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■2419 / inTopicNo.49)  メルロさんの文章を読んでみる
  
□投稿者/ pipit -(2020/02/22(Sat) 18:12:20)
    メルロさんの文章めっちゃ難しいなぁ。

    >知覚の主知主義的理論によって解答された心身関係の問題<

    知覚の主知主義的理論によって解答された、ってメルロさんが捉えてるのが、以下の部分で記述されていく内容ですよね。

    心と身体の関係、ですね。

    >身体について言えば、それも意識の面前で構成される対象のひとつとなって、客観的世界の内に加えられる。<

    身体を客体として世界の内に規定することが可能ってことかな。
    時計、とか、テレビ
    と同じように、身体。

    違うかな。

    >そしていかなる自然も能産的認識の相関者としてしか考えられないから、〈認識〉を自然の一出来事として扱うことはもはや問題とならないことになる。<


    ちょっと違うかもだけど考えたこと書きますね。

    作る認識、の、相関者、が、自然
    作る認識、と、自然、は、深い関わりがあるから、
    認識を一自然の出来事として扱うのは、
    ん?
    問題とならない、は、問題なし、オーケーということかな??

    >もちろん意識は、知覚という意識の出来事の秩序が身体や身体的諸現象の函数として、自然法則によって決定されるとうことを自分でも認める。その意味では、意識は、世界を構成している諸関係のなかに組み入れられうるわけであり、したがって世界の一部としてもあらわれる。<
    >そこで意識には、2面があるように思われる。一方では、意識は〈宇宙の場〉であり、世界のいかなる肯定も意識を予想しなければならないが、他方では、意識は世界によって条件づけられるものでもあるわけである。<

    後半の方がわかるな。
    意識は世界によって条件づけられている。
    ということは、前半はその反対でしょ?
    世界を条件づけてるのが意識ってことかな。

    >従って、批判哲学の第一の契機は、いかなる身体的・心的出来事からも導出されえない〈意識の一般形式〉と、しかじかの外的出来事やわれわれの心理―生理的機構の特殊性に結びつけられてはじめて現実的に存在する〈経験内容〉とを区別することになろう。<

    〈意識の一般形式〉が世界を条件づける面で、
    後半内容が、世界に条件付けられてる面
    この両面がいるってことかな。

    >前者は、自分のしている認識分析の正当性を主張するために、後者は、知覚を支配する外的諸条件や、知覚の際に感じられる知覚の受動性を説明するためにひつようなのである。カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(33)。〕<

    前者が自発的な機能としてのカント的統覚
    後者が受容的な感性により得られる表象
    かなあ?と思いました。

    、、、、
    あ、
    もしかしたら、わたし、間違えてたかも。

    意識の一般形式、は、空間と時間のことかも、と、思い直しました。

    また、続きを読んでいくつもりしてます。


引用返信/返信 削除キー/
■2413 / inTopicNo.50)  メルロ・ポンティさん
□投稿者/ pipit -(2020/02/19(Wed) 21:39:42)
    ご紹介いただいた文章は、

    『メルロ=ポンティの『行動と構造』の原注(訳注じゃなくて)から』

    とのことです。

    メルロさんのこと知らないも同然だったので、
    『哲学用語図鑑』見てみました。

    あ!

    メルロ=ポンティ、って書いてある !

    ・じゃなくて、= なんだぁ

    フランスの哲学者。
    フッサールの強い影響の下、「身体」をテーマとした
    現象学を構想した。
    (p232)

    身体図式、って概念を構築した(?)んですね。

    カントにも図式論ってあるんですよ。

    図式、、、面白そうだけど難しそうだなぁ(^^;;

引用返信/返信 削除キー/
■2412 / inTopicNo.51)  『批判主義』
□投稿者/ pipit -(2020/02/19(Wed) 21:28:40)
    メルロ・ポンティさんのカント哲学について考察したと思われる文章、から『純粋理性批判』の内容を紐解いてみることにチャレンジしてみます。

    >批判主義の考え方。<

    カントの文章(中山元先生訳)
    『純粋理性にとって避けることのできない課題とは、神、自由、[霊魂の]不死である。
    この課題を究極の目的として、すべての準備をそなえて、ひたすらこの課題の解決を目指す学問を形而上学と呼ぶ。
    この学のとる方法は、最初は独断論的である。
    すなわち、理性にこのような大事業を実行するだけの能力がそなわっているかどうかをあらかじめ吟味せずに、確信をもってこの事業を遂行しようとするのである。』
    『純粋理性批判 』序論より引用(1巻p26)


    次に、カント事典の【批判】から引用
    『理性は認識能力の一種であるから、「理性(の)批判」はおのずから「認識(能力の)批判」の形をとることになる。(p438)

    同じく、カント事典の【批判主義】からの引用
    『カントは『純粋理性批判無用論』において、あらかじめ理性能力を批判することもしないで形而上学的原理を盲信する独断論、および、根拠もなく純粋理性に全面的に不信をもつ懐疑論、から区別して、それら両極端の中間を求めるカント自身の哲学の流儀を批判主義と名づけ、次の通りに説明している。
    「形而上学に属することなら何であれ、それを扱う場合の批判主義は、(猶予の懐疑は、)形而上学の綜合的命題すべての可能性の普遍的な根拠がわれわれの認識能力の本質的な制約のうちに洞察されないうちは、そうした命題全体を信用しないという格率である。」』(p439)

    最後にまた、カントの文章(中山元先生訳)。
    『批判が反対しているのは、理性がその純粋な認識を学として取り扱うときの独断的な手続きではない(学はつねに独断的でなければならないのであって、アプリオリで確実な原理に基づいて厳密に証明を行わねばならないのである)。
    批判が反対するのは独断論なのである。
    理性は長いあいだ原理を利用して、概念から(哲学的な概念から)純粋な認識を導きだしてきたのであるが、
    独断論とは理性がこのような純粋認識に到達した方法と権利を考察することなしに、独力で作業を進めようとする超権的な主張なのである。
    だから独断論とは、理性自身の能力をあらかじめ批判することなしに、純粋理性が独断的な手続きを採用することを意味するのである。
    このように批判が反対するのは、[わかりやすさという意味での]通俗性を装って饒舌になる浅薄さを擁護するためでも、形而上学のすべてをあっさりと片づけてしまおうとする懐疑論を弁護するためでもない。
    批判はむしろ、学としての根本的な形而上学を促進するために必要な予備的な作業なのである。』
    『純粋理性批判』序文より引用(第1巻p183.184)

    ●今の段階でのpipitの理解

    >批判主義の考え方。<

    理性認識されたものを、根拠なく盲信しても、根拠なく懐疑しても、ただその人がそう言ってるだけの範囲を超えることができない。
    理性認識されたもののうち、(どのような源泉から、どのような条件下で、どのような範囲)のものなら、普遍性と必然性を備えた学問として耐えれるものとなるのか、
    まず理性能力を批判してから、学問を築きましょう、
    というのが、カント的批判主義なのかなぁと思いました。

    そんな主義を持つ人の、考え方、、、。↓

    >知覚の主知主義的理論によって解答された心身関係の問題<

    これはまた次回(^^;;

    ●pipitの感想。

    あ、そういえば、もう一個心に残ったカントの文章がありましたよ。

    カントの文章(中山元先生訳)
    『そのため批判は、思考する理性を制限するという意味では、』
    云々というところ(1巻p169)

    みたかんじ、「何を認識することができるのか」という人間の理性認識の有限性から、
    「何を行為することができるのか」という道徳的な理性の利用への推移を表してるとこっぽいです。
    それでカントは、純粋理性を実践的に拡張することは可能と考えてるみたいですね、
    その流れから、また続いて、、
    あ〜これが、

    p175の
    『だからわたしは、信仰のための場所を空けておくために、知を廃棄しなければならなかったのである。形而上学の独断論は、批判なしで純粋理性の営みをさらに進めようとする偏見であって、道徳に反抗しようとするあらゆる無信仰の源泉であり、こうした無信仰はつねに独断論的なものなのである。』
    『純粋理性批判』序文(中山元先生訳)

    へと繋がっていく感じです。

    『実践理性批判』は全く勉強してないも同然だからなぁ。
    ちょっと今はおあずけしとこうかな。

    というわけで、ここで一旦投稿します。

引用返信/返信 削除キー/
■2411 / inTopicNo.52)  メルロ・ポンティさんの文章から
□投稿者/ pipit -(2020/02/19(Wed) 21:25:39)
    こんばんは
    メビウスリング掲示板で游さんという方からメルロ・ポンティさんの
    文章を、ご紹介いただきました。

    その文章を導き糸にして、逆辿り的に、『純粋理性批判』の内容を探ろうと
    企ててます。

    まず、ご紹介いただいたメルロさんの文章を引用します。

    『批判主義の考え方。
    知覚の主知主義的理論によって解答された心身関係の問題

    と題されていて、そのなかに、

    〔・・・
     身体について言えば、それも意識の面前で構成される対象のひとつとなって、客観的世界の内に加えられる。そしていかなる自然も能産的認識の相関者としてしか考えられないから、〈認識〉を自然の一出来事として扱うことはもはや問題とならないことになる。もちろん意識は、知覚という意識の出来事の秩序が身体や身体的諸現象の函数として、自然法則によって決定されるとうことを自分でも認める。その意味では、意識は、世界を構成している諸関係のなかに組み入れられうるわけであり、したがって世界の一部としてもあらわれる。そこで意識には、2面があるように思われる。一方では、意識は〈宇宙の場〉であり、世界のいかなる肯定も意識を予想しなければならないが、他方では、意識は世界によって条件づけられるものでもあるわけである。従って、批判哲学の第一の契機は、いかなる身体的・心的出来事からも導出されえない〈意識の一般形式〉と、しかじかの外的出来事やわれわれの心理―生理的機構の特殊性に結びつけられてはじめて現実的に存在する〈経験内容〉とを区別することになろう。前者は、自分のしている認識分析の正当性を主張するために、後者は、知覚を支配する外的諸条件や、知覚の際に感じられる知覚の受動性を説明するためにひつようなのである。カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(33)。〕

    (33)原注
    「超越論的感性論」(バルニの仏訳)は、〈経験内容〉ばかりではなく、ついには〈空間形式〉それ自身をさえ、人間の構成した〈偶然的なもの〉にもとづけているほどである。

    〔だが、この批判主義的態度は暫定的なものでしかありえないはずであり、『純粋理性批判』の第二版がそれを示している。実際われわれは、「〔感性〕に与えられたもの」と「〔悟性によって〕思考されたもの」との関係とか、純粋感覚ともいうべき〈惰性的な「物」〉に対する意識の作用とか、また「触発」と認識の関連、感覚的意識と悟性的意識の連関などをどう考えたらよいであろうか。そのように反省してみると、カントにおいては、結局のところ、感覚的と言える意識は存在せず、「感性論」と「分析論」の分裂とか、所産的意識といったものは存在しないことになってくる(34)。
    ・・・〕

    (34)原注
    『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」の言う「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準‐−それは抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前しているということを、第一版よりもいっそう明らかにしようとしているのである。』

    それから、游さんは『現象学事典』にのってた『統覚』についての引用も
    してくださったので、そちらも引用させてもらいます。
    游さん、本当にありがとう !!
    現象学がんばってくださいねo(^_^)o

    引用↓
    『それと、「統覚」Apperzeptionについて(フッサールの「統覚」についてはここでは書きませんが)
    「現象学事典」のなかに次のようなものがありました。
    〔・・・なお〈統覚〉の語はカントと深く関わる。カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。これによって、直観に与えられる多様な諸表象、一つの自己意識に属することが可能となる。・・・〕
    みたい。』

    以上で〜す。
    この引用文を導き糸に解読進めてみます!
    (何かを導き糸にしないと、カントの思想におぼれて沈んでしまいそうで(^^;;)
引用返信/返信 削除キー/
■2392 / inTopicNo.53)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/02/14(Fri) 23:11:42)
    おくったがわさん、こんばんは

    > 同じようなことを自分も考えていました。そういうニ重の使い方はありそうに思います。<

    私はまだ、中山先生の統覚の訳注を見つけられてないのですが、[表象]と[直観]の訳注は見つけてて、そのどちらにも、二重の使い方されてることが記述されていました。
    引用します。

    [表象]の中山先生の訳注
    『(略)またこの語には、思い描くという行為の側面と、思い描かれたものとしての観念や像という側面の両方の意味があるが、表象と訳してはその違いはわかりにくい。(略)』(第1巻p247)

    [直観]の中山先生の訳注
    『(略)。時に直観という働きではなく、直観されたものを示すことがあり、その時は具体像という訳語をつけている。』(第1巻p250)


    > ちょっとカントから外れますが、
    > 意識はシミュレーションであると考えれば、
    > 自覚できない存在である根源的統覚という作用が、シミュレーションとして意識に上るのが I think という像である、というような…
    > であれば、両者は同一とも考えられるし、前者が後者を生み出すとも表現できるかな、と。<

    とてもおもしろく感じます!
    すごく微妙で繊細ですね。
    あぁ、仏典のフレーズっぽいの思い出しました。
    〈同じものでもなく、違うものでもなく〉みたいな

    ここで、難しくて途中で放置していた『カントとオートポイエーシス』山下和也先生の本を取り出してみました。

    おくったがわさんの知りたいところと関連あるかも、と思うので、
    山下和也先生の文章を、一部抜粋します。
    『(略)ということは、私のすべての表象は潜在的には「私は・・・と考える」という形の表象であることになる。
    (略)
    ここに一つの循環がある。
    自己意識は「私は・・・と考える」という表象をみずから生み出している。
    つまり、この表象は自己意識の産物である。
    ところが、この表象の中に含まれる「私」もこの自己意識を指している。
    よって、この表象の産出に関わる循環は自己言及的な循環である。

    また、カントは「私は・・・と考える」という表象の統一を自己意識の超越論的統一とも呼び、すべての私の表象が一つの自己意識に属さねばならないとする。
    これは、私の表象の産出プロセスが「私は・・・と考える」という表象の産出を反復するという仕方で、自己意識という一つの閉域を形成していることを意味する。
    活動である統覚の統一は単一的実体ではありえず、一まとまりを成す閉じた作動であるしかない。
    根源的統覚は「私は・・・と考える」という表象を自己言及的循環として継続的に反復して産出しつつ、活動の閉域としてみずからの単一性を保つ。
    (略)
    私は直観において与えられた表象の多様に関して、こうした表象を私の表象と呼ぶことで同一的自己を意識するが、これは
    「私が、統覚の根源的綜合的統一と呼ばれ、その下にすべての私に与えられた表象が立つ、表象のアプリオリな必然的綜合を意識しているということ」(B135)に他ならない。
    (略)
    ここで綜合統一という活動とそれが産出する表象を明確に区別する必要がある。
    表象は「あれこれの時間関係における我々の心性の内的諸規定」(B242)と定義され、また「心性の変容」という表現も用いられる。
    カント自身は明確に述べていないが、「私は・・・と考える」という表象は、この表象を産出している自己意識の超越論的統一という活動からは区別されねばならない。
    超越論的統覚は自己活動的実体ではなく活動そのものなのである。
    であるから、統覚は表象を産出し続けていなければ存続しえない。
    まとめれば、超越論的統覚は「私は・・・と考える」という表象を自己言及的循環として反復的に継続して産出しつつ、閉域を形成して単一性と自己同一性を維持する、言い換えれば単位体の自己として存続し続ける活動である。
    (略)』
    山下和也先生『カントとオートポイエーシス』p56〜58

    最後に、pipitがメビウスリング掲示板で安齋さんという方からいただいたアドバイスを
    用語の参考として載せさせてもらいますね。

    『カントの自我論だけでも一つの論文に値し、なるでしょう。pipitさんのためにできることはそのための基礎知識の一部をご紹介することです。
    A.まず注意しべきこととして日本語の自我はドイツ語で「Ich」にあたります。従ってカントの自我論を論じる場合、訳本で「私」と訳されているものすべてを対象にしないと完璧とはなりません。「自我」と訳している箇所は訳した方の多分、哲学に知識に基づいて訳したのだと思います。自我論を扱う前にほとんど交換概念の「自己意識」と「統覚」を十分に調べ、理解することが必要です。しかし、カントがなぜ「自我(Ich)」としなかったのか、だけでも深い意義があります。
    A. 「自己意識」は「ゼルプストベブストザイン」の訳です。日本語の自覚の意味に近いです。自分を意識する意識です。
    B.「統覚」は「Apprzeption」の訳です。これも実際に読まないとだめだと思います。自己意識の総合的統一の機能を強調するときに使用されているとだけ書いておきます。
    A.B.それぞれに「経験的」と「超越論的」がつきます。
    C.「わたしは考える」は「Ich denke」の訳です。これも「自我」を表わしています。ただし「超越論的自己意識」や「超越論的統覚」とほぼ交換概念です。
    D.「わたしはある」という自覚についても言及しています。「Ich bin」の訳ですね。これらの言葉を丹念に調べれば一応「カントの自我論」になると思います。
    注意点としては「統一(アインハイト)」と「同一性(イデンティテート)」の同じ意味と異なる点に注意すべきでしょう。以上は留意点にすぎません。あとは頑張ってください。あとは「自発性」との関係も調べる必要があります。』

    (安齋さん、ありがとです〜〜〜 怒られることあるけど〜)

    それではおくったがわさん、いつもありがとうございます!

    お互い心地良い毎日がありますように o(^_^)o
引用返信/返信 削除キー/
■2390 / inTopicNo.54)  Re[41]: pipitさんへ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/02/14(Fri) 08:29:34)
    No2389に返信(pipitさんの記事)
    おはようございます。

    pipitさんの引用のせいではないですよ。まったく全然。

    英文をそのまま読むと、pipitさんもお気づきのように
    I think という像が、I think という像を生み出すことになってしまうのですね。
    篠田さんの訳では、そしておそらく中山さんの訳でも、それは解決できていないと思いますが、
    pipitさんが調べてくださった高峯一愚先生訳では、
    『「わたくしは考える」という意識・表象』とそれを生み出す自覚(=統覚)を区別して解決しているようですね。
    通して読むと、どこで主語が替わるのかが分かりにくいですけど。

    しかし、普通に考えると高峯さんやpipit さんの解釈が妥当なように自分も思います。

    > つまり、I think、と自覚する意識のもとへ、経験する表象を総合的に統一させてるのが、純粋統覚作用であり、根源的統覚作用であり、その作用で使われるI think を、純粋統覚、あるいは根源的統覚と呼んだりすることもあるのかと。
    > 言い換えれば、「統覚」という単語で、働きを指すことも、働きに使われる表象(観念)単体を指すことも、時と場合によってあるのかなあ?と思いました。
    > 違ってたらすみません。

    同じようなことを自分も考えていました。そういうニ重の使い方はありそうに思います。

    ちょっとカントから外れますが、
    意識はシミュレーションであると考えれば、
    自覚できない存在である根源的統覚という作用が、シミュレーションとして意識に上るのが I think という像である、というような…
    であれば、両者は同一とも考えられるし、前者が後者を生み出すとも表現できるかな、と。
    カントにそういう発想があったかどうかは知らないのですが。


    ということで、pipitさんのせいでは全くないどころか、わざわざ図書館で調べていただき感謝以外ないです。
    こういう形でカントに触れて色々考える機会を pipit さんのおかげでもらっていることにも感謝です。
引用返信/返信 削除キー/
■2389 / inTopicNo.55)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/02/13(Thu) 23:29:43)
    おくったがわさん、こんばんは (^O^)/

    > (SS 12.で)直観に与えられる様々な◇も、それらに必ず伴う"I think" も「representation/Vorstellungen」のようですね。
    > そして、そのまま読むと統覚も「表象・像」ということに…これは少し疑問があるのですが…<

    私見書きますね。

    "I think"は表象(観念)なのですが、この表象を生み出し、また、この表象の元へ、主体が経験するすべての表象を統一的に綜合させてる【働き】は知性の能力、と、カントは考えてるのかなと思いました。

    図書館で高峯一愚先生訳の『純粋理性批判』を借りてきたので、抜粋引用します。

    引用開始
    『「わたくしは考える」という意識が、あらゆるわたくしの表象に伴なわなければいけない。
    (略)
    しかしこの表象は自発性の働きである。
    (略)
    すなわちわたくしが表象の多様を一つの意識に把握することができるということによってのみ、わたくしはこれらの表象をすべてわたくしの表象と名づけるのである。
    (略)
    けれども結合は(略)、ひとえに悟性の作用である。
    悟性はそれ自身、先天的に結合し、与えられた表象の多様を統覚の統一の下に包摂する能力にほかならない。』
    引用終了
    高峯一愚先生訳
    河出書房新社・ワイド版p112.113より

    つまり、I think、と自覚する意識のもとへ、経験する表象を総合的に統一させてるのが、純粋統覚作用であり、根源的統覚作用であり、その作用で使われるI think を、純粋統覚、あるいは根源的統覚と呼んだりすることもあるのかと。
    言い換えれば、「統覚」という単語で、働きを指すことも、働きに使われる表象(観念)単体を指すことも、時と場合によってあるのかなあ?と思いました。
    違ってたらすみません。


    > その関連で Meiklejohn訳のSS 12.
    > 「or primitive apperception」 の前後(文章にすると投稿できないのですみません)
    > 普通に読むと representation,"I think" = (pure / primitive) apperception (= self-consciousness which)だと思います。pipitさんはどう読まれますか?<

    この部分の高峯先生訳は、
    『したがって直観のあらゆる多様は、この多様がそこに見いだされるところの主観における「わたくしは考える」という意識と必然的関係を有する。
    しかしこの表象は自発性の働きである。
    すなわちそれは感性に属するものとみることができない。
    わたくしはこれを経験的統覚と区別するために、純粋統覚と名づける。
    或いはまたこの統覚を、根源的統覚とも名づける。
    この統覚は、「わたくしは考える」という、あらゆる他の表象に伴わざるをえず、かつあらゆる意識において同一である表象を生み出す自覚であり、決してさらに他の統覚からは導き出せないような自覚であるからである。』

    英文をそのまま読んだら、

    I think を、 (pure / primitive) apperception と名づける理由は、
    I think が、I think を生み出すself-consciousness だからだ、みたいに読めて、
    意味が取りづらくなりそうですよね。

    日本語訳では、文頭のI think 部分は、【「わたくしは考える」という意識】と、意識が挿入されていますね。

    I think という意識を、 primitive apperception と名づける。
    なぜなら、I think という表象を生み出す自覚意識だから。

    あ〜、
    I think というprimitive representation を生み出すself-consciousnessだから、
    primitive apperception と名づける、
    という意味ではないですかね??


    > すると、その後の
    > whilst it gives birth to the representation "I think,"
    > はどうなるのか…
    > お手持ちの本ではどのように和訳していますか? 
    > ネットでは見つかりにくくて。中山さんからの引用でも、そこは省かれてたり。
    >
    > 一つだけ見つけたのが、
    > ht tp://bit.ly/3btxCQM
    > で、たぶん篠田英雄訳だと思うのですが、
    > 『かかる統覚は、「私は考える」という表象を産出するところの自己意識「自覚」であって』
    > この訳では、自分の疑問が解決できないのです。<

    高峯先生訳は、
    『この統覚は、「わたくしは考える」という、あらゆる他の表象に伴わざるをえず、かつあらゆる意識において同一である表象を生み出す自覚であり、』
    ですね、

    と、英文見直して、、、
    わーーー!!!

    I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical; or primitive apperception, because it is self-consciousness which, whilst it gives birth to the representation "I think," must necessarily be capable of accompanying all our representations.

    すみません!!!
    私、後半のI think で、引用ストップしてしまってましたよね?
    最後らへんの
    must necessarily be capable of accompanying all our representations.
    まで入れると、英文の意味通じるかな?
    やっぱり、
    『あらゆる他の表象に伴わざるをえず』の部分が、primitive という語を当てる理由としてあげられてるのかな?と、わたしは今の所思いました。

    わたしの引用が不正確で途中で区切ってしまってて、すみませんでしたm(_ _)mm(_ _)m
    多分、中山先生は分割して訳してたのを、訳してた部分だけ英文を途中で引用したのだと思います(うろ覚え)

    わたしのいい加減さのせいで、おくったがわさんを悩ましてしまってすみません(>人<;)

    中山先生訳を二文ほど続けて引用してみますね。

    『これはあるいは根源的な自己統合の意識とも呼べるが、それはこれが、わたしは考えるという像を生み出す自己意識だからである。
    この自己統合の意識は、[心のうちに思い描くことのできる]ほかのすべての像に伴うことができるものであり、わたしのすべての意識において同一のものであり、ほかのどのような像もこれに伴うことはできないものである。』
    (第2巻p117)

    おくったがわさんの疑問は解決されましたでしょうか?
    それとも別の疑問点だったでしょうか?

    私のいい加減さのせいで生まれた疑問点だったら、本当にすみませんでしたm(_ _)m

    何か新たな疑問点などあれば、よかったら教えてくださいね。
    いつもながら本当に勉強になります。
    ありがとうございます(^人^)
引用返信/返信 削除キー/
■2388 / inTopicNo.56)  Re[41]: ことば
□投稿者/ おくったがわ -(2020/02/12(Wed) 10:21:36)
    No2375に返信(pipitさんの記事)

    > 広い意味として,感覚印象から非直観的な概念表象までをも含む観念一般という意味がある<
    >
    > ここらへんが、カント的・表象という言葉の使い方かなと思いました。

    (SS 12.で)直観に与えられる様々な◇も、それらに必ず伴う"I think" も「representation/Vorstellungen」のようですね。
    そして、そのまま読むと統覚も「表象・像」ということに…これは少し疑問があるのですが…

    その関連で Meiklejohn訳のSS 12.
    「or primitive apperception」 の前後(文章にすると投稿できないのですみません)
    普通に読むと representation,"I think" = (pure / primitive) apperception (= self-consciousness which)だと思います。pipitさんはどう読まれますか?

    すると、その後の
    whilst it gives birth to the representation "I think,"
    はどうなるのか…
    お手持ちの本ではどのように和訳していますか? 
    ネットでは見つかりにくくて。中山さんからの引用でも、そこは省かれてたり。

    一つだけ見つけたのが、
    ht tp://bit.ly/3btxCQM
    で、たぶん篠田英雄訳だと思うのですが、
    『かかる統覚は、「私は考える」という表象を産出するところの自己意識「自覚」であって』
    この訳では、自分の疑問が解決できないのです。
引用返信/返信 削除キー/
■2387 / inTopicNo.57)  Re[39]: pipitさんへ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/02/12(Wed) 08:09:29)
    No2359に返信(pipitさんの記事)
    > おくったがわさん、こんにちは!!\(^o^)/
    > 今年もよろしくお願いします♪

    今年初投稿だったんですね自分。挨拶もせず失礼しました。こちらこそよろしくお願いします。

    > カントの文、めっちゃややこしいですよね(*_*)

    カント関連の文章に挑戦した後は、他の文章が早く読め理解も早くなる気がします。そういう効果がありそう。難解な文章を読むことは大事といわれる意味を今さらながら再確認・実感。

    > ↓カントの原文
    > N&#228;mlich diese durchg&#228;ngige Identit&#228;t der Apperzeption eines in der Anschauung gegebenen Mannigfaltigen, enth&#228;lt eine Synthesis der Vorstellungen, und ist nur durch das Bewu&#223;tsein dieser Synthesis m&#246;glich.

    中山さんはドイツ語原文から訳しているということを忘れてました。ありがとうございます。
    綜合を含む、の主語が同一性だというのは英文と同じみたいですね。←ドイツ語読めませんが単語を検索しながら突き合わせてみると。天野貞祐先生もそのように訳してますね。

    そこだけ読むと、同一性が綜合を含むという関係を難しく感じましたが、SS 12.を通して読んでみると分かるような気も…いや…
引用返信/返信 削除キー/
■2375 / inTopicNo.58)  ことば
□投稿者/ pipit -(2020/02/09(Sun) 09:29:55)
    広い意味として,感覚印象から非直観的な概念表象までをも含む観念一般という意味がある<

    ここらへんが、カント的・表象という言葉の使い方かなと思いました。

    中山元先生は、表象と訳されてきたフォアシュテルングを、「像」あるいは「観念」と訳すとされてます。
    (『純粋理性批判1』p247)

    ※※※※※※※※

    カントの『純粋理性批判』は同時代の人たちからも誤解されまくりだったみたいなので、
    現代の私が読んでも、100パーセントの理解は絶対と言っていいほどあり得ないな、と、改めて思いました(^^;;
    言葉は生き物、って聞く気もしますしね。

    あ、でも、今、ちょっと違うこと思いました。

    『火を触ってみたら、熱いよ。』
    という言葉は、
    自分も経験すれば、
    かなり近い意味を知ることがかなうのかも、と、思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■2374 / inTopicNo.59)  表象について
□投稿者/ pipit -(2020/02/09(Sun) 09:10:39)
    おはようございます。ネットのコトバンクに載ってた表象についての記事を引用します。

    『【表象】より

    …表象は,哲学や心理学の領域で,主としてドイツ語のVorstellung,英語のrepresentation,フランス語のrepr□sentationの訳語として用いられる言葉であるが,広狭さまざまな外延をもつ。もともとVorstellungは,18世紀にC.ウォルフによって英語のidea(ロックの用語)の訳語として,次いでカントによってラテン語のrepraesentatioの訳語として使われはじめた言葉であるから,当然表象にも,もっとも広い意味として,感覚印象から非直観的な概念表象までをも含む観念一般という意味がある(この意味についてはカント《純粋理性批判》第2版を参照)。…
    ※「Vorstellung」について言及している用語解説の一部を掲載しています。』

    以上引用終わります。

    ※※※※※※※※

    今の段階での私見書きます。

    『純粋理性批判』内の思弁的認識論の議論としては、
    カントは、物自体は不可知(知ることは不可能)としたので、

    カントは、
    (自分には、自分の中で表れたもの、のみが客観的認識の対象になる)としたのかなと思いました。

    自分の中で表れたものは、物自体ではなく、repraesentatio だと 考えたのかと。

    そして、下に引用するカント事典にあるように、
    『こうした点でカントの思弁的認識論は表象の客観的妥当性を問うという、表象理論の性格をその特徴とする。』
    として、
    表象がそのまま「マボロシ(幻想や仮象)」と等しいとされてるわけでは決してなく、
    表象が如何にして、客観的妥当性を持った認識へとつなげられていくのか、という(カントが考えた)回路を『純粋理性批判』で記述している、と、私は今の所考えています。

    ※※※※※※※※

    カント事典の、『表象』より一部抜粋。

    『カントにおいて「表象』はきわめて包括的な広義の概念であると同時に、個々の認識構造の性格づけに本質的な関わりを持つものでもあり、「直観」や「概念」の表象としての性格をどのように理解するかが重要な問題となる。とりわけ、『純粋理性批判』の中核をなすいわゆる超越論的演繹は、表象の可能の制約の論証であり、超越論的統覚の綜合的統一も表象の統一である。さらに、そうした超越論的原理が可能にするのは対象そのものではなく、表象への対象の関係である。こうした点でカントの思弁的認識論は表象の客観的妥当性を問うという、表象理論の性格をその特徴とする。』云々とありました。(p446)
引用返信/返信 削除キー/
■2359 / inTopicNo.60)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/02/07(Fri) 23:47:25)
    おくったがわさん、こんにちは!!\(^o^)/
    今年もよろしくお願いします♪

    カントの文、めっちゃややこしいですよね(*_*)

    英文訳ははねられるけど、ドイツ語はどうかな?

    ↓カントの原文
    N&#228;mlich diese durchg&#228;ngige Identit&#228;t der Apperzeption eines in der Anschauung gegebenen Mannigfaltigen, enth&#228;lt eine Synthesis der Vorstellungen, und ist nur durch das Bewu&#223;tsein dieser Synthesis m&#246;glich.

    私ドイツ語全然わからないので(汗)

    でも、ネットで単語とか調べるに、統覚の一貫した同一性、みたいなのが主語で、
    その主語に、表象の綜合が含まれてて、
    その表象の綜合が、主語を可能にしてる、、、

    わ〜
    おくったがわさんの

    >タコ焼きにはタコが含まれていて、そしてそれが無ければタコ焼きにならない、みたいな(かなり違う)<

    ピッタリの例に思えます〜!(◎_◎;)


    >今思っているのは、(統覚の)同一性保持には様々な表象を総合することが含まれていて、かつ、それが無ければ成立しないという意味かな…<

    私はまだ勉強できてないんですけど、参考にさせてもらいますね!
    語源のことも楽しく読ませていただきました。

    またいろいろ、おくったがわさんの意見を聞かせていただければとても嬉しいです。
    ありがとうございます。

    この箇所の、天野貞祐先生の訳を引用しますね。
    『すなわち直観において与えられた多様のこのーー統覚のーー汎通的同一性は表象の綜合を含んでいる。そしてこの綜合の意識によってのみ可能である。』

    今年という一年が、おくったがわさんと周りの方々にとって良い年でありますように (^人^)


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