(現在 過去ログ3 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■25029 / inTopicNo.49)  Re[4]: 超越論的感性論 第八項:\−3
  
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/21(Thu) 09:25:39)
    No24835に返信(うましかさんの記事)
    おはようございます。

    以下のうましかさんの引用まとめを先日読んだとき分からない部分があり、今でも分かってないのですが記録として書き留めさせてください。
    ◇の後のアルファベットは自分が付けました、すみません。

    > ◇A だから、次のような〔ライプニッツの*1〕意見、すなわち、私たちの全感性〔ganz Sinnlichkeit〕は諸物の混乱した表象以外の何ものでもなく、そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって〔mit Bewusstsein〕明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎないとみなす考えは、感性と現象とについての概念を偽造したものであって、こうした偽造は感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう。
    >
    >  *1 中山元訳1、p.120による。次の段◇内の〔〕内も同様。
    >
    > ◇B これだと、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの*1〕区別は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。確かに健全な悟性が用いている法〔Recht〕≠ノついての概念は、この上なく精緻な思弁がこの概念から展開し得るのと同一のものを含んでおり、ただ異なるのは、普通の実用的な使用においては法というこの思想のうちにあるこうした多様の諸表象が意識されていない〔nicht bewusst ist〕ということだけであろう。
    >
    > ◇C しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。というのも、法は現象することは全然できず、その概念は悟性のうちに潜んでおり、行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示すからである。
    >
    > ◇D これに反して、直観における物体〔Koerpers〕≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。私たちの認識性能のこの受容性は感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。

    ************

    以下、現状の自分の解釈
    ◇A 感性的なものは諸物についての混乱した(曖昧な)表象・観念であって、諸物に帰属するものを捉えているのだが、諸部分を意識して明瞭に区分することができていないのだ。というライプニッツの見方は、感性と現象についての間違った概念を作り上げ、それらについての学説を台無しにする。
    ◇B ライプニッツの説による判明な表象(観念)と判明でないそれとの区別は論理的・形式的なものにすぎず、内容を問うことができない。
    ところで、法についての常識的な概念は、最上の精緻な思弁が展開しうるものをまるごと含んでいるが、ただ法の通常の実際的使用においては、それらの表象のすべてが常に意識されているわけではない。

    ◇C 【.o0 次の一文が、当初最も分からないところでした】
    『しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。』

    ・現状の私の読み、
    【つまり、法についての一般的概念は、対象を曖昧・不判明に捉えていることになるが】これをもって法の一般的概念は感性的なものだと言えるだろうか? またそれらは現象を含んでいると言えるだろうか? いや言えない、何故なら、

    法は現象となることなどできず、その概念は知性の中にあって、人間の行為自体に帰属する(道徳的な)性質を表しているのだから。
    【つまり、感覚が作り出す「現象」という表象を介在させずに対象自体に帰属する性質そのものを捉えている】

    ◇D これに反して、直観における物体〔Koerpers〕≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。私たちの認識性能のこの受容性は感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。

    .o0 ここは原佑訳そのままで。カントが何回も言いたがっていることですね。

    全体を超簡単にまとめると、
    ・ライプニッツが「感性的」を説明する際の判明・不判明の区別は形式的で出自・内容を扱えない。
    ・従って、それを感性的と知性的の区別に用いるのは間違いだ。それらは、出自・内容で区別されるのだから。



    私が当初、そこにその文面が置かれている意味を解釈できなかった一文 
    ◇C の『しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから《単なる現象を含んでいるに過ぎない》と言うことはできない』
    特に《 》の中がある理由

    中山元訳では『しかしだからといって、常識的な概念は感覚的なものにすぎないとか、たんなる現象を含むにすぎないと主張することはできない。』

    現状思っているのは、
    カントにとって「感性的なものは現象を含む」は動かせない前提で、それが崩れるような考え方を採用すると『感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう』
    従って、現象を含むはずのない法の概念が感性的であるはずはなく、
    ゆえに、「感性的」を「対象の属性を不明瞭に捉えること」と定義するのは間違いである。


