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■2807 / inTopicNo.73)  Re[6]: 意識
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/05/05(Tue) 15:25:11)
    @目覚めている時の、精神と物質が対峙する活動の状態

    A夢の伴う睡眠の状態

    B夢をまったくみない完全熟睡状態


    現代の普通の人にとって、リアリティがあるのは@だけでしょう。A以下はお休みの状態であって、@の活動の残滓として夢という現象があるという程度。最優先は@以外ありえない。リアリティ度100は@だけ。


    ラマナマハルシ的なアドヴァイタはこれを完全に逆転させます。

    上記@ABはすべて、リアリティ度100です。しかし最優先はBの「夢をまったくみない完全熟睡状態」(あくまで喩えですが)としての真我(本当の自己といっても、<私>といっても同じ)。Bからリアリティを与えられるので、@の目覚めの時の活動もリアリティをもちうる。


    ピンとこない人も多いと思いますが、これほどの「コペルニクス的転回」はまたとないですし、感動します。


引用返信/返信 削除キー/
■2798 / inTopicNo.74)  Re[5]: 意識
□投稿者/ パニチェ -(2020/05/04(Mon) 17:26:14)
    こんにちは、レスありがとうございます。

    No2794に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>全体性が全体性を意識するというのが、パニチェはあまりイメージできません。眼で眼が見れないように、自己で自己は見れない。見るものと見られるもの(能観・所観)が分離しない状態(一如)が空なのかな、と想像しています。
    > ラマナが真の自己を説明する喩えに、「夢一つまったく見ない完全な熟睡状態」があります。私見ではこれが、全体性が全体性を意識する空です。世界は常に完全な熟睡状態にある、と同時にダイナミックに複雑系として活動してもいる。後者は色でしょう。色はそれ自身の力でそれ自体としてリアリティをもつのではなく、完全な熟睡状態である空からすべてリアリティを与えられる。そういう解釈ですね。

    睡眠に例えるくだりは今読書中の「ラマナ・マハルシの教え」にもあるのですが、正直全く理解できておりません。
    眠りとケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカパ・サマーディが比較されているのですがよく分かりません。

    熟睡状態では自意識は喪失し、それはまるで死と区別がつかないし、目が覚めている状態でどんな苦に悩まされていたとしても、熟睡状態には苦を感じる自我が無いから苦もないということは以前から考えていたことですが…。

    ヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカパ・サマーディというのは仏教で言うところの無余依涅槃と無余依涅槃みたいなものでしょうか?

    あと完全な熟睡状態が、全体性が全体性を意識する空であるというところもよく分かりません。これはもう少し言葉で説明することは可能ですか。

    >>同じことを聞いてしまうかもしれませんが、そうするとknowing itselfさんの無我の解釈は言語で語れるような自己(「私は○○だ」と表現可能な自己)は無いという意味での無我ってことになりますか?
    > その意味が当てはまることは同意です。なぜ言語的に同定できないかというと、言語機能は部分的な対象を追跡する機能だと理解していますが、部分はそもそも虚偽で非実在なので言語でいくら語っても全体である<私>と同一化できないからです。そう考えています。

    同意です。言語を獲得した暗黒面は本来は分離不可能な世界をラベリングする(個別に名を付ける)ことによって分断化しています。
    富士山もエベエストも日本海溝も地球の表面の凹凸であって、すべては地繋がりですからね。

    No2795に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 全体性が全体性を意識している。リアリティとしてはこの状態以外の意識はありえないと考えています。
    > 人間はものすごくポジティブな情動で他の人間に向かうことがあります。友人に。恋愛中の相手に。俳優やスポーツ選手に。
    > その逆で、強烈な憎悪や嫌悪を他の人間に感じる場合もある。あいつだけは絶対に許せない。安倍首相やトランプ大統領に向かう人も少ないない。
    > 正反対にあるともいえるこの二通りの状態、じつはどちらも「全体性が全体性を意識している」状態なのに、部分に幻惑されて翻弄されている点では共通していると考えます。

    「ここ全体性が全体性を意識している」という状態が理解できていないので、次回の返信に回させてもらいます。^^

引用返信/返信 削除キー/
■2795 / inTopicNo.75)  意識
□投稿者/ knowing itself -(2020/05/03(Sun) 19:45:41)
    全体性が全体性を意識している。リアリティとしてはこの状態以外の意識はありえないと考えています。

