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■2981 / inTopicNo.13)  問題作☆オプス・ポストゥムム
  
□投稿者/ pipit -(2020/05/25(Mon) 22:26:57)
    みなさまこんばんは(^○^)
    メビウス掲示板に投稿したものを投稿します。

    ※※※※※※※※

    オプス・ポストゥムム(遺稿)についての情報を書いておきます。

    まず一般的には、カントが老いのため思考能力や記憶力が衰えていく中で、最後まで完成させようと書き記していた遺稿著作とされているようです。
    カントの最期は認知症的であったことや、編集者の加筆問題、順番組換え問題、批判哲学との内容的な整合性、などの事情から、この著作が「劇物」と呼ばれることもあるように、どう取り扱っていいのかわからない問題作と見る方も多かったのかもしれません。

    ただ、この著作の見方(も)割れてるようで、

    遺稿とは言え、中年時から死の前まで書き続けてきたものだ、という捉え方もあり、
    また、カントの老衰は75歳くらいには顕著だったものの、73歳、74歳の時に出版や論文発表もしており、(ちなみに『永遠平和のために』初版出版は71歳)
    はじめからあの著作は問題外とする思い込みを排し、テクストそのものを見て、
    批判哲学の内部に『オプス・ポストゥムム』を位置付けようと検討している学者さんもいるようです。

    カント哲学は、本当にいつも解釈が様々に割れるようですね(^^;;

    まあ、でも、内容的に「劇物」の可能性がある気が、私はしますよ。。。

    衰退、なのか、
    進化、なのか、
    飛翔、なのか、、、超難しそ!!

    というわけで、
    次の投稿では、衰退と捉えてる派の黒崎先生の本から関連部分を引用するつもりしてます!
    (pipitは全然読んだことないくらいだから判断保留してます)

    ※※※※※※※※

    以上です

    暑くなってきてマスクいややな〜

    もうコロナちゃん、第二波とかなく、いつのまにか平気になってたらいいのにな〜

    そんな甘ないかな〜

    甘かったらいいのにな〜

    それぞれの苦しみが軽減されますように

引用返信/返信 削除キー/
■2973 / inTopicNo.14)  認識論遍歴
□投稿者/ pipit -(2020/05/24(Sun) 12:25:01)
    みなさまこんにちは。
    カントの認識論の大枠の変化について勉強中です。
    現時点での感想を書いていきます。

    『純粋理性批判・初版』 57歳

    『純粋理性批判・第二版』 63歳

    『オプス・ポストゥムム(遺稿)』74歳

    初版、第二版、遺稿と進むにつれて、カントの認識論としての中身は変化していったと黒崎先生はおっしゃっています。
    (『カント『純粋理性批判』入門』黒崎政男先生著、3章『純粋理性批判』の動揺を参照)

    pipitの中で黒崎先生の言を単純化理解すれば、

    『初版』・・・感性・悟性とそれを仲介する構想力という三元論

    『第二版』・・・感性・悟性の二元論

    『遺稿』・・・人間能力一元論

    1.『初版』の三元性
    人間能力のうちの感性(受動性能力)によって与えられたものを、悟性(自発性能力)で基幹的基礎概念に包摂させ、一つの認識対象を作り上げる。
    が、なぜ異種的なものが、同じ土俵上で結び付けを行えるのか、と言えば、その働きの担い手は、【構想力】である。
    つまり、人間の認識システムは、感性・悟性・構想力の三つの人間能力から成る。構想力は、悟性の統覚機能にさえ先行する全ての人間認識の根拠となる機能力である。
    が、構想力の記述にカント自身の揺れや迷いが感じられる。

    2.『第二版』の二元性
    1の三元性から、構想力を、悟性能力の傘下にあるものへと変更させる。
    これにより、感性・悟性の二元論となる。

    3.『遺稿』の一元性
    与えられる性格のものは人間認識には必要なく、主観によって世界は作られる。
    (悟性や理性)の一元論的。

    (ただしこれは、黒崎政男先生の本を読んでのpipitの感想です。カント哲学の解釈は割れていることがよくあり、学者によって捉え方は異なると思われます。)
    ※※※※※※※※

