| こんにちは。レスありがとうございます。
> 例えば目覚めた後なら〈私〉が「夢をまったくみない完全熟睡状態」であったことを過去形として知る。それは〈私〉以外の他の誰でもない。夢の伴う睡眠状態は夢を見ている主体は〈私〉であり、それが〈私〉の夢と分かるのは(明晰夢でないかぎり)目覚めた後となる。 > > そういう意味での〈私〉性であれば理屈としては分かります。見性体験も三昧の真っ只中では「夢をまったくみない完全熟睡状態」と同じく、〈私〉が三昧にあるということすら気付く余地はなく、日常的な意識状態になった後に三昧であったことを知るのだと想像しています。
knowing itself の理解・解釈しているラマナ的な世界観によると、日常的な意識状態とは別に「夢をまったくみない完全熟睡状態」があるのではなく、人間は現在進行形で常時「夢をまったくみない完全熟睡状態」であるのに、そうではない何かにフォーカスを合わせて「夢をまったくみない完全熟睡状態」ではないと思い込んでしまっている、ということだと思います。フォーカスを合わせる何かこそが<私>だと感じてしまうけれど、その何かの中味は実は「夢をまったくみない完全熟睡状態」のことで、それこそが<私>の源泉だった。
> 涅槃に〈私〉性をみるのも、〈私〉は真我と同じであるという(ゴウさんの)見解も、パニチェにとってはある種の説得力があります。 > ここ質問が重複するかもしれませんがknowing itselfさんが涅槃に〈私〉性を認めるのはラマナ・マハルシの教えに沿ったもの(解釈)ですか、それとも禅定による体験からですか?
どちらもですね。ラマナマハルシの教えといっても、解釈は当然のことながら人によって異なります。knowing itself の解釈は、一般的に受容されているラマナ説からはみ出るところ、ある側面を強調しすぎるところもあるかもしれません。禅定からの体験理解も大きいですが、禅定としては浅いものだと思います。
>><私>の独在性と無数にある多世界・多宇宙論の関係を仄めかしているのではないでしょうか。 > > ここもう少し詳しく教えて下さい。 > エフニさんにも返信したのですがパニチェは多世界は〈私〉が独在であるが故にありえない。 > 〈私〉は今、ここにいる、〈私〉しか知らないのだから、他の世界に〈私〉がいるはずがないという理屈から多世界は否定しています。 > 世界とともにパニチェが分裂し、他の世界にもパニチェがいるとすればそれは〈私〉ではなく、パニチェに似た他者と同じ存在となり、そんな〈私〉はありえない。 > 〈私〉が世界とともに分裂していないことを今ここにいる〈私〉が知っているから多世界はありえないという理屈です。
個体としてのknowing itselfとしては、今、ここにいる<私>しか知らない。個体として別の存在から<私>を知ることはできませんね。おっしゃる通りだと思います。ただ、人間個体は現時点で70億人以上いるわけです。それぞれの人間個体に即してみれば、われこそが<私>だと言い出してもおかしくない。難問ですが、knowing itself が考えるところでは、<私>は一個だけれど、人間個体と接触する接触の在り方には70億通りあるとなります。
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