    人間はものすごくポジティブな情動で他の人間に向かうことがあります。友人に。恋愛中の相手に。俳優やスポーツ選手に。

    その逆で、強烈な憎悪や嫌悪を他の人間に感じる場合もある。あいつだけは絶対に許せない。安倍首相やトランプ大統領に向かう人も少ないない。


    正反対にあるともいえるこの二通りの状態、じつはどちらも「全体性が全体性を意識している」状態なのに、部分に幻惑されて翻弄されている点では共通していると考えます。
引用返信/返信 削除キー/
■2794 / inTopicNo.76)  Re[8]: 空の全体性と無分別
□投稿者/ knowing itself -(2020/05/03(Sun) 17:31:17)
    こんにちは。レスありがとうございます。

    >>正しいイメージだと思います。結局、科学理論においても進化して生き残るものは、色心不二を色の側から精密に近似的に表現できている仮説なのだと思います。
    >
    > 量子力学の観測問題は色と心が切り離せないところがあり、存在についても古典物理までの素朴実在論的なものから観念論的な性質が入り込んでいるみたいです。
    > 量子力学の観測問題にせよ、脳科学の意識の難問にせよ、パニチェはジャンルを超えたパラダイムによって新しい科学、あるいは学問が成立するような気がしています。

    そうですね。


    > 複雑系、例えばさまざまな要素が絡みあう天候とか、水の中に一滴のインクを垂らした場合の運動とか、空気や液体が温められて対流をつくりつつ温度が均一になっていく様子とか、先に述べた海流と渦とか、そういう運動をイメージしています。

    カオス理論とか非線形性という考え方もありますね。全体性を捉える上で有効だと思います。

    > 全体性が全体性を意識するというのが、パニチェはあまりイメージできません。眼で眼が見れないように、自己で自己は見れない。見るものと見られるもの(能観・所観)が分離しない状態(一如)が空なのかな、と想像しています。

    ラマナが真の自己を説明する喩えに、「夢一つまったく見ない完全な熟睡状態」があります。私見ではこれが、全体性が全体性を意識する空です。世界は常に完全な熟睡状態にある、と同時にダイナミックに複雑系として活動してもいる。後者は色でしょう。色はそれ自身の力でそれ自体としてリアリティをもつのではなく、完全な熟睡状態である空からすべてリアリティを与えられる。そういう解釈ですね。

    > 同じことを聞いてしまうかもしれませんが、そうするとknowing itselfさんの無我の解釈は言語で語れるような自己(「私は○○だ」と表現可能な自己)は無いという意味での無我ってことになりますか?

    その意味が当てはまることは同意です。なぜ言語的に同定できないかというと、言語機能は部分的な対象を追跡する機能だと理解していますが、部分はそもそも虚偽で非実在なので言語でいくら語っても全体である<私>と同一化できないからです。そう考えています。


引用返信/返信 削除キー/
■2790 / inTopicNo.77)  Re[7]: 空の全体性と無分別
□投稿者/ パニチェ -(2020/05/02(Sat) 18:55:39)
    2020/05/02(Sat) 19:14:31 編集(投稿者)

    こんにちは、レスありがとうございます。

    No2783に返信(knowing itselfさんの記事)
    > ラマナは「自己そのものが神である」と回答しています。彼にとって唯一実在するのは自己であって、それより至高な存在はそもそもありませんね。自己として顕現するものはすべて(世界や宇宙と呼ぶこともあります)これ以上ない至高の存在ということであり、それを神といい、神性を認めるのだと思います。仏性であっても同じでしょう。knowing itself は<私>をラマナのいう自己と同じだと考えているので、ラマナの回答に同意できる。そういう意味です。

    なるほど、理屈としては分かりましたが、正直言って神性につては現段階ではピンと来てないってところです。
    まだまだ探究不足なのかもしれません。^^

    > 正しいイメージだと思います。結局、科学理論においても進化して生き残るものは、色心不二を色の側から精密に近似的に表現できている仮説なのだと思います。

    量子力学の観測問題は色と心が切り離せないところがあり、存在についても古典物理までの素朴実在論的なものから観念論的な性質が入り込んでいるみたいです。
    量子力学の観測問題にせよ、脳科学の意識の難問にせよ、パニチェはジャンルを超えたパラダイムによって新しい科学、あるいは学問が成立するような気がしています。

