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■30229 / inTopicNo.73)  言語への懐疑を超えて(´-`).。oO
  
□投稿者/ うましか -(2023/04/14(Fri) 20:46:03)
    ◇ 西村雅樹『言語への懐疑を超えて 近・現代オーストリアの文学と思想 −』

    https://www.toyo-shuppan.com

    >19世紀後半から20世紀前半にかけてのオーストリアの文学と思想を扱い、特にホフマンスタール、H・ブロッホ、バール等の文学者の思想的側面、哲学者ヴィトゲンシュタインとマウトナーの思想を論じた。<
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■30193 / inTopicNo.74)  うましか帖:チャーマーズ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/04/09(Sun) 20:43:21)
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■30146 / inTopicNo.75)   Wの〇劇:ランダウアーのマウトナー
□投稿者/ うましか -(2023/04/02(Sun) 20:34:55)
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■30125 / inTopicNo.76)  Wの〇劇:マウトナー言語批判4(;´・ω・)
□投稿者/ エイプリルうましか -(2023/04/01(Sat) 13:11:53)
    ◇ 木村裕一『言語批判と「詩人」:フリッツ・マウトナー『言語批判論考』(1901-1902)分析』, 2012年


    ◇ 木村裕一『世紀転換期における言語危機の演出 : フリッツ・マウトナー、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール、フランツ・カフカにおける境界的空間と例外的形象』, 2014年


    https://glim-re.repo.nii.ac.jp/
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■30121 / inTopicNo.77)  Wの〇劇:マウトナー言語批判3(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/03/31(Fri) 23:52:28)
引用返信/返信 削除キー/
■30120 / inTopicNo.78)  Wの〇劇:マウトナー言語批判2(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/03/31(Fri) 23:51:47)
    2023/04/22(Sat) 23:23:06 編集(投稿者)

    ◇ フリッツ・マウトナー『言語批判への寄与(Beitraege zu einer Kritik der Sprache)』, 1901〜1902年

    https://www.textlog.de/mauthner/

    【目次】

    ■第1巻:言語と心理学のために 

    ◇言語の本質
    T 言語の本質
    U 言語と社会主義
    V 言語の実在性
    W 言語による誤解
    X 言語の価値
    Y 言語芸術
    Z 言語の力
    [ 言語の迷信
    \ 思考と言語

    ◇心理学のために
    T 心と肉体 Seele und Leib
    U 並行論 Parallelisums
    V 心理学用語 Psychologsche Terminologie
    W 心と感覚 Seele und Sinne
    X 偶然の感覚 Zufallssinne
    Y 主体性 Subjektivitaet
    Z 記憶 Gedaechtnis
    [ 注意と記憶 Aufmerksamkeit und Gedaechtnis
    \ 意識 Bewusstsein 
    ] 悟性、言語、理性
    XT 自己感覚 Ichgefuehl
    XU 認識と現実
    XV 哲学の可能性


    ■第2巻:言語学のために

    T 言語学とは何か?
    U 言語学の歴史から
    V 言語の正しさ
    W 言語における偶然性
    X 語源
    Y ルーツ
    Z 意味の変化
    [ 言語の分類
    \ 動物と人間言語 
    ] 言語の起源
    XT隠喩
    XU文字と書き言葉
    XV言語学と民族学
    XW理性の起源と歴史


    ■第3巻:文法と論理学のために

    ◇言語と文法
    T 文法的な意味の不確定性
    U 動詞 Das Verbum
    V 名詞 Das Substantivm
    W 形容詞 Das Adjeltivm
    X 副詞 Adverbien − 空間と時間
    Y 数詞 Das Zahlwort
    Z 統語論 Syntax
    [ 状況と言語

    ◇言語と論理学
    T 概念と言葉
    U 定義
    V 判断
    W 思考法則
    X 推論 die Schlussfolgerung
    Y 帰納法
    Z 帰納的科学の技術用語  Termini technici der induktiven Wissenschaften
    [ 知識と言葉 Wissen und Worte

    *******


    (´-ω-`)沼…
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■30110 / inTopicNo.79)  Wの〇劇:マウトナーの言語批判?(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/03/31(Fri) 01:51:25)
    2023/03/31(Fri) 23:53:15 編集(投稿者)

    ◇ 山田貞三『神は言の葉にすぎなかった : マウトナーの言語批判、ホーフマンスタールとヴィトゲンシュタインをめぐって』,2018年

    https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/70502

    *******

    ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より(全集1、奥 雅博 訳,p.45〜p.46)

    4. 思想とは有意義な命題である。

    4.001 命題の総体が言語である。

    4.002 各々の語がいかに、そして何を意味するかについての観念を少しも持たずに、各れの意義をも表現しうる言語を構成する能力を人間は有している。これは、個々の音がいかに産出されるかを知らずとも話しをするのと同様である。
     日常言語は人間という有機体の一部であり、そしてこれに劣らず複雑である。
     日常言語から言語の論理を直接読み取ることは人間には不可能である。
     言語は思想に変装を施す。即ち、衣装の外的形式から装われた思想の形式を推論することはできない。何故なら衣装の外的形式は肉体の形式を認識させるのとは全く別の目的に従って形づくられているからである。
     日常言語の理解のための暗黙の取り決めは非常に複雑である。

    4.003 哲学的な事柄についてこれまで書かれてきた大抵の命題や問は、偽なのではなく無意義なのである。それ故我々はこの種の問に決して答えることはできず、問の無意義さを確認することしかできない。哲学者達の大抵の問や命題は、我々が我々の言語の論理を理解しないことに起因している。(それらは、善と美は多少とも同一であるか否か、といった種の問である。)
     そして最も深遠な問題が、実は全く問題ではない≠アとは驚くべきことではない。

    4.0031 全ての哲学は「言語批判」である。(だかしかし、マウトナーの言う意味でではない。)ラッセルの功績は、命題の見かけ上の論理形式がその現実の論理形式である必要はないことを、示した点にある。

    *******

    ◇ Fritz Mauthner "Beitraege zu einer Kritik der Sprache"

    https://archive.org/details/beitrgezueiner01mautuoft/mode/2up
    https://archive.org/details/beitrgezueiner02mautuoft/mode/2up
    https://archive.org/details/beitrgezueiner03mautuoft/mode/2up

    調べたら、何と! 翻訳を試みている方のブログを発見しましたφ(..)



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■30084 / inTopicNo.80)  Wの〇劇:D.A.ワイナー『天才と才人』
□投稿者/ うましか -(2023/03/26(Sun) 23:38:12)
    を久しぶりにひらく(;´・ω・)

    >実際奇妙なことは、ウィトゲンシュタインが自分自身を、じゃがいもだけで育った人間として描出していたということだ。本当は彼はベーコンとじゃがいもで育ったのに。自分自身の知的メニューの一部しか公表しないということによって、彼はほぼ一世代にわたる読者を欺いてきたのだ。< D.A.ワイナー『天才と才人 − ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響』(寺中平治・米澤克夫 共訳),p.21

    本当はベーコン(ショーペンハウアー)とじゃがいも(フレーゲ、ラッセル)で育ったのに、じゃがいもだけで育ったと世間に過少申告していた悩めるおっちゃん…
    (´-ω-`)沼…


引用返信/返信 削除キー/
■30083 / inTopicNo.81)  うましか帖:「例外者」(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/03/26(Sun) 22:53:08)
    2023/03/26(Sun) 23:10:58 編集(投稿者)

