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■24407 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。38
  
□投稿者/ パニチェ -(2022/07/06(Wed) 19:51:19)
    トピ主:pipitさん

    引き続きよろしくお願いします。


引用返信/返信 削除キー/
■24408 / inTopicNo.2)  Re[1]: 純粋理性批判を読んでみる。38
□投稿者/ pipit -(2022/07/06(Wed) 23:37:37)
    パニチェさん、こんばんは!

    パニチェさんのおかげで、楽しく学ばせていただいて感謝です。

    よろしくお願いしますm(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■24650 / inTopicNo.3)  沼すぎB138
□投稿者/ pipit -(2022/07/10(Sun) 14:37:12)
    みなさま、こんにちは!
    沼すぎB138(一部分)の御二方の日訳です。多分この先も沼すぎ予感ですけど,,,
    Σ(・□・;)

    【中山元先生訳】
    『だから感性による外的な[事物の]直観のためのたんなる条件である空間は、認識ではない。
    空間は直観において与えられた多様なものを、認識できるようにアプリオリに提示するだけである。
    しかし何ものかを空間の中にあるものとして認識するためには、たとえばある直線を認識するためには、わたしはこれを実際に引いてみて、[直観に]与えられた多様なものを総合的に結合しなければならない。
    この[線を引くという]行為における統一は、同時に(直線の概念における)意識の統一でもあり、これによって初めて客体が(特定の空間が)認識されるのである。』

    【田村一郎先生訳】
    『だから外的な感性的直観のたんなる形式である空間は、まだまったく何の認識でもない。
    空間が与えるのは、可能的な認識に対するア・プリオリな直観の多様だけである。
    けれども空間において何かを認識するためには、たとえば線を認識するためには、線を引いてみなければならない。
    つまり与えられた多様の特定の結合を、総合的に実現してみなければならないのである。
    そうすればこうした行為の統一は同時に意識の統一(一つの線の概念における)となり、そうすることによってはじめて、客観(特定の空間)が認識されるのである。』
引用返信/返信 削除キー/
■24651 / inTopicNo.4)  Re[3]: 沼すぎB138
□投稿者/ pipit -(2022/07/10(Sun) 14:46:21)
    例示もよくわかんないよ 。゚(゚´ω`゚)゚。

    中山元先生訳
    >しかし何ものかを空間の中にあるものとして認識するためには、たとえばある直線を認識するためには、わたしはこれを実際に引いてみて、[直観に]与えられた多様なものを総合的に結合しなければならない。
    この[線を引くという]行為における統一は、同時に(直線の概念における)意識の統一でもあり、これによって初めて客体が(特定の空間が)認識されるのである<


    ------------------------

    ↑これ、一本の直線として、、、

    認識以前に、pipitは複数回入力しましたね。
    それが、
    >たとえばある直線を認識するためには、わたしはこれを実際に引いてみて、[直観に]与えられた多様なものを総合的に結合しなければならない。<

    >この[線を引くという]行為における統一は、同時に(直線の概念における)意識の統一でもあり、<

    ふむー、複数回の行為を、一つのもの(線を引く)として統一することは、
    【一つの直線】という概念を生じている意識への統一でもあり、

    >これによって初めて客体が(特定の空間が)認識されるのである。<

    一つの直線という客体(特定の空間と共にある一つの客観的対象)の認識が成される。

    かなぁ。
引用返信/返信 削除キー/
■24653 / inTopicNo.5)  Re[4]: 沼すぎB138
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/10(Sun) 17:47:35)
    お邪魔しま〜す。

    カントの場合、
    >認識されるのである<
    なのよね。
    〈意識される〉じゃなくて。

    わたし「認識」と「意識」はいちおいう区別してるんだけど、

    pipitさまやうましかちゃんはどうなのかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■24658 / inTopicNo.6)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/10(Sun) 19:01:32)
    No24653に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しま〜す。
    >
    > カントの場合、
    > >認識されるのである<
    > なのよね。
    > 〈意識される〉じゃなくて。
    >
    > わたし「認識」と「意識」はいちおいう区別してるんだけど、
    >
    > pipitさまやうましかちゃんはどうなのかしら?