    > いわれている内容はその通りだと思いますが、knowing itself の言語感覚としては、「全体」と「運動」を結びつけることに若干抵抗があるわけです。運動というのは部分を追跡できるとき初めて浮かび上がるのであり、全体性が全体性を意識している空の状態では、運動という概念は不必要ではないかと思います。瑣末な語法の問題であって、内容的には同意です。

    複雑系、例えばさまざまな要素が絡みあう天候とか、水の中に一滴のインクを垂らした場合の運動とか、空気や液体が温められて対流をつくりつつ温度が均一になっていく様子とか、先に述べた海流と渦とか、そういう運動をイメージしています。

    全体性が全体性を意識するというのが、パニチェはあまりイメージできません。眼で眼が見れないように、自己で自己は見れない。見るものと見られるもの(能観・所観)が分離しない状態(一如)が空なのかな、と想像しています。

    > >>上記の意味において、空は全体性そのものです。世界と呼ぶにせよ、宇宙と呼ぶにせよ、全体性の内に立ち現れます。部分としては虚構なので、突き詰めれば、世界や宇宙と空は全体としては同一です。
    >>その世界に〈私〉性を認めるなら、同意です。
    > そうですね。

    同じことを聞いてしまうかもしれませんが、そうするとknowing itselfさんの無我の解釈は言語で語れるような自己(「私は○○だ」と表現可能な自己)は無いという意味での無我ってことになりますか?

引用返信/返信 削除キー/
■2783 / inTopicNo.78)  Re[6]: 空の全体性と無分別
□投稿者/ knowing itself -(2020/05/01(Fri) 08:52:04)
    おはようございます。レスありがとうございます。

    >>上記引用では、神も自己の内に現れるとされています。世界の場合とその理屈は同じでしょう。なので、現れとしての神と自己は同じものです。
    >>ラマナの捉えているような意味での神性なら、knowing itself は世界に神性を認めます。
    >
    > ここちょっと疑問なんですが、何故〈私〉に神性(仏性も含めて)が出てくるのか不思議です。
    > これはやはり至高体験のようなところからでしょうか?


    ラマナは「自己そのものが神である」と回答しています。彼にとって唯一実在するのは自己であって、それより至高な存在はそもそもありませんね。自己として顕現するものはすべて(世界や宇宙と呼ぶこともあります)これ以上ない至高の存在ということであり、それを神といい、神性を認めるのだと思います。仏性であっても同じでしょう。knowing itself は<私>をラマナのいう自己と同じだと考えているので、ラマナの回答に同意できる。そういう意味です。


    >>空とは全体性が全体性を意識している状態だと考えています。全体運動と呼ぶのもこの意味で使うのなら同意します。knowing itself にとってそれは真の自己であり、<私>でもあります。
    >
    > パニチェのイメージする全体運動とは世界は全てが繋がっており(相依性)単体で独立分離しているものなどない。これは量子力学ではヒッグス場とか非局所的長距離相関、観測問題でしょうし、相対論では時空の不二、ニュートン力学では作用と反作用などが示している世界観ではないか、生物学的にも新陳代謝とか散逸構造(自己組織化)、脳や身体性が反応する刺激やそれによって生じる意識(志向性)などなどが示唆している、と考えています。

    正しいイメージだと思います。結局、科学理論においても進化して生き残るものは、色心不二を色の側から精密に近似的に表現できている仮説なのだと思います。



    > 世界は静止しているのではなく、全てが連関しながら全体として絶え間なく運動している。そこにあるのは個別の運動ではなく唯一無二の全体運動である、というようなイメージで、かつこれが〈私〉に包括されているとイメージです。

    いわれている内容はその通りだと思いますが、knowing itself の言語感覚としては、「全体」と「運動」を結びつけることに若干抵抗があるわけです。運動というのは部分を追跡できるとき初めて浮かび上がるのであり、全体性が全体性を意識している空の状態では、運動という概念は不必要ではないかと思います。瑣末な語法の問題であって、内容的には同意です。

    >>上記の意味において、空は全体性そのものです。世界と呼ぶにせよ、宇宙と呼ぶにせよ、全体性の内に立ち現れます。部分としては虚構なので、突き詰めれば、世界や宇宙と空は全体としては同一です。
    >
    > その世界に〈私〉性を認めるなら、同意です。

    そうですね。
引用返信/返信 削除キー/
■2776 / inTopicNo.79)  Re[3]: 〈私〉と多世界解釈について
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/30(Thu) 09:35:27)
    2020/04/30(Thu) 15:10:09 編集(投稿者)

    おはようございます。エフニさん。
    レスありがとうございます。^^

    No2774に返信(エフニさんの記事)
    > パニさんがおっしゃる通り、多世界解釈はゴリゴリの唯物論で、そもそも心を認めていませんでした。
    > したがって当然「わたし」も認めていません。
    > 私の哲学的スタンスとは別物でした。
    > ☆永井が著書で、「私はたまたま永井均であるが、永井均が「わたし」である必然性はない。ある時、永井均から「わたし」が消えても、変わらず永井均は存在し、生活を続けるだろう。」と書いてあるのを読んで、「わたし」のいなくなった自分って、別の、他世界の自分なんだろうなぁ、とイメージして多世界解釈と結び付けてしまいました。
    > やはり、モナドのみでイメージすれば良かったですね。

    いえいえ、いろんな可能性を想定して考えてみるのは有意義だと思います。

    永井均氏が上記の文章で述べている「永井均」というのは文脈からして他者から確認できたり、理解可能であるところの「私は〇〇だ」で表現できる「永井均」という個人という意味で、「わたし」は〈私〉、つまり独在的な唯一無二かつ言語化不可能な存在のことだと思います。

    多世界解釈もそうですが、よくタイムトリップを取り込んだSF映画に出てくる過去に戻って自分に会うというシーンも〈私〉無き、唯物論的な発想だと思います。

    自分に瓜二つの他人のような多世界の自分や過去の自分は他者と同じで〈私〉ではない。何故、〈私〉が今ここにいるにもかかわらず、同時に他に存在することができようか、よって多世界もタイムスリップもありえないという理屈です。^^

    PS.差し支えなければフローラさんの掲示板教えてもらえますか。

引用返信/返信 削除キー/
■2775 / inTopicNo.80)  Re[5]: 空の全体性と無分別
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/30(Thu) 09:19:11)
    おはようございます。レスありがとうございます。

    No2771に返信(knowing itselfさんの記事)
    > まず、「自己の内に現れるのが世界だ」というここでのラマナの発言に同意しています。で、その世界は自己とは別にあるのではなく、自己が世界として顕現しているのであって、この意味において世界=自己です。厳密にいえば、自己が世界に先行していますが、現れとしての世界と自己は同じものです。

    同意します。

    >>かつ、(クリシュナとかシヴァとか)どう呼ぶかはともかく、その自己の本性である世界に神性を認めますか?
    > 上記引用では、神も自己の内に現れるとされています。世界の場合とその理屈は同じでしょう。なので、現れとしての神と自己は同じものです。
    > ラマナの捉えているような意味での神性なら、knowing itself は世界に神性を認めます。

    ここちょっと疑問なんですが、何故〈私〉に神性(仏性も含めて)が出てくるのか不思議です。
    これはやはり至高体験のようなところからでしょうか?

    No2772に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 空の全体性と無分別についてですが、分別と無分別が問題になるのは色においてだけだと考えています。
    > 空は全体性それ自体なのだから、空の側から分別することは本性上ないのではないか。

    なるほど、それはそうですね。同意します。

    > 空とは全体性が全体性を意識している状態だと考えています。全体運動と呼ぶのもこの意味で使うのなら同意します。knowing itself にとってそれは真の自己であり、<私>でもあります。

    パニチェのイメージする全体運動とは世界は全てが繋がっており(相依性)単体で独立分離しているものなどない。これは量子力学ではヒッグス場とか非局所的長距離相関、観測問題でしょうし、相対論では時空の不二、ニュートン力学では作用と反作用などが示している世界観ではないか、生物学的にも新陳代謝とか散逸構造(自己組織化)、脳や身体性が反応する刺激やそれによって生じる意識(志向性)などなどが示唆している、と考えています。
    世界は静止しているのではなく、全てが連関しながら全体として絶え間なく運動している。そこにあるのは個別の運動ではなく唯一無二の全体運動である、というようなイメージで、かつこれが〈私〉に包括されているとイメージです。

    > 上記の意味において、空は全体性そのものです。世界と呼ぶにせよ、宇宙と呼ぶにせよ、全体性の内に立ち現れます。部分としては虚構なので、突き詰めれば、世界や宇宙と空は全体としては同一です。

    その世界に〈私〉性を認めるなら、同意です。

引用返信/返信 削除キー/
■2774 / inTopicNo.81)  Re[2]: 〈私〉と多世界解釈について
□投稿者/ エフニ -(2020/04/30(Thu) 08:49:12)
    パニさん、おはようございますぅ。

    パニさんがおっしゃる通り、多世界解釈はゴリゴリの唯物論で、そもそも心を認めていませんでした。

    したがって当然「わたし」も認めていません。

    私の哲学的スタンスとは別物でした。

    ☆永井が著書で、「私はたまたま永井均であるが、永井均が「わたし」である必然性はない。ある時、永井均から「わたし」が消えても、変わらず永井均は存在し、生活を続けるだろう。」と書いてあるのを読んで、「わたし」のいなくなった自分って、別の、他世界の自分なんだろうなぁ、とイメージして多世界解釈と結び付けてしまいました。

    やはり、モナドのみでイメージすれば良かったですね。
引用返信/返信 削除キー/
■2772 / inTopicNo.82)  空の全体性と無分別
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/29(Wed) 10:57:39)
    空の全体性と無分別についてですが、分別と無分別が問題になるのは色においてだけだと考えています。

    空は全体性それ自体なのだから、空の側から分別することは本性上ないのではないか。

    空とは全体性が全体性を意識している状態だと考えています。全体運動と呼ぶのもこの意味で使うのなら同意します。knowing itself にとってそれは真の自己であり、<私>でもあります。

    上記の意味において、空は全体性そのものです。世界と呼ぶにせよ、宇宙と呼ぶにせよ、全体性の内に立ち現れます。部分としては虚構なので、突き詰めれば、世界や宇宙と空は全体としては同一です。
引用返信/返信 削除キー/
■2771 / inTopicNo.83)  Re[14]: 色即是空と〈私〉について
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/29(Wed) 10:39:20)
    レスありがとうございます。

    No2770に返信(パニチェさんの記事)

    > 「ラマナ・マハルシの教え」を引用すれば以下の部分は納得できます。
    >
    > ******* 以下、「ラマナ・マハルシの教え」より引用 *******
    > P.20 私は誰か
    > 2 私がこれらのもの(前の回答にある五感や五つの器官や五つの生気)でないなら。私は誰でしょうか?
    > (回答)今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定し去った後に、ただひとつ残る自覚、それが私である。
    >
    > P.71 経験(アヌバーヴァ)
    > 6 身体およびそれに生命を与える自我は、どこででも現実に無数に見ることができます。それなのにどうして自己が唯一者と言えるのでしょうか?
    > (回答)「私は身体である」という考えが受容されるならば、自己は多様である。この考えが消えてしまった状態が自己であり、その状態にあっては他の対象物は存在しない。自己が唯一者と見なされるのはこのためである。
    > ******************** 引用終わり ********************
    >
    > ところが以下は論理の飛躍というか、暗黙(非言語的な)の跳躍(多分、「ラマナ・マハルシの教え」では体験というか体得があっての帰結とされるところ)があり、パニチェの中では繋がりません。
    >
    > ******* 以下、「ラマナ・マハルシの教え」より引用 *******
    > P.28 私は誰か
    > 16 自己の本性は何でしょうか?
    > (回答)真理の内に存在するものは自己のみである。世界や個々人の人格、そして神は、真珠母貝の銀色の輝きのように、自己の内に現れるものである。これら三つは同時に現れ同時に消えてゆく。自己は「私」という想いが絶対にないところのものである。それは「沈黙」と呼ばれている。自己そのものが世界であり、自己そのものが「私」であり、自己そのものが神である。すべてはシヴァであり、自己である。
    > ******************** 引用終わり ********************
    >
    > 上記はパニチェとknowing itselfさんでも同意できるところと同意できないところがあり、そこにも差異があるのではないかと、これまでのレス交換から考えています。


    基本的にはそうですね。同意、不同意、いずれにせよその理由にも差異があるのだと考えています。もっとも、ラマナの上記引用については前半後半とも同意しています。

    > knowing itselfさんは「自己そのものが世界である」は同意できるんですよね?

    まず、「自己の内に現れるのが世界だ」というここでのラマナの発言に同意しています。で、その世界は自己とは別にあるのではなく、自己が世界として顕現しているのであって、この意味において世界=自己です。厳密にいえば、自己が世界に先行していますが、現れとしての世界と自己は同じものです。

    > かつ、(クリシュナとかシヴァとか)どう呼ぶかはともかく、その自己の本性である世界に神性を認めますか?