    とりあえずここまでを投稿します。





引用返信/返信 削除キー/
■2941 / inTopicNo.15)  満天の星空と、道徳法則と
□投稿者/ pipit -(2020/05/19(Tue) 16:37:35)
    >第一の数かぎりない世界の群の眺めは 、いわば私の動物的被造物としての重要さを無に帰せしめる 。
    この被造物は 、短い期間 (どのようにしてかは知る由もないが )生命の力を与えられた後に 、自分がそこから生じてきた物質をこの惑星に (宇宙全体においてみればたんなる一つの点に )返さなければならないのである 。
    第二のものの観想は 、これに反して 、私の人格性を通じて知性的存在としての私の価値をかぎりなく高からしめ 、この人格性において道徳法則は動物性から 、さらには全感性界からさえ独立ないのちを私に開示する 。<

    この物質をこの惑星にお返しする、って、
    カント先生はそう思ってたんだね

    わたしも似たように思うかなぁ (^○^)
引用返信/返信 削除キー/
■2940 / inTopicNo.16)  『実践理性批判』の結語
□投稿者/ pipit -(2020/05/19(Tue) 16:30:07)
    坂部恵先生の『カント』講談社学術文庫を電子本で読んでるのですけど、
    カントの『実践理性批判』の結語が載ってて、いいなあと思ったので
    引用させてもらいますm(_ _)m

    この箇所は有名で、冒頭二文は、カントのお墓に刻まれてるそうです。

    『実践理性批判』結語 カント先生 、坂部恵先生訳
    『それを考えることしばしばであり 、かつ長きにおよぶにしたがい 、つねに新たなるいやます感嘆と畏敬とをもって心を充たすものが二つある 。

    わが上なる星しげき空とわが内なる道徳法則がそれである 。

    二つながら 、私はそれらを 、暗黒あるいははるか境を絶したところに閉ざされたものとして 、私の視界の外にもとめたり 、たんに推し測ったりするにはおよばない 。

    それらのものは私の眼前に見え 、私の存在の意識とじかにつながっている 。

    第一のものは 、私が外的な感性界において占める場所からはじまり 、私がその内にある結合の網を 、宇宙を超えてさらに宇宙がひろがり 、天体系がさらなる天体系をつくりなすことで見きわめがたい大きさにまで押し拡げ 、さらに加えて周期的運動やその始まりと継続を含む限りない時間の重なりにまで拡張する 。

    第二のものは 、私の見えない自己 、私の人格性からはじまり 、私をある一つの世界にあるものとして示す 。

    それは 、真の無限性をもち 、悟性 〔知性 〕のみの感知しうる世界であり 、私がみずからの世界と (それを通じて同時にあのあらゆる可視的諸世界と )第一のものの場合のようにたんに偶然的にではなく 、普遍的かつ必然的に結合しているのを悟るような世界である 。

    第一の数かぎりない世界の群の眺めは 、いわば私の動物的被造物としての重要さを無に帰せしめる 。

    この被造物は 、短い期間 (どのようにしてかは知る由もないが )生命の力を与えられた後に 、自分がそこから生じてきた物質をこの惑星に (宇宙全体においてみればたんなる一つの点に )返さなければならないのである 。

    第二のものの観想は 、これに反して 、私の人格性を通じて知性的存在としての私の価値をかぎりなく高からしめ 、この人格性において道徳法則は動物性から 、さらには全感性界からさえ独立ないのちを私に開示する 。

    これはすくなくとも道徳法則による私の存在の目的に見合った定めから観て取りうるところであり 、この定めはこの世の生の制約や限界に限られることなく 、それを超えてかぎりなく進むのである 。』



引用返信/返信 削除キー/
■2925 / inTopicNo.17)  Re[21]: 形式、雑感
□投稿者/ pipit -(2020/05/17(Sun) 18:32:20)
    形式、は、
    見方によっては、制約
    ともいえるかもね

    限定付けられてる、とかね

    自由じゃないね !

    自由は、自らに由る、だからね

    他に由る形式、は、

    ん?

    自らの意志で則れば、自由 !?

