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■24838 / inTopicNo.73)  Re[4]: 超越論的感性論 第八項:\−3
  
□投稿者/ pipit -(2022/07/13(Wed) 00:41:29)
    2022/07/13(Wed) 08:15:39 編集(投稿者)
    2022/07/13(Wed) 00:58:23 編集(投稿者)

    No 24835
    うましかさん、こんばんはー

    さっぱり文意がとれず(カント先生のせい!)とりあえず中山先生の訳本を開いてみました。
    訳注でも(1.p 262)中山先生は『この法の実例による考察は分かりにくい』とおっしゃってましたね。

    困った時の御子柴先生…(・∀・)

    うぅ、言及みつからなかった(*_*)

    一番最後がまだわかるかなぁ、そこからさかのぼってみたらわかるかなぁ。
    【これに反して】以降の文意は、現象と物自体が別物ってことかな。
    ということは、前の段落は、
    現象と物自体(法)は、別物ではない、、、一つのものの中で明晰に認識できてるものと、明晰ではない認識とがある、という捉え方であり、対象としては同一的というのが
    ライプニッツ的な?【私たちの全感性〔ganz Sinnlichkeit〕は諸物の混乱した表象以外の何ものでもなく、そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって〔mit Bewusstsein〕明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎないとみなす考え】
    であり、
    それは、【感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう。】考えであり、

    カント自身の意見としては以下のもの↓

    > ◇これに反して、直観における物体〔Koerpers〕≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。私たちの認識性能のこの受容性は感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。<

    と言ってるのかなと、眠くて頭も働かない中、
    わからないなりに考えてみました。
    (_ _).。o○


    うましかさん、おつかれさまですm(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■24835 / inTopicNo.74)  超越論的感性論 第八項:\−3
□投稿者/ うましか -(2022/07/12(Tue) 20:36:39)
    2022/07/12(Tue) 20:37:46 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    今夜もカント沼ダイブッ!!

    (/・ω・)/パシャパシャ

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第八項 超越論的感性論のための一般的注解

    ◆T. 先ず、できる限り明らかに説明しておく必要があるのは、感性的認識一般の根本性質に関する私たちの見解がいかなるものであるのかということであるが、これは、その根本性質に対するあらゆる誤解を予め防ぐためである。

    ◆ 私たちが主張してきたことは以下のことである。すなわち、あらゆる私たちの直観は、現象についての表象以外の何ものでもないということ、言い換えれば、私たちが直観する諸物は、それ自体そのものとしては、私たちが諸物をそうだと直観しているそのものでもなければ、またそれらの諸物の諸関係も、それ自体そのものとしては、それらの諸関係が私たちに現象しているとおりの性質のものではないということ、だから、私たちが、私たちの主観を、ないしは感官一般の主観的性質だけでも廃棄すれば、空間と時間とにおける客観の全ての性質、全ての関係が、いや空間と時間すら、消滅してしまうはずであり、従って、それらの性質や関係は、現象としてそれ自体そのものとして現存するのではなく、ただ私たちの内にのみ現存し得るに過ぎないということ、このことに他ならない。それ自体として、また私たちの感性のこうした全ての受容性から離れて、対象に関する事情がどのようなものであるかは、私たちには全面的に未知のままである。私たちは、対象を知覚する私たちの様式以外には何一つとして知らず、この私たちの様式は私たちに特有であり、たとえあらゆる人間に帰属するに違いないにせよ、必ずしもあらゆる存在者に帰属するというわけのものではない。こうした私たちの様式だけを、私たちはもっぱら問題とする。空間と時間は他ならぬこの私たちの様式の純粋形式であり、感覚一般はその実質である。前者の空間と時間だけを、私たちは、ア・プリオリに、言い換えれば、全ての現実的知覚に先立って認識することができ、それ故に、それらは純粋直観と呼ばれる。しかし、後者の感覚〔感覚一般〕は、私たちの認識において、ア・ポステリオリな認識と、言い換えれば、経験的な直観と、呼ばれる所以のものに他ならない。前者〔空間と時間〕は、たとえ私たちの感覚がいかなる種類のものであろうと、私たちの感性に端的に必然的に結びついている。私たちの感覚は極めて様々であり得る。たとえ私たちがこうした私たちの直観を最高度の判明性へともたらし得たとしても、私たちはこのことによって諸対象自体そのものの性質にいっそう近づくことにはならないであろう。なぜなら、私たちは、いかなる場合にも直観の私たちの様式、言い換えれば、私たちの感性しか完璧に認識することはできず、しかもこの私たちの感性を、空間と時間という主観に元々結びついている条件のもとでのみ、常に認識するからである。諸対象自体そのものがいかなるものであるにせよ、そうした諸対象自体そのものは、私たちにそれのみが与えられている、それらの現象をいくら明瞭に認識したところで、決して既知のものとはなり得ないであろう。