    これは、自分の学説に反する説に対する反論の前提・根拠として自分の学説を置くという、論点先取り(?)的な感じになるので、最初はそのように読めなかったのですが………
    しかし、こう読めば全体の筋は通ると…
    もっと合理的な読み方があれば、ご意見ください。
引用返信/返信 削除キー/
■25006 / inTopicNo.50)  Re[7]: (´;ω;`)ウッ…
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/20(Wed) 08:00:36)
    2022/07/20(Wed) 10:52:43 編集(投稿者)

    No25001に返信(うましかさんの記事)
    pipitさん、うましかさん、おはようございます!

    >>> ◇だからライプニッツ−ヴォルフ哲学は、私たちの認識の本性と起源とに関するあらゆる研究に対して、一つのまとまった不当な観点を指示してきたが、それはこの哲学が感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなしたことによる。<
    >
    > 『論理的』の言葉の使い方が、私には馴染みのない使い方でした

    自分もその「論理的」に引っかかっていたのですが、お二人の投稿を見て分かってきた気がするので書いてみます。

    内容を問わず形式のみを扱う=論理的
    は一般的にも言われる特徴だし、カントもそれを踏襲しています。
    ただし、超越論的論理学は内容をも扱う点が特異とカントは述べていたと思いますが、今回の文脈では一般の「論理的=形式のみ」を踏まえているのだと思われます。
    実際に以下のように書かれています。
    > これだと、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別〔*1〕は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。

    *********

    ライプニッツ−ヴォルフ哲学は、感性と知性的なものを判明か否かの違いとし、
    それは、うましかさんの情報によると

    > >『認識、真理、観念についての省察』(1684)においてライプニッツは、認識(cognitio)の様式に 〔以下略〕
    > >ライプニッツによれば、以前目にした対象をそれに似たものから識別し、再認(agnoscere)できるか否かによって認識は明晰か曖昧かに分かれる。
    >
    > とありますが、どうも『認識、真理、観念についての省察』を調べてみたところ、ライプニッツ著作集(第T期、第8巻、p.25〜)における訳者 米山優は"agnoscere"に「認める」、"recognoscere"に「再認」という訳語をあてているようですねー

    再認できるか否かの違いであるので、対象の内容・出自には関係なく一律に判断される。物体についても法の概念についても同じく明晰か曖昧かという形式的(論理的)区別しかしないことになる。

    しかしカントは、法の概念といった知的な出自による産物と、物自体に触発されて生じる表象→現象という感性的なものを区別する。つまり論理的な区別ではなく出自・内容に踏み込んで区別する。

    こういうことかなぁ と愚考しております。
    問題点あればご教示ください。

引用返信/返信 削除キー/
■25001 / inTopicNo.51)  pipitさんへ(´;ω;`)ウッ…
□投稿者/ うましか -(2022/07/19(Tue) 23:33:56)
    2022/07/20(Wed) 07:40:21 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    No.24995 (pipitさん)

    > No24923
    >>カント沼に狼(ヴォルフ,Wolff)を伴ったライプニッツの亡霊がたっている…(゚Д゚;)
    >>
    >>
    >>コワーイ(/・ω・)/ <
    >
    > !(◎_◎;)
    > あ、彼方にはヒュームさまの生き霊も。。。
    > ロックさまも。。。


    カントの脳内回廊には、オオカミ師匠をはじめライプニッツさま、ヒュームさま、ロックさまがたっている… 

    Σ(゚∀゚ノ)ノキャー


    >> ※1 カントとライプニッツ−ヴォルフ学派について調べていたら↓を発見、、、でも難しいなあ(´;ω;`)ウッ…
    >>
    >>https://repre.org/repre/vol17/note/02/ 
    >>
    >
    > 大切なことが書いてある雰囲気だけど難しいですね。
    > 『再認』って言葉、多分カントの演繹論にも出てきた覚えあります。
    > 読む際に、この記事が多いに参考になる予感がします。ほんとありがたいです(o^^o)