    悪魔ちゃん、こんにちは!

    pipit個人の場合?

    pipitとしては、日常的には、あんまし区別せずに使ってると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■24686 / inTopicNo.7)  超越論的感性論 第八項:\−2
□投稿者/ うましか -(2022/07/10(Sun) 22:09:06)
    2022/07/10(Sun) 22:09:56 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    夜の沼にダイブッ!!

    (/・ω・)/ポチャ


    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第八項 超越論的感性論のための一般的注解

    ◇ T先ず、できる限り明らかに説明しておく必要があるのは、感性的認識一般の根本性質に関する私たちの見解がいかなるものであるのかということであるが、これは、その根本性質に対するあらゆる誤解を予め防ぐためである。
    私たちが主張してきたことは以下のことである。すなわち、あらゆる私たちの直観は、現象についての表象以外の何ものでもないということ、言い換えれば、私たちが直観する諸物は、それ自体そのものとしては、私たちが諸物をそうだと直観しているそのものでもなければ、またそれらの諸物の諸関係も、それ自体そのものとしては、それらの諸関係が私たちに現象しているとおりの性質のものではないということ、だから、私たちが、私たちの主観を、ないしは感官一般の主観的性質だけでも廃棄すれば、空間と時間とにおける客観の全ての性質、全ての関係が、いや空間と時間すら消滅してしまうはずであり、従ってそれらの性質や関係は、現象として、それ自体そのものとして現存するのではなく、ただ私たちの内にのみ現存し得るに過ぎないということ、このことに他ならない。
    それ自体として、また私たちの感性のこうした全ての受容性から離れて、対象に関する事情がどのようなものであるかは、私たちには全面的に未知のままである。私たちは、対象を知覚する私たちの様式以外には何一つとして知らず、この私たちの様式は、私たちに特有であり、たとえあらゆる人間には帰属するに違いないにせよ、必ずしもあらゆる存在者にも帰属するというわけのものではない。こうした私たちの様式だけを私たちはもっぱら問題とする。

    --- No.24381 からの続き ---

    ◇ 空間と時間は他ならぬこの私たちの様式の純粋形式であり、感覚一般はその実質である。前者の空間と時間だけを、私たちは、ア・プリオリに、言い換えれば、全ての現実的知覚に先立って認識することができ、それ故に、それらは純粋直観と呼ばれる。しかし、後者の感覚〔感覚一般〕は、私たちの認識において、ア・ポステリオリな認識と、言い換えれば、経験的な直観と呼ばれる所以のものに他ならない。

    ◇ 前者〔空間と時間〕は、たとえ私たちの感覚がいかなる種類のものであろうと、私たちの感性に端的に必然的に結びついている。私たちの感覚は極めて様々であり得る。たとえ私たちがこうした私たちの直観を最高度の判明性へともたらし得たとしても、私たちはこのことによって諸対象自体そのものの性質にいっそう近づくことにはならないであろう。なぜなら、私たちは、いかなる場合にも直観の私たちの様式、言い換えれば、私たちの感性しか完璧に認識することはできず、しかもこの私たちの感性を、空間と時間という、主観に元々結びついている条件のもとでのみ、常に認識するからである。

    ◇ 諸対象自体そのものがいかなるものであるにせよ、そうした諸対象自体そのものは、私たちに、それのみが与えられている、それらの現象をいくら明瞭に認識したところで、決して既知のものとはなり得ないであろう。


    † 原佑訳上巻、p.174〜p.175参照。他に、石川文康訳上巻、p.97、中山元訳1、p.119〜p.120を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    \−1 No.24381、\−2 No.24686
    [−4 No.23865、[−5 No.24101
    [−1 No.23091、[−2 No.23113、[−3 No.23247
    Z−4 No.22690、Z−5 No.23032
    Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067
    Y−1 No.20986
    X−4 No.20772
    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032
    第七項 No.23091,23113,23247,23865,24101
    第八項 No.24381,24686

引用返信/返信 削除キー/
■24739 / inTopicNo.8)  Re[3]: 超越論的感性論 第八項:\−2
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/11(Mon) 09:07:47)
    2022/07/11(Mon) 09:46:59 編集(投稿者)

    おはようございます。
    久しぶりにツイッターを見たら、永井均さんがこう呟いていました。
    『哲学のやり方で唯一後悔していることは、もっと若い頃からカントを、それも純粋理性批判だけを、繰り返し読み続ければよかった、ということ。純粋理性批判がどれほど素晴らしい仕事をしているか、カント自身でさえも完全には理解していないと思う。』

    これは、pipitさんやうましかさんに紹介しないといけないと思いました。




引用返信/返信 削除キー/
■24740 / inTopicNo.9)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/11(Mon) 12:35:37)
    うましかさん、こんにちは!

    私は今、演繹論をよんでるけど、ちょうど感性論のことも出てくるので、毎回とても興味深く読ませていただいています。
    投稿ありがとうございます(o^^o)

    カントって本当不思議な人に思えてしまいます。
    (・・;)???
引用返信/返信 削除キー/
■24741 / inTopicNo.10)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/11(Mon) 12:48:10)
    お、おくたがわさん、。゚(゚´ω`゚)゚。

    お知らせくださってありがとうございます!

    永井均さんのカント解説本出ないかなぁ、読んでみたいです(*^ω^*)
    でも、カントだからなぁ、沼すぎで、時間もかかりそうだしなぁ。


    思い出したのですけど、中村昇先生のエッセイに、

    https://www.toibito.com/series/series-1/3024

    『オイゲン・ヘリゲルという『弓と禅』という名著を書いたドイツの哲学者は、『純粋理性批判』を72回読んだけれども、よくわからないから、いま73回目を読んでいる、といっていたということですし、20世紀屈指の思想家ルドルフ・シュタイナーも、高校のとき、レクラム版(岩波文庫が手本にした文庫)の『純粋理性批判』をばらばらにして授業時に内職をして20回以上読んだと自伝に書いています。』

    とあって、沼ながら、やっぱり惹かれる人は惹かれてしまうんだな、と。
    気がつくと沼からハスの花が咲いたら嬉しいけどなー

    おくたがわさん、久しぶりの書き込み、とても嬉しいです。
    またよかったら、いつでも大歓迎なので書き込みくださいね
    ((o(^∇^)o))

引用返信/返信 削除キー/
■24794 / inTopicNo.11)  pipitさん、おくたがわさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/07/11(Mon) 23:14:58)
    pipitさん、こんばんはー(/・ω・)/沼

    おくたがわさん、お久しぶりですm(__)m

    *******

    No.24739 (おくたがわさん)

    >久しぶりにツイッターを見たら、永井均さんがこう呟いて

    >『哲学のやり方で唯一後悔していることは、もっと若い頃からカントを、それも純粋理性批判だけを、繰り返し読み続ければよかった、ということ

    なぜ永井はそんなことおもったのかなー(;´・ω・)?

    >これは、pipitさんやうましかさんに紹介しないといけないと思いました。

    ありがとうございます!m(__)m
    永井の呟きよりも、私は、おくたがわさんのこの言葉が妙に染みてうれしくおもいました。

    No.24740,24741 (pipitさん)

    >カントって本当不思議な人に思えてしまいます。

    ふしぎですかー(;´・ω・)
    私はやっぱり、●ンタイにおもえますねー

    >オイゲン・ヘリゲル

    そういえば、この人ってナチ党員だったような…(´・ω・`)

    ◆山田奨治『神話としての弓と禅』

    ◆山田奨治『オイゲン・ヘリゲルの生涯とナチス--神話としての弓と禅(2)』

    https://nichibun.repo.nii.ac.jp/

    ↑の検索項目に「山田 奨治」と記入し検索してくださいませ。



    こういう研究も興味ぶかいです。

    ◆ Eugen Herrigel, 秋沢 美枝子 訳, 山田 奨治 訳
     『<研究資料>オイゲン・ヘリゲル著「国家社会主義と哲学」「サムライのエトス」全訳と改題』

    https://nichibun.repo.nii.ac.jp/

    ↑の検索項目に「秋沢 美枝子」と記入し検索してくださいませ。




引用返信/返信 削除キー/
■24796 / inTopicNo.12)  御礼
□投稿者/ 田秋 -(2022/07/11(Mon) 23:17:16)
    こんばんは、pipitさん

    横レス、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。
引用返信/返信 削除キー/

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