    思考は、すぐに、ややこしくなるなぁ ~(・・?))
引用返信/返信 削除キー/
■2924 / inTopicNo.18)  形式
□投稿者/ pipit -(2020/05/17(Sun) 18:27:45)
    こんにちは。メビウスリング掲示板で、
    形式、を、身体と捉えられてるような(游さん、誤解してたらごめん!)
    とてもおもしろい返信をいただいたので、それに対して
    私が返信したコメントをこちらにもコピペ投稿します。

    みんな、個々に、どんな世界を、見てるんだろうね !!

    ※※※※※※※※

    游さん、ありがと!
    游さんの考えてることは私には斬新でとてもおもしろいです。

    >わたしこれ、身体って見てる。見えるものとしての身体ね。
    >>595 でわたし「形式」を「オートマティク」って言ったけど、正確には「身体のオートマティク性」って見てる。
    わたしのばあい身体を体と脳に分節して見ている、だから外見・姿・輪郭としての見えるものとしてのForm・formとしてのと外からは見えないものとしての身体(脳)っていうのがあって、見えないもの(脳ー身体)としてのForm・formがあるって見てる。カントさんはおそらく後者の形式を問題としてるんじゃないかって。<

    おもしろいなぁ。
    現代科学的に言えば、
    脳をカントは考えてる、ってことかな?

    脳の身体としてのオートマティック性が、カントにとっての形式、ってことかな?
    もしそうなら、言いたいことはよくわかる気がします。

    カント自身は脳機能と関連はつけてないけど、
    例えば、外的直観の形式は空間、というのも、脳科学的には、空間認知能力という脳機能の在り方、と言い換えできそうですもんね。
    刺激の変換形式のオートマティック性ですね。
    思考の形式であるカテゴリーもそう。
    時間も、まあ、脳の認識の仕方、というと、身体(脳)の在り方と考えることもできる。

    うん、おもしろいです。

    あくまでも、カント自身は、肉体的身体を意図して形式と言ってるわけではないと思いますけど、カント哲学を外から眺めてみる考え方として、とてもおもしろいです。

    ※※※※※※※※

    以上で〜〜〜す



引用返信/返信 削除キー/
■2797 / inTopicNo.19)  カテゴリー考察・スピンオフ
□投稿者/ pipit -(2020/05/04(Mon) 10:01:57)
    みなさまおはようございます。
    カテゴリーについておもしろいな、と、前から思ってたことがあるので書き込みします。

    以下はwikiの『カテゴリ』からの抜粋引用です。

    『カントは、その著書『純粋理性批判』において、カテゴリを客観的実在の反映とはみなさず、純粋悟性の真の主要概念とみなした。

    カントに従えば、カテゴリはすべての経験の前提条件であり自然法則をアプリオリに定める。

    カントはカテゴリを以下の四つのグループに分けた。

    量(単一性、多数性、全体性)
    質(実在性、否定性、限界性)
    関係(実体性、因果性、相互性)
    様態(可能性、現実存在、必然性)』

    pipitの私見書きます。
    人間は事象を何事かに判断して捉えてますよね。
    その捉える枠を『概念』と呼んだ時、
    経験する前から人間の知性に備わってる概念を、
    『純粋悟性概念』(純粋は経験に関係ないという意味合い、悟性は知性・インテリジェンスという意味合い、つまり、経験に関係なく知性に備わってる概念)
    と呼び、それを枠とみるとき、『カテゴリー』とカントは呼ぶのかな、と今の所思っています。

    それで、wiki説明の最初らへんにある『カテゴリを客観的実在の反映とはみなさず、純粋悟性の真の主要概念とみなした。』は、ややこしいから今は踏み込んで書きませんが、
    ざくっと言えば、人間は知性に依りこの概念を使い、〈世俗としての実〉(=現象)を能動自発的に発現させてる、ってかんじかなぁと私は今の所思っていますが、間違えてたらすみません。とりあえずここらへんは置きまして、、、

    カテゴリー(純粋悟性概念)に関して、面白いことはですね、
    判断の枠として、
    量・質・関係・様相の大別があり、
    それぞれに3項目ありますよね?