    私が貼り付けたサイトによれば、

    >『認識、真理、観念についての省察』(1684)においてライプニッツは、認識(cognitio)の様式に 〔以下略〕
    >ライプニッツによれば、以前目にした対象をそれに似たものから識別し、再認(agnoscere)できるか否かによって認識は明晰か曖昧かに分かれる。

    とありますが、『認識、真理、観念についての省察』を調べてみたところ、ライプニッツ著作集(第T期、第8巻、p.25〜)における訳者 米山優は、"agnoscere"に「認める」、"recognoscere"に「再認」という訳語をあてているようですねー

    ちなみに↓は原典ですが、、、私には全く分りません(;゚Д゚)(゚Д゚; )

    https://la.wikisource.org/wiki/Meditationes_de_cognitione,_veritate_et_ideis

    Σ(゚∀゚ノ)ノキャーキャー


    >>> ◇だからライプニッツ−ヴォルフ哲学は、私たちの認識の本性と起源とに関するあらゆる研究に対して、一つのまとまった不当な観点を指示してきたが、それはこの哲学が感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなしたことによる。<
    >
    > 『論理的』の言葉の使い方が、私には馴染みのない使い方でした。
    > 『論理的』に対比するのが、
    > 感性と知性的なものの区別は、
    > カント的『超越論的』
    >
    > ???

    じつは私も同感なのです(・ω・)ノ

    ロンリ的な区別とはなんぞや?

    中山元訳1を参考とするならば、ライプニッツのように、(物自体を認識する)知性による認識は判明的であり、(物自体を認識する)感性による認識は判明的ではないという(p.120〜p.122、p.262参照)、"判明であるか否か"というような区別ではなく、カントのように、「認識の起源と内容」によって区別されるということなのでしょうか
    (;´・ω・)?

    前者の区別を、カントは「論理的なもの」と称しているのですね。


    それでは〜(/・ω・)/沼




引用返信/返信 削除キー/
■24998 / inTopicNo.52)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/19(Tue) 22:07:34)
    No24985に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ふと思ったんだけど、
    > もし、カントが人間の「意識」、あるいは「認識」において、「純粋」とか「アプリオリ」のことについて物語ってるんだとしたら、わたしのような素朴的な、あるいは、すべての人に理解される”はず”じゃん?
    > じゃないんだったら、『それ』じゃないっていうことにはならないじゃないかしら?

    悪魔ちゃん、こんばんは!

    カント的には、自分に備わってるものなんだから、自分観ればいいんだから、理解できるさ!(pipit意訳)みたいに書いてあった覚えあるんよ
    (ー ー;)

    読んでみたい?
    もし読んでみたかったら、わたしがそのような印象を受けた文章を探してみるから気軽に言ってね!

    怠け者なので、とりあえず今は

    探さない。。。_(┐「ε:)_
引用返信/返信 削除キー/
■24997 / inTopicNo.53)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/19(Tue) 21:59:30)
    おくたがわさん、こんばんは!

    No24951
    > 遅レスですみません<

    。゚(゚´ω`゚)゚。一年前のレスでも全く気にしないですよぉぉ
    書き込み嬉しいです!

    > やっぱりカントが悪い。
    >
    > それなのに、みんなが読もうとする。
    >
    > 夏(ぬま)深し隣はカントを七十回<

    はい、カント先生のせい。。。

    先程『道徳形而上学の基礎づけ』読んでて、、、なんてわかりにくい文章なんだ!!と。
    もう少しなんとかならんかったのかなぁと
    (T ^ T)

引用返信/返信 削除キー/
■24995 / inTopicNo.54)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/19(Tue) 21:48:49)
    うましかさん、こんばんはー(^○^)

    No24923
    > カント沼に狼(ヴォルフ,Wolff)を伴ったライプニッツの亡霊がたっている…(゚Д゚;)
    >
    >
    > コワーイ(/・ω・)/ <

    !(◎_◎;)
    あ、彼方にはヒュームさまの生き霊も。。。
    ロックさまも。。。


    >  ※1 カントとライプニッツ−ヴォルフ学派について調べていたら↓を発見、、、でも難しいなあ(´;ω;`)ウッ…
    >
    > https://repre.org/repre/vol17/note/02/ 
    >

