 なぜなら、一般論理学は私たちに認識の内容に関しては何ひとつとして全然教えず、悟性との合致の形式的な諸条件を教えるだけであって、これらの諸条件は、ともかく対象に関しては全面的に無頓着であるから、少なくとも、その申し立てから言って、己の知識を拡大し拡張するために、一般論理学を道具(機関)として使用しようとする不当な要求は、饒舌に終わるより他仕方ないのであり、そのような饒舌は、どのようなものであれ、あらゆることを、いくらかのもっともらしさを主張したり、或いは勝手に攻撃したりするためのものでしかない。
*1 原佑訳「論理学のまことしやかな推論」は、中山元訳2,p.35では「論理学の推論としての場所論(トピカ)」、石川文康訳,p.118では「論理学の場所論」と訳される。
◆このようなことに手ほどきするのは、決して哲学の尊厳にふさわしくない。このために弁証論というこの名称は、むしろ弁証論的仮象の批判≠ニして、論理学の内に数え入れられてきたのであり、このような意味に解されたものとして、私たちもここでは弁証論というこの名称を心得ておきたいと思う。
† 原佑訳上巻、p.201〜p.203参照。 † その他に、中山元訳2、p.33〜p.36、石川文康訳上巻、p.117〜p.119を参照。 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
******* V−7 No.29796 V−4 No.29173、V−5 No.29700、V−6 No.29734 V−1 No.28726、V−2 No.28740、V−3 No.28816 U−4 No.28561、U−5 No.28709 U−1 No.28334、U−2 No.28383、U−3 No.28436 T−7 No.28210 T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161 T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310
*******
序論 T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334 U No.28334,28383,28436,28561,28709 V No.28726,28740,28816,29173,29700,29734,29796
|
|