    --- No.24686 からの続き ---

    ◇だから、次のような〔ライプニッツの*1〕意見、すなわち、私たちの全感性〔ganz Sinnlichkeit〕は諸物の混乱した表象以外の何ものでもなく、そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって〔mit Bewusstsein〕明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎないとみなす考えは、感性と現象とについての概念を偽造したものであって、こうした偽造は感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう。

     *1 中山元訳1、p.120による。次の段◇内の〔〕内も同様。

    ◇これだと、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの*1〕区別は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。確かに健全な悟性が用いている法〔Recht〕≠ノついての概念は、この上なく精緻な思弁がこの概念から展開し得るのと同一のものを含んでおり、ただ異なるのは、普通の実用的な使用においては法というこの思想のうちにあるこうした多様の諸表象が意識されていない〔nicht bewusst ist〕ということだけであろう。

    ◇しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。というのも、法は現象することは全然できず、その概念は悟性のうちに潜んでおり、行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示すからである。

    ◇これに反して、直観における物体〔Koerpers〕≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。私たちの認識性能のこの受容性は感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。


    † 原佑訳上巻、p.175〜p.176参照。他に、石川文康訳上巻、p.97〜p.98、中山元訳1、p.120〜p.121を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    \−1 No.24381、\−2 No.24686、\−3 No.24835
    [−4 No.23865、[−5 No.24101
    [−1 No.23091、[−2 No.23113、[−3 No.23247
    Z−4 No.22690、Z−5 No.23032
    Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067
    Y−1 No.20986
    X−4 No.20772
    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032
    第七項 No.23091,23113,23247,23865,24101
    第八項 No.24381,24686,24835

引用返信/返信 削除キー/
■24833 / inTopicNo.75)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 16:54:18)
    2022/07/12(Tue) 17:22:22 編集(投稿者)

    私は何を知ることができるか、だからかなぁ

    ※追記
    ちょっと先に目を通したけど、、、沼すぎる!!!
    (TT)
引用返信/返信 削除キー/
■24832 / inTopicNo.76)  Re[11]: B140
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 16:50:33)
    2022/07/13(Wed) 10:13:06 編集(投稿者)

    No24831のpipit感想

    ここでカント先生は、超越論的統一と主観的統一を区別するように、とおっしゃってますが、
    pipitのNo24818の後半に書いた感想文は、どちらかというと、主観的な統一のためのフレームの描写、って感じになってるなと思いました。

    カント先生の超越論的という術語は、やはり『対象』に焦点があるものなのかなと現時点では思いました。

    とりあえず休憩!!
    _(:3 」∠)_

引用返信/返信 削除キー/
■24831 / inTopicNo.77)  Re[10]: B140
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 16:49:29)
    ↓B140冒頭の英訳とDeepL日訳
    It is by means of the transcendental unity of apperception that all the manifold, given in an intuition is united into a conception of the object. On this account it is called objective, and must be distinguished from the subjective unity of consciousness, which is a determination of the internal sense, by means of which the said manifold in intuition is given empirically to be so united.

    直観において与えられたすべての多様なものが、対象の概念に統合されるのは、超越的な認識の統一によってである。このような理由から、それは客観的と呼ばれ、内的感覚の決定である意識の主観的統一とは区別されなければならないが、それによって、直観における前記多様体は経験的にそう結合されるように与えられる。
引用返信/返信 削除キー/
■24830 / inTopicNo.78)  B140
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 16:48:44)
    わー、もう疲れた、やめようと思ったら、B140冒頭が、
    ちょうど私の
    No24818の後半で書いた感想とリンクしてる気がして、
    それは区別せんなあかんのやでー、とカント先生に言われてる文章となってる気がしました
    (・・;)

    ※英訳文を載せるとアクセス禁止になるようなので、次の投稿で英訳文を引用します。
引用返信/返信 削除キー/
■24829 / inTopicNo.79)  B140へ進みます。
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 16:21:46)
引用返信/返信 削除キー/
■24828 / inTopicNo.80)  Re[7]: 沼すぎB138
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 16:09:57)
    続きの英訳文とその機械翻訳を載せます。次に進みますが、何かご質問などがあれば、どなた様も遠慮なく書き込みくださいませ。

    This proposition is, as already said, itself analytical, although it constitutes the synthetical unity, the condition of all thought; for it states nothing more than that all my representations in any given intuition must be subject to the condition which alone enables me to connect them, as my representation with the identical self, and so to unite them synthetically in one apperception, by means of the general expression, “I think.”
    But this principle is not to be regarded as a principle for every possible understanding, but only for the understanding by means of whose pure apperception in the thought I am, no manifold content is given. The understanding or mind which contained the manifold in intuition, in and through the act itself of its own self-consciousness, in other words, an understanding by and in the representation of which the objects of the representation should at the same time exist, would not require a special act of synthesis of the manifold as the condition of the unity of its consciousness, an act of which the human understanding, which thinks only and cannot intuite, has absolute need. But this principle is the first principle of all the operations of our understanding, so that we cannot form the least conception of any other possible understanding, either of one such as should be itself intuition, or possess a sensuous intuition, but with forms different from those of space and time.

    (DeepL機械翻訳)
    この命題は、すでに述べたように、すべての思考の条件である統語的統一を構成しているが、それ自体は分析的である。なぜなら、この命題は、任意の直観におけるすべての私の表象は、私がそれらを私の表象として同一の自己と結び付け、「私は思う」という一般表現によって、それらを一つの知覚において統語的に統一することを唯一可能にする条件に服さなければならないという以上のものではないからである。
    しかし、この原理は、あらゆる可能な理解のための原理と見なされるのではなく、「私は思う」において、その純粋な認識によって、多様な内容が与えられない理解だけのためのものである。直観において、それ自身の自己意識の行為自体において、またその行為を通して多様体を含む理解や心、言い換えれば、表現の対象が同時に存在すべき、表現による、またその表現における理解は、その意識の統一の条件として、多様体を合成する特別な行為を必要としないであろう。しかし、この原理は、我々の理解のすべての動作の第一原理であるため、我々は、それ自体が直観であるべきもの、あるいは、感覚的な直観を持つが、空間と時間のものとは異なる形態を持つものなど、他のいかなる可能な理解についても少なくとも観念を形成することができないのである。
引用返信/返信 削除キー/
■24827 / inTopicNo.81)  Re[6]: 沼すぎB138
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 15:50:08)
    No24826
    DeepL翻訳文
    >なぜなら、それ以外の方法では、そしてこの合成なしでは、直観の中の多様なものが一つの意識に統合されることはありえないからです。<

    の意味内容を、説明してるようにpipitには思える、御子柴善之先生の説明文を引用します。

    御子柴善之先生の文章
    『このとき、主観に対する客観とは、主観を離れてそれ自体で存立するものではなく、感性の直観を介して主観に与えられた多様な表象が概念によって統一されて成立するものです。〈この猫は三毛猫だ〉と認識するとき、〈三毛猫〉という概念において、主観に与えられた諸表象(猫らしい生命体の諸表象、白、茶、黒の毛などの諸表象など)が統一されます。この統一された客観に下される判断は、もはや主観的なものではありません。〈この猫は三毛猫だ〉という判断に対して、他人が〈そのとおり〉と答えたり、〈いや、その猫はアメリカンショートヘアーだよ〉と反応したりする可能性を思い描いてみてください。そこには、もはやたんなる主観にとどまらないことがらが生じています。』
    (『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p206.207より引用)

引用返信/返信 削除キー/
■24826 / inTopicNo.82)  Re[5]: 沼すぎB138
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 14:28:39)
    みなさま、こんにちは。
    B138あたり続きの読解です。

    The synthetical unity of consciousness is, therefore, an objective condition of all cognition, which I do not merely require in order to cognize an object, but to which every intuition must necessarily be subject, in order to become an object for me;

    because in any other way, and without this synthesis, the manifold in intuition could not be united in one consciousness.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap43

    (DeepL機械翻訳)
    したがって、意識の総合的統一は、すべての認識の客観的条件であり、私が対象を認識するために必要なだけでなく、あらゆる直観が、私にとっての対象になるために、必ずこれに従わなければならないものです。

    なぜなら、それ以外の方法では、そしてこの合成なしでは、直観の中の多様なものが一つの意識に統合されることはありえないからです。
引用返信/返信 削除キー/
■24821 / inTopicNo.83)  Re[4]: 沼すぎB138
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 10:36:19)
    2022/07/12(Tue) 10:41:13 編集(投稿者)

    思い出し過去日記

    No24534

    pipit読感
    > 根源的な、総合的統一、という路(ルート)。
    経験的という名の水が入ると、そのルートを流れるしかない。
    そのルートの流れは、水の在り方の条件とは、独立した在り方をしてる。<

    =============

    上記と直線関係あるのではなく、形式(form)という在り方において、ちょっと思い出した英訳。

    No24067
    B138の原文の一部分のDeepL日訳

    Thus the mere form of external sensory perception, space, is not yet cognition at all;
    it only gives the manifold of perception a priori to a possible cognition.

    ======

    多分なんだけど、(違うかもだけど)、

    空間は認識ではないんだけど、『私は考える』の統覚作用は、客観の最初の認識。
    と、カントは話を持っていく?、と今はちょっと思ってます。

    よ、読んでみますぅー(;ω;)ヨテイ



引用返信/返信 削除キー/
■24818 / inTopicNo.84)  Re[3]: 沼すぎB138
□投稿者/ pipit -(2022/07/12(Tue) 10:08:34)
    みなさま、おはようございます(^ ^)

    No24650で引用した箇所の文意の構造をイメージするために、y=xという直線に仮として当てはめて文章読解してみました。

    【田村一郎先生訳】
    >だから外的な感性的直観のたんなる形式である空間は、まだまったく何の認識でもない。
    空間が与えるのは、可能的な認識に対するア・プリオリな直観の多様だけである。<

    (pipit感想)
    これは、とりあえず平面座標が用意されてる状態。
    形式としての平面座標が対象となる認識としては、点が現れることだけがアプリオリに認識される。

    >けれども空間において何かを認識するためには、たとえば線を認識するためには、線を引いてみなければならない。
    つまり与えられた多様の特定の結合を、総合的に実現してみなければならないのである。<

    (pipit感想)
    y=xという直線を現実に現すためには、
    座標の連なりを結合して直線と見立てる行為を私は為す。


    >そうすればこうした行為の統一は同時に意識の統一(一つの線の概念における)となり、そうすることによってはじめて、客観(特定の空間)が認識されるのである。<

    (pipit感想)
    座標点を塗りつぶしていく行為を、一つの(直線を引く)行為として統一する ⇒ 一つの直線という意識の統一(統一先が一つの直線)。
    この統一 が 普遍と特殊、の特殊としての一つの客観となる。

    ※※※※

    ここから,飛躍しまして、、の感想を。

    pipitの人生ということにおいて、
    様々な意識が生まれて消える。

    この意識を、すべて『私』という自己意識で処理するとき、『私の物語』も生まれる。

    見たものを、私は見た、と、考える。
    聞いたものを、私は聞いた、と、考える。
    考えたものを、私は考えた、と、考える。

    これはカント的にはアプリオリな認識。

    上記引用文では、『線を引く』という行為の統一を、同時に意識の統一として、一つの客観の作成のような描写にpipitには思われたのですが、
    それは構造としては、
    『生きる』という営みとして捉えることもできるのではないかと思いました。

    瞬間瞬間の行為、行為、行為、を、『私が生きる』という行為の統一、に、自然に流れる。そう流れるのが自然。

    そのようなことを、B138を読解しながら、思っていました。

    大沼文章が続きそうな予感ですが、続きを読んでみようと思っています。


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