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■36263 / inTopicNo.73)  Re[21]: 転法さんへ
  
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/23(Tue) 22:31:23)
    No36244に返信(転法さんの記事)
    > まあ、そんなよ〜なことでもおますね。
    > (@´Д`)ノ
    >
    > 要するに、コペルニクス的転回で「もの自体」を導出すれば、ヒューム的懐疑主義に陥ってしまうわけでおマスが、カントの場合、現状、辻褄が合っているんだからエ〜んじゃないの・・・でも、我々の思っていることって絶対じゃないよね・・・と言うような感じなのが、「批判」ではないかと思いマンねん。
    > (´-ω-`;)ゞポリポリ

    そうだとしたら時代をすごく先取りしていた感じですか? 現代的…
    純粋理性批判の文章は難解すぎてなかなか進めなくて、結論として何が言いたいかまでは自分には目星も付いてません。(´-ω-`;)ゞポリポリ

    > つーことで、よ〜わからんモンに取り立てて、合理論だ、経験論だとかユーても意味がないから、もっと現実的に身のある考え方をしようぜみたいな感じだと捉えておりマンが、ダメでッカネ?
    > ( ´・ω・`)y─┛~~

    人間の理性(思考)でできる限界の線引きと、やって意味のあることの線引きをしたのでしょうか。


    > セッソーが、徒然なるままに、カイロプラクティック哲学についての書き綴った駄文がネットにおマスが、御目汚しにみてみまっか?

    是非ぜひ、読みたいです! どこで見られますか?

    > セッソーの写真が載っているので、恥ずかしいでおマスが。
    > (/ω\) いやーん

    (/ω\) いやーん
引用返信/返信 削除キー/
■36264 / inTopicNo.74)  Re[20]: Yahoo!掲示板総括 その1
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/23(Tue) 22:52:46)
    No36221に返信(パニチェさんの記事)

    >>過去の話、ご迷惑かなと思いつつ書いていたので、パニチェさんが乗り気と分かり嬉しいです。
    >
    > 私もYahoo!掲示板を共に振り返ることがでるメンバーがいて超ラッキーです。^^

    ありがとうございます。
    ところがですね。関わった人の名簿とかを見てあらためて思うのは、私は人と会話をあまりしなかったし、しばらく投稿しては長く休むというリズムでやっていて、知り合いと言える人もわずかだったので、圧倒的に経験が少なく、総括できるような資格がないと気づきました。総括とは大げさで、自分なりに思ったこと-程度のことでした。

    >>Yahoo!掲示板総括トピができたら自分も投稿させていただければありがたいです。よろしくお願いします。(でもパニチェさんの総括専用にされたい場合は、自分はこのトピでいいです)
    >
    > 何をおっしゃるウサギさん(笑)。
    > もちろん、ウェルカムです!!

    ありがとうございます。あちらに書けそうなことがあれば書かせていただいて、自分個人に偏ったことは、このトピでとしたいと思います。


    前の投稿のUさんというのは、アーバンネットさんという人で、パニチェさんは必ず知っていると思い込んでいましたが、名簿に名前がなかったですね。接触されたことは無かったですか。

    罵倒屋のように名前を出しましたが、喧嘩になっていない時は基本勤勉な人で、社会学・哲学等の文献などをこまめに引用紹介などされていて、知識の提供に貢献された面もありました。名誉のために補足しておきます。また、喧嘩の後、仲良くなる的な切り替えも、まあまあ利く人であったと。(その後また喧嘩になったりする)
引用返信/返信 削除キー/
■36275 / inTopicNo.75)  「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/24(Wed) 17:48:19)
    2024/01/25(Thu) 19:56:48 編集(投稿者)

    話題になっていた「言語哲学がはじまる」を読みました。

    論理形式と論理空間の意味が分りやすく説明されていて収穫でした。

    以下、『 』内は「言語哲学がはじまる」からの引用
    -WS と付けた部分は「ウィトゲンシュタインセレクション」の「論理哲学論考」に関する章からの関連部分抜粋。