    キェルケゴール『死に至る病』(斎藤信治 訳)、岩波文庫、p.229解説より、

    >例外者 Ausnahmeという言葉はキェルケゴール並びにニイチェによって語り出され、今日の実存哲学において重要な意味をもつ概念となっているのであるが、これはわかり易くいえば、例えば十人の人間が手をとりあって踊り戯れているときに、その群からはずれて一人木の根にたたずんでいる十一人目の人間がいるとすれば、それが例外者である。ひとびとが普通のそのなかで生きている普遍的な場面、普遍的に人間的な場面の外に投げ出されて、ひとり孤独の生涯を辿るべく運命づけられているような人間が例外者である。キェルケゴールは少年の頃に自分は「ほかの人達」のようでないという自意識に悩まされていた。「ほかの人達のようでないということのために私はどれほど苦しんだことか、− もしもあの頃、ほんのちょっとの間でも、ほかの人達のようになれたとしたら、私は何でも与えたであろう」、と彼は後年書いている。彼は何か肉体上に欠陥があったらしい。<


    永井均他『私の哲学をアップデートする』、p.17〜p.18より、

    >A型の矛盾把握はこうである。「現実に私だけにみんなに当てはまる以上のことが起こっているのに、現実にはそれが起こっていない人々にも、その同じことが起こっていることになっている」。この場合、現実には私にだけ起こっているという端的な事実を決して手放さずに、しかしそれと同じこと≠ェ皆にいえるという別の事実を受け入れる、という矛盾がある。この捉え方の場合、前者を決して手放さないことが決定的に重要である。なぜなら、それが端的な事実であって、いま問題にしていることはそのこと≠ネのだから、それと同じこと≠ェ皆に起こるなどは(問題にしていることの本質からして)ありえない≠アとだからである。すなわち、この「と同じこと」が性質的・類型的に同じという意味であるなら、それはここで問題としていることとは違うこと≠言っていることになるわけだ。そうではあるのだが、他人たちも皆まさにそれ≠ニ同じことを主要するわけである。 − 「現実には私一人だけが……」「この端的な事実は……」というように。この字面上の一致をどこまでも拒否し続けることこそがA型把握の眼目(ポイント)である。(まさにそのこと≠アそが言わんとしていることなのだから)。<

    >A型をキェルケゴール型矛盾と呼び、…<

    ちなみに、永井は上記A型に対するB型なる矛盾を提示し、これを「ヘーゲル型矛盾」と呼んでいます。それはすなわち、「だれでも自分だけが世界がそこから開ける唯一の原点である」という主張には「だれでも」×「自分だけ」の矛盾が含まれるというもの。永井はこれを主体性を欠いた静的な矛盾だと否定的に評しています(同書,p.18参照)。


    *******

    「生への盲目的な意志(blinder Wille zum Leben)」について調べなければならない(´-`).。oO




引用返信/返信 削除キー/
■30021 / inTopicNo.82)  Re[18]: 世界にいるたくさんの人の中に
□投稿者/ パニチェ -(2023/03/21(Tue) 10:21:06)
    2023/03/21(Tue) 15:20:58 編集(投稿者)

    おはようございます、うましかさん。レスありがとうございます。
    以下は的外れな返信もあるかとは思いますが、思い向くままに忌憚なくレスしてみます。

    No30003に返信(うましかさんの記事)

    > なるほど、「事実そうである」、と。(;´・ω・)
    > ということは、パニチェさんのいう「事実」とは、客観的な、というよりは当事者にとっての事実ということなのかな?私は、「事実」という言葉を前者(客観的な事実)の意味あいで使いました。後者(当事者にとっての事実)であるならば、「私にはそうおもわれる」ということではないでしょうか?もちろん、「例外的なあり方」が、当事者にとっての事実であるとともに客観的な事実でもあるとも考えられますが(´-`).。oO

    主観なくして客観(間主観)はなく、〈私〉なくして主観はないといったところでしょうか。また「思う」主体が〈私〉であることから〈私〉なくして「思う」ことはありえない。言い方を変えれば〈私〉は思う対象ではなく主体ということになります。さらに極論すれば客観なんてものは神(神がいるとすれば)の視点であって人間には不そと可能な視点だと思います。
    複数の間で共通する主観という意味で客観は間主観に還元されるのではないでしょうか。

    > ところで「例外(者)」とはどのように理解すればよいのでしょうか?付け焼刃ですが、哲学の文脈でいえば「例外者」(或いは「単独者」)とはキルケゴールに由来する概念のようです。岩波哲学・思想事典p.1048の「単独者」の柏原啓一の説明には、次のようにあります。
    > >大衆や一般者に対立する用語で、自由な実存として生きる本来的な人間の在り方を表現したもの。
    > >すべてを包摂する一般者の客観的なあり方を越えて、個々の現実を生きる自由な主体的な実存に人間の真実のあり方を認める点で、この単独者の思想が、20世紀の実存主義の先駆ともなった。<
    > さしあたり、キルケゴールの「例外者」(単独者)を、永井から発せられた問いを考えるうえでの資料の一つとしたいとおもいます(的外れかもしれませんが(;´・ω・))

    私はもっと単純に考えます。
    「例外(者)」は「例外なく」の逆です。
    「例外なく」は「全てに当てはまる」ということで、この逆の「例外」というのは「どれにも当てはまらない」つまり「唯一無二」の別の言い方だと思います。

    > *******

    > >以下、例外的なことを思い浮かぶままにカキコしてみます(おそらく抜け落ちており、これ以外にもあると思います)

    > 1.世界にある無数とも言えるほどの自我意識の中で「私が他の誰でもなく〈私〉であるということ」が例外的です。
    > 2.〈私〉は〈私〉が認識する世界内には存在しません、
    〈私〉だけが世界内に存在せず、世界が開闢する特異点(接点)に実在しているということ。
    > 3.他者から絶対に知られることのない私秘性を有すること。
    > 4.〈私〉以外の存在は存在であって実在ではない。〈私〉のみが実在と断言しうる存在(実在)であるということ。
    > 5.すべてを疑っても(エポケー〔判断を留保〕しても)疑えない唯一無二の対象であること。
    > 6.この事実が当たり前すぎて日常的には頽落している(例外的なことが際立たない)こと。
    > 7.言語の特徴(一般化や同一化)により言語化不可能であること。< 〔パニチェさん〕

    > ありがとうございます! (*‘∀‘) 考える上でとても参考になります。
    > 以下に感想めいた覚え書きを。なお、1と3〜6については判断を保留?しまーす(;´・ω・)

    どういたしまして&1と3〜6については判断を保留は了解しました。
    いつか、うましかさんがポンっと膝を叩いて腑に落ちることがあれば教えていただければ有難いです。

    > *******

    > >2.〈私〉は〈私〉が認識する世界内には存在しません、〈私〉だけが世界内に存在せず、世界が開闢する特異点(接点)に実在しているということ。
    > これはマッハとかウィトゲンシュタインを念頭に置かれての言葉なのかなー(;´・ω・)

    そうですね。ウィトゲンシュタインの言葉であると同時に私の言葉でもあります。

    > 私の日常的かつ素朴な観点からすれば、私は自分のことを自分の認識する世界内(環世界)で捉えているとおもっています。というのも、自分についてであれ、何についてであれ、何かについて考える際に世界と切り離して捉えることはできるのでしょうか?例えばウィトゲンシュタインは「主体は世界に属さない」という言明を『論考』(5.632)作成時に選びましたが、そこに積極的な意義を見いだしてよいものか悩みます( ノД`)シクシク… もちろんそれでもよいのですが、そうすると、私としては「認識論」というより、本来この言葉が記された日記草稿(1916年)にあるような、ウィトゲンシュタインの(おそらくはショーペンハウアー由来の)実存的(倫理的)、或いはどこか神秘的な思考の傾向の一側面として、それを受け入れねばならないなー、と(;´Д`A ``` 

    〈私〉は考える対象でも捉える対象でもないです。ただ、今。ここにあるだけ。
    〈私〉はマッハ的光景(世界)には含まれません。また「考える」とは論理であると同時に言語です。
    おそらく現段階でうましかさんがイメージしている「私」は言語的な「私」であると思われます。
    「主体は世界に属さない」という言明は意義を見出すものではなく、これ以上ない事実の言明であり、あるがままを言語にうつした言葉です。

    > >世界は私に与えられて≠「る。即ち私の意志は完成したものとしての世界に、全く外側から近づくのである。(私の意志が何であるのかを、私は今なお知らない。)<
    > >二つの神的なもの、即ち世界と、私の独立した自我が、存在する。<
    > 〔1916年7月8日の日記より、全集1, p.256〜p.257より引用〕

    私が世界から与えられたものではなく、私が世界を与えているということですね。世界の外側から私の意志が近づくのは〈私〉が世界に属さないことの証左でもあるんでしょう。

    > >7.言語の特徴(一般化や同一化)により言語化不可能であること。
    > 「言語化不可能」というよりは、語〈私〉に対応する認識可能な対象が存在するという前提のもとでの言語表現では、求めるものをさしあたり〈私〉と言語化(表記)したところで、それが意味する(指示する)ところを知ることができないということなのかな?とおもいます。

    〈私〉は言葉から知ることはできません。自分で気づくのみです。
    〈私〉という表記は通常の語ではないですね。〈私〉という表記は不立文字を表記した勝義諦みたいな特殊な表現です。

    > いっぽう、例えば、私がなにやら楽しそうにハミングしている人に遭遇した場合、その理由について私にある程度の推測は許されるけれども、その人自身については依然覆い隠されている。このとき私が直面したのは、その人特有の〈私〉である、、、と言ってみたい気がします、あくまでも私の場合ですが。

    しれは私秘性ですね。他者の私秘性は私(パニチェやうましかさん)の認識の地平の向こうにあるということです。
    腹が痛いと言ってる人が本当に腹の痛みを感じているのかどうかは他者の知るところではない。

    > *******

    > なんだか雑然としたまとまりのない思考ですみません(´;ω;`)ウッ…
    > でも、パニチェさんのレスのおかげで、久々に色々考えました!
    > ありがとうございます、感謝ですm(__)m

    こちらこそ、ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■30015 / inTopicNo.83)  ウィトのキルケゴールへの眼差し(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/03/19(Sun) 20:39:46)
引用返信/返信 削除キー/
■30003 / inTopicNo.84)  Re[17]: 世界にいるたくさんの人の中に
□投稿者/ うましか -(2023/03/19(Sun) 10:01:18)
    2023/03/19(Sun) 20:17:23 編集(投稿者)

    パニチェさん、おはようございます(・∀・)

    レスありがとうございます!

    No.29997(パニチェさん)

    *******

    >>[世界にいるたくさんの人の中での、私であるという]「例外的なあり方」とは事実そうであることなのか。それとも「例外的なあり方」をしているように(私に)おもわれるということなのか? 〔うましか〕

    >事実そうであるということです。加えて言うならば、これ以上の事実や、例外的、つまり唯一無二な存在様相はありません。〔パニチェさん〕

    なるほど、「事実そうである」、と。(;´・ω・)
    ということは、パニチェさんのいう「事実」とは、客観的な、というよりは当事者にとっての事実ということなのかな?私は、「事実」という言葉を前者(客観的な事実)の意味あいで使いました。後者(当事者にとっての事実)であるならば、「私にはそうおもわれる」ということではないでしょうか?もちろん、「例外的なあり方」が、当事者にとっての事実であるとともに客観的な事実でもあるとも考えられますが(´-`).。oO

    ところで「例外(者)」とはどのように理解すればよいのでしょうか?付け焼刃ですが、哲学の文脈でいえば「例外者」(或いは「単独者」)とはキルケゴールに由来する概念のようです。岩波哲学・思想事典p.1048の「単独者」の柏原啓一の説明には、次のようにあります。

    >大衆や一般者に対立する用語で、自由な実存として生きる本来的な人間の在り方を表現したもの。

    >すべてを包摂する一般者の客観的なあり方を越えて、個々の現実を生きる自由な主体的な実存に人間の真実のあり方を認める点で、この単独者の思想が、20世紀の実存主義の先駆ともなった。<

    さしあたり、キルケゴールの「例外者」(単独者)を、永井から発せられた問いを考えるうえでの資料の一つとしたいとおもいます(的外れかもしれませんが(;´・ω・))

    *******

    >以下、例外的なことを思い浮かぶままにカキコしてみます(おそらく抜け落ちており、これ以外にもあると思います)

    1.世界にある無数とも言えるほどの自我意識の中で「私が他の誰でもなく〈私〉であるということ」が例外的です。
    2.〈私〉は〈私〉が認識する世界内には存在しません、〈私〉だけが世界内に存在せず、世界が開闢する特異点(接点)に実在しているということ。
    3.他者から絶対に知られることのない私秘性を有すること。
    4.〈私〉以外の存在は存在であって実在ではない。〈私〉のみが実在と断言しうる存在(実在)であるということ。
    5.すべてを疑っても(エポケー〔判断を留保〕しても)疑えない唯一無二の対象であること。
    6.この事実が当たり前すぎて日常的には頽落している(例外的なことが際立たない)こと。
    7.言語の特徴(一般化や同一化)により言語化不可能であること。< 〔パニチェさん〕


    ありがとうございます! (*‘∀‘) 考える上でとても参考になります。
    以下に感想めいた覚え書きを。なお、1と3〜6については判断を保留?しまーす(;´・ω・)

    *******

    >2.〈私〉は〈私〉が認識する世界内には存在しません、〈私〉だけが世界内に存在せず、世界が開闢する特異点(接点)に実在しているということ。

    これはマッハとかウィトゲンシュタインを念頭に置かれての言葉なのかなー(;´・ω・)
    私の日常的かつ素朴な観点からすれば、私は自分のことを自分の認識する世界内(環世界)で捉えているとおもっています。というのも、自分についてであれ、何についてであれ、何かについて考える際に世界と切り離して捉えることはできるのでしょうか?例えばウィトゲンシュタインは「主体は世界に属さない」という言明を『論考』(5.632)作成時に選びましたが、そこに積極的な意義を見いだしてよいものか悩みます( ノД`)シクシク… もちろんそれでもよいのですが、そうすると、私としては「認識論」というより、本来この言葉が記された日記草稿(1916年)にあるような、ウィトゲンシュタインの(おそらくはショーペンハウアー由来の)実存的(倫理的)、或いはどこか神秘的な思考の傾向の一側面として、それを受け入れねばならないなー、と(;´Д`A ``` 

    >世界は私に与えられて≠「る。即ち私の意志は完成したものとしての世界に、全く外側から近づくのである。(私の意志が何であるのかを、私は今なお知らない。)<

    >二つの神的なもの、即ち世界と、私の独立した自我が、存在する。<

    〔1916年7月8日の日記より、全集1, p.256〜p.257より引用〕


    >7.言語の特徴(一般化や同一化)により言語化不可能であること。

    「言語化不可能」というよりは、語〈私〉に対応する認識可能な対象が存在するという前提のもとでの言語表現では、求めるものをさしあたり〈私〉と言語化(表記)したところで、それが意味する(指示する)ところを知ることができないということなのかな?とおもいます。

    いっぽう、例えば、私がなにやら楽しそうにハミングしている人に遭遇した場合、その理由について私にある程度の推測は許されるけれども、その人自身については依然覆い隠されている。このとき私が直面したのは、その人特有の〈私〉である、、、と言ってみたい気がします、あくまでも私の場合ですが。

    *******

    なんだか雑然としたまとまりのない思考ですみません(´;ω;`)ウッ…
    でも、パニチェさんのレスのおかげで、久々に色々考えました!
    ありがとうございます、感謝ですm(__)m

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