| こんにちは。 『統覚』について理解していこうと計画していますが、その前段階として、『純粋理性批判』そのものについて大雑把に掴むことを試みます。
『純粋理性批判』は、【私は、何を知り得るのか?】について書かれたものとする解説をよく読みます。
カントが何故、何を知り得るのか、を探索するのかというと、【形而上学という学問は人間に可能か?】に対する答えを見つけることが目的だと思っています。
ここで言う【学問】は、客観に妥当する知識、人間にとっては普遍性のある知識を学問と考えてるのかな、と、私は今のところ思っています。
もし、知識、を、言葉という単語に置き換えてもよいのなら、 つまり、「形而上学という学問を組み立てる際に使用する、客観に妥当するような言葉を作ることは、人間に可能か?」 という問題意識だと思っています。
カントは人間が知識(言葉)を得るには、 感性・悟性・理性の3つの性能が必要と考えたと私は思っています。 感性は、感覚的に感じる能力 悟性は、感じたものを判断する能力 理性は、推論する能力
さて、ここで思うことは、この土台はすべて個人から始まるということです。 感じるのは、あなたです。 感じるのは、わたしです。 この現象を、、、わたしが見ている対象、あなたが見ている対象を、とりあえずは【主観】と呼べるでしょうか。
まずは、主観から始まる私たちの《知る》に、客観性や普遍性を持たせるのは可能なのか、可能性があるのなら、それは如何にして可能となるのか、 が、学問は可能か、の問題点として浮上すると思っています。
ここで思い出すのは、黒崎政男先生の文章です。引用します。 引用開始 『つまり、誤解をおそれず、カントの基本的立場をラフに述べれば次のようになる。
一、主観が世界を成立させる。 一、その世界は物自体の世界ではなくて、現象の世界である。 一、現象の認識は客観的だが、物自体についての認識は主観的なものにすぎない。
この一見パラドキシカルに見える発想が、どのようにして可能となるのかについて、『純粋理性批判』の全思考が費やされたのである。』 引用終了 『カント『純粋理性批判』入門』黒崎政男先生、p30より引用
私が今から調べようとしている『統覚』は、純粋理性批判第二版では 『つまり、悟性は、ア・プリオリに結合する能力であり、また直観における多様な表象を統覚によって統一する能力にほかならない。そしてこの統覚の統一という原則こそ、人間の認識全体の最高の原理なのである。』(B135) と書かれてるそうです。 (黒崎政男先生同本、p130参照)
※(ちなみに、最初に第二版では、と書いたのは、第一版では記述内容は違うようだ、ということです。この違いについては相当面白い箇所だと思っています。構想力という能力が関わります。)
勉強前の私見ですが、(第二版では) 『超越論的統覚』が、私の世界を成立させる最高原則として措定されているのかな、と思っています。
というわけで、今から勉強する『統覚』についてのアレコレは、 人間認識の原理論(感性論+論理学)の中で、 悟性・理性を扱った論理学の中でも、 悟性能力を扱った部門《先験的論理学の先験的分析論》にて記述されてるものです。
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