TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No30003 の記事


■30003 / )  Re[17]: 世界にいるたくさんの人の中に
□投稿者/ うましか -(2023/03/19(Sun) 10:01:18)
    2023/03/19(Sun) 20:17:23 編集(投稿者)

    パニチェさん、おはようございます(・∀・)

    レスありがとうございます!

    No.29997(パニチェさん)

    *******

    >>[世界にいるたくさんの人の中での、私であるという]「例外的なあり方」とは事実そうであることなのか。それとも「例外的なあり方」をしているように(私に)おもわれるということなのか? 〔うましか〕

    >事実そうであるということです。加えて言うならば、これ以上の事実や、例外的、つまり唯一無二な存在様相はありません。〔パニチェさん〕

    なるほど、「事実そうである」、と。(;´・ω・)
    ということは、パニチェさんのいう「事実」とは、客観的な、というよりは当事者にとっての事実ということなのかな?私は、「事実」という言葉を前者(客観的な事実)の意味あいで使いました。後者(当事者にとっての事実)であるならば、「私にはそうおもわれる」ということではないでしょうか?もちろん、「例外的なあり方」が、当事者にとっての事実であるとともに客観的な事実でもあるとも考えられますが(´-`).。oO

    ところで「例外(者)」とはどのように理解すればよいのでしょうか?付け焼刃ですが、哲学の文脈でいえば「例外者」(或いは「単独者」)とはキルケゴールに由来する概念のようです。岩波哲学・思想事典p.1048の「単独者」の柏原啓一の説明には、次のようにあります。

    >大衆や一般者に対立する用語で、自由な実存として生きる本来的な人間の在り方を表現したもの。

    >すべてを包摂する一般者の客観的なあり方を越えて、個々の現実を生きる自由な主体的な実存に人間の真実のあり方を認める点で、この単独者の思想が、20世紀の実存主義の先駆ともなった。<

    さしあたり、キルケゴールの「例外者」(単独者)を、永井から発せられた問いを考えるうえでの資料の一つとしたいとおもいます(的外れかもしれませんが(;´・ω・))

    *******

    >以下、例外的なことを思い浮かぶままにカキコしてみます(おそらく抜け落ちており、これ以外にもあると思います)

    1.世界にある無数とも言えるほどの自我意識の中で「私が他の誰でもなく〈私〉であるということ」が例外的です。
    2.〈私〉は〈私〉が認識する世界内には存在しません、〈私〉だけが世界内に存在せず、世界が開闢する特異点(接点)に実在しているということ。
    3.他者から絶対に知られることのない私秘性を有すること。
    4.〈私〉以外の存在は存在であって実在ではない。〈私〉のみが実在と断言しうる存在(実在)であるということ。
    5.すべてを疑っても(エポケー〔判断を留保〕しても)疑えない唯一無二の対象であること。
    6.この事実が当たり前すぎて日常的には頽落している(例外的なことが際立たない)こと。
    7.言語の特徴(一般化や同一化)により言語化不可能であること。< 〔パニチェさん〕


    ありがとうございます! (*‘∀‘) 考える上でとても参考になります。
    以下に感想めいた覚え書きを。なお、1と3〜6については判断を保留?しまーす(;´・ω・)

    *******

    >2.〈私〉は〈私〉が認識する世界内には存在しません、〈私〉だけが世界内に存在せず、世界が開闢する特異点(接点)に実在しているということ。

    これはマッハとかウィトゲンシュタインを念頭に置かれての言葉なのかなー(;´・ω・)
    私の日常的かつ素朴な観点からすれば、私は自分のことを自分の認識する世界内(環世界)で捉えているとおもっています。というのも、自分についてであれ、何についてであれ、何かについて考える際に世界と切り離して捉えることはできるのでしょうか?例えばウィトゲンシュタインは「主体は世界に属さない」という言明を『論考』(5.632)作成時に選びましたが、そこに積極的な意義を見いだしてよいものか悩みます( ノД`)シクシク… もちろんそれでもよいのですが、そうすると、私としては「認識論」というより、本来この言葉が記された日記草稿(1916年)にあるような、ウィトゲンシュタインの(おそらくはショーペンハウアー由来の)実存的(倫理的)、或いはどこか神秘的な思考の傾向の一側面として、それを受け入れねばならないなー、と(;´Д`A ``` 

    >世界は私に与えられて≠「る。即ち私の意志は完成したものとしての世界に、全く外側から近づくのである。(私の意志が何であるのかを、私は今なお知らない。)<

    >二つの神的なもの、即ち世界と、私の独立した自我が、存在する。<

    〔1916年7月8日の日記より、全集1, p.256〜p.257より引用〕


    >7.言語の特徴(一般化や同一化)により言語化不可能であること。

    「言語化不可能」というよりは、語〈私〉に対応する認識可能な対象が存在するという前提のもとでの言語表現では、求めるものをさしあたり〈私〉と言語化(表記)したところで、それが意味する(指示する)ところを知ることができないということなのかな?とおもいます。

    いっぽう、例えば、私がなにやら楽しそうにハミングしている人に遭遇した場合、その理由について私にある程度の推測は許されるけれども、その人自身については依然覆い隠されている。このとき私が直面したのは、その人特有の〈私〉である、、、と言ってみたい気がします、あくまでも私の場合ですが。

    *******

    なんだか雑然としたまとまりのない思考ですみません(´;ω;`)ウッ…
    でも、パニチェさんのレスのおかげで、久々に色々考えました!
    ありがとうございます、感謝ですm(__)m

返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -