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■2840 / inTopicNo.61)  Re[7]: 〈私〉と多世界解釈について
  
□投稿者/ エフニ -(2020/05/08(Fri) 17:29:21)
    > ■No2815に返信(エフニさんの記事)
    >>ですが、今生の私の人生の過去の自分(心身含めて)も、他者と同じだとは考えたことがありませんでした。
    >>私自身の考えは、デカルトの「神の連続創造説」にインスパイアーされたもので、過去の肉体は他者と同じではあるけれども、「わたし」のクオリアは同一で、連続しているというものです。
    >
    > 「今生の私の人生の過去の自分(心身含めて)も、他者と同じ」というのが以下の私のカキコだとしたら、少し違います。
    >
    > >> 多世界解釈もそうですが、よくタイムトリップを取り込んだSF映画に出てくる過去に戻って自分に会うというシーンも〈私〉無き、唯物論的な発想だと思います。
    > >> 自分に瓜二つの他人のような多世界の自分や過去の自分は他者と同じで〈私〉ではない。何故、〈私〉が今ここにいるにもかかわらず、同時に他に存在することができようか、よって多世界もタイムスリップもありえないという理屈です。^^
    >
    > 結論から言うと『「わたし」のクオリアは同一で、連続している』とパニチェも考えています。
    > 少し、パニチェの書き方が不味かったのですが、上記は他人のような過去の〈私〉なんてありえないから、過去へのタイムトリップなんてありえないという論旨でした。
    >


    ああ、すいません、これは私が誤読していました。

    失礼致しました。ヌ
引用返信/返信 削除キー/
■2839 / inTopicNo.62)  Re[7]: 〈私〉と多世界解釈について
□投稿者/ エフニ -(2020/05/08(Fri) 16:43:48)
    No2821に返信(パニチェさんの記事)
    > こんにちは、エフニさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No2814に返信(エフニさんの記事)
    >>>過去の自分は過去と同じで<
    >>私は輪廻転生否定派で(イストラン先生ごめんなさい)、それは制作された物語の押し付けであって(これはニーチェ的な「苦難の意味」に対する、神義論・弁神論という物語のことです。)、実体としては、「わたし」のクオリアの同一性が担保されていない、否、むしろクオリアの有無でさえ不可知であることから、否定しています。
    >
    > パニチェもよく言われている意味での輪廻転生には否定的です。
    > 以前、転法祖師が言っていた輪廻転生の主体がDNAということであれば面白い発想だとは思いますが…。^^



    パニさん、こんにちは。

    レスありがとうございます。

    インドに南下したアーリア人(ギリシャに南下したアーリア人の一部を含めて)が生んだ輪廻転生思想は、マックス・ウェーバーによれば、ユダヤ教の弁神論と並ぶ、「苦難の意味」を説明する完璧な弁神論であるとされています。

    ☆それにも関わらず私が否定派なのは、地球に未だ生命が誕生していないとき、現在人間だけで70億ある魂が、何処に存在していたかを、輪廻転生では説明出来ないからです。
引用返信/返信 削除キー/
■2838 / inTopicNo.63)  Re[9]: 〈私〉と涅槃
□投稿者/ knowing itself -(2020/05/08(Fri) 16:32:25)
    こんにちは。レスありがとうございます。

    > 例えば目覚めた後なら〈私〉が「夢をまったくみない完全熟睡状態」であったことを過去形として知る。それは〈私〉以外の他の誰でもない。夢の伴う睡眠状態は夢を見ている主体は〈私〉であり、それが〈私〉の夢と分かるのは(明晰夢でないかぎり)目覚めた後となる。
    >
    > そういう意味での〈私〉性であれば理屈としては分かります。見性体験も三昧の真っ只中では「夢をまったくみない完全熟睡状態」と同じく、〈私〉が三昧にあるということすら気付く余地はなく、日常的な意識状態になった後に三昧であったことを知るのだと想像しています。

    knowing itself の理解・解釈しているラマナ的な世界観によると、日常的な意識状態とは別に「夢をまったくみない完全熟睡状態」があるのではなく、人間は現在進行形で常時「夢をまったくみない完全熟睡状態」であるのに、そうではない何かにフォーカスを合わせて「夢をまったくみない完全熟睡状態」ではないと思い込んでしまっている、ということだと思います。フォーカスを合わせる何かこそが<私>だと感じてしまうけれど、その何かの中味は実は「夢をまったくみない完全熟睡状態」のことで、それこそが<私>の源泉だった。


    > 涅槃に〈私〉性をみるのも、〈私〉は真我と同じであるという(ゴウさんの)見解も、パニチェにとってはある種の説得力があります。
    > ここ質問が重複するかもしれませんがknowing itselfさんが涅槃に〈私〉性を認めるのはラマナ・マハルシの教えに沿ったもの(解釈)ですか、それとも禅定による体験からですか?