    対象の論理形式 : その対象が、どの可能的な事態に現れ得るか、その論理的可能性のこと。
       (2.0141 対象が諸事態のうちに現れる可能性が、すなわち対象の形式である -WS)
    語の論理形式 : その語が、どの有意味な文に現れ得るか、その論理的可能性のこと。

    (「事態」だけで「可能的」の意味が含まれるが、念のため「可能的な事態」と表現する(著者野矢茂樹)とのことです)

    。o0 「富士山は-噴火したことがある」は有意味で真
       「富士山に-小惑星が衝突した」は有意味だが(この世界では)偽。
       「富士山は - 素数である」は無意味
      各語について、有意味な文に現れ得る他の語との結びつき全体が、その語の(論理)形式。 0o。

    『有意味性の最終的な根拠は、実際の私たちの言語使用にあると言われています。』
      
    『対象の論理形式と語の論理形式は厳密に一致する。』

    事実を分解して対象を組み立てなおして事実でない事態を捉えるということはできない。
    それは、言語の側で、文から語を取り出し組み立てなおして、有意味だが偽である文を作り、対応する事態を捉える方向でのみできる。
    (と野矢茂樹は言っている(と私は読んだ))

    ******

    可能的な諸事態のうち、実現しているもの(事実)の組合せで、その世界のありようが決まる。 
     (2.04 存立する事態の総体が世界である -WS)
    それらすべての(可能な)世界の集合が「論理空間」

    この世界(w1)では「富士山に-小惑星が衝突した」は偽で、「富士山は-噴火したことがある」は真だが、
    そうではない可能世界も考えられる。(富士山が噴火した歴史が無かったり、富士山に小惑星が衝突したことがある世界)
    w2 「富士山に-小惑星が衝突した」-真 &「富士山は-噴火したことがある」-真
    w3 「富士山に-小惑星が衝突した」-偽 &「富士山は-噴火したことがある」-偽
    w4 「富士山に-小惑星が衝突した」-真 & 「富士山は-噴火したことがある」-偽

    そんな風に有意味な文に対応する諸事態の中で事実であるものの組合せが異なる世界が考えられる。
    それらの全てを要素とする集合 {w1,w2,w3,w4,…} が論理空間

    *******

    フレーゲ「語の意味は文の意味との関係でのみ決まる」(文脈原理)
    に対し、
    ウィトゲンシュタイン「語の意味は言語全体との関係でのみ決まる」(全体論的言語観)

    *****
    (ここまでの読み取りに間違いがあればご指摘ください。)

    以下トンチンカンなことを書いていたらすみません。

    okutagawa 。o0
    言語内の文を分解し組み立てなおすことで、様々な有意味な文(事実に対応するとは限らないが事態には対応する)が得られる。
    同時に、様々な可能的な事態が得られる。

    言語全体を知らなければ各語の論理形式を確定できないが、言語全体を知る人はいないだろう

    私にわかる[語の論理形式]は、私が知っている範囲の言語全体から導かれる。
    それが対象の論理形式と一致する。

    私の論理空間(可能世界の集合)の限界は、私の言語の限界と一致する。


    私の論理空間から、実現している私の世界のありようを確定するのが、私の知識だとしたら、
    私の知識の限界が、私の世界の限界となるのか。

    私の言語が拡張すれば、私の論理空間が拡張する。
    私の知識が拡張すれば、私の世界が拡張する(もしくは縮小する)。


    また、
    『有意味性の最終的な根拠は、実際の私たちの言語使用にあると言われています。』
    とどう組み合わせればいいのか。

    「私たち」という総体を束ねた視点からの、あるいは私たちに共通する論理空間はあるのか
    (全ての人の言語使用を総合して、万人共通の(少なくとも同じ社会の成員共通の)論理空間を導くような視点は存在するのか…)

    4.11 真なる命題の総体が全自然科学である。 WS-

    それは誰から、どこから見てなのか


    ☆野矢さんの「『論理哲学論考』を読む」を読むことにした。
引用返信/返信 削除キー/
■36276 / inTopicNo.76)  Re[19]: Re:「論理学」っていうの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/24(Wed) 18:46:59)
    No36260
    おくったがわさん、「論理学」について、ありがとございま〜す。
    わたしいまはメルポンの〈感性の世界〉にとりかかってるから、「論理学」(たぶん知性の世界)のことには参加できない。

    >そういう分析の仕方がメルポンの現象学にあるの?<
    についてはちょっと。
    分析っていうか、態度的なの、ちょっと書いて見る。

    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかに、
    『哲学者は永遠の初心者』とか『いつも最初からやり直す』とかある。
    あと、
    『哲学が反省や合致を自称すると同時に、自分がみいだそうとするものをすでに前提としているという批判が正しいとすれば、哲学は最初からすべてをやり直す必要がある。反省や直観が手にいれた道具を投げ捨て、まだ反省も直観も区別されていない場所に身をおくこと、「主観」と「客観」、実存と本質が混ざり合ったまま、一挙にわたしに与えられ、まだ「加工されてない」経験のうちに、これらをふたたび定義しなおせるような場に身をおく必要がある。』
    っていうのもある。

    わたし、メルポンの現象学のと、カントの超越論的のと、を見比べてもいるんだけど、
    No36210の添付されたのところ読んだとき、
    【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】の、
    本文
    『…‥「我思う」(コーギトー)が言わば対象によっておこされた〈幻覚〉であるということもありうるのである。こう言うと、あるいは、「我思う」(コーギトー)はわれわれのあらゆる表象にともない「えなくてはならない」〔22〕のであり(それはたしかのことではあるが)、……』
    の、
    訳注〔22〕
    カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけである(kritik der reinen Vernunft,B.132)。なお、これまで。メルロ=ポンティによってしばしば引用されてきたサルトルの『自我の超越』は、カントのこの言葉を手がかりとして、「我思う」があらゆる表象に「ともないえなくてはならない」のならば、実際には「ともなっていない」はずだ、として諸表象の統一的原理としての〈自我〉を排除し、その原理をむしろ〈対象〉そのものの側に求めてゆこうとするものであることは周知のことであろう。

    っていうの、たぶんわたし想い出してたのかもしれない。

    添付されたところの、
    『だから、対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものも存在するかもしれない。』
    を見て、メルポンだったら、「対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものは存在しないかもしれない、対象とアプリオリにかかわることのできるもの、概念のほかにも存在するかもしれない。」ってなるのかな?って。

    あ、これって、あのとき、たぶん、直観的に、わたしに想われたのを、言葉で表現するための後付けなのかもしれないけどね。

    いま、こういうの書いてるときに思ったんだけど、さらに、『だから』の前も気になるところね。
    カントにおいて、『対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものも存在するかもしれない。』って思われた、その理由が『だから』の前に書かれてあるのかな?ってすると〜、メルポンはそこへと遡るかもしれない。
    あと、
    中島義道さんは、
    「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)。
    って言ってるのを読んだことある。
    わたしのなかにあるカントの「超越論的」のイメージ、わたしの先入見かも、だけどね。

    あ、だからといってわたし、カントの『純理』、”否定”してるわけじゃなのよ。
    神に対して人間の「認識(物事を正しく理解し判断する)」においては、カントの言ってること、“そうなのかもしれない”、っていうのもわたしのうちにはあるから。

    メルポンの現象学のことになるとついお喋りが過ぎちゃうみたい。
    ゴメン、です。
    捨て置いて。

引用返信/返信 削除キー/
■36300 / inTopicNo.77)  Re[22]: Re:「論理学」っていうの
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/27(Sat) 14:49:27)
    2024/01/27(Sat) 16:00:44 編集(投稿者)

    No36276に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    こんにちは

    > >そういう分析の仕方がメルポンの現象学にあるの?<
    > についてはちょっと。
    > 分析っていうか、態度的なの、ちょっと書いて見る。
    >
    > 【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかに、
    > 『哲学者は永遠の初心者』とか『いつも最初からやり直す』とかある。
    > あと、
    > 『哲学が反省や合致を自称すると同時に、自分がみいだそうとするものをすでに前提としているという批判が正しいとすれば、哲学は最初からすべてをやり直す必要がある。反省や直観が手にいれた道具を投げ捨て、まだ反省も直観も区別されていない場所に身をおくこと、「主観」と「客観」、実存と本質が混ざり合ったまま、一挙にわたしに与えられ、まだ「加工されてない」経験のうちに、これらをふたたび定義しなおせるような場に身をおく必要がある。』
    > っていうのもある。

    自分が持っている前提を疑っていくというのは哲学的とされるのでしょうが、そのような態度で考えていこうとする場合でも、『自分がみいだそうとするものをすでに前提としている』というのはありそう。
    もっと前、すべての前提が成立する前のところからやり直すということかな。

    > わたし、メルポンの現象学のと、カントの超越論的のと、を見比べてもいるんだけど、
    > No36210の添付されたのところ読んだとき、
    > 【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】の、
    > 本文
    > 『…‥「我思う」(コーギトー)が言わば対象によっておこされた〈幻覚〉であるということもありうるのである。こう言うと、あるいは、「我思う」(コーギトー)はわれわれのあらゆる表象にともない「えなくてはならない」〔22〕のであり(それはたしかのことではあるが)、……』
    > の、
    > 訳注〔22〕
    > カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけである(kritik der reinen Vernunft,B.132)。なお、これまで。メルロ=ポンティによってしばしば引用されてきたサルトルの『自我の超越』は、カントのこの言葉を手がかりとして、「我思う」があらゆる表象に「ともないえなくてはならない」のならば、実際には「ともなっていない」はずだ、として諸表象の統一的原理としての〈自我〉を排除し、その原理をむしろ〈対象〉そのものの側に求めてゆこうとするものであることは周知のことであろう。
    >
    > っていうの、たぶんわたし想い出してたのかもしれない。

    「ともないえなくてはならない」というのは、後で出てくる権利問題的な言い方だと思う。
    カントは(理性的な)認識が成立するための条件へさかのぼっているのかもしれないけれど、メルロ=ポンティやサルトルは、それも覆して、諸表象の統一的原理をものの側に求めると・・・
    『「ともないえなくてはならない」のならば、実際には「ともなっていない」はずだ』というところは、今自分には分からないけれど。

    > 添付されたところの、
    > 『だから、対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものも存在するかもしれない。』
    > を見て、メルポンだったら、「対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものは存在しないかもしれない、対象とアプリオリにかかわることのできるもの、概念のほかにも存在するかもしれない。」ってなるのかな?って。
    >
    > あ、これって、あのとき、たぶん、直観的に、わたしに想われたのを、言葉で表現するための後付けなのかもしれないけどね。

    そういう風に意識できるのは素晴らしいと思いました。

    > いま、こういうの書いてるときに思ったんだけど、さらに、『だから』の前も気になるところね。
    > カントにおいて、『対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものも存在するかもしれない。』って思われた、その理由が『だから』の前に書かれてあるのかな?ってすると〜、メルポンはそこへと遡るかもしれない。

    前の部分を読んでも、何が「だから」なのか自分には分からなかった・・。一応画像添付します。「超越論的」についての説明も入っているので。

    > あと、
    > 中島義道さんは、
    > 「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)。
    > って言ってるのを読んだことある。
    > わたしのなかにあるカントの「超越論的」のイメージ、わたしの先入見かも、だけどね。
    >
    > あ、だからといってわたし、カントの『純理』、”否定”してるわけじゃなのよ。
    > 神に対して人間の「認識(物事を正しく理解し判断する)」においては、カントの言ってること、“そうなのかもしれない”、っていうのもわたしのうちにはあるから。

    そうなんか

    > メルポンの現象学のことになるとついお喋りが過ぎちゃうみたい。
    > ゴメン、です。

    参考になるし、面白いです。
    自分がカントについて
    『カントのそういう持っていき方はどうなん? と感じてはいた。』
    と書いたことにかんするヒントがあると思うし。少なくとも、権利問題の「これができるということは、こうなっているはず」というやり方に対して、他の方法を主張している哲学者がいるんだなと。


    > 捨て置いて。

    私の投稿こそ捨て置いてくれてかまいません。
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引用返信/返信 削除キー/
■36306 / inTopicNo.78)  Re[22]: Re:「論理学」っていうの
□投稿者/ pipit -(2024/01/27(Sat) 20:33:51)
    2024/01/27(Sat) 20:57:07 編集(投稿者)

    No36276
    (悪魔ちゃん)
    >いま、こういうの書いてるときに思ったんだけど、さらに、『だから』の前も気になるところね。<

    おくたがわさん、悪魔ちゃんこんばんは!
    横レス失礼します。m(_ _)m

    悪魔ちゃんの感想・考察まで行くもっと手前のことなんだけど、
    カント的『だから』は、こんな感じかな?というpipitの私見を書きます。


    @空間が純粋直観として対象全般にアプリオリに関わるゆえ、経験的直観において空間が経験的になるように、
    A思考が純粋思考として対象全般にアプリオリに関わるゆえ、経験的思考において特定の概念が経験的なものになる、という構図もあり得るかもしれない・・・
    という意味での【だから】かな、と思いました。
    @【だから】A

    当該箇所B81(中山元訳独自番号089)を解説した山口修二先生の解説文を抜粋引用します。
    『カント超越論的論理学の研究』p63より
    (山口修二先生の解説文)
    『「アプリオリに諸対象に関係する」ような概念、すなわち「純粋悟性認識」が存在することは、現時点ではいまだ「期待」にとどまっている。「対象を完全にアプリオリに思考する」ことはいかにして可能なのか。この課題に答える学として「超越論的論理学」は構想されているのである。』
    引用終了
    --------------

    山口先生の他箇所の解説で、おくたがわさんが考察されている箇所に対応してると思われる文章も見つけたので引用します。同本p61.62より引用。

    『「それなくしてはいかなる対象も思考されないような諸原理」を示すこと。「超越論的論理学」の構想の中心はここにある。
    (略)
    この思考規則は、「一般論理学」における思考の論理的形式のように、一切の思考内容の捨象によって見い出されるものではない。
    なぜなら、求められているのは、思考を思考たらしめる普遍的条件ではなく、思考が内容を持つための普遍的条件であるかぎり、それは、一切の思考内容の捨象によってではなく、むしろ、思考一般が必ず持つべき「内容」として見いだされねばならないからである。
    すなわち、「超越論的論理学」の思考規則は、それ自体「内容」を含んでいなければならない。
    この「内容」は、我々の思考が内容ある思考であるかぎり常に必ず含むべきものである以上、思考の普遍的内容である。
    そのかぎり、「超越論的論理学」の思考規則は、いかなる経験によっても見出されることのない、アプリオリな思考内容を持つものでなければならない。
    (略)
    「超越論的論理学」の規則は、我々が何か(対象)を思考するとき同時にそれを思考していなければ我々は実は何も思考していないことが判明する、そのような思考「内容」として提示されなければならない。
    思考のこのような普遍的「内容」は、明らかに経験的・感性的なものではなく、したがって、まさに「純粋悟性認識」の内容であり、「純粋思考」の「対象」である。
    (略)』
    引用終了

    山口先生は、超越論的論理学の思考規則は、経験的ではないアプリオリな思考内容を持たなくてはならない、と考えられているみたいとpipitは読みました。

引用返信/返信 削除キー/
■36307 / inTopicNo.79)  言語とは像、箱庭的装置、代理物
□投稿者/ knowingitself -(2024/01/27(Sat) 20:44:52)
    みなさん こんばんは