    大切なことが書いてある雰囲気だけど難しいですね。
    『再認』って言葉、多分カントの演繹論にも出てきた覚えあります。
    読む際に、この記事が多いに参考になる予感がします。ほんとありがたいです(o^^o)

    > > ◇だからライプニッツ−ヴォルフ哲学は、私たちの認識の本性と起源とに関するあらゆる研究に対して、一つのまとまった不当な観点を指示してきたが、それはこの哲学が感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなしたことによる。<

    『論理的』の言葉の使い方が、私には馴染みのない使い方でした。
    『論理的』に対比するのが、
    感性と知性的なものの区別は、
    カント的『超越論的』

    ???

    論理的は回路イメージなのかなぁ
    これならば判明
    これならば曖昧、とか。
    あ!
    超越論的は、人間にとっての対象の条件だから、カント的には、

    > 従って私たちは、感性によっては諸物自体そのものの性質を判明に認識できないのみならず、全然認識できないのである。<

    感性と悟性では、物自体を認識できない、となるのかな。

    > > ◇ また、表象された客観は、感性的直観がその客観に付与した固有性をともなうが、私たちが私たちの主観的性質を除き去るや否や、どこにも見出されるはずがなく、また見出され得なくなる。というのも、この主観的性質が現象としてのその客観の形式を規定するからである〔*2〕
    >
    > *2 原佑訳では文意がとりづらいため、石川訳を参考に作成しました。<

    ちょうど、個別、ということを考えてたこともあって、わかりやすく感じました(o^^o)

    おつかれさまです♪


引用返信/返信 削除キー/
■24985 / inTopicNo.55)  Re[5]: カントの『純粋理性批判」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/19(Tue) 19:49:40)
    ふと思ったんだけど、
    もし、カントが人間の「意識」、あるいは「認識」において、「純粋」とか「アプリオリ」のことについて物語ってるんだとしたら、わたしのような素朴的な、あるいは、すべての人に理解される”はず”じゃん?
    じゃないんだったら、『それ』じゃないっていうことにはならないじゃないかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■24975 / inTopicNo.56)  Re[7]: おくたがわさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/19(Tue) 08:55:48)
    No24961に返信(うましかさんの記事)
    おはようございます。

    > しかも共感の意を示してきた人間に、各々の事情で永井とは区別される「もっと若い頃からカントを、それも純粋理性批判だけを、繰り返し読み続ければよかった」という後悔の念があろうことは織り込み済みで、彼らが自分の言葉に特別な意味を持たすことを

    そういえば、若い頃から繰り返し読んどけば良かったという思いを持っている人は、いいねを押しておかしくないかもしれないですね。別にツイ主の真意まで考えなくても。そうすると自意識過剰っぽい自己リプかなぁ。分からんけど。

    それはそれとして、自分の書いた

    >奇跡が起きない限り私には真意は分からなそうです。(おくたがわさん)

    これは、「奇跡が起きても私には真意は分からなそう」とすべきだったなぁと。

    ど〜〜〜〜〜でもいいですか? 
    分かりました。

引用返信/返信 削除キー/
■24961 / inTopicNo.57)  おくたがわさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/07/18(Mon) 15:28:42)
    2022/07/19(Tue) 01:43:13 編集(投稿者)

    No.24952 (おくたがわさん)

    >遅レスすいません。

    とんでもないです、お返事ありがとうございますm(__)m

    *******

    >>>『哲学のやり方で唯一後悔していることは、もっと若い頃からカントを、それも純粋理性批判だけを、繰り返し読み続ければよかった、ということ
    >>
    >>なぜ永井はそんなことおもったのかなー(;´・ω・)?
    >
    > そのツイートに永井さん自身がリプを付けていて
    > 『なぜこんなものに1491も「いいね」がついたのか、さっぱりわからない。そもそもこれが何を言っているのか、これだけでわかる人が10人いたら、それは奇跡というほかはない。みんないったい何を理解して、何を「いい」と思ったのか、ただひたすら不思議というほかはない。』