    どちらもですね。ラマナマハルシの教えといっても、解釈は当然のことながら人によって異なります。knowing itself の解釈は、一般的に受容されているラマナ説からはみ出るところ、ある側面を強調しすぎるところもあるかもしれません。禅定からの体験理解も大きいですが、禅定としては浅いものだと思います。



    >><私>の独在性と無数にある多世界・多宇宙論の関係を仄めかしているのではないでしょうか。
    >
    > ここもう少し詳しく教えて下さい。
    > エフニさんにも返信したのですがパニチェは多世界は〈私〉が独在であるが故にありえない。
    > 〈私〉は今、ここにいる、〈私〉しか知らないのだから、他の世界に〈私〉がいるはずがないという理屈から多世界は否定しています。
    > 世界とともにパニチェが分裂し、他の世界にもパニチェがいるとすればそれは〈私〉ではなく、パニチェに似た他者と同じ存在となり、そんな〈私〉はありえない。
    > 〈私〉が世界とともに分裂していないことを今ここにいる〈私〉が知っているから多世界はありえないという理屈です。

    個体としてのknowing itselfとしては、今、ここにいる<私>しか知らない。個体として別の存在から<私>を知ることはできませんね。おっしゃる通りだと思います。ただ、人間個体は現時点で70億人以上いるわけです。それぞれの人間個体に即してみれば、われこそが<私>だと言い出してもおかしくない。難問ですが、knowing itself が考えるところでは、<私>は一個だけれど、人間個体と接触する接触の在り方には70億通りあるとなります。
引用返信/返信 削除キー/
■2833 / inTopicNo.64)  Re[8]: 〈私〉と涅槃
□投稿者/ パニチェ -(2020/05/08(Fri) 08:04:05)
    おはようございます。レスありがとうございます。

    No2827に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 大変な難問ですね。真っ白なキャンバス、あるいは無色透明があって、そこにクォリアや感情が塗り込まれる。塗り込まれた絵の具が<私>の本体ではなくて、真っ白なキャンバスこそが<私>であると考えます。絵の具がキャンバスに接触するとき、クォリアや感情の所有者である個体が<私>性を生々しく経験しますが、<私>は100パーセント真っ白なキャンバスに由来する。個体の側の条件は機縁、触媒です。

    例えば目覚めた後なら〈私〉が「夢をまったくみない完全熟睡状態」であったことを過去形として知る。それは〈私〉以外の他の誰でもない。夢の伴う睡眠状態は夢を見ている主体は〈私〉であり、それが〈私〉の夢と分かるのは(明晰夢でないかぎり)目覚めた後となる。

    そういう意味での〈私〉性であれば理屈としては分かります。見性体験も三昧の真っ只中では「夢をまったくみない完全熟睡状態」と同じく、〈私〉が三昧にあるということすら気付く余地はなく、日常的な意識状態になった後に三昧であったことを知るのだと想像しています。

    No2828に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 涅槃に<私>性をみるのは何とも奇妙な発想かもしれない。
    > しかしこうみないと仏教は、ある種の欧米的な知識人が評するように、存在欲の徹底放棄、極論すれば滅亡、自殺の奨励と本質的に違わなくなってしまうと思う。
    > 涅槃こそが究極のリアリティ。

    涅槃に〈私〉性をみるのも、〈私〉は真我と同じであるという(ゴウさんの)見解も、パニチェにとってはある種の説得力があります。
    ここ質問が重複するかもしれませんがknowing itselfさんが涅槃に〈私〉性を認めるのはラマナ・マハルシの教えに沿ったもの(解釈)ですか、それとも禅定による体験からですか?
    あと少し遡りますが以下。

    > <私>の独在性と無数にある多世界・多宇宙論の関係を仄めかしているのではないでしょうか。

    ここもう少し詳しく教えて下さい。
    エフニさんにも返信したのですがパニチェは多世界は〈私〉が独在であるが故にありえない。
    〈私〉は今、ここにいる、〈私〉しか知らないのだから、他の世界に〈私〉がいるはずがないという理屈から多世界は否定しています。
    世界とともにパニチェが分裂し、他の世界にもパニチェがいるとすればそれは〈私〉ではなく、パニチェに似た他者と同じ存在となり、そんな〈私〉はありえない。
    〈私〉が世界とともに分裂していないことを今ここにいる〈私〉が知っているから多世界はありえないという理屈です。

引用返信/返信 削除キー/
■2828 / inTopicNo.65)  Re[7]: 〈私〉と涅槃
□投稿者/ knowing itself -(2020/05/07(Thu) 20:15:22)
    涅槃に<私>性をみるのは何とも奇妙な発想かもしれない。

    しかしこうみないと仏教は、ある種の欧米的な知識人が評するように、存在欲の徹底放棄、極論すれば滅亡、自殺の奨励と本質的に違わなくなってしまうと思う。


    涅槃こそが究極のリアリティ。
引用返信/返信 削除キー/
■2827 / inTopicNo.66)  Re[9]: 意識
□投稿者/ knowing itself -(2020/05/07(Thu) 19:29:42)
    こんばんは。レスありがとうございます。

    No2818に返信(パニチェさんの記事)

    >>@目覚めている時の、精神と物質が対峙する活動の状態
    >>A夢の伴う睡眠の状態
    >>B夢をまったくみない完全熟睡状態
    >
    >>現代の普通の人にとって、リアリティがあるのは@だけでしょう。A以下はお休みの状態であって、@の活動の残滓として夢という現象があるという程度。最優先は@以外ありえない。リアリティ度100は@だけ。
    >>ラマナマハルシ的なアドヴァイタはこれを完全に逆転させます。
    >>上記@ABはすべて、リアリティ度100です。しかし最優先はBの「夢をまったくみない完全熟睡状態」(あくまで喩えですが)としての真我(本当の自己といっても、<私>といっても同じ)。Bからリアリティを与えられるので、@の目覚めの時の活動もリアリティをもちうる。
    >
    >>ピンとこない人も多いと思いますが、これほどの「コペルニクス的転回」はまたとないですし、感動します。
    >
    > これちょっと画期的です。目から鱗が落ちるところではありますが…。
    > そうすると「夢をまったくみない完全熟睡状態」が真我として、その場合の〈私〉性というのは認めることができますか?
    > 完全熟睡状態は例えていうなら真っ白なキャンパス、あるいは無色透明ですから、〈私〉性も消失しているように思えるのですが…。(A)

    大変な難問ですね。真っ白なキャンバス、あるいは無色透明があって、そこにクォリアや感情が塗り込まれる。塗り込まれた絵の具が<私>の本体ではなくて、真っ白なキャンバスこそが<私>であると考えます。絵の具がキャンバスに接触するとき、クォリアや感情の所有者である個体が<私>性を生々しく経験しますが、<私>は100パーセント真っ白なキャンバスに由来する。個体の側の条件は機縁、触媒です。
引用返信/返信 削除キー/
■2821 / inTopicNo.67)  Re[6]: 〈私〉と多世界解釈について
□投稿者/ パニチェ -(2020/05/06(Wed) 12:07:48)
    こんにちは、エフニさん。レスありがとうございます。

    No2814に返信(エフニさんの記事)
    > >過去の自分は過去と同じで<
    > 私は輪廻転生否定派で(イストラン先生ごめんなさい)、それは制作された物語の押し付けであって(これはニーチェ的な「苦難の意味」に対する、神義論・弁神論という物語のことです。)、実体としては、「わたし」のクオリアの同一性が担保されていない、否、むしろクオリアの有無でさえ不可知であることから、否定しています。

    パニチェもよく言われている意味での輪廻転生には否定的です。
    以前、転法祖師が言っていた輪廻転生の主体がDNAということであれば面白い発想だとは思いますが…。^^

    No2815に返信(エフニさんの記事)
    > ですが、今生の私の人生の過去の自分(心身含めて)も、他者と同じだとは考えたことがありませんでした。
    > 私自身の考えは、デカルトの「神の連続創造説」にインスパイアーされたもので、過去の肉体は他者と同じではあるけれども、「わたし」のクオリアは同一で、連続しているというものです。

    「今生の私の人生の過去の自分(心身含めて)も、他者と同じ」というのが以下の私のカキコだとしたら、少し違います。

    >> 多世界解釈もそうですが、よくタイムトリップを取り込んだSF映画に出てくる過去に戻って自分に会うというシーンも〈私〉無き、唯物論的な発想だと思います。
    >> 自分に瓜二つの他人のような多世界の自分や過去の自分は他者と同じで〈私〉ではない。何故、〈私〉が今ここにいるにもかかわらず、同時に他に存在することができようか、よって多世界もタイムスリップもありえないという理屈です。^^

    結論から言うと『「わたし」のクオリアは同一で、連続している』とパニチェも考えています。
    少し、パニチェの書き方が不味かったのですが、上記は他人のような過去の〈私〉なんてありえないから、過去へのタイムトリップなんてありえないという論旨でした。

引用返信/返信 削除キー/
■2818 / inTopicNo.68)  Re[8]: 意識
□投稿者/ パニチェ -(2020/05/06(Wed) 11:29:43)
    こんにちは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No2807に返信(knowing itselfさんの記事)
    > @目覚めている時の、精神と物質が対峙する活動の状態
    > A夢の伴う睡眠の状態
    > B夢をまったくみない完全熟睡状態

    > 現代の普通の人にとって、リアリティがあるのは@だけでしょう。A以下はお休みの状態であって、@の活動の残滓として夢という現象があるという程度。最優先は@以外ありえない。リアリティ度100は@だけ。
    > ラマナマハルシ的なアドヴァイタはこれを完全に逆転させます。
    > 上記@ABはすべて、リアリティ度100です。しかし最優先はBの「夢をまったくみない完全熟睡状態」(あくまで喩えですが)としての真我(本当の自己といっても、<私>といっても同じ)。Bからリアリティを与えられるので、@の目覚めの時の活動もリアリティをもちうる。

    > ピンとこない人も多いと思いますが、これほどの「コペルニクス的転回」はまたとないですし、感動します。

    これちょっと画期的です。目から鱗が落ちるところではありますが…。
    そうすると「夢をまったくみない完全熟睡状態」が真我として、その場合の〈私〉性というのは認めることができますか?
    完全熟睡状態は例えていうなら真っ白なキャンパス、あるいは無色透明ですから、〈私〉性も消失しているように思えるのですが…。(A)

    No2809に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 夢をまったくみない熟睡状態という喩えを出しましたが、夢をみる睡眠を貶めて、夢をすべて消去しろと言っているわけではありません。夢をみる睡眠の本体は夢をまったくみない熟睡状態であって、後者のバリエーションとしての夢をみる睡眠があるということです。現代なら、70億人以上の人間がそれぞれ個性的な夢を体験し、70億の夢はすべて等価値ともいえる。すべてリアリティ度100です。リアリティ度100の「夢をまったくみない熟睡状態」が形を変えているだけですから。
    > <私>の独在性と無数にある多世界・多宇宙論の関係を仄めかしているのではないでしょうか。

    上記の例えはよく分かりますが、(A)の疑問は残ります。

    No2808に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 眠りは、身体や精神との同一化が切れていることの喩えだと思います。身体や精神が不活性状態になってもなお現前するのが本当の自己ということでしょう。
    > 二ルヴィカルパサマーディは、喩えていうと、夢をみない熟睡状態に入った状態で、サハジャサマーディは、夢をみない熟睡状態に入っていながら、同時に目覚めているときの活動を行えるという状態だと思います。
    > ラマナ的な世界観は、夢をみない熟睡状態としての真我がそのまま現象世界でエネルギッシュに活動していることになるので、現代日本人の常識からいうと荒唐無稽かもしれませんが。

    荒唐無稽どころか画期的な智慧ですね。(A)の疑問は残りますが…。^^

    >>熟睡状態では自意識は喪失し、それはまるで死と区別がつかないし、目が覚めている状態でどんな苦に悩まされていたとしても、熟睡状態には苦を感じる自我が無いから苦もないということは以前から考えていたことですが…。
    >>ヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカパ・サマーディというのは仏教で言うところの無余依涅槃と無余依涅槃みたいなものでしょうか?
    > 仏教の無余依涅槃は、夢をまったくみない熟睡状態(ラマナの喩えとしての)に相当し、有余依涅槃は、生理現象を自覚しながらの睡眠状態になるかと思います。二ルヴィカルパとサハジャのサマーディの違いとは必ずしも対応しないのかなと。

    了解しました。

    >>あと完全な熟睡状態が、全体性が全体性を意識する空であるというところもよく分かりません。これはもう少し言葉で説明することは可能ですか。
    > 坐禅はちっぽけな自我がするものではなく、「坐禅が坐禅をする」という言い方がされますが、「全体性が全体性を意識する」も同じ事態を表現しているつもりです。
    > パニチェさん的には「全体運動が全体運動を意識する」、あるいは「全体運動が全体運動を全体運動する」でもいいかと思います。

    あぁ、なるほど。実体験(見性体験)はありませんが理屈としてはよく分かります。
    道元禅師が述べた以下と同じですね。
    「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(現成公案)」

引用返信/返信 削除キー/
■2815 / inTopicNo.69)  Re[5]: 〈私〉と多世界解釈について
□投稿者/ エフニ -(2020/05/06(Wed) 06:06:31)
    No2814に返信(エフニさんの記事)
    > パニさん、こんばんは。
    >
    > レスありがとうございます。
    >
    > >過去の自分は過去と同じで<
    >
    > 私は輪廻転生否定派で(イストラン先生ごめんなさい)、それは制作された物語の押し付けであって(これはニーチェ的な「苦難の意味」に対する、神義論・弁神論という物語のことです。)、実体としては、「わたし」のクオリアの同一性が担保されていない、否、むしろクオリアの有無でさえ不可知であることから、否定しています。


    ですが、今生の私の人生の過去の自分(心身含めて)も、他者と同じだとは考えたことがありませんでした。

    私自身の考えは、デカルトの「神の連続創造説」にインスパイアーされたもので、過去の肉体は他者と同じではあるけれども、「わたし」のクオリアは同一で、連続しているというものです。
引用返信/返信 削除キー/
■2814 / inTopicNo.70)  Re[4]: 〈私〉と多世界解釈について
□投稿者/ エフニ -(2020/05/06(Wed) 05:59:00)
    パニさん、こんばんは。

    レスありがとうございます。

    >過去の自分は過去と同じで<

    私は輪廻転生否定派で(イストラン先生ごめんなさい)、それは制作された物語の押し付けであって(これはニーチェ的な「苦難の意味」に対する、神義論・弁神論という物語のことです。)、実体としては、「わたし」のクオリアの同一性が担保されていない、否、むしろクオリアの有無でさえ不可知であることから、否定しています。
引用返信/返信 削除キー/
■2809 / inTopicNo.71)  Re[7]: 意識
□投稿者/ knowing itself -(2020/05/05(Tue) 15:58:05)
    夢をまったくみない熟睡状態という喩えを出しましたが、夢をみる睡眠を貶めて、夢をすべて消去しろと言っているわけではありません。夢をみる睡眠の本体は夢をまったくみない熟睡状態であって、後者のバリエーションとしての夢をみる睡眠があるということです。現代なら、70億人以上の人間がそれぞれ個性的な夢を体験し、70億の夢はすべて等価値ともいえる。すべてリアリティ度100です。リアリティ度100の「夢をまったくみない熟睡状態」が形を変えているだけですから。

    <私>の独在性と無数にある多世界・多宇宙論の関係を仄めかしているのではないでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■2808 / inTopicNo.72)  Re[6]: 意識
□投稿者/ knowing itself -(2020/05/05(Tue) 15:47:34)
    No2798に返信(パニチェさんの記事)
    > こんにちは、レスありがとうございます。
    >

    こんにちは。レスありがとうございます。

    > 眠りとケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカパ・サマーディが比較されているのですがよく分かりません。

    眠りは、身体や精神との同一化が切れていることの喩えだと思います。身体や精神が不活性状態になってもなお現前するのが本当の自己ということでしょう。

    二ルヴィカルパサマーディは、喩えていうと、夢をみない熟睡状態に入った状態で、サハジャサマーディは、夢をみない熟睡状態に入っていながら、同時に目覚めているときの活動を行えるという状態だと思います。

    ラマナ的な世界観は、夢をみない熟睡状態としての真我がそのまま現象世界でエネルギッシュに活動していることになるので、現代日本人の常識からいうと荒唐無稽かもしれませんが。

    > 熟睡状態では自意識は喪失し、それはまるで死と区別がつかないし、目が覚めている状態でどんな苦に悩まされていたとしても、熟睡状態には苦を感じる自我が無いから苦もないということは以前から考えていたことですが…。


    > ヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカパ・サマーディというのは仏教で言うところの無余依涅槃と無余依涅槃みたいなものでしょうか?

    仏教の無余依涅槃は、夢をまったくみない熟睡状態(ラマナの喩えとしての)に相当し、有余依涅槃は、生理現象を自覚しながらの睡眠状態になるかと思います。二ルヴィカルパとサハジャのサマーディの違いとは必ずしも対応しないのかなと。


    > あと完全な熟睡状態が、全体性が全体性を意識する空であるというところもよく分かりません。これはもう少し言葉で説明することは可能ですか。

    坐禅はちっぽけな自我がするものではなく、「坐禅が坐禅をする」という言い方がされますが、「全体性が全体性を意識する」も同じ事態を表現しているつもりです。

    パニチェさん的には「全体運動が全体運動を意識する」、あるいは「全体運動が全体運動を全体運動する」でもいいかと思います。


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