    量なら、単一性、多数性、全体性の3つ
    質なら、実在性、否定性、限界性の3つ等

    これね、カントは3番目は、1番目と2番目を知性の働きで合わせたものだ、って言ってるんです。

    量で言えば、1.単一と判断する、2.多数と判断する、3.単一と多数の概念を合一させて全体と判断する。

    質で言えば、、、私はwikiとは言葉変えますね、
    1.実在と判断する、2.否定(不在)と判断する、3.制限(実在と不在の領域の合一の上で実在が制限されている)と判断する。

    カントの発想がすごく面白いなぁと私は感じました。
    カントの文章を引用します。

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p82〜83
    『第二の注。これらの四つの部門には、いずれも同じ数のカテゴリーが、すなわち三つのカテゴリーが含まれている。
    そもそも概念によるアプリオリな区分は一般に、二分割方式で行われねばならないことを考えると、その理由が疑問となる。
    さらにそれぞれの部門においては、第三のカテゴリーがつねに最初の二つのカテゴリーを結合したものとなっていることも注目される。
    たとえば全体性(総体性)のカテゴリーは、数多性を単一性という視点から眺めたものにほかならない。
    制限性のカテゴリーは、実在性に否定性がつけ加えられたものにほかならない。
    相互性は、実体が他の実体と相互に規定しあう因果性にほかならない。
    必然性は、可能性のうちで確認された現実存在にほかならない。
    しかしだからといって第三のカテゴリーが、たんなる知性の派生的な概念であり、基幹的な概念ではないと考えてはならない。
    第一の概念と第二の概念を結びつけて第三の概念を作り出すためには、知性の特別な活動を必要とする。
    この活動は第一の概念と第二の概念を作りだすときの働きとは異なるものである。
    たとえば全体性の概念に含まれる数という概念は単一性という概念、すなわち単位の概念だけからも、数多性の概念だけからも作りだすことはできない(たとえば無限なものの観念を考えてみられたい)。
    あるいは原因の概念と実体の概念を結びつけても、影響の概念、すなわちある実体が他の実体において発生したことの原因となりうることは理解できない。
    そのために知性の特別な働きが必要なことは明らかである。
    他の部門のカテゴリーについても同じことが言える。』

    ちゃんと勉強してないから、ちゃんとはわからないけど、
    カントの説明は、ちょっとドグマ的な印象を私は受けちゃうんですけど、
    でも、やっぱりカントの発想はとてもとてもおもしろく感じました。

    カント自身、いろいろな哲学者の考察のおかげで、成り立っているのでしょうけどね。

引用返信/返信 削除キー/
■2793 / inTopicNo.20)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/05/02(Sat) 21:56:59)
    わぁ、全然大丈夫です!と返信しようと思ってたのに、
    おくったがわさんがご紹介してくださったいろいろがとてもおもしろくて
    返信かきそびれてました。

    >専門家の解説や訳を引用してくださっているのに、専門家の解釈に疑いがあるかのような書き方をして気を悪くされたのではないかと、後で気になっていました。こだわりのない返事をいただきありがたいです(泣<

    まっっっっったく、気にしないでください!
    カントはおくったがわさんもご存知のように、様々な解釈がされてますもんね(^^;;

    私の視界の狭さを、もっと広い世界がありえることに気づかせてもらえることに、
    心底感謝しています。

    これからも思ったこと、気づいたこと、遠慮なしに教えてくださったら
    とても嬉しいです。
    よろしくお願いします!(^○^) ♪
引用返信/返信 削除キー/
■2792 / inTopicNo.21)  無限判断
□投稿者/ pipit -(2020/05/02(Sat) 19:45:53)
    私は今の所、
    否定判断を、無
    無限判断を、非
    と考えるとどうかなぁと思いました。

    青は、無・緑 (否定判断)青は緑ではない。
    青は、非・緑(無限判断)青は緑ではない。

    否定判断も無限判断も、同一の文章になってしまってるけど、
    判断は異なっていて、
    否定判断は、主語の内容と、述語の内容の不一致にのみ言及してるけど、
    無限判断は、述語の内容は、述語の内容を除外した内容となる、
    という把握の仕方をしているものかと思いました。

    まとめてみると、
    質の判断としての否定判断・・・A is not B.・・・判断に至る為の使用概念→【否定】

    質の判断としての無限判断・・・A is not B.・・・判断に至る為の使用概念→【制限】

    おくったがわさんは『純粋理性批判』をお持ちですか?
    もしよかったら、該当部分のカントの文章の和訳や英訳を引用しますので、
    ご興味あるときはいつでもおっしゃってくださいね!




引用返信/返信 削除キー/
■2791 / inTopicNo.22)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/05/02(Sat) 19:13:37)
    おくったがわさん、こんばんは
    ページのリンク、とてもおもしろいです、ありがとうございます。
    受賞のことばが秀逸ですね〜(⌒▽⌒)

    『石川求 いしかわ・もとむ 首都大学東京大学院人文科学研究科教授
    1958 年(昭和 33 年)5 月 12 日生まれ。60 歳。北海道網走郡美幌町出身。 専門は近現代ドイツ哲学。
    第三十一回和辻哲郎文化賞 学術部門受賞作 石川 求 著 『カントと無限判断の世界』
    (2018年4月10日 法政大学出版局)

    受賞のことば

    通知の電話をいただいたとき、驚きの次に襲ってきたのは、強烈な居たたまれなさだった。しかし、 さすがに分かってはいる。隠れられる場所などどこにもありはしないと。無謀そして無惨にも、哲学 から二度、逃げ出そうとした過去がある。最初は二十歳のころ。学科の選択を迫られ、西洋哲学専攻 ではなく中国文学と書いて出した。漢語すら履修しておらない不心得者は当たり前に拒絶された。も う一つは三十代の中ごろ。体力の絶頂にあり、昼も夜も物見遊山と酒食の誘惑に溺れた。活字すらろ くに読まなかった。その付けを日々の勤務で償うべく秋田に骨を埋めようと覚悟を決めた矢先、とつ じょ東京の職場に呼ばれた。その理由はいまだに分からないままでいる。こんな男が、かなり遅いこ の歳になってものした生まれて初めての単著、ただそれだけなのだ。和辻哲郎は不死鳥である以前に 勉強の虫だった。佳名に泥を塗ってはいまいか。やはりどう転んでも居たたまれない。 』



    評者の野家 啓一先生の文中や、↓

    「神は細部に宿る」と言われる。石川求氏の『カントと無限判断の世界』は、カントが「判断の 質」について書き残した一段落、正確には否定判断と無限判断を分かつ一文字にこだわりぬき、綿密 な考察を通じてカント解釈に新生面を開いた、文字通りの力作である。氏はまずヘルマン・コーエン をはじめとする研究者たちが、カントの無限判断をめぐる表現のわかりにくさに業を煮やし、ついに は原テクストの「改訂」に至っている現状を厳しく批判し、否定判断(反)と無限判断(非)の差異 を明らかにすることによって、カントの真意を焙り出そうと試みる。 (略)』

    同じく、評者の関根 清三先生の文中↓

    『(略)そこで『純粋理性批判』のアカデミー版は、これはカントによくあるうっかりミスで、元来後者のはずだと校訂し、各種の邦訳は全てそれに従ってきた。し かしそれは果たして正しいのだろうか。石川求氏の受賞作『カントと無限判断の世界』がこだわるの は、一見いかにも小さな、そして我々の日常と掛け離れた、この問題である。しかし、この一点に集約される問題の深度と広袤は、いかにも甚大である。(略) 』

    にあるように、カントが本来書いた文章から改訂されてのですね。
    それが、カントのうっかりミスをカバーしたものなのか、
    はたまた、カントの文意を崩してしまうものだったのか。。。
    これは難しそうな問題ですね!!

    とりあえずここまでで投稿します。
引用返信/返信 削除キー/
■2789 / inTopicNo.23)  Re[16]: 虚空遍歴
□投稿者/ おくったがわ -(2020/05/02(Sat) 09:15:09)
    No2786に返信(おくったがわさんの記事)
    今思ったことを書きます(今後訂正するかもしれません)

    >『その眼目は、魂に関して「可死的なもの」を問題領野から否定排除するという主張にこそ存するのだということ。換言すれば、否定判断の否定は「青は緑でない、、」のように「反アンチ」の否定であるのに対し、無限判断のそれは「青は整数ではない、、」のような「非ノン」の否定であり、或るものが様々なカテゴリーの<無限>の否定の虚空の中にぽつんと存在するということを見据えている』<

    「青は緑ではない」という否定判断では、色という共通のカテゴリーに青を投込んで、さらに緑を排除することで「青」が絞り込まれる。
    が、無限判断では「色の緑」を排除した他の全てのものであり得る。
    「魂は死ぬもの以外のものである」は魂が「死ぬか死なないかを判断できる」カテゴリー内にあることを前提としない。
    すると…
    「私は〜ではない」と言うとき、否定判断なら、すでに私と「〜」が属するカテゴリーを前提している。「私」というものが絞り込まれている。
    無限判断では、私は青でなく、整数でなく、クジラでなく、芥川賞でなく、自粛でなく、とあらゆるものを否定しなければ私が何であるかを特定できない(つまり不可能)

    では、否定判断に持ち込める「私」が属するカテゴリーは何か。つまり、どのようなものとならば否定判断できるのか。
    逆に言うと、否定判断として述べられた「私は〜ではない」は私が「〜」と同じカテゴリーにあることを述べているが、そのような「私」とは別な、何者とも否定判断に持ち込めない「私」があるのか。


    思い付きですので、これへのレスはお気遣いなく。
引用返信/返信 削除キー/
■2786 / inTopicNo.24)  Re[15]: pipitさんへ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/05/02(Sat) 07:44:05)
    No2733に返信(pipitさんの記事)
    おはようございます。

    専門家の解説や訳を引用してくださっているのに、専門家の解釈に疑いがあるかのような書き方をして気を悪くされたのではないかと、後で気になっていました。こだわりのない返事をいただきありがたいです(泣

    > 論文筆者のカントへの過剰的愛情がほんのりと伝わってきますね〜

    なんとなく引き込まれるものを感じていましたが、カント愛なのですね。
    既に都立大の助教授ながら、あの論文で京大の学位を取得、そしてあれが下敷きと
    思われる『カントと無限判断の世界』で和辻哲郎文化賞受賞とのこと。

    h
    ttp://www.himejibungakukan.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/02/gaku31.pdf

    当人のコメントが面白いです。
    そして評者曰く。
    『カントが無限判断の例として挙げた一文が、”Die Seele ist nicht sterblich.” だったのか、それとも”Die Seele ist nichtsterblich.”だったのか。つまりnichtとsterblich の間に一字あけるか否かの数ミリの違い。前者なら「魂は可死的ではない」という否定文となり、後者なら「魂は不死的である」という肯定文となる。』
    『無限判断の真面目が実は、単に「可死的なものではないもの」が肯定的な述語だという論定にあるのではないということ。むしろその眼目は、魂に関して「可死的なもの」を問題領野から否定排除するという主張にこそ存するのだということ。換言すれば、否定判断の否定は「青は緑でない、、」のように「反アンチ」の否定であるのに対し、無限判断のそれは「青は整数ではない、、」のような「非ノン」の否定であり、或るものが様々なカテゴリーの<無限>の否定の虚空の中にぽつんと存在するということを見据えているのだということ。そしてその再発見によって、カント哲学の物自体や世界市民等の大きな構想も、正しく読み直し得ること。更には古代から現代に至るまで無限判断の哲学は、無限の否定性に取り囲まれている我々の現実を洞察し、その洞察にもとづいて人が自らを脱中心化し一元論的傲岸を超えることを、促してやまないこと。如何にも卑小な問題に見えたこの数ミリの攻防は、実はそうした豊かな実を結ぶ壮大な思考に開いていると』

    > カントは本当に幸せものだと思います。
    > あんな(!)悪文にいろんな人が、なんとか理解してみようと(^^;;
    >
    > 果報者ですね〜

    んだ。

    > 願わくば、読解が、おくったがわさんにもわたしにも、それぞれの果となりますように !!

    はい!
引用返信/返信 削除キー/

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