    >
    > だって。
    > 奇跡が起きない限り私には真意は分からなそうです。
    >
    > それにしても永井さん(に限らず哲学者)のツイートに1000単位でいいねが付くのは非常に珍しいと思われ、多くの人になにか感じさせるものがあるんだなぁ

    *******

    >そもそもこれが何を言っているのか、これだけでわかる人が10人いたら、それは奇跡というほかはない。みんないったい何を理解して、何を「いい」と思ったのか、ただひたすら不思議というほかはない。(永井均ツイート)

    なんだかなあ。。。

    この文から察するに、永井は

    >哲学のやり方で唯一後悔していることは、もっと若い頃からカントを、それも純粋理性批判だけを、繰り返し読み続ければよかった (永井均ツイート)

    こうおもった理由を明かさないのに、この言葉に「いい」と共感してきた人間をソフトにディスっているように感じますね。

    しかも共感の意を示してきた人間に、各々の事情で永井とは区別される「もっと若い頃からカントを、それも純粋理性批判だけを、繰り返し読み続ければよかった」という後悔の念があろうことは織り込み済みで、彼らが自分の言葉に特別な意味を持たすことをディスっている、、、(;´・ω・)

    とおもいきや、実は自分の呟きが触発させている状況をほくそ笑んでいる、、ファンに対するちょっとしたダブルバインド、アマノジャクしてたりして…

    (;´・ω・)カマッテチャンなの?


    >奇跡が起きない限り私には真意は分からなそうです。(おくたがわさん)

    私にも分からないでしょう(´;ω;`)ウッ…



    ありがとうございました! m(__)m




引用返信/返信 削除キー/
■24952 / inTopicNo.58)  Re[5]: うましかさんさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/18(Mon) 09:36:09)
    No24794に返信(うましかさんの記事)
    遅レスすいません。

    > >『哲学のやり方で唯一後悔していることは、もっと若い頃からカントを、それも純粋理性批判だけを、繰り返し読み続ければよかった、ということ
    >
    > なぜ永井はそんなことおもったのかなー(;´・ω・)?

    そのツイートに永井さん自身がリプを付けていて
    『なぜこんなものに1491も「いいね」がついたのか、さっぱりわからない。そもそもこれが何を言っているのか、これだけでわかる人が10人いたら、それは奇跡というほかはない。みんないったい何を理解して、何を「いい」と思ったのか、ただひたすら不思議というほかはない。』

    だって。
    奇跡が起きない限り私には真意は分からなそうです。

    それにしても永井さん(に限らず哲学者)のツイートに1000単位でいいねが付くのは非常に珍しいと思われ、多くの人になにか感じさせるものがあるんだなぁ


    > >これは、pipitさんやうましかさんに紹介しないといけないと思いました。
    >
    > ありがとうございます!m(__)m
    > 永井の呟きよりも、私は、おくたがわさんのこの言葉が妙に染みてうれしくおもいました。

    こちらこそ、ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■24951 / inTopicNo.59)  Re[5]: pipitさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/18(Mon) 09:15:12)
    2022/07/18(Mon) 09:34:39 編集(投稿者)

    No24741に返信(pipitさんの記事)
    遅レスですみません

    > 思い出したのですけど、中村昇先生のエッセイに、
    >
    > https://www.toibito.com/series/series-1/3024
    >
    > 『オイゲン・ヘリゲルという『弓と禅』という名著を書いたドイツの哲学者は、『純粋理性批判』を72回読んだけれども、よくわからないから、いま73回目を読んでいる、といっていたということですし、20世紀屈指の思想家ルドルフ・シュタイナーも、高校のとき、レクラム版(岩波文庫が手本にした文庫)の『純粋理性批判』をばらばらにして授業時に内職をして20回以上読んだと自伝に書いています。』
    >
    > とあって、沼ながら、やっぱり惹かれる人は惹かれてしまうんだな、と。
    > 気がつくと沼からハスの花が咲いたら嬉しいけどなー

