| 2023/03/26(Sun) 23:10:58 編集(投稿者)
キェルケゴール『死に至る病』(斎藤信治 訳)、岩波文庫、p.229解説より、
>例外者 Ausnahmeという言葉はキェルケゴール並びにニイチェによって語り出され、今日の実存哲学において重要な意味をもつ概念となっているのであるが、これはわかり易くいえば、例えば十人の人間が手をとりあって踊り戯れているときに、その群からはずれて一人木の根にたたずんでいる十一人目の人間がいるとすれば、それが例外者である。ひとびとが普通のそのなかで生きている普遍的な場面、普遍的に人間的な場面の外に投げ出されて、ひとり孤独の生涯を辿るべく運命づけられているような人間が例外者である。キェルケゴールは少年の頃に自分は「ほかの人達」のようでないという自意識に悩まされていた。「ほかの人達のようでないということのために私はどれほど苦しんだことか、− もしもあの頃、ほんのちょっとの間でも、ほかの人達のようになれたとしたら、私は何でも与えたであろう」、と彼は後年書いている。彼は何か肉体上に欠陥があったらしい。<
永井均他『私の哲学をアップデートする』、p.17〜p.18より、
>A型の矛盾把握はこうである。「現実に私だけにみんなに当てはまる以上のことが起こっているのに、現実にはそれが起こっていない人々にも、その同じことが起こっていることになっている」。この場合、現実には私にだけ起こっているという端的な事実を決して手放さずに、しかしそれと同じこと≠ェ皆にいえるという別の事実を受け入れる、という矛盾がある。この捉え方の場合、前者を決して手放さないことが決定的に重要である。なぜなら、それが端的な事実であって、いま問題にしていることはそのこと≠ネのだから、それと同じこと≠ェ皆に起こるなどは(問題にしていることの本質からして)ありえない≠アとだからである。すなわち、この「と同じこと」が性質的・類型的に同じという意味であるなら、それはここで問題としていることとは違うこと≠言っていることになるわけだ。そうではあるのだが、他人たちも皆まさにそれ≠ニ同じことを主要するわけである。 − 「現実には私一人だけが……」「この端的な事実は……」というように。この字面上の一致をどこまでも拒否し続けることこそがA型把握の眼目(ポイント)である。(まさにそのこと≠アそが言わんとしていることなのだから)。<
>A型をキェルケゴール型矛盾と呼び、…<
ちなみに、永井は上記A型に対するB型なる矛盾を提示し、これを「ヘーゲル型矛盾」と呼んでいます。それはすなわち、「だれでも自分だけが世界がそこから開ける唯一の原点である」という主張には「だれでも」×「自分だけ」の矛盾が含まれるというもの。永井はこれを主体性を欠いた静的な矛盾だと否定的に評しています(同書,p.18参照)。
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「生への盲目的な意志(blinder Wille zum Leben)」について調べなければならない(´-`).。oO
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