    野矢さんによると、もちろん彼に限らないはずですが、ウィトゲンシュタインの言語哲学において「言語」とは、
    現実にたいする代理物、箱庭的装置、像にあたる。単純にいえばそうなっていると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■36308 / inTopicNo.80)  Re[24]: 言語とは像、箱庭的装置、代理物
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/27(Sat) 21:58:39)
    No36307に返信(knowingitselfさんの記事)
    こんばんは。
    野矢さんは無限に関する本を以前読んでから敬遠していたのですが、『言語哲学がはじまる』は分かりやすく、論考の関連部分が読みやすくなったと感じるので、『論理哲学論考を読む』も購入して読むことにしました。ご紹介ありがとうございました。
    今後とも、色々なことをご教授いただけるとうれしいです。

    > みなさん こんばんは
    >
    > 野矢さんによると、もちろん彼に限らないはずですが、ウィトゲンシュタインの言語哲学において「言語」とは、
    > 現実にたいする代理物、箱庭的装置、像にあたる。単純にいえばそうなっていると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■36309 / inTopicNo.81)  『青色本を掘り崩す』
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/27(Sat) 22:06:23)
    昨年あたりから、X(ツイッター)を見るときはまず永井均さんを見ています。それだけを見ることも多い。

    **永井均さんのX(ツイート)引用**
    永井均@hitoshinagai1 2023年12月4日
    あと、『ウィトゲンシュタインの誤診ー青色本を掘り崩す』は「哲学」というものが知りたい(を学びたい)人にとっても必読。青色本のこの箇所は殆んど唯一無二だから。「哲学」の伝統を継承したのではなく、いきなり「哲学」をしてしまった人からでなければ学べない「哲学」というものがあるのさ。
    ***

    と永井さんが自賛(?)していたので『青色本を掘り崩す』を買って読んでいます。『言語哲学〜』より前に買ったが、あちらを先に読んでしまった。
    『青色本を掘り〜』は自分には難しい。けれど何故か面白い(今半分くらい)。ウィトの『青色本』自体も試し読みの範囲は面白く感じたので買った(大森訳)。(ヨドバシが30%ポイント還元セールだったので『言語哲学〜』と一緒に)

    ちょうど『青色本を掘り〜』についてパニチェさんに意見を聞きたい部分があったのですが、今パニチェさんから出ている質問と紛らわしくなるかもしれないので、また今度にします。
    (永井さんは「『純粋理性批判』を掘り崩す」を今ネット連載しているらしいので『〜掘り崩す』という省略は使えない)

    ***
    ヤフー以来ずっと週末は用事があるので投稿していなかったが、一か月ほど土日を休むことにしたので投稿できます。
    その間できるだけ本も読みたい。
引用返信/返信 削除キー/
■36312 / inTopicNo.82)  音楽
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/27(Sat) 23:38:48)
    2024/01/28(Sun) 06:57:34 編集(投稿者)

    以前ドラマで流れて、聞き覚えはあるものの曲名を知らなくて気になっていた曲を、先週のクラシックTVで扱っていた。ガブリエル・フォーレ『シシリエンヌ(シチリアーノ)』 忘れないように。

    クラシックTV清塚ピアノ
    https://www.youtube.com/watch?v=aGz8t6bopT8
    フルート
    https://www.youtube.com/watch?v=TYREhwfgSSY
    チェロ
    https://www.youtube.com/watch?v=0YEqATIaGJw

    フルートが胸に迫ると思ったが、チェロもいいな

    *********

    先週の題名のない音楽会
    サン=サーンス:『動物の謝肉祭』の「亀」が、
    他の有名な曲を下敷きにしている、それは何でしょう?
    https://www.youtube.com/watch?v=nXcpn0c7FL4

    横山由依「きらきら星」と言いながらハミングしたメロディーは『星に願いを』 大人っぽく振舞っていたが、天然ボケ健在
    武内絵美アナ「私、曲名とかは分からないんですけど、♪チャー チャチャチャチャ チャーチャーチャチャチャチャ」と『天国と地獄』のメロディーを
    正解だが、武内さんが司会になってから、この番組で演奏されてる。

    *****
    今週の題名のない音楽会
    モーツァルトが天才と言われる理由が分かる3曲、という趣向。

    私(おくたがわ)は、クラシックについての感性は無いと思って来て、その理由の一つが、モーツァルトでは短調が好きなこと。モーツァルトの長調をわかる感性がないのだと。
    ところが、
    「モーツァルトの天才性がわかりやすいのは短調です」と鈴木優人さん

    まあでも、自分はそれが分かっていたわけではなく、情に強く訴える短調の方が分かりやすいだけだと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■36314 / inTopicNo.83)  Re[26]: 『青色本を掘り崩す』
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/28(Sun) 08:01:32)
    おはようございます、おくたがわさん。横レス失礼します。

    No36309に返信(おくたがわさんの記事)
    > 昨年あたりから、X(ツイッター)を見るときはまず永井均さんを見ています。それだけを見ることも多い。

    そうなんですね。

    > **永井均さんのX(ツイート)引用**
    > 永井均@hitoshinagai1 2023年12月4日
    > あと、『ウィトゲンシュタインの誤診ー青色本を掘り崩す』は「哲学」というものが知りたい(を学びたい)人にとっても必読。青色本のこの箇所は殆んど唯一無二だから。「哲学」の伝統を継承したのではなく、いきなり「哲学」をしてしまった人からでなければ学べない「哲学」というものがあるのさ。
    > ***

    > と永井さんが自賛(?)していたので『青色本を掘り崩す』を買って読んでいます。
    >『言語哲学〜』より前に買ったが、あちらを先に読んでしまった。
    > 『青色本を掘り〜』は自分には難しい。けれど何故か面白い(今半分くらい)。ウィトの『青色本』自体も試し読みの範囲は面白く感じたので買った(大森訳)。(ヨドバシが30%ポイント還元セールだったので『言語哲学〜』と一緒に)

    へぇ〜。そんなことをツイートしてるんですね。知りませんでした、というかツイッター時代からXはほとんど見てないです。
    どうも書くのも読むのも短文ってのは苦手です。^^;
    『青色本を掘り崩す』は私も持っています。読み込んだと言えるほど精読してないですが。。。

    > ちょうど『青色本を掘り〜』についてパニチェさんに意見を聞きたい部分があったのですが、今パニチェさんから出ている質問と紛らわしくなるかもしれないので、また今度にします。

    全然、大丈夫ですよ、私でよければ何なりとどうぞ。
    むしろ永井均氏やウィトゲンシュタイン、〈私〉関連でレス交換できるのはパニチェにとってもラッキーです。
    但し、初期と違って最近の永井氏は言ってることがよく分からないこともあり、『青色本を掘り崩す』に関してもよく分からないところもあります。
    せっかく質問いただいても「私にも分かりません」という返信になることも大いにありえますが、それでもご容赦いただけるならレス下さい。


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■36318 / inTopicNo.84)  Re[25]: 言語とは像、箱庭的装置、代理物
□投稿者/ knowingitself -(2024/01/28(Sun) 14:22:23)
    おくたがわさん レスありがとうございます

    > 『言語哲学がはじまる』は分かりやすく、論考の関連部分が読みやすくなったと感じるので、『論理哲学論考を読む』も購入して読むことにしました。ご紹介ありがとうございました。

    ちくま学芸文庫版を所持していますが、面白いですよ。気づきや発見があったら、ぜひご教示をお願いします。

    あと、論理哲学論考の邦訳は岩波文庫から野矢さん訳で出ていますが、この訳注がいいですね。
    わずか数十ページながら、論理哲学論考における、ほぼすべての重要な概念の解説にもなっています。
引用返信/返信 削除キー/

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