    自分で読もうとしていなかったら、なんで72回? と思ったかもしれませんが、読んでみれば実感できるなぁ。
    たしか黒崎さんも「未だ全部は理解できていない」と書いていたような。

    エッセイ面白いですね

    > 『純粋理性批判』をオーストリア人の哲学研究者が、英訳で読んだというのは、かなりショック

    英訳はやはり有効なのですね。

    > ヘーゲルを読みはじめると、「あれ、この前まで読んでいたのはドイツ語だったのは覚えているけど、今読んでいるのは日本語だっけ?」と勘違いするくらいとてつもなく易しく感じた

    > ようするにカントのドイツ語は、とんでもない

    やっぱりカントが悪い。

    それなのに、みんなが読もうとする。

    夏(ぬま)深し隣はカントを七十回
引用返信/返信 削除キー/
■24923 / inTopicNo.60)  超越論的感性論 第八項:\−4
□投稿者/ うましか -(2022/07/17(Sun) 22:27:18)
    2022/07/18(Mon) 15:33:33 編集(投稿者)
    2022/07/17(Sun) 22:29:30 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    カント沼に狼(ヴォルフ,Wolff)を伴ったライプニッツの亡霊がたっている…(゚Д゚;)


    コワーイ(/・ω・)/


    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第八項 超越論的感性論のための一般的注解

    ◆だから、次のような〔ライプニッツの〕意見、すなわち、「私たちの全感性は、諸物の混乱した表象以外の何ものでもなく、そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎない」、とみなす考えは、感性と現象とについての概念を偽造したものであって、こうした偽造は感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう。これだと、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別〔*1〕は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。確かに健全な悟性が用いている法〔Recht〕≠ノついての概念は、この上なく精緻な思弁がこの概念から展開し得るのと同一のものを含んでおり、ただ異なるのは、普通の実用的な使用においては法というこの思想のうちにあるこうした多様の諸表象が意識されていないということだけであろう。しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。というのも、法は現象することは全然できず、その概念は悟性のうちに潜んでおり、行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示すからである。これに反して、直観における物体≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。私たちの認識性能のこの受容性は感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。

     *1 判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの〕区別については、中山元訳1、p.262にある註(37)や、p.379〜p.380で解説されている。

     ※1 カントとライプニッツ−ヴォルフ学派について調べていたら↓を発見、、、でも難しいなあ(´;ω;`)ウッ…

    https://repre.org/repre/vol17/note/02/ 


    --- No.24835からの続き ---

    ◇だからライプニッツ−ヴォルフ哲学は、私たちの認識の本性と起源とに関するあらゆる研究に対して、一つのまとまった不当な観点を指示してきたが、それはこの哲学が感性と知性的なもの〔Intellektuellen〕との区別を単に論理的なものとみなしたことによる。

    ◇ というのも、この区別は明らかに超越論的であって、単に認識の判明性あるいは非判明性という形式に関わることではなく、認識の起源と内容にかかわることであり、従って私たちは、感性によっては諸物自体そのものの性質を判明に認識できないのみならず、全然認識できないのである。

    ◇ また、表象された客観は、感性的直観がその客観に付与した固有性をともなうが、私たちが私たちの主観的性質を除き去るや否や、どこにも見出されるはずがなく、また見出され得なくなる。というのも、この主観的性質が現象としてのその客観の形式を規定するからである〔*2〕

    *2 原佑訳では文意がとりづらいため、石川訳を参考に作成しました。

    † 原佑訳上巻、p.176参照。他に、石川文康訳上巻、p.98〜p.99、中山元訳1、p.121〜p.122を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******
    \−4 No.24923
    \−1 No.24381、\−2 No.24686、\−3 No.24835
    [−4 No.23865、[−5 No.24101
    [−1 No.23091、[−2 No.23113、[−3 No.23247
    Z−4 No.22690、Z−5 No.23032
    Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067
    Y−1 No.20986
    X−4 No.20772
    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032
    第七項 No.23091,23113,23247,23865,24101
    第八項 No.24381,24686,24835,24923

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -