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■32958 / inTopicNo.1)  宮島光志のエゴイズム解説(/・ω・)/
  
□投稿者/ うましか -(2023/09/10(Sun) 00:15:04)
    カント事典、p.36「エゴイズム Egoismus」にありますね(*‘∀‘)

    >そもそも「エゴイスト」という呼称は、概念史的には、ヴォルフが自我の確実性を唱えるデカルト主義者をそう名づけて批判したことに淵源する。したがって、その立場は今日の語法ではむしろ「独我論(Solipsismus)」を意味する。そうした元来の形而上学的な「エゴイズム」概念は、幾多の媒介により意味の分化と変容を遂げながら、カントの類型論に影響を与えた。< 〔カント事典,p.36、宮島光志の解説による〕


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■32957 / inTopicNo.2)  寺田俊郎のカント実践哲学論(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/09/10(Sun) 00:04:21)
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■32955 / inTopicNo.3)  種村剛の「エゴイズム」資料集(/・ω・)/
□投稿者/ うましか -(2023/09/09(Sat) 23:21:04)
    2023/09/09(Sat) 23:47:49 編集(投稿者)

    田秋さんご紹介の種村剛「エゴイズム」解説の引用集、とてもありがたいですね!m(__)m

    http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/1A/e_egoism.html

    私にとって、とくにありがたかった情報=◆をメモ(・∀・)
    *の記述はうましかによります。

    ◆「エゴイズム(egoism)」ということばは、「わたし」を意味するラテン語 ego と18世紀の哲学界において広く使用された接尾語 - ismus / ista を組み合わせた造語
    ◆この合成語は、J. アディソン編集の『スペクテイター』(1714年)において、代名詞の「わたし」を多用するあり方、もしくは自己自身のことばかり語る悪徳を意味する「自己中心癖(egotism)」としてはじめて登場

     * Wikipediaからスペクテイターの翻訳情報を確認(;´・ω・)。門田俊夫訳。
    https://www.i-repository.net/il/user_contents/02/G0000031Repository/repository/keidaironshu_066_001_249-271.pdf

    ◆C. ヴォルフは、確実に存在するのは自我のみであると主張するデカルト主義的独我論を「エゴイズム」と呼んだ

     * ヴォルフ自身が「確実に存在するのは自我のみである」という(デカルトの)主張を<デカルト主義的独我論>と称したかどうか、私には不明(;´・ω・)

     * 先述のNo.32884 における宮島論文は「18世紀における「エゴイズム」概念の登場と継承」について言及している。それによれば、ヴォルフは「このエゴイズムというテーマは、 大真面目に究明されることは稀であったが、一八世紀の精神的雰囲気の徴候を示しており、デカルト的な思惟に付随する特微的な現象と見なすことができる」と述べているとのこと。
     ・https://www.jstage.jst.go.jp/article/tpstja/19/0/19_KJ00003906009/_pdf/-char/ja

    ◆ヴォルフの影響を受けたカントは『人間学』第1篇第2節において、自分の判断を他人の悟性について吟味することを無用とみなす「論理的エゴイズム」、他人の評価を気にせず、自己自身の趣味に満足する「美的エゴイズム」、あらゆる目的を自己自身にのみ限定し、自分に役立つもの意外のものには何の利益も見いださないような「道徳的エゴイズム」の三つを区別

     * 先述のNo.32884 であげた倉本論文によれば、カントは『人間学』において「「一切の目的を自分の上だけに限り己れに役立つもの以外には何の効用も認めない幸福論者」を「道徳的エゴイスト」」と呼び、そうした幸福論者を「自己中心的な我執(selbstsuch)」即ち、独我論(solipsismus)に陥っている」としたとあります。
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1997/48/1997_48_227/_article/-char/ja


    *******

    「独我論」の二義性… 認識論的/道徳論的 ・・・(。´・ω・)?



    (/・ω・)/カントせんぱ〜い







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■32886 / inTopicNo.4)  Re[12]: 田秋さんへ(;´・ω・)
□投稿者/ 田秋 -(2023/09/06(Wed) 07:36:30)
    おはようございます、うましかさん

    お返事ありがとうございます。ショーペンハウアーは独我論を章立てするまでもない、エゴイズムの一種と捉えていたのでしょうかねえ。。。

    理論的エゴイズムを検索していたら種村剛氏のサイトがヒットしました。
    http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/1A/e_egoism.html

    (種村剛氏は、以前、悟性に関してpipitさんから紹介して頂いたサイトの著者ですが)そこには(理論的ではなく)論理的エゴイズム、実践的エゴイズムの他、心理的エゴイズム、倫理的エゴイズムなどの分類が載っていました。

    うましかさんご紹介のショーペンハウアーの言葉の中で

    「このようなエゴイズムを本気で確信している例は精神病院〔*2〕のなかにしか見出されない。これを本気で確信しているとしたら、こういうエゴイズムに必要なのは証明であるよりはむしろ治療であろう」

    の部分が特に気に入りました。直前に「証明によってはけっして論駁できない」が置かれているので「むしろ治療であろう」が(燦然と)輝いています。

    このようなことはショーペンハウアーだからこそ言えることで、もしもボクがこんなことを書いたなら《傲慢》の烙印が押されるだけでしょう。

    ありがとうございました。引き続き宜しくお願いします。
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■32884 / inTopicNo.5)  「超越論的独我論」者カント(;´・ω・)?
□投稿者/ うましか -(2023/09/06(Wed) 00:07:33)
    2023/09/06(Wed) 00:18:46 編集(投稿者)

    ◇ 宮島光志『カントと「形而上学的エゴイズム」の問題 −「イデアリズム論駁」との関連で − 』,2003年

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/tpstja/19/0/19_KJ00003906009/_article/-char/ja


    ◇ 倉本香『カント実践哲学における独我論の問題』,1997年

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1997/48/1997_48_227/_article/-char/ja

    >カントは『実用的見地における人間学』において、「一切の目的を自分の上だけに限り己れに役立つもの以外には何の効用も認めない幸福論者」を「道徳的エゴイスト」と呼ぶ一方で、自らの実践哲学を「自分を単なる一人の世界公民と考え、またそのように振る舞うような考え方」(VII 130)、即ち複数主義(Pluralism)と見なしている。カントは、幸福論者は「自己中心的な我執(selbstsuch)」即ち、独我論(solipsismus)に陥っていると述べ(V 73)、道徳法則こそ我執を打倒し複数主義の立場へと意志を規定することを明らかにした。< 倉本,p.227


    *******

    ◇ 中島義道「カントにはなぜ<他者論>がないのか?」,1994年

    http://www.showado-kyoto.jp/book/b96265.html



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■32882 / inTopicNo.6)  田秋さんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/09/05(Tue) 23:11:12)
    こんばんはー(・∀・)

    No.32869(田秋さん)

    >初歩的な質問です。

    いや〜いきなり私うましかの関心にとって本質的な問いを投げかけられた気分です(゚Д゚;)

    さすが田秋さん! m(__)m

    no 32839 で論じられている理論的または実践的エゴイズムというのは独我論のことを言っているのでしょうか。

    うましかが調べた限りでは、ショーペンハウアーは、ここで独我論 Solipsismus という言葉を使用しているわけではありません。しかし内容的にみたとき、少なくとも「理論的エゴイズム(theoretischen Egoismus)」は、私がこれまでよく目にしてきたような視点から(いわゆる「心の哲学」ですが(;´・ω・) *1)の意味での「独我論」と重なっているようにおもえます。ちなみに、 No.32821 の末尾であげた山口尚は理論的エゴイズムを独我論と呼んでいます〔*2〕。

    *1 https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/36.html
    *2 https://note.com/free_will/n/n01466bb2cec0

    一方、「実践的エゴイズム(praktische Egoismus)」については、これを上記の視点から「独我論」と呼ぶには、現時点で違和感があります。私が「独我論」に関心をもつのは、自分のこのような感覚の正体をつかみたいというのが動機の一つとしてあるからですが、悲しいかな、まだ頭のなかが混沌としていています(´;ω;`)ウゥゥ

    ところで、今回の調査でこんな情報↓をみつけました。語源に関してはさらなる調査が必要だとおもいますが、ここにもカント沼。メモっておこう( ..)φメモメモ

    https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-07710022/
    https://www.etymonline.com/jp/word/solipsism
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1997/48/1997_48_227/_pdf/-char/ja



    それでは〜(ToT)/~~~沼



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■32869 / inTopicNo.7)   理論的または実践的エゴイズム
□投稿者/ 田秋 -(2023/09/05(Tue) 11:24:39)
    こんにちは、うましかさん

    初歩的な質問です。

    no 32839 で論じられている理論的または実践的エゴイズムというのは独我論のことを言っているのでしょうか。というのも

    「理論的エゴイズムは自分自身の個体以外のすべての現象を幻影とみなすにいたる。」



    「自分自身の人格だけを現実の人格とし、あらゆる他の人格を単なる幻影とみなし、幻影として取り扱うことになる」

    などを読むと独我論の説明と同じだと思ったからです。

    宜しくお願いします。
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■32839 / inTopicNo.8)  理論的または実践的エゴイズム(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/09/03(Sun) 10:16:04)
    2023/09/03(Sun) 17:46:04 編集(投稿者)

    ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』の第二巻「意志としての世界の第一考察− すなわち意志の客観化 」第19節には以下のようにあります(;´・ω・) ※ちなみに内容がわかりやすいように便宜上改行していています。

    *******

    >しかし、もろもろの客観は個体にとっては表象としてしか知られていないけれども、これらの個体それ自身の身体と同じように、一つの意志の現われであるかどうか?

    この問いこそ前の巻ですでに述べたように〔*1〕、外界の実在性に関する本来の意味なのである。

    この点を否定するのが理論的エゴイズムの意向なのであって、かく否定することで理論的エゴイズムは自分自身の個体意外のすべての現象を幻影とみなすにいたる。

    これは実践的なエゴイズムがまったく同じことを実践面でおこなうのと同様に、自分自身の人格だけを現実の人格とし、あゆる他の人格を単なる幻影とみなし、幻影として取り扱うことになる。

    この理論的エゴイズムは、なるほど証明によってはけっして論駁できない。しかし哲学においては、このエゴイズムは懐疑主義の詭弁としてよりほかには、つまり見せかけのためより他には、用いられたことがなかったことも確かであろう。

    このようなエゴイズムを本気で確信している例は精神病院〔*2〕のなかにしか見出されない。これを本気で確信しているとしたら、こういうエゴイズムに必要なのは証明であるよりはむしろ治療であろう。

    というわけだから、このエゴイズムにわれわれはこれ以上立ち入ることはしないで、これは論争好きの懐疑主義の立てこもる最後の砦だくらいに考えておこう。− <

    *******

    西尾幹二訳、中公クラシックス「意志と表象としての世界T」,p.230〜p.231より引用。
    引用中の〔*〕はうましかによる註です。

    *1 西尾によれば「表象としての世界の第一考察 − 根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学による客観」第5節を指します。
    *2 原語はTollhause。西尾訳はうましか的に好ましくない訳語だったため改めました。

    原典は以下を参照。

    https://www.projekt-gutenberg.org/schopenh/weltwil1/index.html
    の、
    https://www.projekt-gutenberg.org/schopenh/weltwil1/chap020.html

    英訳は、

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/38427/pg38427-images.html#toc11

    のp.135



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■32825 / inTopicNo.9)  笹川孝一のエゴイズム論(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/09/02(Sat) 23:23:22)
引用返信/返信 削除キー/
■32821 / inTopicNo.10)  太田匡洋のショーペンハウアー論(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/09/02(Sat) 22:37:45)
    ◇ 太田匡洋『ショーペンハウアーにおける類比推論について −「実在性」はいかにして可能か −』, 2013

    https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/191038

    *******

    上記論文p.60より

    https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/191038/1/ronso_40_058.pdf

    >これに対して、主著の第 2 巻においてショーペンハウアーは、我々の身体が表象であると同時に、「意志」としての側面を持つことを指摘した上で、それとパラレルなかたちで、外的世界における「内的な本質」の究明を、問いとして設定する。そして彼は、世界をたんなる表象とみなす立場を「理論的エゴイズム」と呼び、このような立場にとっては、経験的認識の対象としての外的世界における諸表象もまた、たんなる「幻影(Phantome)」と同等の価値しかもたないことを指摘する。

     この問こそ前の巻ですでに述べたように、外界の実在性に関する問題の本来の意
     味なのである。この点を否定するのが理論的エゴイズムの趣向なのであって、か
     く否定することで、理論的エゴイズムは自分自身の個体以外のすべての現象を幻
     影とみなすにいたる。(WWT, §19, S.124, 邦訳, T, 230 頁 <

    *******

    山口尚は、上記「理論的エゴイズム」を独我論と呼ぶ。

    https://note.com/free_will/n/n01466bb2cec0




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■32820 / inTopicNo.11)  自我体験(;゚Д゚)と独我論的体験(゚Д゚;)
□投稿者/ うましか -(2023/09/02(Sat) 21:41:11)
    ◇ 渡辺恒夫『自我体験と独我論的体験 − 自明性の彼方へ −』

    https://www.kitaohji.com/book/b579853.html

    *******

    「独我論」とは…

    ・ラテン語のsolus(〜だけ)とipse(自己)を合成してできた語で、<自己だけ>を重視する立場一般を指し、倫理的な自己中心主義、利己主義を意味する場合もあるが、狭義では<自己だけ>が<存在する>とする立場を指す。
    (『岩波哲学・思想事典』のp.1176、永井均の解説より)
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■32819 / inTopicNo.12)  うましかな関心事更新(/・ω・)/
□投稿者/ うましか -(2023/09/02(Sat) 21:22:23)
    哲学にはさほど興味のない私うましかですが、消化試合の人生のうちなる残り火としては、まだこんなことに辛うじて関心があります。

    ▽他人の思想としては、

    ◆カントの『純粋理性批判』
    ・pipitさんの「純粋理性批判を読んでみる」トピにてお勉強中♪
    ・カントの「行為論」?
    ・内包的論理と外延的論理


    (;゚Д゚)(゚Д゚; ) カント沼


    ◆ウィトゲンシュタインの哲学の初期から中期にかけて
    ・『論理哲学論考』とそれ以降
    ・『哲学探究』は今のところあまり興味ないっス(´・ω・`)

    ▽テーマとしては、

    ◆独我論
    ・以下は『岩波哲学・思想事典』のp.1176、永井均の解説(一部)
    ・ラテン語のsolus(〜だけ)とipse(自己)を合成してできた語で、<自己だけ>を重視する立場一般を指し、倫理的な自己中心主義、利己主義を意味する場合もあるが、狭義では<自己だけ>が<存在する>とする立場を指す。

    ◆死生学
    ・Kuebler-RossとCicely Saunders



    ▽番外

    ◆「(道徳的な)怒り」について
    ・アンガーマネジメント自体も考察対象
    ・"moral outrage"(義憤)ってなに?(´-`).。oO
    https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2018/pdf/no10_06.pdf

    ◆「意志の自由」について
    ・「意志の自由」というテーマの出自からおさらい(;´・ω・)
    ・『岩波哲学・思想事典』の@「意志」p.66〜67、A「自由」p.705〜p.708、B「自由意志」p.708〜p.709をおさえておきたい。

    *******

    更新

    No.28264,29993,31237
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