| 2022/07/25(Mon) 07:57:34 編集(投稿者) 2022/07/24(Sun) 22:23:25 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー(・ω・)ノ
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【前提となるカント感性論の概要の粗いメモ書き】
■たとえどのような仕方で、またどのような手段によって認識〔Erkenntnis〕が対象〔Gegenstaende〕と連関するにせよ、認識がそれを通じて対象と直接的に連関し、また手段としての全ての思考がそれを目標にして追い求めるものは直観〔Anschauung〕≠ナある。 ・しかしこの直観は、私たちに対象が与えられる限りにおいて生ずるものである。
* 認識 − 直接的連関:直観 − 対象 * 対象 → 直観 − 認識 ・だが、このことはこれまた、少なくとも私たち人間には、その対象が心を或る種の仕方で触発する〔affiziere〕ことによってのみ可能である。
* 対象 → 触発: 心
・私たちが対象によって触発される仕方によって、表象を得る性能(受容性)を、感性〔Sinnlichkeit〕≠ニ呼ぶ。 ・それゆえ、感性を介して私たちには対象が与えられ=Aだから感性のみが私たちに直観≠提供する。
* 対象 → 触発 → 感性:表象/直観 − 認識
・しかし悟性をよって対象は思考され=Aだから悟性から概念〔Begriffe〕≠ェ生ずる。 ・しかし、すべての思考は、まっすぐに(直接的に)であろうと、回り道して(間接的に)であろうと、或る種の徴表〔Merkmale〕を介して、結局は直観と、したがって、私たちにあっては、感性と連関せざるを得ない。 ・というのは私たちは別の仕方ではいかなる対象も与えられ得ないからである。
・私たちが或る対象によって触発される限り、その対象が表象能力へと働きかけた結果は感覚〔Empfindung〕≠ナある。 ・感覚を通じて、その対象と連関するそのような直観を経験的〔empirisch〕≠ニ呼ぶ。 ・経験的な直観〔empirischen Anschauung〕の、未規定的な対象が現象〔Erscheinung〕≠ニ称される。
* 対象 → 触発 → 感性: 表象/直観 − 認識 表象能力 → 感覚:経験的な直観 * 感覚 − 現象の実質 ‖ 現象の形式
■現象において感覚に対応するものを、私は現象の実質〔Materie〕≠ニ名づけるが、現象の多様なものが或る種の関係において秩序づけられ得るようにするようなものを、私は現象の形式〔Form〕≠ニ名づける。 ・諸感覚がそのうちのみ秩序づけられ、よって或る種の形式において配置され得るものは、それ自身これまた感覚ではあり得ないから、私たちにはなるほど全ての現象の実質はア・ポステリオリにのみ与えられてはいるが、しかし全ての現象の形式はことごとく心のうちにア・プリオリに感覚のために予め用意されていなければならず、だから全ての感覚とは切り離して考察され得るのでなければならない。
■私は、感覚に属するものがそこでは何ひとつとして見いだされない全ての表象を(超越論的な意味において)純粋な〔rein〕≠ニ呼ぶ。 ・そうすると、感性的な直観一般の純粋な形式〔rein Form〕は、心のうちでア・プリオリに見いだされるであろうが、現象の全ての多様なものは、この純粋な形式のうちで、或る種の関係において直観されるのである。 ・感性のこの純粋な形式はそれ自身も純粋な直観〔reine Anschauung〕≠ニ呼ばれるだろう。
・それで、私が物体の表象から、悟性が物体について思考する、たとえば実体〔Substanz〕、力〔Kraft〕、分割可能性〔Teilbarkeit〕などを分離し、同様に、物体のうち感覚に属するもの、たとえば不可入性〔Undurchdringlichkeit〕、硬さ〔Haerte〕、色〔Farbe〕などを分離しても、こうした経験的な直観のうちからなお或るものが、すなわち拡がりと形態が、私に残存する。
・これらの拡がりと形態は純粋な直観に属するのであって、この純粋な直観は、ア・プリオリに、感官〔Sinne〕ないしは感覚の現実の対象がなくとも、感性の単なる形式として心のうちに生ずるのである。
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■先ず、できる限り明らかに説明しておく必要があるのは、感性的認識一般の根本性質に関する私たちの見解がいかなるものであるのかということである。というのも、その根本性質に対するあらゆる誤解を予め防ぐためである。
■私たち〔カント〕が主張してきたことは以下のことに他ならない。すなわち、
*あらゆる私たちの直観は、現象についての表象以外の何ものでもない。 *言い換えれば、私たちが直観する諸物は、それ自体そのものとしては、私たちが諸物をそうだと直観しているそのものでもなければ、またそれらの諸物の諸関係も、それ自体そのものとしては、それらの諸関係が私たちに現象しているとおりの性質のものではない。 *だから私たちが、私たちの主観を、ないしは感官一般の主観的性質だけでも廃棄すれば、空間と時間とにおける客観の全ての性質、全ての関係が、いや空間と時間すら、消滅してしまうはずである。 *従って、それらの性質や関係は、現象としてそれ自体そのものとして現存するのではなく、ただ私たちの内にのみ現存し得るに過ぎない。
■それ自体として、或いは、私たちの感性のこうした全ての受容性から離れて、対象に関する事情がどのようなものであるかは、私たちには全面的に未知のままである。 ・私たちは、対象を知覚する私たちの様式以外には何一つとして知らず、この様式は私たちに特有であり、たとえあらゆる人間に帰属するに違いないにせよ、必ずしもあらゆる存在者に帰属するというわけのものではない。 ・こうした私たちの様式だけを、私たちはもっぱら問題とするのである。
■空間と時間は、他ならぬこの私たちの様式の純粋形式であり、感覚一般はその実質である。 ・前者の空間と時間だけを、私たちは、ア・プリオリに、言い換えれば、全ての現実的知覚に先立って認識することができ、それ故に、それらは純粋直観と呼ばれる。 ・しかし、後者の感覚〔感覚一般〕は、私たちの認識において、ア・ポステリオリな認識、言い換えれば、経験的な直観と、呼ばれる所以のものに他ならない。 ・前者〔空間と時間、純粋形式、純粋直観〕は、たとえ私たちの感覚がいかなる種類のものであろうと、私たちの感性に端的に必然的に結びついている。
・私たちの感覚は極めて様々であり得る。たとえ私たちがこうした私たちの直観を最高度の判明性へともたらし得たとしても、私たちはこのことによって諸対象自体そのものの性質にいっそう近づくことにはならないであろう。
・なぜなら、私たちは、いかなる場合にも直観の私たちの様式、言い換えれば、私たちの感性しか完璧に認識することはできず、しかもこの私たちの感性を、空間と時間という主観に元々結びついている条件のもとでのみ、常に認識するからである。
・諸対象自体そのものがいかなるものであるにせよ、そうした諸対象自体そのものは、私たちにそれのみが与えられている、それらの現象をいくら明瞭に認識したところで、決して既知のものとはなり得ないであろう。
■だから、〔ライプニッツの〕次のような意見、すなわち、
*私たちの全感性は、諸物の混乱した表象以外の何ものでもない。 *そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎない、
・こうした意見は、感性と現象とについての概念を偽造したものである。 ・こうした偽造は感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう。
・〔ライプニッツのような〕こうした考えによると、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。
〔例えば〕
・健全な悟性が用いている法〔独:Recht, "正しさ"、"正義"〕≠ノついての概念は、たしかに、この上なく精緻な思弁がこの概念から展開し得るのと同一のものを含んでいる。 ・ただ〔健全な悟性と、ごく精緻な思弁で〕異なるのは、普通の実用的な使用においては、この法〔"正しさ"、"正義"〕という思想のうちにある、こうした多様の諸表象が意識されていないということだけであろう。
・しかし、だからといって人は、通常の概念は感性的であって、単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。
・というのも、法〔"正しさ"、"正義"〕が現象することは決してあり得ず、法〔正しさ、正義〕の概念は悟性のうちに潜んでおり、行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示すからである。
・これに反して、
・直観における物体≠フ表象は、対象自体そのものに帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。
・そして、この私たちの認識性能の受容性が感性と呼ばれるのだから、この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。
■ だからライプニッツ−ヴォルフ哲学は、私たちの認識の本性と起源とに関するあらゆる研究に対して、一つのまとまった不当な観点を指示してきたが、それはこの哲学が感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなしたことによる。
・というのも、この区別は明らかに超越論的であって、単に認識の判明性あるいは非判明性という形式に関わることではなく、それらの認識の起源と内容に関わるからである。 ・従って、私たちは、感性によっては諸物自体そのものの性質を判明に認識できないのみならず、全く認識できないのである。
・また、表象された客観は、感性的直観がその客観に付与した固有性をともなうが、私たちが私たちの主観的性質を除き去るや否や、どこにも見出されるはずがなく、また見出され得なくなる。 ・というのも、この主観的性質が現象としてのその客観の形式を規定するからである。
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●カントとライプニッツの物自体の捉え方の相違の粗い整理
・ライプニッツ:物(自体)〔対象?〕の属性は、感性により混乱した表象(判明でない表象と判明な表象)として認識される
※ 判明でない表象と判明な表象を区別する基準?とは(;´・ω・)? ※※【参照】『形而上学叙説』(河野与一訳、p.150〜p.151)
・カント:そもそも物自体は認識できず、物の属性は感性を通して直観される現象
●判明でない表象〔感性(的なもの)〕と判明な表象〔知性的なもの〕というライプニッツの区別に対するカントの批判
例)正しさの概念
・正しさ(Recht)の普通の実用的な使用〔多様の諸表象が意識されていない〕 = 法(Recht)〔この概念から展開し得るこの上なく精緻な思弁〕
…ライプニッツ?
・法(Recht)は現象せず悟性のうちにあり、行為自体に帰属する性質(道徳的なもの)
… カント
例)物体の表象
>直観における物体≠フ表象は、対象自体そのものに帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけ … カント
(-ω-;)ウーン まだシックリこないなあ( ノД`)シクシク… 泥沼 (-ω-;)ウーンウーン まだまだシックリこないなあ( ノД`)シクシク… 泥沼
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