| お邪魔しま〜す
>カント先生は本当に分別が好きですねー< わたしもそう思う。 でも、世界を「知る」っていうことは、世界の「分類」作業から始まるんだと思ってるからそういうんで普通なんだとわたし見てる。 だからわたしの問題は分類の仕方なんね。
たとえば、カントは「認識」を大きな幹として、「感性」と「知性(悟性)」に分類してるのよね?ここが彼の「認識」の分類の仕方の出発点(前提)だとわたし見てる。ここから秩序づけ、体系化していってるんじゃないかってね。
あ、あと、 中島義道さんによると、カントの言う「現象」(日本語訳)は「正しい現れ」っていうことみたい、もしこれに従って訳者がその訳語を使ってるんだとしたら、「現象」っていうのが出てきたら、それすべて「正しい現れ」って置き換えてていいことになるよね。
たとえば、 >感性的なものは諸物についての混乱した(曖昧な)表象・観念であって、諸物に帰属するものを捉えているのだが、諸部分を意識して明瞭に区分することができていないのだ。というライプニッツの見方は、感性と現象についての間違った概念を作り上げ、それらについての学説を台無しにする。< っていう日訳があったとすると、「現象」を〈正しい現れ〉に置き換えて見るのね。
> 感性的なものは諸物についての混乱した(曖昧な)表象・観念であって、諸物に帰属するものを捉えているのだが、諸部分を意識して明瞭に区分することができていないのだ。というライプニッツの見方は、感性と〈正しい現れ〉についての間違った概念を作り上げ、それらについての学説を台無しにする。< ってなるのね。
カントの文章(日訳)は、彼の使う用語(日訳語)の、彼における意味を捉えておく必要があるのかもね。
ちなみに、日訳での「現象」、 「現象学」でいう「現象」は「phenomenon」で、ギリシア語の phainomenonに由来してるみたい。 ここらへん、どうなのかな〜っていうの知りたいところ。
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