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■25170 / inTopicNo.37)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2022/07/24(Sun) 19:53:18)
    悪魔ちゃん、こんばんはー (^ ^)

    No25167に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しま〜す
    >
    > >カント先生は本当に分別が好きですねー<
    > わたしもそう思う。
    > でも、世界を「知る」っていうことは、世界の「分類」作業から始まるんだと思ってるからそういうんで普通なんだとわたし見てる。
    > だからわたしの問題は分類の仕方なんね。
    >
    > たとえば、カントは「認識」を大きな幹として、「感性」と「知性(悟性)」に分類してるのよね?ここが彼の「認識」の分類の仕方の出発点(前提)だとわたし見てる。ここから秩序づけ、体系化していってるんじゃないかってね。
    >
    > あ、あと、
    > 中島義道さんによると、カントの言う「現象」(日本語訳)は「正しい現れ」っていうことみたい、もしこれに従って訳者がその訳語を使ってるんだとしたら、「現象」っていうのが出てきたら、それすべて「正しい現れ」って置き換えてていいことになるよね。
    >
    > たとえば、
    > >感性的なものは諸物についての混乱した(曖昧な)表象・観念であって、諸物に帰属するものを捉えているのだが、諸部分を意識して明瞭に区分することができていないのだ。というライプニッツの見方は、感性と現象についての間違った概念を作り上げ、それらについての学説を台無しにする。<
    > っていう日訳があったとすると、「現象」を〈正しい現れ〉に置き換えて見るのね。
    >
    >>感性的なものは諸物についての混乱した(曖昧な)表象・観念であって、諸物に帰属するものを捉えているのだが、諸部分を意識して明瞭に区分することができていないのだ。というライプニッツの見方は、感性と〈正しい現れ〉についての間違った概念を作り上げ、それらについての学説を台無しにする。<
    > ってなるのね。
    > カントの文章(日訳)は、彼の使う用語(日訳語)の、彼における意味を捉えておく必要があるのかもね。
    >
    > ちなみに、日訳での「現象」、
    > 「現象学」でいう「現象」は「phenomenon」で、ギリシア語の phainomenonに由来してるみたい。
    > ここらへん、どうなのかな〜っていうの知りたいところ。<


    うん、そうだね、カントは「現象」を、混乱した表象ではなく、人間にとっては客観的妥当性のある表象としたんだろうね。
引用返信/返信 削除キー/
■25167 / inTopicNo.38)  Re[7]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/24(Sun) 19:06:51)
    お邪魔しま〜す

    >カント先生は本当に分別が好きですねー<
    わたしもそう思う。
    でも、世界を「知る」っていうことは、世界の「分類」作業から始まるんだと思ってるからそういうんで普通なんだとわたし見てる。
    だからわたしの問題は分類の仕方なんね。

    たとえば、カントは「認識」を大きな幹として、「感性」と「知性(悟性)」に分類してるのよね?ここが彼の「認識」の分類の仕方の出発点(前提)だとわたし見てる。ここから秩序づけ、体系化していってるんじゃないかってね。

    あ、あと、
    中島義道さんによると、カントの言う「現象」(日本語訳)は「正しい現れ」っていうことみたい、もしこれに従って訳者がその訳語を使ってるんだとしたら、「現象」っていうのが出てきたら、それすべて「正しい現れ」って置き換えてていいことになるよね。

    たとえば、
    >感性的なものは諸物についての混乱した(曖昧な)表象・観念であって、諸物に帰属するものを捉えているのだが、諸部分を意識して明瞭に区分することができていないのだ。というライプニッツの見方は、感性と現象についての間違った概念を作り上げ、それらについての学説を台無しにする。<
    っていう日訳があったとすると、「現象」を〈正しい現れ〉に置き換えて見るのね。

    > 感性的なものは諸物についての混乱した(曖昧な)表象・観念であって、諸物に帰属するものを捉えているのだが、諸部分を意識して明瞭に区分することができていないのだ。というライプニッツの見方は、感性と〈正しい現れ〉についての間違った概念を作り上げ、それらについての学説を台無しにする。<
    ってなるのね。

    カントの文章(日訳)は、彼の使う用語(日訳語)の、彼における意味を捉えておく必要があるのかもね。

    ちなみに、日訳での「現象」、
    「現象学」でいう「現象」は「phenomenon」で、ギリシア語の phainomenonに由来してるみたい。
    ここらへん、どうなのかな〜っていうの知りたいところ。



引用返信/返信 削除キー/
■25162 / inTopicNo.39)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/07/24(Sun) 10:43:20)
    みなさまおはようございます(^ ^)

    グラデーション(度合い)という概念があります。

    ライプニッツ式だと、感性由来のものと、知性由来のものは、同じ枠組内での判明度などの度合いの違いとして置かれているのかな、と、思いました。

    カント式だと、その二つは度合いの違いではなく、異種のものとして扱う。

    、、、カントは何を狙って、そうしたのかな、と、少しだけ考えてみました。

    数多くあるだろう理由の一つとして私が思いついたのは、
    感性抜きの知性のみで推論していく論証?は、二律背反に陥り、結局無効となるみたいな【超越論的弁証論】につなげるためかな、と。
    あるいは、思考の動きとしては、反対も考えられます。
    【二律背反】が先で、その原因を探すと、感性と知性の根本的な区別をしてなかったからではないかと仮説した。

    カント先生は本当に分別が好きですねー

    全然違ってるかもの感想日記でしたー_φ( ̄ー ̄ )ムムム

引用返信/返信 削除キー/
■25147 / inTopicNo.40)  Re[6]: うましかメモ
□投稿者/ pipit -(2022/07/23(Sat) 16:49:48)
    うましかさん、こんにちは!

    わたしもとてもおもしろいなぁと読解チャレンジしているのですが、きっかけをつくってくださったうましかさんのおかげです。
    感謝です♪(^人^)

    No25140
    >【覚え書き】

    ・ライプニッツの形而上学(モナドロジー)、倫理学?
    ・これに対するカントの認識論→行為論(倫理学?)
    >行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示す<

    Σ(・□・;)
    ふ、深いつ

    そんなとこまで通じてる可能性が。。。

    ワープ☆彡_(┐「ε:)_アーレー
引用返信/返信 削除キー/
■25140 / inTopicNo.41)  うましかメモ
□投稿者/ うましか -(2022/07/23(Sat) 07:46:11)
    pipitさん、おくたがわさんによる刺激的な読解が続いています! (;´・ω・)

    以前思いついた関心が、お二方の投稿で再燃したが、まだうまく言語化できない。。。( ノД`)シクシク…

    *******

    > T 超越論的原理論
    > 第一部門 超越論的感性論
    >
    > 第二節 時間について
    >  第八項 超越論的感性論のための一般的注解
    >
    > ◆だから、次のような〔ライプニッツの〕意見、

    すなわち、

    「私たちの全感性は、諸物の混乱した表象以外の何ものでもなく、そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎない」、

    とみなす考えは、

    感性と現象とについての概念を偽造したものであって、こうした偽造は感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう。

    これだと、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別〔*1〕は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。

    確かに健全な悟性が用いている法〔Recht〕≠ノついての概念は、この上なく精緻な思弁がこの概念から展開し得るのと同一のものを含んでおり、ただ異なるのは、普通の実用的な使用においては法というこの思想のうちにあるこうした多様の諸表象が意識されていないということだけであろう。

    しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。というのも、法は現象することは全然できず、その概念は悟性のうちに潜んでおり、行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示すからである。

    これに反して、直観における物体≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。

    私たちの認識性能のこの受容性は感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。
    >
    >  *1 判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別については、中山元訳1、p.262にある註(37)や、p.379〜p.380で解説されている。
    >
    >  ※1 カントとライプニッツ−ヴォルフ学派について調べていたら↓を発見、、、でも難しいなあ(´;ω;`)ウッ…
    >
    > https://repre.org/repre/vol17/note/02/ 
    >
    >
    > --- No.24835からの続き ---
    >
    > ◇だからライプニッツ−ヴォルフ哲学は、私たちの認識の本性と起源とに関するあらゆる研究に対して、一つのまとまった不当な観点を指示してきたが、それはこの哲学が感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなしたことによる。
    >
    > ◇ というのも、この区別は明らかに超越論的であって、単に認識の判明性あるいは非判明性という形式に関わることではなく、認識の起源と内容にかかわることであり、従って私たちは、感性によっては諸物自体そのものの性質を判明に認識できないのみならず、全然認識できないのである。
    >
    > ◇ また、表象された客観は、感性的直観がその客観に付与した固有性をともなうが、私たちが私たちの主観的性質を除き去るや否や、どこにも見出されるはずがなく、また見出され得なくなる。というのも、この主観的性質が現象としてのその客観の形式を規定するからである〔*2〕
    >
    > *2 原佑訳では文意がとりづらいため、石川訳を参考に作成しました。
    >
    > † 原佑訳上巻、p.176参照。他に、石川文康訳上巻、p.98〜p.99、中山元訳1、p.121〜p.122を参照。
    > †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    > † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    > † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。


    > † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    【覚え書き】

    ・ライプニッツの形而上学(モナドロジー)、倫理学?
    ・これに対するカントの認識論→行為論(倫理学?)
    >行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示す
引用返信/返信 削除キー/
■25117 / inTopicNo.42)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/22(Fri) 23:52:20)
    おくたがわさん、こんにちは!
    投稿ありがとうございます(o^^o)

    No25029
    > > 以下、現状の自分の解釈
    > ◇A 感性的なものは諸物についての混乱した(曖昧な)表象・観念であって、諸物に帰属するものを捉えているのだが、諸部分を意識して明瞭に区分することができていないのだ。というライプニッツの見方は、感性と現象についての間違った概念を作り上げ、それらについての学説を台無しにする。<

    はい。

    > ◇B ライプニッツの説による判明な表象(観念)と判明でないそれとの区別は論理的・形式的なものにすぎず、内容を問うことができない。
    > ところで、法についての常識的な概念は、最上の精緻な思弁が展開しうるものをまるごと含んでいるが、ただ法の通常の実際的使用においては、それらの表象のすべてが常に意識されているわけではない。<

    はい。

    > ◇C 【.o0 次の一文が、当初最も分からないところでした】
    > 『しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。』
    >
    > ・現状の私の読み、
    > 【つまり、法についての一般的概念は、対象を曖昧・不判明に捉えていることになるが】これをもって法の一般的概念は感性的なものだと言えるだろうか? またそれらは現象を含んでいると言えるだろうか? いや言えない、何故なら、
    >
    > 法は現象となることなどできず、その概念は知性の中にあって、人間の行為自体に帰属する(道徳的な)性質を表しているのだから。
    > 【つまり、感覚が作り出す「現象」という表象を介在させずに対象自体に帰属する性質そのものを捉えている】<

    pipitもおくたがわさんと同じような感じに読んでいるのでは?と自分では思っています。

    「法」という概念を説明するのに必要な徴表(nota)を含んでいない、一般的・日常的な「法」の使い方は、混雑な認識となる。
    もし、ライプニッツが、感性的認識は混雑認識、知性的認識なら判明認識、と言ったのなら、矛盾が出てくる。
    ※※(注意)ただし、もし言ってないなら、カントの論理(混雑だから感性的、ゆえに変)はおかしくなりますね。

    > > ◇D これに反して、直観における物体〔Koerpers〕≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。私たちの認識性能のこの受容性は感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。
    >
    > .o0 ここは原佑訳そのままで。カントが何回も言いたがっていることですね。<

    はい。

    > > 全体を超簡単にまとめると、
    > ・ライプニッツが「感性的」を説明する際の判明・不判明の区別は形式的で出自・内容を扱えない。
    > ・従って、それを感性的と知性的の区別に用いるのは間違いだ。それらは、出自・内容で区別されるのだから。<

    はい。

    > > 私が当初、そこにその文面が置かれている意味を解釈できなかった一文 
    > ◇C の『しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから《単なる現象を含んでいるに過ぎない》と言うことはできない』
    > 特に《 》の中がある理由
    >
    > 中山元訳では『しかしだからといって、常識的な概念は感覚的なものにすぎないとか、たんなる現象を含むにすぎないと主張することはできない。』
    >
    > 現状思っているのは、
    > カントにとって「感性的なものは現象を含む」は動かせない前提で、それが崩れるような考え方を採用すると『感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう』
    > 従って、現象を含むはずのない法の概念が感性的であるはずはなく、
    > ゆえに、「感性的」を「対象の属性を不明瞭に捉えること」と定義するのは間違いである。
    >
    >
    > これは、自分の学説に反する説に対する反論の前提・根拠として自分の学説を置くという、論点先取り(?)的な感じになるので、最初はそのように読めなかったのですが………<

    カントは感性をとても大切に扱っていますもんね。

    おくたがわさんは、黒崎政男先生の『カント『純粋理性批判』入門』はお持ちでしたっけ
    (・・?)
    p38-42に、ライプニッツ情報などがありました。
    その中に、純理B327のカントの文章の引用があって、

    『知性を重要だと考えたライプニッツも、感性が重要だと考えたロックも、それらは直接、物自体を把握できると考えていた。』

    カントにとっては、物自体と現象を分別すること、また、悟性と感性を分別すること、は、自説そのものであり、、、

    確かに、
    論点先取り、な気もしますね
    (^◇^;)

    ライプニッツ(=^▽^)σ「感性認識は判明でない認識!知性認識は判明な認識!」

    カント(・∀・)「【法】という概念は、感性認識なのかい?」

    いちゃもん。。。じゃないですよね。。。

    プチ情報
    ★【法】部分を、鈴木恒夫先生は、【正しさ】と訳されていました。 

    『それだからといって人は、通常の概念は感性的であり、たんなる現象を含むということはできない。というのは、正しさは全然現象することができないし、正しさの概念は悟性のうちにあり、行為自体に帰属する行為の性状(道徳的な)を表象するからである。』

    宇都宮芳明監修『純粋理性批判 上』以文社、p101より引用。

    おくたがわさん、ありがとうございます。
    いつでも気のむくまま、ご自由に思索を投稿してくださいね
    ( ^ω^ )


引用返信/返信 削除キー/
■25081 / inTopicNo.43)  Re[9]: おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/22(Fri) 06:36:57)
    おはようございます!
    すみません、思いついたので。

    No25076
    >まず前半で、ライプニッツ式だと論理的区別だけで内容には関わらないことを述べます。

    中盤で、ライプニッツ式だと「法」概念の認識判定はどうなるかを試します(カントの好きな背理法かな?)。
    「法」のうちにこの上なく精緻な思弁を展開=判明な表象、
    「法」の実用的な使用=判明でない表象、
    の2種の場合が可能だけど、
    実用的な使用の「法」概念が、判明でないゆえに感性的であるとは言えない。

    後半で、話題が少し滑り?おくたがわさんのおっしゃるような「法」の概念は知的な出自で、直観における表象と、その表象の意味合い(物自体を表象してるのか、本質を表象してるのか、など)は全く異なってる、という論点にシフトしている。<

    (先程思ったこと)
    後半で話題が少し滑ったのではなく、
    カントとしては論難したライプニッツ式の様式の内の、どの点が問題点だったのかを主張しているのかも、と、思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■25077 / inTopicNo.44)  田秋さんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/21(Thu) 23:53:16)
    No25064に返信(田秋さんの記事)
    > こんばんは、pipitさん
    >
    > pipitさんの過去の書き込みを引用させて頂きました。<

    田秋さん、こんばんは ♪

    引用了解いたしました。

    お知らせくださりありがとうございます
    (^○^)
引用返信/返信 削除キー/
■25076 / inTopicNo.45)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/21(Thu) 23:49:24)
    おくたがわさん、こんばんは!
    No25006

    >内容を問わず形式のみを扱う=論理的
    は一般的にも言われる特徴だし、カントもそれを踏襲しています。
    ただし、超越論的論理学は内容をも扱う点が特異とカントは述べていたと思いますが、今回の文脈では一般の「論理的=形式のみ」を踏まえているのだと思われます。
    実際に以下のように書かれています。
    > これだと、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別〔*1〕は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。<

    ほんとですね、『内容』に関わるか否か、で【論理】という言葉をこの箇所では用いているかんじですね。

    > 再認できるか否かの違いであるので、対象の内容・出自には関係なく一律に判断される。物体についても法の概念についても同じく明晰か曖昧かという形式的(論理的)区別しかしないことになる。<

    あ、ほんとだ。
    内容は無視される。

    > しかしカントは、法の概念といった知的な出自による産物と、物自体に触発されて生じる表象→現象という感性的なものを区別する。つまり論理的な区別ではなく出自・内容に踏み込んで区別する。<

    該当箇所を見直してみました。
    B61ですね。

    pipitの私見述べますね。
    おくたがわさんのおっしゃるような読み方で、カント哲学の文脈的には全くOKと思うのですが、
    おくたがわさんの解釈にバトンを渡す前の読み方も述べてみます。

    うましかさんの書き込みをお借りしますねm(_ _)m
    No24923
    >これだと、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別〔*1〕は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。確かに健全な悟性が用いている法〔Recht〕≠ノついての概念は、この上なく精緻な思弁がこの概念から展開し得るのと同一のものを含んでおり、ただ異なるのは、普通の実用的な使用においては法というこの思想のうちにあるこうした多様の諸表象が意識されていないということだけであろう。しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。というのも、法は現象することは全然できず、その概念は悟性のうちに潜んでおり、行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示すからである。
    これに反して、直観における物体≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。私たちの認識性能のこの受容性は感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。<

    (pipit私見)

    まず前半で、ライプニッツ式だと論理的区別だけで内容には関わらないことを述べます。

    中盤で、ライプニッツ式だと「法」概念の認識判定はどうなるかを試します(カントの好きな背理法かな?)。
    「法」のうちにこの上なく精緻な思弁を展開=判明な表象、
    「法」の実用的な使用=判明でない表象、
    の2種の場合が可能だけど、
    実用的な使用の「法」概念が、判明でないゆえに感性的であるとは言えない。

    後半で、話題が少し滑り?おくたがわさんのおっしゃるような「法」の概念は知的な出自で、直観における表象と、その表象の意味合い(物自体を表象してるのか、本質を表象してるのか、など)は全く異なってる、という論点にシフトしている。

    そのような感想を持ちました。

    No25029
    も、読ませていただくのとても楽しみですが、今日はおやすみさせていただきます
    m(_ _)m

    ありがとうございます(^○^)

引用返信/返信 削除キー/
■25064 / inTopicNo.46)  事後承諾ということで、済みません。
□投稿者/ 田秋 -(2022/07/21(Thu) 23:04:57)
    こんばんは、pipitさん

    pipitさんの過去の書き込みを引用させて頂きました。

引用返信/返信 削除キー/
■25035 / inTopicNo.47)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/21(Thu) 12:42:08)
    おくたがわさん、こんにちは!

    め、めちゃおもしろそうな投稿ありがとうございます!
    (((o(*゚▽゚*)o)))

    ゆっくり読んで、返信させていただきます。

    感謝です(^人^)
引用返信/返信 削除キー/
■25034 / inTopicNo.48)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/21(Thu) 12:37:52)
    2022/07/21(Thu) 12:43:27 編集(投稿者)

    うましかさん、こんにちは!

    No25001
    > カントの脳内回廊には、オオカミ師匠をはじめライプニッツさま、ヒュームさま、ロックさまがたっている… <

    すごく的確な表現だと感じました!
    カントの脳内回廊。。。
    あの方、この方、ズラーっと。。。。

    > 私が貼り付けたサイトによれば、
    >
    > >『認識、真理、観念についての省察』(1684)においてライプニッツは、認識(cognitio)の様式に 〔以下略〕
    > >ライプニッツによれば、以前目にした対象をそれに似たものから識別し、再認(agnoscere)できるか否かによって認識は明晰か曖昧かに分かれる。
    >
    > とありますが、『認識、真理、観念についての省察』を調べてみたところ、ライプニッツ著作集(第T期、第8巻、p.25〜)における訳者 米山優は、"agnoscere"に「認める」、"recognoscere"に「再認」という訳語をあてているようですねー<

    『再認』が明晰認識か曖昧認識かの判別基準なんだから、重要概念ですよね。

    蝉を蝉と知ること。
    川を川と知ること。
    とかなのかなあ???
    んー、【概念】の機能的な面のことなのかなぁ???


    > ロンリ的な区別とはなんぞや?
    >
    > 中山元訳1を参考とするならば、ライプニッツのように、(物自体を認識する)知性による認識は判明的であり、(物自体を認識する)感性による認識は判明的ではないという(p.120〜p.122、p.262参照)、"判明であるか否か"というような区別ではなく、カントのように、「認識の起源と内容」によって区別されるということなのでしょうか
    > (;´・ω・)?
    >
    > 前者の区別を、カントは「論理的なもの」と称しているのですね。

    あ!少し話題ずれちゃうのですが、
    ご紹介の記事から、判明か混雑かは『言明できるか否か』が基準になってるとpipitは読みました。
    知性では言語化できてるから判明で、
    感性は感覚だから『混雑』なのかなぁ。
    (・・?)

    ↓下記にpipitが、ご紹介記事からどのような思考を作ったかを投稿しますね。
    いつもありがとうございます!

    ★★★★★★★★★★★★★
    引用開始
    『認識、真理、観念についての省察』(1684)においてライプニッツは、認識(cognitio)の様式に明晰(clara)・曖昧(obscura)、そして判明(distincta)・混雑(confusa)という区分を導入した。これは直接には、デカルトの『哲学原理』(1644)第一部第四十五節における明晰、判明な認識に関する議論に端を発している。ある対象を他の対象から区別できる認識を明晰とし、明晰なもの以外に何も含まない認識を判明としたデカルトの主張をライプニッツは不十分として、そこに修正を加える。ライプニッツによれば、以前目にした対象をそれに似たものから識別し、再認(agnoscere)できるか否かによって認識は明晰か曖昧かに分かれる。そして全ての明晰な認識はまた、ある対象を他の対象から識別するために必要な徴表(nota)を言明できるか否かによって判明か混雑かに分かれる。』
    引用終了

    (pipitメモ)_φ(・_・

    ライプニッツ先生説
    【認識(cognitio)の様式】

    @ 明晰(clara)・・・再認(agnoscere)できる。

    A 曖昧(obscura)・・・再認(agnoscere)できない。



    そして、すべての@は、

    @の判明・・・必要な徴表(nota)を言明できる。

    @の混雑・・・必要な徴表(nota)を言明できない。

    引用開始
    『つまり色・香り・味等の感覚によって対象を識別した明晰な認識も、その区別の根拠となる対象の特徴を説明できない場合は混雑な認識であり得る。重要なのは、ライプニッツにおける認識の区分は、対象の再認とその徴表の枚挙が可能か否かという観点からなされており、それは感覚と概念という認識する主観の側の表象能力の差異ではないということである。』
    引用終了

    (pipit感想)
    色、香り、味の再認ができて、明晰な認識であっても、その対象の区別的概念が言明できる場合は、明晰判明な認識であり、言明できない場合は、明晰混雑な認識となる。

    引用開始
    『感覚による認識が曖昧であり得るのと同様に、確かな定義を持っていない概念も曖昧であり得る。その結果、感覚による認識と概念による認識は別種の表象様式としてではなく、同種の認識の判明さの等級としてのみ区別されることとなる。』
    引用終了

    (pipit感想)
    再認できない概念は曖昧な認識となる。
    【感覚による認識】【概念による認識】は、同じ土俵で、格付けされる対象となる。

    pipitの自分勝手読解。

    @(1)明晰で判明な認識。(明晰で言明化できるほど整理できている認識)
    @(2)明晰で混雑な認識。(明晰だが言明化できるまでは整理されていない認識)
    A曖昧な認識。

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