    上記引用では、神も自己の内に現れるとされています。世界の場合とその理屈は同じでしょう。なので、現れとしての神と自己は同じものです。


    ラマナの捉えているような意味での神性なら、knowing itself は世界に神性を認めます。
引用返信/返信 削除キー/
■2770 / inTopicNo.84)  Re[13]: 色即是空と〈私〉について
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/29(Wed) 09:35:16)
    2020/04/29(Wed) 09:51:08 編集(投稿者)

    おはようございます。レスありがとうございます。

    No2769に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>パニチェは空と色については理屈ではこのように考えていますが、空の全体性、つまり無分別であることと、〈私〉の〈私〉性は折り合いがつきません。
    >>knowing itselfさんは色は無自性としても、全体運動の主体としての空には自性を認めますか?
    >>それとも自性、無自性の有無を超えたものと考えますか?

    > 空は少なくとも無自性ではないと考えています。実質的には自性を認めています。
    > 色と空の関係をどう理解するかという般若心経的なアプローチと<私>からの肉薄法に、どこか折り合いのつかなさを感じていることは前にも述べました。しかし前者にも否定困難な圧倒的真理性を認めざるをえません。前者と後者が別々のルートではなく、頂上で一点合流するとするなら、空と<私>は同じものに違いないだろうと。その方向での探求途上にあるのがknowing itself ということですね。発想はものすごく単純になっています。

    全くもって同じというか同意します。折り合いがついてないのはパニチェも同じで、もう少し突っ込んで言うと折り合いが付くかどうかは未定で、折り合いが付かないといけないとか、折り合いを付けるべきとも考えておりません。

    ただknowing itselfさんも言う通り、空や無我へのアプローチの結果、多くの仏弟子や高僧、求道者が同じような境地を体得していることから真理性があるんだろうな、と考えいる反面、禅者や求道者には大変失礼な話ですが「それってあくまでも脳の状態(変性意識)によるものではないか?」という疑問もあります。

    もちろん、その意識状態は野弧禅とか魔境とは区別されるものであり、その状態こそが、むしろ実相を体得する正常(あるがまま)の状態であり、日常的には左脳を中心とした脳の機能によって世界が分断化されている可能性もある、と。


    「ラマナ・マハルシの教え」を引用すれば以下の部分は納得できます。

    ******* 以下、「ラマナ・マハルシの教え」より引用 *******
    P.20 私は誰か
    2 私がこれらのもの(前の回答にある五感や五つの器官や五つの生気)でないなら。私は誰でしょうか?
    (回答)今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定し去った後に、ただひとつ残る自覚、それが私である。

    P.71 経験(アヌバーヴァ)
    6 身体およびそれに生命を与える自我は、どこででも現実に無数に見ることができます。それなのにどうして自己が唯一者と言えるのでしょうか?
    (回答)「私は身体である」という考えが受容されるならば、自己は多様である。この考えが消えてしまった状態が自己であり、その状態にあっては他の対象物は存在しない。自己が唯一者と見なされるのはこのためである。
    ******************** 引用終わり ********************

    ところが以下は論理の飛躍というか、暗黙(非言語的な)の跳躍(多分、「ラマナ・マハルシの教え」では体験というか体得があっての帰結とされるところ)があり、パニチェの中では繋がりません。

    ******* 以下、「ラマナ・マハルシの教え」より引用 *******
    P.28 私は誰か
    16 自己の本性は何でしょうか?
    (回答)真理の内に存在するものは自己のみである。世界や個々人の人格、そして神は、真珠母貝の銀色の輝きのように、自己の内に現れるものである。これら三つは同時に現れ同時に消えてゆく。自己は「私」という想いが絶対にないところのものである。それは「沈黙」と呼ばれている。自己そのものが世界であり、自己そのものが「私」であり、自己そのものが神である。すべてはシヴァであり、自己である。
    ******************** 引用終わり ********************

    上記はパニチェとknowing itselfさんでも同意できるところと同意できないところがあり、そこにも差異があるのではないかと、これまでのレス交換から考えています。
    knowing itselfさんは「自己そのものが世界である」は同意できるんですよね?
    かつ、(クリシュナとかシヴァとか)どう呼ぶかはともかく、その自己の本性である世界に神性を認めますか?

引用返信/返信 削除キー/

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