(現在 過去ログ3 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■25246 / inTopicNo.25)  Re[13]: 思ひ出す日記
  
□投稿者/ pipit -(2022/07/30(Sat) 20:17:09)
    ちなみに、石川求先生の『カントと無限判断の世界』も、今日こそ読むぞ!と思っても、3ページくらいで寝落ち。。。

    まだ10ページ読めてないかも。。。

    いつかは読むぞ!


引用返信/返信 削除キー/
■25245 / inTopicNo.26)  思ひ出す日記
□投稿者/ pipit -(2022/07/30(Sat) 20:09:55)
    みなさまこんばんは!
    黒崎先生の入門本を最初から最後まで読み返そう、と、3回くらいチャレンジするも、毎回3ページくらいで寝落ち。。。

    あ、諦めずに、チャレンジしますが、
    とりあえず、純理の読んでたところを思い出す日記です。。。

    ↓というわけで、前回箇所
    ========================


    No24908に返信(pipitさんの記事)
    > こんじょおー(・∀・)
    >
    > ■No24875 カント原文の英訳文のpipit日訳
    > @統覚の超越論的統一によって、直観により与えられる多様が対象の概念に統合される。
    > Aそれゆえ、超越論的統一は客観的と呼ばれ、意識の主観的統一とは区別されなければならない。
    > B意識の主観的統一は、内的感覚の規定であり、内的感覚よって、統合されるように、直観における多様体は経験的に与えられる。
    >
    > ※※※※※※※※※
    >
    > (pipit私見)
    >
    > @・・・どのレベルで【対象の概念】とカントが言ってるのかわからないのですが、
    > ある一つの対象物(認識対象としての1)に、、、pipitの感覚で言えば、、、様々な情報を(変換も込みで)紐づける。
    > 個々の眼識結果、意識結果、触識結果、などを一つの対象物に集約(統一)させる。
    >
    > A・・・@の行為により、【対象物】が出来上がる。それは、行為主にとっての客観的世界を構築するための情報統一である。
    > 目の前に◯◯があり、左側に△△があり、右側に××がある。
    > この『在る』としての対象を作り上げるのが、統覚の超越論的統一なのではないかと、現時点でのpipit感想です。
    > そして何処が〈超越論的〉なのかというと、直観の多様は経験的に与えられるけど、その統一への流れ方や途中における概念の関与に、アプリオリな部分があるとする説の箇所がある為に〈超越論的〉と名付けてる。
    >
    > B・・・意識の主観的統一は、主体の感情や推測なども交えた経験的情報の認識対象への統一。
    >
    > ===========
    > ↑pipitの雑感はいい加減なものなので、
    > この箇所の御子柴善之先生の解説文を引用させていただきます。↓
    > あ!御子柴先生は、この箇所をB139としてる。pipitはB140としてました。失礼しましたm(_ _)m
    > ============
    >
    > 『カント純粋理性批判』御子柴善之先生、p209-210より引用。
    > ※冒頭は御子柴先生によるカント原文の翻訳文。その後は御子柴先生の解説文です。
    >
    > 『統覚の超越論的統一とは、それによって、ひとつの直観において与えられた一切の多様なものが客観の概念へと一つにまとめられることである。それゆえ、この超越論的統一は客観的と呼ばれて意識の主観的統一から区別されねばならない。意識の主観的統一とは内官の規定であり、この内官の規定によって、かの直観の多様なものが主観的に結合されるべく与えられるのである。(B139)
    >
    > まずは「統覚の超越論的統一」と対比される「意識の主観的統一」に目を向けましょう。カントは、経験的な場面で主観にどのように直観の多様が与えられるかは、まさに経験的な諸条件に依存するがゆえに、そこに主観が成立させる統一もまた経験的であり、偶然的に過ぎないと指摘します。たとえば、「ドッジボール」という言葉を聞いて、みなさんはなにを思い浮かべるでしょうか。ある人は、小学生時代の快活な体育の授業を表象するでしょうし、他の人は、他人の投げるボールから逃げ惑う陰惨な場面を表象するでしょう。〈ドッジボール〉という表象からなにを連想するかはひとそれぞれです。それでも、各人の主観においては、表象の一定の連関が成立してはいます。各人がそれぞれの経験的条件の下で「統一」しているのです。これが「意識の主観的統一」です。
    >  次に「統覚の超越論的統一」に目を向けましょう。まず思い出すべきは「超越論的」が「経験的」の対義語であることです。前者はア・プリオリな認識の可能性にかんして用いられる用語です。次に思い出すべきは、初版で演繹論は内官に即して展開されると注意されていたことです。(A98f.)。内官のア・プリオリな形式は時間です。この時間においてア・プリオリに直観の多様なものがそれとして分節化されます。このような直観は意識のことがらですから、それに対して、あらゆる表象に伴うことができるはずの、〈私は考える〉という根源的統覚が必然的にかかわります。そこにカントは「統覚の超越論的統一」の可能性を見ているのです。
    >  カントがここに導入した対比によって、「統覚の超越論的統一」が「意識の主観的統一」とは異なることが伝わったことでしょう。しかし、後者のイメージは明瞭なものの、それに比して前者はいまなお不分明ですし、なにより前者が「客観的」であることが十分に明らかにされたとは言えません。この課題は次節に引き継がれます。』
    > 引用終了
    >
引用返信/返信 削除キー/
■25205 / inTopicNo.27)  カオス情報☆彡
□投稿者/ pipit -(2022/07/27(Wed) 06:22:52)
    2022/07/27(Wed) 06:27:44 編集(投稿者)
    2022/07/27(Wed) 06:25:50 編集(投稿者)

    うましかさん、おはようございます( ^ω^ )

    『再認』わたしはまだ不勉強なのですが、カントの『再認』に関して思い出したことを。。。

    初版の演繹論の中に
    『概念による再認の総合について』というタイトルの箇所があるんですね。(中山元先生訳、第二巻p195)
    (A103)初版>超越論的演繹論>第二節>三

    わたしは未読同然なのですが、御子柴先生の解説文がおかしくて、印象に残っていました。
    引用しますね。

    『〈概念における再認の総合---第二節第三項〉

    (略)なお付言すれば、当該箇所では、カント自身が表題に掲げた「再認」という用語が説明されないどころか、一度も出てきません。(略)』
    (『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p167)

    コント?

引用返信/返信 削除キー/
■25203 / inTopicNo.28)  おくたがわさん、pipitさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/07/26(Tue) 22:56:18)
    2022/07/26(Tue) 23:13:56 編集(投稿者)

    こんばんはー(・∀・)

    No.25189 (おくたがわさん)

    >>"判明でない表象と判明な表象"、或いは、"感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕"の区別を「論理的なもの」としているという件です。この「論理的」とはどういうことなのか (うましか)

    >『単に認識の判明性あるいは非判明性という形式に関わることではなく』とあるように、起源と内容を問わずに形式だけで判断する という意味で書いているのではないでしょうか。

    そうですね! (・∀・)
    カントがライプニッツを評した「論理的」が、既におくたがわさんからご教示いただいている「形式(的)」の謂いであることには同意です。

    >演繹論のところで一般の論理学が内容に関わることなく形式だけを扱うこと、しかしカントが新しく提唱する「超越論的論理学」は内容も対象とするということが述べられています。超越論的論理学では、感性と悟性の違いなど、発生・由来(起源)を扱う必要があるからだとも書かれていたように思います。それからしても、今回の感性・知性(悟性)の区別で言っている「論理的」は、起源や内容に関せず判明性という形式で判断する という意味で使っているのではないかなぁ。

    なるほど… 私は恥ずかしながら未だ「超越論的論理学」に到達できておりませんので、とても参考になります。

    私がカントの「論理的」に躓いているのは、彼がライプニッツを評して言う「論理的」と、ライプニッツの論理?が、どう重なっているかということが未だ明晰判明ではないからだと言えるかもしれません(;´・ω・)

    とりあえず、こんな論文を発見、読んでみます!

    ■ 中井裕之 『ライプニッツの論理学的人間存在論 : 新しい教育関係論へ向けて』
    https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/57501

    ところで、

    pipitさん( No.25186 )の

    >ライプニッツ式☆アプリオリな分析判断 か、
    >カント式☆アプリオリな総合判断 か、
    >の問題点につながりそうな気がしてます。

    というセンスに、、、脱帽(;'∀')

    とはいえ、私の場合、ライプニッツの「アプリオリな」という部分は未だ保留です(;´・ω・)

    理由は、先の茅野論文( https://repre.org/repre/vol17/note/02/ )にもあった認識が明晰であるか曖昧であるかを識別する際の「再認(recognoscere)」が気になるからです( ノД`)シクシク…


    (/・ω・)/今宵も沼


    【追記】

    ・カント『プロレゴメナ』(篠田英雄 訳、岩波文庫)のp.83「先験的主要問題」の第1章 「純粋数学はどうして可能か」の注三

    ・御子柴善之『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』、p.103〜p.106













引用返信/返信 削除キー/
■25193 / inTopicNo.29)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/26(Tue) 19:12:01)
    おくたがわさん、こんばんは!

    No25187
    > もう何も言わんほうがいいかなと、思っていたところです。
    > 短絡的な投稿をしてしまうので。<

    そんなん、そんなん言わんでくださいー
    。゚(゚´ω`゚)゚。

    > pipitさんはたぶん分かっておられて、婉曲にレスしてくださっているのですね。<

    いえ、全然わかってなくて、いろんな可能性を思えて、とてもありがたいです(本当に!)
    おくたがわさんは、とても丁寧に思考を進められるなぁと感じています。
    レスの遅い早いは、わたしは全く気にしないです。

    > > 違和感は、自分が全体の流れの中で理解せず、部分だけで考えてしまったせいだったかと思います。
    > 部分だけ見て曲解に陥る現象が「ワイパー脳」と呼ばれた時代がかつてあったと言われていますが、今回のは私がそれだったのでしょう。<

    いえー、カントですから。。。
    わたしは反対に、早合点してわかるつもりになって、ゆっくり考えるとなーんか違和感が、、、みたいなことよくあります
    ( ̄▽ ̄;)

    いろんな個性があって、ほんとおもしろいと思っています。
    世界の不思議、、、

    該当箇所のカントの文章も、なんか、流れ方が変な気も。。。
    やっぱり、ド変わり者のカント先生なのかもですね。。。
     
    W(`0`)Wダレノセイヤオモウテンネンー

    カント本人は、自分のことどう思ってたんでしょうね(^^;;

引用返信/返信 削除キー/
■25189 / inTopicNo.30)  Re[8]: うましかメモ(-ω-;)
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/26(Tue) 09:22:36)
    2022/07/26(Tue) 21:14:21 編集(投稿者)
    2022/07/26(Tue) 20:54:47 編集(投稿者)

    No25182に返信(うましかさんの記事)

    うましかさん、おはようございます。

    > 感性論の終盤ということで、カントは感性と悟性の二本柱とした自らの認識論の正当を自明とした上で、(デカルト由来の)ライプニッツの明晰−判明について批判的に言及しているようにおもえました。

    やはりそうなのですね。私はそういう流れを踏まえず短絡的な投稿をしてしまいました。うましかさん、さすがです。

    > >〔ライプニッツの〕「私たちの全感性は、諸物の混乱した表象以外の何ものでもなく、そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎない」とする考えでは、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。
    >
    > >ライプニッツ−ヴォルフ哲学は、私たち〔カントの主張するような〕の認識の本性と起源とに関するあらゆる研究に対して、この哲学が感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなしたことによる、一つのまとまった不当な観点を指示してきた。しかし、この区別は明らかに超越論的であって、単に認識の判明性あるいは非判明性という形式に関わることではなく、認識の起源と内容にかかわることであり、従って私たちは、感性によっては諸物自体そのものの性質を判明に認識できないのみならず、全然認識できないのである。
    >
    > の、"判明でない表象と判明な表象"、或いは、"感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕"の区別を「論理的なもの」としているという件です。この「論理的」とはどういうことなのか、

    ここからは、朝投稿したものを編集で書き直しました。

    ライプニッツは
    「感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなした」
    が、
    カントはそのようには考えず、感性と知性の区別は、
    ・明らかに超越論的
    ・[単に認識の判明性あるいは非判明性という形式に関わること]ではなく
    ・認識の起源と内容にかかわること

    とりあえず論理的な区別は、単に形式に関わることである
    と見なしているようですね


    カントは演繹論のところで
    一般の論理学が内容に関わることなく形式だけを扱うことを述べた後、しかしカントが新しく提唱する「超越論的論理学」は内容も対象とすると述べています。超越論的論理学では、感性と悟性の違いなど、発生・由来(起源)を扱う必要があるからだとも書かれていたように思います。
    そういった記述と、今回引用されている内容は一致していると思えます。

    これだけでは、「論理的」を「形式のみを扱う」と同義として用いているとは言えず
    論理的であれば形式のみを扱う と言っていることしか分かりませんが

    カントのアバウトさからして、今回の部分の「論理的」は、起源や内容に関せず形式のみで判断するという意味で使っているんじゃないかなと、今は思っています。
    また、判明性が形式かどうかも問題とは思いますが、少なくともカントは
    [単に認識の判明性あるいは非判明性という形式に関わること]としているので、判明性を形式(もしくは形式に関わること)と考えているのだろうなと。
    また自分の早とちりがあるかもしれません。。
引用返信/返信 削除キー/
■25187 / inTopicNo.31)  Re[6]: pipitさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/26(Tue) 08:22:24)
    2022/07/26(Tue) 10:30:32 編集(投稿者)

    No25117に返信(pipitさんの記事)
    おはようございます。
    論点先取りという投稿後に、それは違ったかなーと思いつくことがあったのですが、今まで投稿できずすみません。

    あの部分でライプニッツの説への反証が(根拠を挙げて)為されるはずと自分が勝手に前提したから、論点先取りという違和感があったのだと思い、
    しかし考えてみると、そういう文脈ではなく、ただ両説の食い違い、ライプニッツの説を取ると(そこまで縷々展開した)自説が空虚となることを示しつつ、自説を再度説明しただけなのだろうかなと。

    そして! あらためて見てみると、感性論を展開した後の「感性論についての一般的な注」に置かれた文章なのだから、自説の根拠は既に出し終わっているのですね。
    その「注」の中でも先に『すべての直観は、現象についてわたしたちが心に描いた像にほかならない』と現象が必須であることを述べ、
    そして問題となる箇所も、それらカントの考えを受けて、
    『だから、次のような〔ライプニッツの*1〕意見、すなわち、私たちの全感性〔ganz Sinnlichkeit〕は諸物の混乱した表象以外の何ものでもなく、そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって〔mit Bewusstsein〕明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎないとみなす考えは、感性と現象とについての概念を偽造したものであって、こうした偽造は感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう。』
    で始まるのでしたから、再度カントの考え「感性が含むのは現象」の根拠を挙げる文脈にはないのでしょう。

    pipitさんはたぶん分かっておられて、婉曲にレスしてくださっているのですね。

    違和感は、自分が全体の流れの中で理解せず、部分だけで考えてしまったせいだったかと思います。
    部分だけ見て曲解に陥る現象が「ワイパー脳」と呼ばれた時代がかつてあったと言われていますが、今回のは私がそれだったのでしょう。


    あの部分は

    健全な悟性が用いる法の概念には、この上なく精緻な思弁がその概念から展開しうるものが含まれているのだが、[普通の実用的な使用]においては、法というこの思想のうちにあるこうした多様の諸表象が意識されていないだけである。
    これは、対象を曖昧・不判明に捉えているという関係になり、ライプニッツの説によれば、この[普通の法の概念]は感性的なものということになるはずだが、私たちはそのようには考えない。【私たちは、感性的なものは単に「現象」を含むにすぎないと考えるわけだが】、法は現象となることなどできず、その概念は知性の中にあって、人間の行為自体に帰属する(道徳的な)性質をそのまま表している。
    【つまり、感覚が作り出す「現象」という表象を含まず、対象自体に帰属する性質そのものを含んでいて、私たちの学説でいう「感性」では全くない】

    『これに反して、直観における物体〔Koerpers〕≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。私たちの認識性能のこの受容性が感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。』(原佑訳を助詞一つだけ変更 この受容性は感性→この受容性が感性)


    という流れか…
    前回書いたのとあまり違わず、「私たちの学説」を当然の前提としてライプニッツとの違いを述べる風に補足しただけですが。



    > プチ情報
    > ★【法】部分を、鈴木恒夫先生は、【正しさ】と訳されていました。 
    >
    > 『それだからといって人は、通常の概念は感性的であり、たんなる現象を含むということはできない。というのは、正しさは全然現象することができないし、正しさの概念は悟性のうちにあり、行為自体に帰属する行為の性状(道徳的な)を表象するからである。』
    >
    > 宇都宮芳明監修『純粋理性批判 上』以文社、p101より引用。

    ありがとうございます。
    天野さんは「正義」だったかな…
    正しさ-正義-法  
    ほう。。

    > おくたがわさん、ありがとうございます。
    > いつでも気のむくまま、ご自由に思索を投稿してくださいね
    > ( ^ω^ )

    もう何も言わんほうがいいかなと、思っていたところです。
    短絡的な投稿をしてしまうので。
引用返信/返信 削除キー/
■25186 / inTopicNo.32)  pipitメモW(`0`)W
□投稿者/ pipit -(2022/07/26(Tue) 01:19:49)
    2022/07/26(Tue) 01:23:09 編集(投稿者)
    2022/07/26(Tue) 01:20:54 編集(投稿者)

    うましかさん、こんばんはー

    予想以上に根深そうで、まだ全然勉強できてません
    Σ(゚д゚lll)

    今のpipitいいかげん感覚的感想を気軽に書くなら、

    ライプニッツ式☆アプリオリな分析判断 か、
    カント式☆アプリオリな総合判断 か、

    の問題点につながりそうな気がしてます。

    中山先生訳の光文社古典新訳文庫の第三巻にもライプニッツの話題がけっこうでてきてそうで、
    中山先生の解説もp506-520がまるまる『ライプニッツ批判』と題された解説になっています。

    最後の一冊まとめの解説では、
    『さらにライプニッツのさまざまな原理の形而上学的な性格を明らかにすることで、感性なしの知性がいかに空虚であるか、知性なしの感性がいかに盲目であるかが明らかにされた。』とあります、、、
    が、読んでも理解が難しい!
    (ノ_<)

    少しの箇所ずつでも理解できたらいいなと思っています。
    また明日黒崎先生の入門本読んでみようっと(−_−;)

    うましかさんもおつかれさま!
    ありがとうございます (*^ω^*)v
引用返信/返信 削除キー/
■25182 / inTopicNo.33)  うましかメモ(-ω-;)
□投稿者/ うましか -(2022/07/25(Mon) 22:01:34)
    2022/07/25(Mon) 22:08:46 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー(・ω・)ノ

    pipitさんとおくたがわさんの読解のおかげで、ライプニッツ=ヴォルフ学派に対するカント認識論の変遷(受容と離反)について、その一端を学ぶ機会を得ることができました!

    感謝でありますm(__)m

    *******

    先のメモでは『純理』の記述のみを手がかりにカント感性論で展開される思考を追ってみました。感性論の終盤ということで、カントは感性と悟性の二本柱とした自らの認識論の正当を自明とした上で、(デカルト由来の)ライプニッツの明晰−判明について批判的に言及しているようにおもえました。その批判的立場で印象的だった言葉がNo.24923 における〔※文章の構成等は変えてあります〕、

    >〔ライプニッツの〕「私たちの全感性は、諸物の混乱した表象以外の何ものでもなく、そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎない」とする考えでは、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。

    >ライプニッツ−ヴォルフ哲学は、私たち〔カントの主張するような〕の認識の本性と起源とに関するあらゆる研究に対して、この哲学が感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなしたことによる、一つのまとまった不当な観点を指示してきた。しかし、この区別は明らかに超越論的であって、単に認識の判明性あるいは非判明性という形式に関わることではなく、認識の起源と内容にかかわることであり、従って私たちは、感性によっては諸物自体そのものの性質を判明に認識できないのみならず、全然認識できないのである。

    の、"判明でない表象と判明な表象"、或いは、"感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕"の区別を「論理的なもの」としているという件です。この「論理的」とはどういうことなのか、先日紹介した茅野大樹という方の以下のサイトの論考『認識の明晰さと判明さについて』は、とても参考になります。ちなみにpipitさんは早速No.25034で整理・理解を試みておられますね、サスガ!!(・∀・)

    https://repre.org/repre/vol17/note/02/

    私もオベンキョウします!! (;・∀・)

    ◆ 1769年頃からカントは、それ以前の形而上学者達の学説とは一線を画する独自の哲学体系の構築を目指すようになるが、その争点の中心は、@対象によって触発されて表象を受け取る能力である感性とA概念の能力である悟性、を共通の源泉に由来する同種の認識様式として認めるか否か、という問題である。

    ◆〔カントがはじめ従っていた、感覚と概念の学説が展開されている〕『認識、真理、観念についての省察』(1684)において、ライプニッツは、認識の様式に明晰・曖昧、そして判明・混雑という区分を導入している。

    ◆ これは、「ある対象を他の対象から区別できる認識を明晰とし、明晰なもの以外に何も含まない認識を判明とした」デカルト『哲学原理』(1644)の修正である。

    ◆ ライプニッツによれば、以前目にした対象をそれに似たものから識別し、再認できるか否かによって認識は明晰か曖昧かに分かれる。
     そして全ての明晰な認識はまた、ある対象を他の対象から識別するために必要な徴表を言明できるか否かによって判明か混雑かに分かれる。
     したがって、色・香り・味等の感覚によって対象を識別した明晰な認識も、その区別の根拠となる対象の特徴を説明できない場合は混雑な認識であり得る。

    ◆ 重要なのは、ライプニッツにおける認識の区分は、対象の再認とその徴表の枚挙が可能か否かという観点からなされており、それは〔カントが主張したような?〕感覚と概念という認識する主観の側の表象能力の差異ではないということ。

    ◆ 感覚による認識が曖昧であり得るのと同様に、確かな定義を持っていない概念も曖昧であり得る。
     その結果、@感覚による認識とA概念による認識は別種の表象様式としてではなく、同種の認識の判明さの等級としてのみ区別されることとなる。

    ◆〔以上のようなライプニッツの考えに対して、〕カントは、
    @対象の表象を受け取る心の受容性である感性は何も思考することができず、
    A感官の対象を思考する能力である悟性は何も直観することができない。
     → 両者は全く別の認識源泉に由来する能力であり、どちらか一方が他方に優先することもない、と考えた。

    ◆ カントは『プロレゴメナ』(1783)においても、ライプニッツからの距離を示唆しつつこう述べる。
     「感性の本質は明晰さや曖昧さといった論理的区別にあるのではなく、認識そのものの起源における発生的(genetisch)区別にある」(AA IV 290)。

    ◆ ライプニッツにおける明晰さや曖昧さに基づいた認識の論理的区別は、感性的認識を知性的認識の単に混乱した表象様式として捉えているため、感覚とその上位の認識には連続性があり、その区別は本質的には存在しない。

    ◆ それに対してカントは、現象として現れる対象が主観の感官を触発する仕方の表象へと感性的認識を限定することで、認識の発生と起源の観点から諸々の認識の区別を試みようとした。


    ・・・ しかし、なぜ「発生的区別」なのか? (/・ω・)/謎沼





引用返信/返信 削除キー/
■25176 / inTopicNo.34)  pipitメモ _φ( ̄ー ̄ )??
□投稿者/ pipit -(2022/07/25(Mon) 12:45:20)
    うましかさん、こんにちはー(・∀・)

    No25175

    > ・〔ライプニッツのような〕こうした考えによると、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。
    >
    > 〔例えば〕
    >
    > ・健全な悟性が用いている法〔独:Recht, "正しさ"、"正義"〕≠ノついての概念は、たしかに、この上なく精緻な思弁がこの概念から展開し得るのと同一のものを含んでいる。
    > ・ただ〔健全な悟性と、ごく精緻な思弁で〕異なるのは、普通の実用的な使用においては、この法〔"正しさ"、"正義"〕という思想のうちにある、こうした多様の諸表象が意識されていないということだけであろう。
    >
    > ・しかし、だからといって人は、通常の概念は感性的であって、単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。
    >
    > ・というのも、法〔"正しさ"、"正義"〕が現象することは決してあり得ず、法〔正しさ、正義〕の概念は悟性のうちに潜んでおり、行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示すからである。<

    あ!

    【> ・ただ〔健全な悟性と、ごく精緻な思弁で〕異なるのは、普通の実用的な使用においては、この法〔"正しさ"、"正義"〕という思想のうちにある、こうした多様の諸表象が意識されていないということだけであろう。】

    異なる2種を、悟性と思弁で考えられたのですね!
    Σ(・□・;)


    > ●判明でない表象〔感性(的なもの)〕と判明な表象〔知性的なもの〕というライプニッツの区別に対するカントの批判
    >
    > 例)正しさの概念
    >
    > ・正しさ(Recht)の普通の実用的な使用〔多様の諸表象が意識されていない〕
    >  = 法(Recht)〔この概念から展開し得るこの上なく精緻な思弁〕
    >
    >  …ライプニッツ?
    >
    > ・法(Recht)は現象せず悟性のうちにあり、行為自体に帰属する性質(道徳的なもの)
    >
    >  … カント
    >
    > 例)物体の表象
    >
    > >直観における物体≠フ表象は、対象自体そのものに帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけ … カント<

    !!

    【> ・正しさ(Recht)の普通の実用的な使用〔多様の諸表象が意識されていない〕
    >  = 法(Recht)〔この概念から展開し得るこの上なく精緻な思弁〕】

    こちらをライプニッツの例と考えられたのですね!

    うーむー、すごい。

    > (-ω-;)ウーン まだシックリこないなあ( ノД`)シクシク… 泥沼
    > (-ω-;)ウーンウーン まだまだシックリこないなあ( ノД`)シクシク… 泥沼<

    うーむ、おもしろい、、、
    でも整合性とれる気がします!(◎_◎;)

    後ほど、黒崎先生の入門本も読み返して、考えてみたいと思います!

    ありがとうございます、おつかれさまです♪

     (((o(*゚▽゚*)o)))

引用返信/返信 削除キー/
■25175 / inTopicNo.35)  うましかメモ(´-`).。oO
□投稿者/ うましか -(2022/07/24(Sun) 22:11:22)
    2022/07/25(Mon) 07:57:34 編集(投稿者)
    2022/07/24(Sun) 22:23:25 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー(・ω・)ノ

    *******

    【前提となるカント感性論の概要の粗いメモ書き】

    ■たとえどのような仕方で、またどのような手段によって認識〔Erkenntnis〕が対象〔Gegenstaende〕と連関するにせよ、認識がそれを通じて対象と直接的に連関し、また手段としての全ての思考がそれを目標にして追い求めるものは直観〔Anschauung〕≠ナある。
    ・しかしこの直観は、私たちに対象が与えられる限りにおいて生ずるものである。

    * 認識 − 直接的連関:直観 − 対象
    * 対象 → 直観 − 認識
     
    ・だが、このことはこれまた、少なくとも私たち人間には、その対象が心を或る種の仕方で触発する〔affiziere〕ことによってのみ可能である。

    * 対象 → 触発: 心

    ・私たちが対象によって触発される仕方によって、表象を得る性能(受容性)を、感性〔Sinnlichkeit〕≠ニ呼ぶ。
    ・それゆえ、感性を介して私たちには対象が与えられ=Aだから感性のみが私たちに直観≠提供する。

    * 対象 → 触発 → 感性:表象/直観 − 認識

    ・しかし悟性をよって対象は思考され=Aだから悟性から概念〔Begriffe〕≠ェ生ずる。
    ・しかし、すべての思考は、まっすぐに(直接的に)であろうと、回り道して(間接的に)であろうと、或る種の徴表〔Merkmale〕を介して、結局は直観と、したがって、私たちにあっては、感性と連関せざるを得ない。
    ・というのは私たちは別の仕方ではいかなる対象も与えられ得ないからである。

    ・私たちが或る対象によって触発される限り、その対象が表象能力へと働きかけた結果は感覚〔Empfindung〕≠ナある。
    ・感覚を通じて、その対象と連関するそのような直観を経験的〔empirisch〕≠ニ呼ぶ。
    ・経験的な直観〔empirischen Anschauung〕の、未規定的な対象が現象〔Erscheinung〕≠ニ称される。

    * 対象 → 触発 → 感性:  表象/直観   − 認識
            表象能力 → 感覚:経験的な直観
                   
    * 感覚 − 現象の実質 ‖ 現象の形式

    ■現象において感覚に対応するものを、私は現象の実質〔Materie〕≠ニ名づけるが、現象の多様なものが或る種の関係において秩序づけられ得るようにするようなものを、私は現象の形式〔Form〕≠ニ名づける。
    ・諸感覚がそのうちのみ秩序づけられ、よって或る種の形式において配置され得るものは、それ自身これまた感覚ではあり得ないから、私たちにはなるほど全ての現象の実質はア・ポステリオリにのみ与えられてはいるが、しかし全ての現象の形式はことごとく心のうちにア・プリオリに感覚のために予め用意されていなければならず、だから全ての感覚とは切り離して考察され得るのでなければならない。

    ■私は、感覚に属するものがそこでは何ひとつとして見いだされない全ての表象を(超越論的な意味において)純粋な〔rein〕≠ニ呼ぶ。
    ・そうすると、感性的な直観一般の純粋な形式〔rein Form〕は、心のうちでア・プリオリに見いだされるであろうが、現象の全ての多様なものは、この純粋な形式のうちで、或る種の関係において直観されるのである。
    ・感性のこの純粋な形式はそれ自身も純粋な直観〔reine Anschauung〕≠ニ呼ばれるだろう。

    ・それで、私が物体の表象から、悟性が物体について思考する、たとえば実体〔Substanz〕、力〔Kraft〕、分割可能性〔Teilbarkeit〕などを分離し、同様に、物体のうち感覚に属するもの、たとえば不可入性〔Undurchdringlichkeit〕、硬さ〔Haerte〕、色〔Farbe〕などを分離しても、こうした経験的な直観のうちからなお或るものが、すなわち拡がりと形態が、私に残存する。

    ・これらの拡がりと形態は純粋な直観に属するのであって、この純粋な直観は、ア・プリオリに、感官〔Sinne〕ないしは感覚の現実の対象がなくとも、感性の単なる形式として心のうちに生ずるのである。


    *******


    ■先ず、できる限り明らかに説明しておく必要があるのは、感性的認識一般の根本性質に関する私たちの見解がいかなるものであるのかということである。というのも、その根本性質に対するあらゆる誤解を予め防ぐためである。

    ■私たち〔カント〕が主張してきたことは以下のことに他ならない。すなわち、

    *あらゆる私たちの直観は、現象についての表象以外の何ものでもない。
    *言い換えれば、私たちが直観する諸物は、それ自体そのものとしては、私たちが諸物をそうだと直観しているそのものでもなければ、またそれらの諸物の諸関係も、それ自体そのものとしては、それらの諸関係が私たちに現象しているとおりの性質のものではない。
    *だから私たちが、私たちの主観を、ないしは感官一般の主観的性質だけでも廃棄すれば、空間と時間とにおける客観の全ての性質、全ての関係が、いや空間と時間すら、消滅してしまうはずである。
    *従って、それらの性質や関係は、現象としてそれ自体そのものとして現存するのではなく、ただ私たちの内にのみ現存し得るに過ぎない。

    ■それ自体として、或いは、私たちの感性のこうした全ての受容性から離れて、対象に関する事情がどのようなものであるかは、私たちには全面的に未知のままである。
    ・私たちは、対象を知覚する私たちの様式以外には何一つとして知らず、この様式は私たちに特有であり、たとえあらゆる人間に帰属するに違いないにせよ、必ずしもあらゆる存在者に帰属するというわけのものではない。
    ・こうした私たちの様式だけを、私たちはもっぱら問題とするのである。

    ■空間と時間は、他ならぬこの私たちの様式の純粋形式であり、感覚一般はその実質である。
    ・前者の空間と時間だけを、私たちは、ア・プリオリに、言い換えれば、全ての現実的知覚に先立って認識することができ、それ故に、それらは純粋直観と呼ばれる。
    ・しかし、後者の感覚〔感覚一般〕は、私たちの認識において、ア・ポステリオリな認識、言い換えれば、経験的な直観と、呼ばれる所以のものに他ならない。
    ・前者〔空間と時間、純粋形式、純粋直観〕は、たとえ私たちの感覚がいかなる種類のものであろうと、私たちの感性に端的に必然的に結びついている。

    ・私たちの感覚は極めて様々であり得る。たとえ私たちがこうした私たちの直観を最高度の判明性へともたらし得たとしても、私たちはこのことによって諸対象自体そのものの性質にいっそう近づくことにはならないであろう。

    ・なぜなら、私たちは、いかなる場合にも直観の私たちの様式、言い換えれば、私たちの感性しか完璧に認識することはできず、しかもこの私たちの感性を、空間と時間という主観に元々結びついている条件のもとでのみ、常に認識するからである。

    ・諸対象自体そのものがいかなるものであるにせよ、そうした諸対象自体そのものは、私たちにそれのみが与えられている、それらの現象をいくら明瞭に認識したところで、決して既知のものとはなり得ないであろう。

    ■だから、〔ライプニッツの〕次のような意見、すなわち、

    *私たちの全感性は、諸物の混乱した表象以外の何ものでもない。
    *そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎない、

    ・こうした意見は、感性と現象とについての概念を偽造したものである。
    ・こうした偽造は感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう。

    ・〔ライプニッツのような〕こうした考えによると、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。

    〔例えば〕

    ・健全な悟性が用いている法〔独:Recht, "正しさ"、"正義"〕≠ノついての概念は、たしかに、この上なく精緻な思弁がこの概念から展開し得るのと同一のものを含んでいる。
    ・ただ〔健全な悟性と、ごく精緻な思弁で〕異なるのは、普通の実用的な使用においては、この法〔"正しさ"、"正義"〕という思想のうちにある、こうした多様の諸表象が意識されていないということだけであろう。

    ・しかし、だからといって人は、通常の概念は感性的であって、単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。

    ・というのも、法〔"正しさ"、"正義"〕が現象することは決してあり得ず、法〔正しさ、正義〕の概念は悟性のうちに潜んでおり、行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示すからである。

    ・これに反して、

    ・直観における物体≠フ表象は、対象自体そのものに帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。

    ・そして、この私たちの認識性能の受容性が感性と呼ばれるのだから、この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。

    ■ だからライプニッツ−ヴォルフ哲学は、私たちの認識の本性と起源とに関するあらゆる研究に対して、一つのまとまった不当な観点を指示してきたが、それはこの哲学が感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなしたことによる。

    ・というのも、この区別は明らかに超越論的であって、単に認識の判明性あるいは非判明性という形式に関わることではなく、それらの認識の起源と内容に関わるからである。
    ・従って、私たちは、感性によっては諸物自体そのものの性質を判明に認識できないのみならず、全く認識できないのである。

    ・また、表象された客観は、感性的直観がその客観に付与した固有性をともなうが、私たちが私たちの主観的性質を除き去るや否や、どこにも見出されるはずがなく、また見出され得なくなる。
    ・というのも、この主観的性質が現象としてのその客観の形式を規定するからである。

    *******

    ●カントとライプニッツの物自体の捉え方の相違の粗い整理

    ・ライプニッツ:物(自体)〔対象?〕の属性は、感性により混乱した表象(判明でない表象と判明な表象)として認識される

     ※ 判明でない表象と判明な表象を区別する基準?とは(;´・ω・)?
     ※※【参照】『形而上学叙説』(河野与一訳、p.150〜p.151)

    ・カント:そもそも物自体は認識できず、物の属性は感性を通して直観される現象

    ●判明でない表象〔感性(的なもの)〕と判明な表象〔知性的なもの〕というライプニッツの区別に対するカントの批判

    例)正しさの概念

    ・正しさ(Recht)の普通の実用的な使用〔多様の諸表象が意識されていない〕
     = 法(Recht)〔この概念から展開し得るこの上なく精緻な思弁〕

     …ライプニッツ?

    ・法(Recht)は現象せず悟性のうちにあり、行為自体に帰属する性質(道徳的なもの)

     … カント

    例)物体の表象

    >直観における物体≠フ表象は、対象自体そのものに帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけ … カント





    (-ω-;)ウーン まだシックリこないなあ( ノД`)シクシク… 泥沼
    (-ω-;)ウーンウーン まだまだシックリこないなあ( ノД`)シクシク… 泥沼
引用返信/返信 削除キー/
■25174 / inTopicNo.36)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/07/24(Sun) 21:50:49)
    No25162に返信(pipitさんの記事)
    > みなさまおはようございます(^ ^)
    >
    > グラデーション(度合い)という概念があります。
    >
    > ライプニッツ式だと、感性由来のものと、知性由来のものは、同じ枠組内での判明度などの度合いの違いとして置かれているのかな、と、思いました。
    >
    > カント式だと、その二つは度合いの違いではなく、異種のものとして扱う。
    >
    > 、、、カントは何を狙って、そうしたのかな、と、少しだけ考えてみました。
    >
    > 数多くあるだろう理由の一つとして私が思いついたのは、
    > 感性抜きの知性のみで推論していく論証?は、二律背反に陥り、結局無効となるみたいな【超越論的弁証論】につなげるためかな、と。
    > あるいは、思考の動きとしては、反対も考えられます。
    > 【二律背反】が先で、その原因を探すと、感性と知性の根本的な区別をしてなかったからではないかと仮説した。
    >
    > カント先生は本当に分別が好きですねー
    >
    > 全然違ってるかもの感想日記でしたー_φ( ̄ー ̄ )ムムム<


    その後考えたこと。

    論点先取りにならないように、先に同じ土俵の上で、ライプニッツによる区分定義を『法』の概念を題材に成り立たないことを(カントとしては)示して、その後、新たなカントの区分を主張していく道筋かな、と、先程思いました。
    _φ( ̄ー ̄ )ムム?ムムン?
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -